第18話 事件の後始末

 演奏会があった日から四日が過ぎても、エレイナはまだ普段の生活に戻れずにいた。

 しかし、今日こそは荘園に出向かなければならない。昨日届いた作物の種を届けにいきたかったし、先日農民たちが『水路の排水が悪い』とぼやいていた件で、様子を見にいかなければならなかった。

 エレイナはのろのろと寝椅子から身を起こして立ち上がろうとした。しかし、途端にめまいに襲われて、慌てて寝椅子の肘掛けに手をつく。

 あの日以来、ろくに食事もできていなかった。事件のショックと、その後アデルがどうなったのかが気掛かりで、物を口にする気すら起きないのだ。


 あれからすぐにスタンフィルとの婚約を解消することができたのは、不幸中の幸いとでもいうべきことだった。父親であるクロナージュ伯爵の話によると、彼を紹介した貴族とコリアード伯爵との仲立ちで、すべては穏便に解決したらしい。

 詫びのつもりなのか、ダエン侯爵からは趣味にしている馬二頭が贈られた。『息子も反省している』とわざわざ手紙をよこすあたり、おそらくこれ以上の荒立ては無用だと言いたいのだろう。

 しかし、それで心から許してしまえるほど、エレイナは愚かではない。

 無理やりキスをされそうになった上に、死の恐怖をも味わったのだ。おまけに大好きなアデルまでこけにされたときては、これから何かの折に顔を合わせた際には、彼女と一緒に睨みつけてやるほかないだろう。


 ――アデル様……。

 つん、と澄ましたアデルの美しい顔を思い出して、エレイナはため息を吐いた。

 彼女はあのあと、どうなったのだろう。きちんと逃げおおせたのだろうか。それとも、追っ手に掴まってしまったのだろうか。

 クロナージュ伯に尋ねれば、何かわかるかもしれない。しかし、アデルのことを父に尋ねるのは怖かった。あの日スタンフィルが言い放ったように、『そんな女性は王家にはいない』と父にまで言われてしまったら、自分はどうしたらいいのかわからない。

 スタンフィルはともかく、伯爵は今や元老院の一員で、先王の宰相まで務めた人だ。当然王家の人々には詳しいし、演奏会の日にあったことも、コリアード伯爵から詳しく聞いているだろう。彼にかかれば、アデルを慕うあまり、エレイナが敢えて気づかぬようにしていたことまで詳らかにされてしまう。

 エレイナは立ち上がって、ゆっくりした足取りでテーブルに向かった。

 いろいろ考えると、自分で離宮に行って直接アデルに尋ねるのが一番いい気がする。

 そういえば、ひと月後に離宮で行われる茶会に向けて、植物の植え替えのことも考えなければならないのだった。

 西側の通路沿いの花が元気をなくしていたから、あれは一度全部抜いて切り戻さなくてはならないだろう。そこへこれから盛りを迎えるカラフルな色の花を植えて、池の周りには、睡蓮と合う海のような青色をした花を植えて……。

 エレイナはテーブルに置かれた水差しを取って、洗面台に移動した。水差しからボウルに水を注ぎ、まずは顔を洗う。

 自分のやるべきことを考えたら、途端に勇気が湧いてくるような気がした。どちらにしても、離宮にはあの日アデルに助けてもらったお礼を言いに行かなければならないのだ。人目が気にならないわけではないが、多少の醜聞には耐えなければならないだろう。

 リネンで顔を拭いていると、部屋の扉がノックされた。顔を覗かせたのは、メイドのルルエだ。

「エレイナ様、どこかへお出かけになるのですか?」

 ドアを後ろ手に閉めて、ルルエが部屋の中に入ってくる。さすがに二日も引きこもっていたせいか、ルルエは動いているエレイナを見て驚いているようだ。

 使ったリネンを壁のフックに引っかけて、エレイナはルルエの方を向いた。

「離宮へ行ってくるわ。来月のお茶会に向けて、庭園のレイアウトを考えなくちゃならないから」

「さようですか。お食事はいかがなさいますか?」

 ルルエの質問に、エレイナは鏡の前で髪を梳きながら首を横にる。

「食事はいらないわ。お茶の用意をしてここへ運んでちょうだい」

「かしこまりました」

 そう言ってルルエは頭を下げた。しかし、エプロンの前で手を組んだまま、なかなかその場から立ち去ろうとしない。

「どうしたの?」

 エレイナが手を止めて尋ねると、同年代のメイドは心配そうに眉を曇らせた。

「あの……そろそろきちんとお食事をなさらないと、お身体に差し支えるのでは」

 エレイナは力なく微笑んで、もう一度首を横に振った。

「ありがとう。でも、食欲がなくてとても喉を通りそうにないの」

「では、スープだけでもいかがでしょう。無理にでも召し上がっていただかないことには、わたくしどもが旦那様に叱られてしまいます」

「お父様に?」

 エレイナがぱっと顔を上げる。するとルルエは、真剣な眼差しを向けて頷いた。

「今朝お出かけになる際に、必ず何か食べさせるように、と念を押していかれたのです。エレイナ様を大変ご心配されていました」

 父が出かけた、という言葉を聞いて、一瞬明るくなった気持ちがふたたび沈んだ。

「そう。……そうよね」

 ため息を吐いて、エレイナは床に目を落とす。心配するのも当たり前だ。今ではたったふたりの家族なのだから。

 あの日、突然辻馬車で戻ってきたエレイナの顔を見るなり、伯爵は何も聞かずに抱きしめた。もう大丈夫だ、と優しく背中を撫でて、エレイナがひとしきり泣いてしまうまで待ってくれた。

 その時ほど、父の存在をあたたかく感じたことはない。婚約者に無理やり襲われた恐怖と、アデルをその場に置き去りにしてきてしまったことへの後悔とで、エレイナの心は今にもくずおれそうになっていたのだから。

 最近やけに忙しくしている伯爵とは、それきり一度も顔を合わせていない。

 お互いに普段出かける際には、どこへ行くか、なんの用事で出掛けていつごろ戻るのかを必ず使用人に伝言していく。

 それなのに、近頃の伯爵は何も告げずに出掛けてしまう。それはエレイナにとって、とても悲しいことだった。王宮貴族の立場では秘密も多いだろうが、せめて手紙くらいは残して行ってほしい。

「わかったわ」

 ため息まじりではあったが、エレイナはうなずいた。

「とりあえず食堂に行くわ。そのあとですぐに出掛けるから、着替えを手伝ってちょうだい」


 馬車の車窓にかけられたカーテンの隙間から、エレイナは不安な気持ちで外を眺めていた。

 石畳の敷かれた道の端には、粗末な衣服を身にまとった男たちがたむろしている。彼らは農民だろうか。鍬くわや鋤すきなどといった農耕具を手にして、落ちくぼんだ目をエレイナが乗る馬車に向けている。

 離宮からほど近い場所にある伯爵家界隈も、ここ数日で急に治安が悪くなったと聞く。

 三日前には、城下町の入り口にある貴族の屋敷に強盗が入った。

 おととい貴族が襲われたのは、離宮と道を二本隔てたところにある裏通り。

 そして昨日は、離宮とクロナージュ家との、ちょうど中間にある王室の馬場が荒らされた。朝になって馬番が見にいくと、厩舎の戸が破壊され、中にいたはずの馬たちは一頭残らず消えていたそうだ。

 犯人は恐らく、枢機卿派の者だろうという憶測が飛び交っている。王統派と枢機卿派による小競り合いが、最近あちこちで頻発しているからだ。大抵は力のある貴族があいだに入って事なきを得るが、昨日町はずれで起きた暴動には、王国軍が出動したらしい。

『こんなことは、わたくしが田舎から出てきてはじめてでございます』

 とは、クロナージュ家の使用人の中で、一番古株の執事の話である。もともとこの界隈は、王都の賑やかさに比べて、普段はだいぶ静かな土地なのだ。怒号など聞き慣れていないぶん、住民の不安も強い。

 近いうちに何かが起こるのではないだろうか――そんな恐ろしい予感に、エレイナは戦慄を覚えるのだった。

 離宮に到着すると、エレイナは連れてきた使用人の手を借りて馬車を降りた。

「ここからはひとりで行くわ。少し時間がかかるかもしれないけれど、待っててちょうだい」

 使用人と御者に向かって声をかけ、庭園へ向かう小道に足を踏み入れる。

 数日離れていた割には、離宮の花は美しく咲いていた。ただ、少し雑草が伸びてきているようだ。

 その始末と樹木の枝打ちを、あとで園丁に依頼しにいこう。それから、温室で育てている花の苗の生育状況を確認して、茶会に向けての植え替えに必要な花の数を改めて確認する。茶会に使うあずまやも、修理の必要があるか職人に見てもらわなければならない。

 考えてみれば、やるべきことはいっぱいあった。いつまでもくよくよしてなんかいられないようだ。

 細かな仕事は後回しにして、エレイナは白亜の建物に向かった。今日ここへ来たメインの目的は、アデルに会うことである。

「こんにちは」

 入り口を守る衛士に、エレイナは愛想よく声をかけた。数日あいだを空けたものの、それまでは毎日のように訪れていただけあって、衛士とも顔なじみだ。

 ところが、背が高く浅黒い顔をした衛士は、まるではじめてエレイナを見たというようにギロリと睨みつける。

「何かご用でしょうか」

 硬い声で言われて、エレイナはびくりとした。

「あの……クロナージュ伯爵の娘のエレイナです。アデレイド様にお会いしたくて参ったのですが」

「アデレイド……という名の人物はここにはおりません」

「えっ?」

 エレイナはまん丸に目を見開いて衛士を見た。

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