第17話 人を思う気持ちは止められない

 王宮と城下町からなる王都は、離宮から馬で半日ほど離れた場所にある。

 王国が所有するその地域一帯は、小高い丘がいくつも連なっている丘陵地帯だ。防衛上の観点から人の腰の高さを超える木は一本もなく、全体が短く刈り込まれた芝や灌木で覆われている。

 その中のひときわ高い丘の上に、頑丈な城壁で囲まれた王都はあった。王宮の南斜面には城下町が広がり、古い石畳に軒を連ねた商店の人々が、活気に満ちた声を響かせている。


 町はずれにあるサマサ侯爵夫人のサロンでは、今日も喧々諤々の議論がされていた。議題は王政の存続という、王都で話し合うにしてはいささかナーバスな内容だ。しかし、『サロンでなされた会話の内容は一切持ち出し禁止』という暗黙のルールがあるため、皆、歯に衣着せぬもの言いで議論を闘わせている。

「よいですかな。王統こそがわが国の正義なのです。彼らが歴史の創造者であり、国家繁栄の立役者なのですぞ」

「何を言っとるんだね。王など飾りだ。力のある宰相がいれば、誰がなっても構わないではないか」

「ちょっと待ってくれ。今のは聞き捨てならないぞ? 不敬罪に当たる」

「まあまあ。それを言ってしまってはサロンで議論を闘わせている意味がなくなるじゃないですか。ここはやはり、国民の代表による選挙をですね……」

「選挙なら、私はヘネ枢機卿を推しますよ」

「いやいや、私は元老院のサンデリン卿を」

「では、私は番狂わせを狙ってドラーク公で……」



「以上でございます」

 側近デローニから報告を受けて、ヴィクトラス王国第二王子のルシオールは、深いため息を吐いた。

 ここは離宮の西棟にある私室だ。やや東を向いた窓から差し込む朝日が、緋色の絨毯の上に薄い影を落としている。

 いくらかん口令の敷かれたサロンでの会話といえども、間者は必ずいるものだ。側近から聞いた、とある男爵からもたらされたという秘密会議の内容は、反吐が出るほど胸糞悪いものだった。

 王室の人間が利権争いの駒にされるのは、今に始まったことではない。現にルシオールの父は、当時懇意にしていたヘネ枢機卿にそそのかされて、父親である先々代の王を投獄の上、殺してしまった。

 その父も三年前には何者かに毒殺されて、現在はルシオールの兄が王位を継いでいる。即位の際、兄が第一宰相に据えたのが、ヘネ枢機卿を目の敵にしているロンデル伯爵だというのだから、笑えない。

「で? 私に一体どうしろと言うんだ?」

 長椅子の肘掛けに頬杖をついたまま、ルシオールはデローニに尋ねた。

 しかしデローニはその質問には答えない。報告内容の書かれた羊皮紙を丸めて、重い一重まぶたをぎらつかせる。

「ヘネ枢機卿から打診がございました。『孫娘との結婚の返事はいついただけるのか』と」

「その話ならもう聞き飽きたよ」

「まだ三度目でございます」

 ルシオールは大きなため息を吐いた。

「もう三度目だ。以前にも言っただろう? 私が首を縦に振るわけがない」

「しかし、これ以上返事を先延ばしにするわけにも参りますまい。親書を書くお許しをいただければ、すぐにお作りいたします」

「その件は断る、と書くのか?」

「殿下のお気持ちに従うならば。しかしその場合、お命の保証はないでしょう」

 それまでのあいだ辛抱強く堪えていたルシオールだったが、ついにデローニを鮮やかな青い目で睨みつけた。

「では聞くが、妻に寝首をかかれる可能性はゼロなのか? 枢機卿が自分の孫娘を押し付けようとするのは、兄を亡き者にしたのち私を即位させ、子をなさぬうちに暗殺しようという算段だろう。妻に毒入りのワインを勧められてめでたく私は息絶え、そして選挙で選ばれた枢機卿が国王の座に就く。……まったく、面白い話だ」

 ルシオールは投げやりな態度で手を振る。紅茶を飲もうとカップを手にしたが、口に運んだところで中身がすでにからになっていることに気づき、悪態をつきながらカップを戻した。

 現在、ヴィクトラス王国の王政はかつてないほどに揺らいでいる。

 事の発端は遡ること十年ほど前、長年冷戦状態だった隣国とのあいだに、国交が回復したことにある。

 交易が再開した途端、頭のいい貴族たちはこぞって金儲けに精を出した。しかし、そうなると当然貧富の差が生まれ、波に乗れなかった者たちからは不満の声が上がるようになる。

 それに加えて、かねてより財政の苦しかった王国政府が、現王――ルシオールの兄――の代になった途端一気に増税したために、怒りの矛先が王室に向いたのだ。

 赤字の原因は、かつて王政を担っていた重鎮たちによる、国庫の使い込みにあると囁かれている。しかし、事実は未だ解明に至っていない。

 締め付けの影響は納税義務のある貴族だけでなく、その末端の農民にまで及んだ。そのため王室の信用は失墜し、選挙制などというばかげた機運が生まれたのだった。

 王室を取り巻く貴族たちの派閥は、主に三つに分かれている。

 すなわち、ヴィクトラス王国の建国から今に至るまで続いている、正統なる王家の血筋を支持する王統派。

 正教会が支持するヘネ枢機卿派。

 そして、王国の諮問機関である元老院が支持するサンデリン卿派である。

 王宮に出入りする貴族たちは、それぞれが支持する派閥に腰巾着のように張りついて、恩恵のおこぼれにあずかりたいと狙っている。

 皆、重用されたくて必死なのだ。選挙が行われた暁には、それぞれが支持する権力者の票集めに奔走することだろう。

 しかし、中でも恐れるべきはなんといっても枢機卿だ。国民の過半数が信仰する宗教のトップに君臨する彼の力は強大すぎる。それ故にルシオールは、枢機卿から迫られている孫娘との縁談について、はっきりと断ることもできずに手をこまねいているのだ。

 ルシオールは、長椅子の背もたれに背中を預けて、目頭を揉んだ。

 考えることが多すぎる。

 本来こういった国政に関わることについては、現国王である兄がなんとかすべきことのように思える。しかし、彼は側近のロンデル伯爵と周りの言いなりなので、どうしようもない。

 それにおそらく、枢機卿は既に兄の命に狙いを定めている。もしも自分が即位することになれば――いや、できればその前に、二度と王室の権威が揺らぐことのないよう、万全の体制を整えておかなければならない。

「まだ何か用が?」

 ルシオールは側近の厳めしい顔に視線を戻した。

 少しひとりで策を練りたい。一度湯に浸かって頭をはっきりさせ、紅茶でも飲みながらゆっくり考え事がしたかった。

 そんなルシオールの気持ちをよそに、デローニは動く気配をこれっぽっちも見せない。

「もうひとつご報告がございます。先日のコリアード伯爵邸での事件につきましては、伯爵がうまいこと収めて下さったとのことです。スタンフィル様も違法に抜刀するという罪を犯した手前、事件のことは一切口外しないと約束してくれたそうで」

「そうか、それはよかった。伯爵の元に何か礼を送っておいてくれ」

「かしまこまりました。しかしわたくしは、まだ殿下の口から詳細を伺っておりません。なぜあのような軽率な行動を?」

 ルシオールは大きく息を吐きだして、ふたたび長椅子に背中を預けた。

 『火急の用件がある』と言われてエレイナから離れたのは、枢機卿の悪事について内密の話がしたいというある貴族と会うためだった。あの演奏会に来ていた客が、デローニの変装を見破って声をかけてきたのだ。

 話はそう長くはかからなかったが、戻ってきたら彼女がいない。不安に駆られて広間じゅうを探すも姿が見えず、もしやと思いデローニと二手に別れたのだ。

 スタンフィルに馬乗りにされた彼女を見つけた時は、全身に戦慄が走った。怒りに任せて飛び蹴りを食らわせるも、奴はふたたび立ち上がり、剣を抜く。

 絶対に彼女を傷つけるわけにはいかなかった。

 そうこうするうちに、スタンフィルが助けを求めたために人がやってきた。しかし、自分の身元を明かすわけにも、王位継承権者である自身の身を危険に晒すわけにもいかない。

 逃げるしかなかった。ひとまず彼女を辻馬車に乗せ、目立たぬところへ身を隠す。

 なんとかしてデローニを探し出して、彼と合流した。そして、そこらへんにいる町娘に声をかけ、貧しい者が着るだぼだぼの服を譲ってもらい、それに着替えて離宮へと戻ったのだ。


 あれからエレイナとは一切連絡を取っていない。

 彼女も離宮へは訪れていないようだ。

 日に日に心配は募るが、どうか彼女が身も心も健やかであるようにと、願わずにはいられない。

 厳しい顔つきでじっと見つめるデローニの顔を、ルシオールはちらと見上げた。

「彼女を守るためだったんだ。仕方がないだろう」

「あなた様がなんのためにここに逃れたのかお忘れですか?」

 これ以上不愉快なことはない、といった具合のデローニの顔を見て、ルシオールが頷く。

「わかってるよ。目立つ行動は控えろ、だろう?」

 デローニはため息を吐いて首を振った。

「……仕方がありません、またどこかへ居を移しましょう。少々遠方になりますが、エクラム地方に王室が懇意にしているアッティム侯爵の城があったはずです」

「冗談言うな。私はここを離れるつもりはない」

 ぴしゃりと言って、ルシオールが斜め下から彼を睨みつける。眉を吊り上げたデローニの喉仏が上下するのが目に入った。

「ご自分のお立場をお忘れですか? あなたは最後の王家の血統なのです。もしもお亡くなりになるようなことがあったら、王国は混迷を極めます」

 強い口調で言われて、胸がずきんと疼くようだった。自分が第一王位継承権者であることは、一日たりとも忘れたことなどない。しかし――

 ゆっくりと瞬きをして下を向く。

「彼女と……離れたくない」

 口にした言葉があまりに子供じみていたので、自分でも驚いて口元を覆った。しかし、これが紛れもない本心だ。

 安全の確保のため、王宮から離宮に居を移す――そう言われた時、正直なところ夜も眠れないほど心が躍った。

 大人になった彼女は、どんな姿をしているのだろう。

 どんな声で笑い、どんな唇で私の名を呼ぶのだろう。

 自分自身が大人に近づくにつれ、想像しては胸をときめかせる日々。時にはどうしようもないほど、身体を熱く滾らせもした。

 だからこそ、離宮の庭園でやっと会えた時には、嬉しさのあまり足が震えた。

 それなのに、彼女は震えながら、結婚が決まったのだと口にする。……何故だ? せっかくこうしてふたたび会えたのに――。

 気がつけば、吸い寄せられるように彼女の唇に口づけをしていた。吸えばとろけてしまいそうな、天使のような唇――その感触を思い出すと、瞬時に身体が熱くなる。

 そして、コリアード伯爵邸の猫の隠れ家で交わした、熱いキスを思い返せば――

 身体の中心が痛いほど疼いて、思わず眉をしかめた。まぶたを閉じて、彼女の唇の感触と、遠慮がちな舌の動きを頭から締め出す。

「そこまでエレイナ様のことを……おいたわしい」

 同情するような側近の言葉に、ルシオールはハッと目を見開いた。しかしすぐに頬が熱くなるのを感じて、髪を直すふりをしてごまかす。

「しかし殿下、伯爵以下の家柄の方とは――」

「わかってる」

 最後まで言われたくなくて、ルシオールは口を挟んだ。

「私にもわかってはいるんだ。だからといって、人を思う気持ちは止められないだろう?」

「殿下……」

 彼はまだ何か言いたそうにしていたが、逡巡の末、言葉をのみ込んだようだった。それでいい。デローニはやはり頭のいい男だ。

「デローニ、風呂の準備をしてくれ。それから、そのあとで熱い紅茶を。しばらくひとりでいたい」

「かしこまりました」

 彼は深く腰を折って踵を返した。しかし、ふと何かを思い出しように足を止めて、こちらを振り返る。

「ときに殿下、本日は十八歳のお誕生日おめでとうございます。表だったことは何もできませんが、夕食を特別豪華にするよう、料理長に申しつけておきます」

「ありがとう」

 では、とふたたび腰を折って、デローニは静かに部屋を出ていった。


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