第30話 「ちなみに、現時点で九十二回我慢してる」

※今回は瑠佳視点になります 


 送ってくれた荊斗けいとと別れ、瑠佳るか汐璃しおりは自宅のある団地に戻ってきた。

 夜の混ざり始めた茜空あかねぞらに、子供らの帰宅をうながす女性の声と、『夕焼け小焼け』のメロディが流れている。


うちまで帰れたね、お姉ちゃん……」

「うん……何かもう、いつも通りに」


 姉妹は自宅のドアの前にたたずみ、小声でもって言い交わす。

 重い足取りで家を出た今朝は、絶望的な想像がふくらみ続けていた。

 もしかするともう二度とココには戻れないかも、とさえ思っていたのに。


 また普段と同じ生活に、帰ってこれた。

 また当たり前の日常に、戻ってこれた。

 もうダメだと思ったのに、何もなかったみたいに。

 人生で最大級の感動に浸る瑠佳だったが、それは五秒ほどで破られる。


「おっと……ママはまだ、仕事みたい」


 ガチャガチャと騒々そうぞうしくノブを回し、施錠されているのを確認した汐璃が、自分の持っている鍵を使う。

 乱雑に靴を脱いで、無造作むぞうさに家に入っていく妹の背中を目で追いながら、瑠佳は毎度の注意を投げた。


「おーい、家に帰ったらまず――」

「手洗い、うがい! でも、昨日お風呂入れてないからシャワーね!」


 姉の注意に被せて応じた汐璃は、短めの髪をなびかせトタトタと風呂場に走る。

 今回の出来事が心の傷になるのも困るけど、平然としすぎなのもどうなんだ。

 いや、もしかすると平気なフリをしているだけで、まだ混乱中なのかも。

 イマイチ掴めない妹の心理状態を考えながら、瑠佳はベランダに向かって出しっぱなしの洗濯物を取り込んでいく。


 床を叩く水音に歌声まで混ざっている……本当にあの子は無傷なのかも。

 期せずして判明する、妹の規格外な心の強さをどう受け止めていいのか悩みつつ、瑠佳はリビングで衣類やタオルをテキパキと畳んでいった。

 そんないつも通りの作業を繰り返していたら、不意に手にしていたタンクトップがにじんで見えてくる。


「あっ……あれっ?」


 目頭が熱くなり、鼻の奥がツンとした直後。

 ぱたぱたっ、と水滴が落ちて乾いた灰色の布地にシミを作る。

 どういう感情なのか、自分でもよくわからないまま。

 ただ涙があふれて、こぼれて、止まらない。

 せきとかシャックリみたいに、我慢ができずに湧き出てしまう。


 悲しい、というのは違う。

 嬉しい、ってのもズレがある。

 安心した、気が抜けた、等の理由なのだろうか。

 今ここに荊斗がいれば、きっと教えてくれたんだろうけど……


「そういえば……ケイちゃんは、どうして……」


 放課後の教室で一人、泣いていたんだろう。

 色々あって大混乱中だったせいで、何だったのか聞きそびれてしまった。

 これから自分に何が起こるのか、いなくなった汐璃は無事なのか、思い切って警察に連絡してみるべきなのか。


 不安と恐怖を主原料に、様々な思考と感情が混濁こんだくして、あの時はたぶん正気と言えない有様だった。

 そんな自分が泣くのは当然としても、あいつの涙の理由が想像できない。

 瑠佳はタンクトップで濡れた顔をぬぐいながら、今の荊斗を泣かせるにはどんな手段があるかを検討してみる。


「ゴリラみたいなのに蹴られても平気だったし、銃口を向けられても笑ってたよね……だけど、そんなのって……」


 ちょっと普通じゃない、ような気がする。

 改めて思い返してみれば、今日の……というか、今日の放課後からの荊斗は何かが……いや、何もかもがおかしい。

 見た目も、喋り方も、昔の荊斗のイメージそのままだけど、そこに違和感が。

 高校で同じクラスになって、凄い偶然だとテンション上がっちゃって、笑顔で手を振ったのにあいつは――

 

「ふぁー! 完全復活だよーっ!」


 汐璃の能天気な声に、瑠佳の思考は中断される。

 泣き顔を見せるのはマズい、と目をこするが既に涙は止まっていた。

 湿ったタンクトップを何気なく畳んで、首にタオルをかけて下着姿でやってきた汐璃を小言で迎える。


「コラ、ちゃんと着替えなさい」

「あー、もー、ママみたいなこと言わないでっ」

「くぁっ、ちょっ……やめいっ!」


 髪が濡れたままのヘドバンで、飛沫しぶきを浴びせてくる汐璃。

 しつこくリピートしてくるので、立ち上がってタオルを奪い取り、頭をガシガシと乱暴にいてやる。


「うがー、ハゲるぅー」

「髪が濡れっぱなしの方がハゲるって。ドライヤー使いな」

「めんどくさーい」


 将来が不安になるガサツさだが、汐璃は色々と大丈夫だろうか。

 いや、何かと適当な方が人生が楽になるような気もするし、まぁいいや。

 そんな感じに自分を誤魔化し、瑠佳は頭を拭いたタオルを洗濯カゴに入れる。

 そしてリビングに戻ると、ソファに座った汐璃が真顔で見据みすえてきた。


「え、何? どうしたの?」

「ごめんね、お姉ちゃん」

「謝られる心当たりは七、八個あるけど……どれについてかな」

「えーと……全部」


 謝り方まで雑なので、思わず馬鹿でかい溜息が漏れてしまう。

 怒っていない、と言えば嘘になるし、言いたいことは色々とある。

 だけどそんなのがどうでもよくなるくらい、汐璃が無事だったのが嬉しい。

 それに汐璃だって、あのクソ親父に巻き込まれた被害者だ。

 

「許すよ……お姉ちゃんだからね。妹のやらかしは、百回まで我慢してあげる」

「そんなに」

「ちなみに、現時点で九十二回我慢してる」

「そんなに」


 汐璃の瞳に若干の怯えが浮かぶが、百回に達しても別に何をする気もない。

 どうせ妹の性格なら、今後も怒られたり叱られたり喧嘩したり、軋轢あつれきの多い人生になるだろう。

 だから自分くらいは、何があっても許してあげる存在であり続けよう。


「それはさてき……問題はコレだね」


 テーブルの上に通学鞄を乗せ、ファスナーを開けて中身を取り出す。

 荊斗に渡された百万円の束が四つと、あの場から持ち帰ったハンディカム。

 カメラはまぁいいとして、この大金はどうしたものだろうか。


「気にせず使えって、けぇにぃは言ってたけど」

「でもなぁ……あの男がまとめて四百万も養育費を払ってくれた、なんてのは母さん信じないだろうし……」

「じゃあ、毎月十万とか二十万とか、銀行に」

「アレがそんな細かいことしない、ってのは母さんが一番よく知ってる」

「うーん……」


 二人で腕組みして、解決策をひねり出そうとする。

 三十秒ほどそうしていると、汐璃がパンッと一つ手を叩いて言う。


「いつの間にか郵便受けに入ってた、ってのはどうかな」

「んん? あー、でも……それっぽいような……」

「何ヶ月か毎に、百万円。封筒に入れて、パパの名前を書いてさ」

「その適当っぷりは……らしいと言えば、らしいかも」


 とりあえず、その方向で試してみるとしよう。

 もし母さんがクソ親父に確かめようとしても、逃亡中で連絡がつかない。

 不審に思って警察に届けた場合でも、何ヶ月かでコチラの所有物だ。

 アイデアを褒めようとしたら、汐璃は何故かカメラをいじり回している。


「……何してんの」

「コレでけぇにぃを撮影してたよね、お姉ちゃん」

「ケイちゃんに撮れって言われたから、まぁ」

「ホントに凄かったよね、けぇにぃ! どうしちゃったの、あんな大暴れ!」

「どうって、どう……なんだろ、ね」


 汐璃から見てもやはり、荊斗の動きは普通じゃなかったようだ。

 中学で色々あったと言っていたけど、どんな「色々」があれば五年であんな感じになるのか、サッパリわからない。

 それに入学式の後からずっと、私の存在を無視するかのような対応だったのも、一体どういうつもりだったのだろう。


 先週、荊斗と同じ中学だった子と話して、両親の事故死について知った。

 それが理由かとも思ったけど、だとすると今日の急変は何事なのか。

 クラスでの荊斗は地味というか空気というか、とにかく存在感が希薄だ。

 友人らしい友人もおらず、話す相手はウザ絡みしてくるデカいのだけ。

 今日のが素の性格なら、どうして微妙な環境を作り出そうとしていたのか……


「どうしたの? お姉ちゃん」

「うん? いや、ケイちゃんにも、ちゃんと御礼おれいをしなきゃな、って」

「だったら、まずはキスしてあげようかな。映画のラストも、美女からのキスがお約束だし!」

「自己評価高いな⁉」


 まずは、ってどこまで行くつもりなのか。

 しかし、恩がデカすぎてどうやって返せばいいのか、本当にわからない。

 あいつは「気にするな」とか言うだろうけど、そんなのは無理だ。

 とにかく、何があろうと荊斗の味方をして、イザとなったら何でもする。

 そう決意した瑠佳は、どこへともなくかすかにうなずいた。

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