第9話 私、どうしてしまったのかしら

 エレイナがアデルと出会った日から、五日が過ぎた。

 あの日以来、エレイナは父親のクロナージュ伯爵とほとんど顔を合わせていない。

 合わせることができないのだ。王族の、しかも女性と口づけを交わしたことが、恥ずかしくて、後ろめたくて。

 だから、ここ数日伯爵が留守がちにしているのは、エレイナにとって好都合だった。

 執事の話によると、伯爵が宰相を務めていた先々代の王が崩御して以来、ずっと疎遠になっていた王宮との付き合いが、突然復活したらしい。

 伯爵は三日前、宰相補佐官から呼び出されて、明け方から王宮へ出向いていた。そこで告げられたのは、前任者死亡により空席になっていた元老院の議席に、彼を登用したいという話だった。それ以降伯爵は、新しい服を注文しにいったり、長旅に耐える若い馬を見にいったりと、屋敷にいる間も惜しいといった風に奔走している。

 今日も彼は、朝からどこかへ出掛けたのだろう。厩から連れ出された馬が、明け方には玄関前でいなないていた。


 エレイナは朝の身支度をゆっくり整えて、そろそろと階段を降りていく。この時間なら父はもういないはずだ。さっさと朝食を済ませて、離宮へ行く準備をしなければ。

 中央階段の踊り場を右に曲がり、屋敷の二階廊下を進む。最初にある扉の奥が、食事に使っている部屋だ。

 エレイナは真鍮でできた把手を掴み、両開き戸を引いた。しかし、近頃この扉は老朽化に加え、メンテナンス不足で建てつけが悪く、ちょっとやそっとじゃ開いてくれない。そこで、思い切り力を込めて引っ張ったのだが……。

 扉が開いた瞬間、壁にぶつかったかのように勢いよく立ち止った。伯爵だ。既に出掛けたものと思っていた父が、テーブルの上で手を組んで微笑んでいる。

「おはよう、エレイナ」

「……おはようございます」

 動揺を悟られないよう静かに言って、エレイナは父の正面の席に着いた。彼の食器はすっかり片づけられたあとで、食後のお茶すら置かれていない。

 テーブルの上の呼び鈴を鳴らすと、メイドがやってきて給仕を始める。

「お父様はもうお出かけになられたと思っていたわ」

「ああ。そろそろ出ようと思うが、もうちょっとここにいてもいいかな? お前が嫌じゃなければ」

「い、嫌なんかじゃないわ。もちろん」

 何か変だ。父は気付いているのだろうか。たとえばここ数日、娘がやけに念入りに化粧をしていることとか、足しげく離宮に通っていることとか……。

「ところで――」

 伯爵が口を開いた途端、エレイナはびくっと肩を震わせた。

「なっ、なに?」

「どうした、慌てて」

「別に、慌ててなんかないわ」

「それならいいんだ。以前に言っていただろう? スタンフィルとの結婚にあたって、もう一度彼と話すチャンスが欲しいって」

「え、ええ」

 ……しまった。あれ以来アデルと話すのが楽しくて、そのことをすっかり忘れていた。

「そこでだ。急な話だが、三日後に行われるコリアード伯爵の演奏会に、お前も出席できることになった。スタンフィルも招かれているらしいから、彼と話してみたらどうだ。ん?」

 娘のリクエストに応えられた喜びからか、父は誇らしげな笑顔を浮かべている。

 もちろん、エレイナは気乗りなんてしない。しかし、もう一度話してみたいと言ったのは自分だし、何より既に結婚を承諾してしまったのだ。男手ひとつで娘を育てた父の苦労と、本当は寂しいはずの心中を思えば、嫌な顔をすることもできない。

 エレイナが離宮へ通い出して、もう五日になる。庭園の管理の仕事だけをしていたときは、離宮へ赴くのはせいぜい五日に一度くらいだったろうか。

 それが、アデルと出会ってからは毎日。本当に毎日、仕事もないのに連日通い詰めている。

 彼女と知り合ってからというもの、毎日が幸せと発見の連続だった。

 アデルとの会話は、他の同年代の令嬢と話す内容とはまったく異なっていた。

 この年頃の若い女性は、皆いかに自分をきれいに着飾るかということに必死だ。自然、話題の中心はドレスや香水といった、おしゃれに関するものに終始する。しかしエレイナは、そういったことには実はあまり興味がない。

 彼女たちに比べ、アデルの話は随分理知的で、社会的で、時には刺激的だ。

 世界の歴史や、この国の経済の話。エレイナの好きな、植物や生きものといった自然の話。

 深い峡谷にひっそりと眠る、かつて空を飛んだ船の残骸の話。遠い南の海上にあるという、楽園の話……。

 そして何より、それを語るときの生き生きとした表情が、エレイナの心を虜にする。

 彼女の瑠璃色の目の美しさには、はじめて見た日と変わらず、一日一日感銘を受けた。すらりと高い背も、低めの声も、大きな手も、みんな素敵。いっそのこと、スタンフィルとは形ばかりの結婚をして、心は一生彼女に捧げて生きていきたいと思うくらいに。

 アデルとの口づけを思い出し、エレイナは無意識に唇に指をやった。

 彼女から受けた口づけは、あれきり一度だけ。今でも腰がぞくぞくしてしまうほど、とても官能的な触れ合いだった。あまりにも美しくきらめいていて、あれが果たして現実のことだったのかということすら、おぼつかない。

 ――私、一体どうしてしまったのかしら。これではまるで、男の人に恋しているみたい……。

 その時、ふと父の視線に気づいて、エレイナは椅子の上で身じろぎする。

「お前が幸せそうなので安心したよ」

「えっ!?」

「なんといっても、当人同士が気に入って夫婦になるのが一番だからな。……そうか、そんなにスタンフィルのことを気に入っていたとは。お父さん嬉しいぞ」

 相好を崩す父を見て、エレイナは慌てた。父は何か勘違いしている。おそらく頬が緩んでいたのだろうが、スタンフィルのことを思ってではない。

「あ、あの、お父様――」

「なんだ?」

 伯爵はにこにこしながら立ち上がって、上衣の前をてきぱきと留めた。心なしか、彼の動きすらも十歳ほど若返ったように見える。

 その姿に、数日前の朝、結婚を承諾したときの涙ぐむ父が重なった。

 父が自分を思うほどではないかもしれないが、エレイナも父が大好きだ。老け込むほどの心労を与えてまで、ひとり身を貫こうとは思わない。

「ううん……なんでもないの」

 エレイナが静かに首を振るのを見て、伯爵はにっこり微笑んだ。そして、テーブルをぐるりと回ってきて、エレイナの肩に手を置く。

「そうか、では行ってくる。帰りに金細工職人のところに寄ってくるとしよう。実はお前に内緒で、新しい首飾りを頼んであるのだ」

「ありがとう、お父様。いってらっしゃい」

 部屋から出ていく父の姿を見届けてから、エレイナは重いため息を吐いた。

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