第16話 おてんばなヒーロー
「エレイナ!」
踏み込んできた途端、アデルは美しい顔を怒りの色に染めた。ものすごいスピードで彼女が走ってきたかと思うと、次の瞬間には、上から覆いかぶさっていたはずのスタンフィルが姿を消していた。
突然身体が軽くなって、何が起きたのか分からないまま、エレイナは長椅子から飛び降りた。恐る恐る回り込んでみると、椅子の裏側で婚約者が伸びている。
「ア、アデル様!?」
どうやら彼女は、スタンフィルに飛び蹴りを食わらせたらしい。それで、彼女もろとも長椅子の向こう側に吹き飛ばされたのだ。
「遅くなってごめんなさいね。何もされてない?」
「は、はい……どうにか」
口をあの形に開けたまま、エレイナは応えた。アデルは額にうっすらと汗を浮かべ、肩で息をしている。
強い……強すぎる。この大柄な身体は伊達じゃないんだわ……
しかし、安堵する間もなくスタンフィルが立ち上がったので、ふたりは身構えた。彼はふらふらするのか、目をぱちぱちとしばたたきながら頭を振る。
「くそっ……なんてやつだ」
「ひと気のないところに連れ込んで無理やり襲うなんて、紳士のすることじゃないわね。あなた、それでも侯爵子息なの?」
腕を組んだアデルが鼻を鳴らして言う。スタンフィルは歯を食いしばって、彼女を下から睨みつけた。
「エレイナは僕の婚約者だ。一体何が悪い?」
「婚約者だからといって、何をしても許されるわけではないわ。あんなに嫌がっていたじゃない」
アデルの言うことは至極もっともだ。形成は彼女の方が俄然有利に見えるのに、スタンフィルは薄気味悪い笑みを浮かべている。
「失礼だが……」
彼はアデルににじり寄って、その姿をじろじろと眺めた。
「あんた、本当に女か?」
スタンフィルの言葉に、アデルの頬がぴくりと動く。エレイナは息をのんだ。
「あ……当たり前じゃない」
アデルがそう応えると、スタンフィルの手が伸びて彼女の胸を掴もうとした。しかし、アデルが身をかわしたために虚しくも空振りし、勢いあまってのめってしまう。彼はすぐに体勢を立て直すと、頬を真っ赤に染め、あろうことかアデルに掴みかかってきた。
「お前のような女がいるか!」
「エレイナ、逃げて!」
アデルが叫んだが、つい先ほどの彼女の反応が気になって、すぐに動く気にはなれない。
女性であることをスタンフィルに疑ってかかられた時、確かに彼女は少し不自然な様子を見せた。
アデルは本当は誰なのだろう? 離宮に入れることからして王族であることは確かだが、その正体が誰なのか、実のところエレイナも知らない。きっと、何か事情があるはずだ。だったら、私が守らなければ――
「もうやめて、スタンフィル様! アデル様は王族の方なのよ!?」
エレイナは暖炉の脇にあった火掻き棒を持ってきて、取っ組み合うふたりの元に駆け寄った。しかし、目まぐるしく立ち位置を変えるふたりを前に、武器など手にしたことがないエレイナはおろおろするばかりだ。
「王族にこんな女はいない!」
アデルと揉み合うスタンフィルが、食いしばった歯の隙間から叫ぶ。
「それに、こんな大柄な女がこの世にいるわけがないだろう。君はばかなのか?」
それにはさすがにカチンときて、火掻き棒をスタンフィルの背中に思い切り叩きつけた。しかし、女の非力ではびくともしない。何度か叩いてみたが、せいぜいビロードの上着に白い線を幾筋かつけるだけが関の山だ。
スタンフィルとアデルは、力比べをする男たちのように、手と手を組み合い押し合った。身体はアデルの方が大きいが、服装のせいか力がうまく入らないようだ。膠着状態にしびれを切らしたアデルが離れた一瞬の隙を突いて、スタンフィルが腰に下げた護身用の剣を抜く。
エレイナは鋭く息を吸い込んだ。ヴィクトラス王国では、正式な決闘の場以外での抜刀は法律で禁じられている。しかも相手が王族ともなれば、死罪は免れない。
「スタンフィル、正気なの!?」
侯爵子息を思わず呼び捨てにして、エレイナは叫んだ。しかし、アデルの方を振り向いた瞬間、彼女もまたスカートをまくり上げて、短剣を取り出すのが目に入る。
自分の顔から血の気がさっと引くのがわかった。呼吸は浅く、早くなり、口の中に血の味が広がる。
声を出そうにも、恐ろしくてとてもできかなった。ふたりとも、とても正気の沙汰ではない。互いに獲物を狙うような目つきで相手を睨みつけ、隙を狙って最初の一撃を放とうと、光るものを構えている。
その時、扉の向こうに複数の人がやってくる声が聞こえた。談笑している様子からして、騒ぎを聞きつけてやってきたわけではなさそうだ。
と、突然スタンフィルがにやりと笑みを浮かべた。
「誰か来てくれ! 襲われてる!」
彼が叫んだ途端、にわかに廊下が騒がしくなった。人が大勢やってくる気配が近づいてくる。
眉を上げて挑発してくるスタンフィルを見て、アデルが舌打ちをした。そして彼の間合いに一気に飛び込み、短剣を振り回す。
「畜生!」
ふいを突かれたスタンフィルが剣を取り落とした。それをアデルが素早く蹴り飛ばし、ついでにスタンフィルの股間も蹴り上げて、エレイナの手を取る。
「こっちよ! 早く!」
愚か者の呻き声を聞きながら、ふたりは部屋の奥にぽっかりと口を開けた通路から隣の部屋へと移った。しかしそこから先にはもう部屋が続いていない。
「エレイナ、窓から逃げるわよ」
彼女は腰高の窓を開けてひらりと窓枠に飛び乗ると、上から手を差し伸べた。いくらここが一階とはいえ、彼女と同じようにする体力などエレイナにはない。
「急いで!」
「でも――」
「いいから早く! もう、おてんばのあなたはどこへ行ったの!?」
アデルの手を掴んだ瞬間にものすごい力で引っ張り上げられ、抱きしめられたまま飛び降りる。
「きゃあっ」
どすん、という衝撃があって、無事屋敷の外の低い灌木の中に着地した。嫌な音がして、アデルのドレスが無残にも引き裂かれる。こんな時なのに、彼女の高価そうなドレスの行く末が気になった。
地面に下ろされると同時に、ふたたびアデルに手を引かれて走り出す。離宮にも負けないくらいに立派な伯爵家の庭園を抜けて通りまで出ると、ちょうど通りかかった辻馬車を彼女が止めた。
「こんなみすぼらしい馬車でごめんね、でもこの方が衆目をごまかせるわ」
アデルにお尻を押されて、馬車の中に半ば無理やり押し込まれる。彼女は乱暴にドアを閉めると、御者に行先を告げた。
「アデル様!!」
ドアを開けようとしたが、馬車はもう動き出している。キャビン後方のガラス窓に張りついて外を見ると、アデルが悠然と手を振っていた。
「アデル様!」
もう一度叫んでみたが、声が届くわけもない。
馬車はすぐに交差点を曲がり、彼女の姿を視界から隠す。その途端、エレイナは両手で顔を覆って、わっと泣き崩れた。
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