第8話 極上のキスをください

 その理由を話すのはとても勇気がいるし、何よりナーバスで個人的な話だ。結婚が決まったにもかかわらず、忘れられない人がいるだなんて……。

 ところが、自分でも不思議なことに、エレイナは新しくできたばかりのこの友人に、打ち明けてしまいたいと思っている。彼女ならきっと笑わずに聞いてくれるだろう。何年にも及ぶ片思いが破れた悲しみを、吸い取ってくれそうな気がする。

 ごくりと唾をのみ込んで、エレイナは口を開く。

「実は……結婚が決まったのです」

 その瞬間、隣のアデレイドが突然お茶を噴いた。

「だっ、大丈夫ですか!?」

 激しくむせて咳込んでいる彼女の背中を、エレイナは優しくさする。女性にしてはだいぶ大きく、引き締まった背中だ。

「え、ええ、大丈夫よ。ちょっと、動揺してしまって」

「えっ?」

「いえ、なんでもないの。……で? お相手は、どこのどいつかしら?」

 笑顔を浮かべてはいるが、アデレイドの目はギラギラと光り、口元は震えている。

 ――今のは聞き間違いかしら。『どこのどいつ』と聞こえたけれど……。

「お相手は、ダエン侯爵家のスタンフィル様です」

「スタンフィル。彼はどんな方?」

「お優しそうな方ではありました。……ただ、先日初めてお会いして、ほんの少ししか……お話できなくて」

 話すうちに、じわりと涙が出てきた。会ったのが一度きりでも、よく知らない相手でも、もう決めたのだから結婚しなければならない。

 ぽろり、と雫が頬を伝い、慌てて指で拭う。

 アデレイドがにじり寄ってきて、エレイナの頬をハンカチで押さえた。とても悲しい気分なのに、間近で見る彼女はなんて美しいのだろうと思ってしまう。

「あなたは、その方と結婚したいの?」

 彼女はゆっくり言って、あたたかい手でエレイナの両頬を包んだ。

 その優しいトーンに、堪えていた涙がぽろぽろと零れ、アデレイドの手を濡らす。

「いいえ……いいえ。でも、こんな風に思っていて、スタンフィル様には申し訳なく感じています。あちらは私のことを、心から好いてくださっているのに」

「そう。これは憶測だけれど……あなたの心の中には、既にどなたかがいらっしゃるのね?」

 図星を突かれて、エレイナは鳶色の瞳を見開いた。

「ど、どうしてそれを――」

「不思議と私、あなたの気持ちがわかるの。さぞやお辛いでしょうね」

 エレイナはこくりと頷き、頬にあるアデレイドの手に自分の手を重ねる。

「……初恋なのです。その方のことを、小さな頃からずっと思っていて――」

「まあ、一体どなたかしら」

「い、言えませんわ」

「それは、言うのが憚られるお相手ということ?」

 そう尋ねて見詰めてくるアデレイドの双眸は、どこか夢を見ているようにとろけていた。この妖艶な青の眼差しには敵いそうもない。囚われたウサギのように、エレイナはこくりと頷く。

 するとアデレイドは、ほう、とため息を吐き、長く垂らしたエレイナの髪に、長い指を差し入れた。

「わかるわ。私にも経験があるもの。先ほど話したでしょう? 幼い頃に、前庭の池で一緒に遊んだ方」

「えっ……」

 エレイナは困惑した。彼女は確か、その人物を『女の子』と言っていたはずだ。

「その方のことが、好きだったのですか?」

「ええ。今も大好きよ。あなたのような栗色の髪をして、いつもにこにこ笑っていて、私が王族と知っていながら怒ったりもするの。とてもかわいかったわ」

 アデレイドが臆面もなく答えるので、エレイナは驚いてしまった。

 いつか、城下町にふらりとやってきた吟遊詩人に、聞いたことがある。

 広い世界にはいろいろな人がいて、男性は女性を好きになり、女性は男性を好きになるだけという考えは、もう古いのだとか。

 誰が誰を好きになるのも構わない。性別も身分も年齢も越えて、愛というものは自由に存在していいのだと、神様はお決めになったはず――。

 今日のエレイナには、それがよくわかった。アデレイドのように美しく聡明で妖艶なひとなら、同じ女性が惹かれてしまうこともあるだろう。そして、彼女がそういった個人的なことをはっきりと話したことに、深い尊敬の念を抱いた。

 アデレイドの視線は、エレイナの唇に注がれている。その眼差しは、光を集めてきらめく湖水のように青く、美しい。エレイナは完全に虜になると同時に、なぜか切なくなるような、郷愁を呼び起こされるような、不思議な感覚に陥っていた。

「あなたを見ていると、彼女を思い出すの」

「アデレイド様……」

「いいえ。アデルと呼んで」

 アデレイドの指が、エレイナの唇に触れる。彼女を感じた場所からしみわたる熱が、エレイナのはっきりした意識を、じわじわと奪っていく。

「アデル……」

「そうよ、かわいいひと」

 囁くように言ったアデルの唇は、今やわずかな距離にあった。それが徐々に迫り、吐息がかかり、エレイナの唇にそっと重なる。

 その瞬間、エレイナの心臓はかつて経験したことがないくらいに、激しく脈を打ちはじめた。

 あたたかく、しっとりととろけるような感触は、まるで極上のドルチェのよう。アデルの唇は、上質なベルベットのように柔らかく滑らかでいて、それでいて強かにエレイナの初心な唇を啄む。

 はじめての体験に、エレイナの身体はがたがたと震えていた。……いや、はじめてではない。遠い昔に、触れるだけのキスを受けたことがある。花々が咲き乱れる径で、大好きだったルシオールに――。

 やがて唇が離れたとき、エレイナは泣いていた。

 驚いたアデルが青い目をいっぱいに見開き、エレイナの頬を大きな手で包み込む。

「ああ、どうしましょう。私がいきなりキスしたのがいけなかったのね」

 彼女はおろおろしてエレイナの髪を撫でた。しかしエレイナは、そんな理由で泣いたのではない。

 口づけを受けたことには、ひとかけらの後悔もなかった。むしろ、深い淀みに沈んでいた心が、一気に浮上した感さえある。ただ、自分の理解できない感情が一度に押し寄せて、小さな胸では受け止めきれなかっただけ……。

 ショックを受けた様子のアデルを慰めようと、エレイナは彼女の手を取った。そして、コルセットで押し上げられた自分の胸に宛てる。

「アデル様、決してそういうわけではないのです。だって私、あなたが好きですもの」

「エレイナ……!」

 悲しげな表情を一転させて、アデルが嬉しそうに顔を綻ばせた。そしてエレイナを強く抱きしめると、耳元で艶めかしく囁く。

「ああ……私もあなたが大好きよ。大丈夫、きっと何もかもうまくいくわ。私の……かわいいひと」

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