第29話 「ただいま……姉さん」

「何となくって、あんたね……あーあー、制服も汚れちゃってるじゃん」

「ああ、ゴメン」


 強めに体のアチコチを叩かれながら、心のこもっていない謝罪の言葉を返す。

 返り血などの言い訳のきかない汚れは落としたつもりだが、それでも全体的に薄汚れているのは誤魔化せなかったようだ。

 ほこりを払う手を止め、鵄夜子しやこが見上げながら言う。


「で、どうしたの。パパとママの事故から、一度もココに来なかったのに」

「だから何となく、だって。自分でよくわからんけど、今この場所を見ておきたかったって、それだけで。特に意味はない……と、思う」

「ふーん……けど、よく喋るようになったのは、いいことかな」

「ん、そんなだったか、俺」

「あんたから三言以上が返ってきたの、一年ぶりくらいだよ」


 苦笑しながら、コチラの胸板を人差し指で突いてくる相手を観察する。

 俺より二十センチくらい低い身長と、ミルク多めなミルクティー色のボブ。

 ベースは俺に似ているが、全体的に柔和にゅうわな気配を帯びている顔の作り。

 そんな雰囲気とは裏腹なメリハリのある体型と、常に眠たそうな双眸そうぼう

 遠い記憶の中にいる、懐かしい姉の姿そのままだった。


「やっぱ、何か変だね……ケンカでもしてきた?」

「まぁ、喧嘩っていうか……」

「はいはい、一方的に絡まれた感じかぁ。あんた、あたしに似て可愛い顔してるからね。ヤンキー連中にナメられやすいんだよ、こういうタイプは」


 鵄夜子のぷにっとした指先が、芦名に蹴り飛ばされて壁に衝突した時にできた、頬の擦り傷を撫でる。

 怪我らしい怪我はこのくらいで、あとは一方的にコチラが蹂躙じゅうりんしていたのだが、それを説明しても信じてもらえないだろうから黙っておく。


「自分で可愛いって言うな」

「えー、大学生になって可愛さマックスでしょ、今のお姉ちゃんは」

「そりゃブスじゃないだろうけど、自己評価が高すぎるのもどうなんだ」

「へへ、ルックスってのはね、自惚うぬぼれるのもマズいけど、客観視できないのもマズいの。人からどんな風に見られるか、ってのは重要なのよ荊斗けいとくん」


 腕組みをして、ふふーんとでも言いたげな表情で語る鵄夜子。

 言葉の内容にそぐわず、伝わってくるのは主に俺への心配だった。


「自分がどんなんかは、わかってるって。前に言ってたのも、覚えてるから。危ない場所には近づかない、夜になったら出歩かない、知らない相手と目を合わせない、だろ」

「そうそう、君子危うきに近寄らず、仏ほっとけ神かまうな」


 二番目は普通に『触らぬ神に祟りなし』でいいだろ、と思いつつも同意する。

 にしても、だいぶ呑気のんきだったハズの姉からこんな注意を受けるとは、この時代の治安の悪さをリマインドされる気分だ。


「ヤバそうならすぐ逃げるし、そんな心配しなくても」

「逃げるにしても、ちょっとは鍛えとかないとさ、すぐ息切れになるじゃん? あんたも多少は筋肉つけといた方がいいかもね」

「鍛えとくのは……確かに大事かもな。イザって時のために」


体の性能を元に戻すために、トレーニングを再開するのは必須だ。

 ネットが使えないけど、ダンベルやバーベルはどこで買えばいいのだろう。

 昔の雑誌の広告に載っていた、怪しげな通販を使うしかないのか。

 そんなことで悩んでいると、鵄夜子が両手で大きくバツを作る。


「ああ、でもゴリゴリのマッチョになるのはやめてよね。鶏のササミとゆで卵ばっかりのご飯を毎日作らされるのはイヤだし」

「やけに具体的だな。知り合いに本格派でもいるのか」

「友達のカレシがね、ジムとか通い始めてメチャクチャ鍛えてんの。写真を見せてもらったけど、何ていうか……何もかもがデカくて、ちょっとキモい」

「キモい、か。散々に筋肉を鍛えた結果の評価がそれかぁ……」


 容赦ない切り捨てっぷりを聞かされれば、コチラは同情するしかない。

 すると鵄夜子は、小さく手を振って否定のジェスチャーを見せてくる。


「確かに体格とかは凄いんだけどさ、とにかく顔が地味なのよ、顔が。だからギャップがえらいことになってて、もう笑っちゃうんだって、キモくて」

「でも、姉さんの友達ってのは、そんなマッチョが好きなんだよね」

「ていうかね、今まで普通だったのに突然に筋トレを始めたら、止まらなくなって日に日にムキムキになっていったんだって。だからマッチョを好きになったんじゃなくて、好きになった人がマッチョになったの」

「映画のキャッチコピーみてぇだな……ともあれバランスは確かに大事、かもなぁ」

「そうそう、お米とシャケが半々のおにぎりとか、しょっぱくて食べられないし」

「いや、それは甘塩だったり減塩だったりで、工夫によってはイケなくもないかも」

「そこは『そうだね』で流していいのかな……とにかく、ご飯の用意もできてるから、そろそろ行かない?」


 鵄夜子にうながされ、俺は倉庫を後にした。

 コンクリの床は重量に耐えられるし、スペース的にも十分あるから、ここをトレーニングに使うのもいいかもしれない、と考えながら。


 他にやるべきなのは、侵入や襲撃を想定した防犯設備の導入だろうか。

 時代的なものもあるのだろうが、現状では外部からやってくる危険に対し、あまりにも無頓着すぎる。


「今日は荊斗の好物――ってワケでもない、すき焼き風の肉じゃがだよ」

「こういう感じで献立こんだてを告げるなら、普通は好きな料理じゃないのか」

「そこで敢えてハズしてくるのが、意外性を演出する乙女のポイントなの」

「完全にお呼びじゃない意外性なんだよなぁ……」


 鵄夜子のフワフワした話に適当な返しをしながら、不意に泣きそうになる。

 これだ――こういうの、だったんだ。

 かつてのウチは、こんなくだらない、しょうもない、意味のない会話で満ちていた。

 それが当たり前の日常で、それがいつまでも続くと思っていた、のに。

 壊れて、壊されて、直し方もわからず、元に戻らないまま、どこかへ消えてしまった。


「んん? どしたの、荊斗。実は好物の出汁巻だしまき玉子も作る予定、ってサプライズもあるよ」

「言ったらサプライズじゃないんだよ。あと出汁巻きっていうか、納豆のタレを混ぜた玉子焼きだろ、アレは」

「でも、好きでしょ?」

「……好きだけど」


 そんな話をしながら玄関に入ると、「自分の家」と思えるかどうか怪しかったこの場所が、普通に自宅と感じられるようになっていた。

 半世紀ぶりに帰ってきた、との感覚はさっきの倉庫よりも強いかもしれない。

 キッチンの方からは、すき焼きのタレの香ばしさが流れてくる。


「おかえり、荊斗」

「ただいま……姉さん」


 失くしてしまった当たり前が、何事もなかったかのように戻ってきた。

 これを守るため、自分の進むべきルートを間違えずに選ばなければな。

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