第20話 枢機卿の悪事

「宰相はどこだ」

 ヴィクトラス王国第二王子のルシオールは、ブーツの踵を派手に鳴らしつつ、王宮の二階廊下を足早に歩いていた。

 そのうしろに追従するのは、デローニとクロナージュ伯爵、それから護衛の屈強な兵士たちだ。全員腰に剣を帯びているので、石造りの堅牢な廊下にはがちゃがちゃと物騒な音が響いている。

 デローニが歩を速めて、ルシオに肩を並べた。

「この時間はおそらく、執務室にいるのではないでしょうか。彼は医者の言いつけを守って、食後一時間は外出を控えているようです」

「なるほど。確かに、食後すぐに馬に乗るのは消化に良くない」

 ルシオが応じると、デローニは苦いものをのみくだすそぶりを見せた。

「こんなことになるとわかっていれば、わたくしも朝食を軽めにしましたのに」

「まあそう言うな。兄に言って、もう少し大人しい馬を用意してもらうから」

 そう言ってルシオは、最近口ひげにまで白髪が増えたデローニの肩を叩く。

 枢機卿から祝いの品が贈られてきたのは、ルシオが十八歳を迎えた翌日の朝、つまり今朝のことだ。

 ルシオが離宮に逗留していることは、いずれ知れ渡ることだと思ってはいた。それは仕方がないとして、問題は祝いの品に『近々殿下にお目通り願いたい』という旨の、枢機卿からの手紙が添えられていたことにある。

 ここ数年、ルシオは彼に一度も会っていなかった。それが、枢機卿の方から突然面会の要求があるとはただ事ではない。

 孫娘との縁談を袖にされ続けていることに痺れを切らしたのか、それとも、コリアード伯爵邸での事件のことを知って、何か揺さぶりをかけようというのか――。

 あの演奏会の場に、枢機卿の手の者がいなかったとは限らない。もしもアデルの正体が枢機卿に知られたとして、エレイナとの仲を疑われたら彼女が危険に晒されるだろう。

 エレイナの命を守るため、ルシオは身を引き裂かれそうな思いを胸に秘めて、離宮をあとにしたのだった。


 目的の場所にたどりついて、ルシオは伴の者を後ろに下がらせた。

 ここは王の執務室の前だ。宰相であるロンデル伯爵に会う前に、兄に挨拶をしなければならない。

「陛下にお目にかかりたい」

 ルシオは扉を守る近衛兵にそう告げた。

 整った顔立ちの青年は敬礼をしたのち、くるりと背を向ける。彼が扉をノックすると、はい、と男性にしては高い声が室内から響いた。

「ルシオール殿下がお見えでございます。陛下に謁見をお求めになられております」

「入ってもらってくれ」

 明るい声とともに、中で人が椅子から立ち上がる音がする。近衛兵が扉を開けた時には、王国の現王である兄、ジュリアスがすぐそばまで来ていた。

「やあ、ルシオ。よく来たね」

 ジュリアスはそう言って、今着ている王の装束よりも白い頬を綻ばせる。

「陛下」

 ルシオは胸に拳を当て、恭しく腰を折った。が、すぐに肩に手がかけられて顔を上げる。

 兄が子供時代のように、屈託のない笑みを浮かべていた。王になって三年が過ぎても、彼は昔のまま変わらないようだ。

「そんな堅苦しい挨拶はいいよ。兄弟じゃないか」

 ジュリアスが握手を求めてきたので、ルシオはその手を握った。少し痩せただろうか。元々ルシオよりもひと回り小柄な彼の手が、随分と骨っぽく感じる。ジュリアスの美しい顔は儚げで、今は会えなくなった母の姿が脳裏に浮かんだ。

 ルシオとジュリアスの母親は、先王である父が投獄された際、離宮から幾日も馬で駆けたところにある田舎の城に連れて行かれた。

 母が王宮から引き離されたのは、現王であるジュリアスに近づかせないためだ。兄の力になる者を極力そばに置きたくないと、ロンデルは考えたらしい。

 それ以来、王室との行き来を絶たれた母は、庭木の手入れをしつつひっそりと暮らしていると噂に聞く。経済面では王室からの補助があるので、何不自由なく暮らしているはずだ。しかし、事実上軟禁状態にある母親の境遇を、ルシオは案じている。

 力づくで奪還することも考えたが、控え目でたおやかな母のこと、争い事は望んでいないだろう。ならば、兄を介してロンデルを説得しようとも試みたが、肝心のジュリアス自身が難色を示した。彼は即位して以来、ロンデルの言いなりなのだ。その理由が、ほかならぬ母親を人質に取られたことにあるのだから、致し方ない。

「ロンデル伯と話がしたい」

 ルシオは単刀直入に切り出した。枢機卿の呼び出しに応える前にここへ来たのにはわけがある。

「ロンデル? 隣の控室にいるよ。――ロンデル!」

 ジュリアスが部屋の隅にある扉に向かって声を張った。すぐに扉が開いて、中からロンデルが姿を見せる。やけに早い。聞き耳を立てていたのだろうか。

「これはこれは……よくぞお見えになられました。ルシオール殿下」

 ロンデルは皮肉めいた笑顔を浮かべて、深々と腰を折った。

「とても歓迎しているという顔には見えなかったが? ロンデル伯」

「お戯れを。それでは墓を掘り起こして、こんな顔に生んだ両親を殴りつけてこなければなりませんな」

 彼がおどけて言うので、ルシオは思わす苦笑した。右手を差し出して、伯爵と握手を交わす。

「ロンデル。いつも陛下を支えてくれてありがとう。お前には感謝しているよ」

「ありがたきお言葉に存じます。殿下におかれましても、このたびの元老院欠員補充の件でご尽力賜りまして、ありがとうございます」

「いや、私は大したことはしていないよ。ところで、内密に話があるんだがいいだろうか?」

 ルシオが切り出すと、ロンデルの細い鼻柱にわずかに皺が寄った。

「もちろんでございます。では、こちらの部屋へ」

 ロンデルに促されて、ルシオは宰相の控室に足を踏み入れた。相変わらず『控室』とは名ばかりの空間だ。紫檀でできた立派な机に、金で縁どりされた書棚にと、王の執務室よりも遥かに体裁が整っている。

 ロンデルがメイドを呼ぼうとするのを、ルシオは制した。訝し気な表情を向ける宰相の腕を引っ張って、この話はいかにも機密事項だというふうに顔を近づける。

「あまり時間がないんだ。ロンデル、これを見てほしい」

 ルシオは上衣の中に手を入れて、畳んだ羊皮紙を取り出した。机の上に広げると、紙面を覗き込んだロンデルが、眉間に皺を寄せて尋ねてくる。

「これは?」

「先王が統治していた時の財務資料から、不正に記されたと思われる箇所を抜粋したものだ。支払先が不透明であったり、随所に水増しが行われている」

 ロンデルが息をのむ音が聞こえた。

「一体どういう――」

「枢機卿だ。過去に財務管理を担当していたある者からリークがあった」

「枢機卿が……横領!?」

 あんぐりと口を開けるロンデルに、ルシオは深く頷く。

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