第19話 幻
いったいどういうことだろうか。エレイナが毎日のようにここを訪れてアデルに会っていたことを、この衛士だって知っているはずなのに。
エレイナは衛士に一歩近づいて、おずおずと尋ねた。
「あ、あの、王家の女性で、こちらにしばらく逗留されているアデレイド様です。こう、背がすらりと高くて、いつも襟の詰まったドレスをお召しになられていて。いらっしゃらないとはどういう――」
「そのような方はおりません」
畳み掛けるようにぴしゃりと言われて、エレイナは口をつぐんだ。
強面の衛士はにこりともせず、冷たい目でこちらを見下ろしている。戸惑いつつ後ろを振り返ったが、扉の反対側の端に立っているもうひとりの衛士も同じ反応だ。
はっきりとした拒絶の意志に、エレイナは全身の血が急速に冷えていくように感じた。もう何も言えそうにない。貴族の娘は、こういった公衆の場で取り乱してはいけないのだ。
エレイナはのろのろと踵を返して、宮殿の階段を下りた。
何がなんだかわけがわからなかった。つい数日前までは、わが家のようにここを出入りしていたのに、一気に奈落の底に突き落とされたみたいだ。
しかし、これですごすごと引き下がるわけにはいかなかった。現実にアデルはいて、話して、キスまでしたのだ。この世界の人間がひとり残らず彼女の存在を否定しても、自分が彼女のぬくもりを覚えている。きっと何か事情があるのだ。アデルと会って、話をするまで諦めない。
エレイナはもう一度自分を奮い立たせようと、宮殿の前で立ち止まって深呼吸した。
何か策を考えなければ。この建物の中にどうにかして入る方法か、あるいは、顔見知りのメイドにでも会う方法を。
ふたたび足を一歩踏み出したとき、ふと、ある妙案を思いついてエレイナは顔を上げた。
……そうだ。確かこの建物の裏側に洗濯場があったはず。昼に近いこの時間であれば、まだメイドの何人かはそこにいるのではないだろうか。
ドレスのスカートを摘み、足早に宮殿の角を曲がった。裏手へ続く通路を歩いていくと、主に使用人が出入りする扉から、アデルの部屋で顔見知りになったメイドが出てくるのを見つけた。彼女は洗濯場へ行くらしく、かごの中に山のようになった洗濯物を抱えている。
エレイナは後ろから近づいていって、彼女の肩をそっと叩いた。メイドは驚いたのか、きゃっと声を上げて振り返った。
「こんにちは。よかったわ。あなたに会えて」
「エ、エレイナ様。こんにちは。何か……ご用でしょうか?」
丸顔のメイドはあからさまに戸惑って、頬をぴくぴくと引きつらせた。彼女のこんな顔を見るのは初めてだ。アデルのもとで一番の仲良しだったこのメイドとは、数日前にも子供時代の他愛もない話で一緒に笑いあった仲なのに。
理由はわからないが、やはりアデルに関してかん口令みたいなものが敷かれているのだろう。それを察したエレイナは、人目につきづらい物陰へ彼女を引っ張っていった。
「誰にも言わないから教えてちょうだい。アデル様はどこへ行ったの? 私、どうしてもあの方にお礼を言わなくちゃならないの」
メイドの腕を握って、真剣な目つきでエレイナは懇願した。若いメイドは困惑した様子で、きょろきょろとあたりを見回す。そして誰もいないことを確認すると、おずおずと口を開いた。
「お嬢様は旅立たれました」
「旅立った? どこへ?」
エレイナは食い入るように彼女を見詰める。エレイナと同じくらいの歳頃のメイドは、今にも泣き出しそうだ。
「行先はわたくしたちにもわからないのです。実は……エレイナ様がこちらにいらしても、何も教えないようにと」
「アデル様がそうおっしゃったの? 私に何も教えないようにって?」
「はい……」
メイドは俯いて、消え入るような声で言う。
胸をぎゅうぎゅうと締めつけられる感じがして、エレイナは大きく息を吸った。新たに生まれた疑問が渦を巻いて襲いかかるが、ただ命令に従っているだけの彼女をこれ以上詰問するわけにはいかない。一介のメイドでは、本当に何も聞かされていないのだろう。
「ありがとう。勇気を出してくれて嬉しかったわ」
エレイナは無理に笑顔を作ってメイドに礼を言った。素早く踵を返すと、もと来た道を抜けて離宮の入り口へと向かう。その歩みが庭園の端に差しかかる頃には、半ば小走りになっていた。
早くここから立ち去らなければ、泣いてしまいそうだった。エレイナを拒絶していたのが、ほかならぬ彼女自身だったなんて――。
美しいアデル。優しいアデル。勇敢なアデル。
彼女のすべてが憧れだった。あんなに誰かと仲良くしたのははじめてだったし、笑ったのもはじめてだった。スタンフィルに襲われているところに飛び込んできた彼女を見た時には、白馬に乗った王子様が助けにきてくれたように感じたものだ。
その彼女に拒絶されるのは、ナイフで胸を抉られるように辛く、悲しい。
ルシオとの恋を諦めたエレイナには、唯一無二の存在だった。アデルと一緒ならば、諦め傷ついた恋心も、昇華できるものと思っていたのだ。
正面から人が歩いてくるのに気づいて、エレイナはハッとした。素早く道を折れて、背の高い木の陰に身を隠す。
ふと足元を見ると、海のように青い色をした大輪の花がひとつ、大樹の陰にひっそりと咲いていた。
――この花。
エレイナはその場にしゃがみ込んで、ぴんと伸びた立派な茎に触れた。
日陰にあってもなお、枯れることなく凛とした姿を誇るその花は、名を『ルシオール』という。第二王子と同じ名前だ。この花が、とある島国から持ち込まれた日に王子は生まれ、そのことにちなんで彼の名がつけられたのだ。
ルシオールの花が咲いているということは、彼はもう十八歳。あんなことがあったせいで忘れていたが、ルシオの誕生日は昨日だ。その日を迎えると必ず、エレイナは離宮の庭園へ行って、ルシオに『おめでとう』と言う。彼は自分の歳の数だけの青い花を摘んで、エレイナにこう言って渡すのだ。
『やっと君に追いついたよ』
その言葉が聞けなくなって、もう随分たつ。きっと、立派な男性になっているだろう。日陰に咲き誇るこの花と同じように、兄である現国王に寄り添って国を支える、影として――。
エレイナを乗せた馬車が屋敷に到着すると、クロナージュ家の執事が玄関前で待ち構えていた。
エレイナは泣き腫らした目元をハンカチで拭い、先に下りた使用人の手を借りて馬車から下りる。
執事が玄関前の階段を下りてきて、軽くお辞儀をした。
「おかえりなさいませ。エレイナ様」
「ただいま。リットン。お父様はお帰り?」
エレイナは執事の目を見ないようにして言った。
「先ほど一度お戻りになりましたが、またお出かけになられました。こちらをお嬢様にお渡しするようにと」
そう言って執事が目の前に差し出したのは、白い封筒だ。父からの手紙だろうか。エレイナはそれを受け取って屋敷の中へ入った。
すぐに自室へと戻り、顔を洗って長椅子に腰を掛ける。父とはしばらく顔を合わせていないので、なんらかのコンタクトを取るのは久しぶりだ。落ち込んでいた気持ちがほんの少しだけ浮上して、エレイナはいそいそと手紙を開封する。
しかし。
中身は父からの手紙ではなく、舞踏会の招待状だった。今の気分にまったくふさわしくない、少々いかがわしい文言に目を留める。
「仮面……舞踏会?」
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