第2話 突然もたらされた縁談①

 エレイナは自室のベッドの上で、ぱちりと目を覚ました。

 早朝にも拘わらず、外はもう明るい。今日は天気もいいようだから、父の代わりに荘園を見て回るのも、離宮の庭園へ花の様子を見にいくのも楽しみだ。

 ひとつ伸びをして、古びた羽根布団から這いだす。

 壁際に置かれたテーブルへと素足で歩いていき、水差しの水でボウルを満たした。洗顔を済ませたら、壁に掛けられたリネンで顔を拭き、身支度に取りかかる。

 以前ならメイドを呼んでいた作業を、今はひとりでこなしていた。コルセットとドレスに至っては、さすがに手間がかかるのでメイドを呼ぶが、なにぶん人手が足りないので気を遣う。今は朝食の給仕に忙しい時間だろう。ドレスは後回しにして、家着用のコットンワンピースに袖を通す。


 屋敷の中央階段を下りて行くと、父親であるクロナージュ伯爵の姿が見えた。

「おはようございます。お父様」

 伯爵は肉づきのいい身体を二つ折りにして、猫が床に零した餌を拾っている。彼は顔を上げると、エレイナの質素な服装に目を留めた。

「おはよう、エレイナ。今日は出掛けないのか?」

「いいえ。今日は荘園の見回りと、離宮の庭園に行く用があるの。着替えはメイドの手が空いたころに」

「そうか。私は今日、ロートレア夫人の茶会に呼ばれているが、お前が馬車を使うのなら馬で行くとしよう」

「ありがとう、お父様。助かります」

 エレイナがにこりと微笑むと、伯爵はひげ面の相好を崩した。

 彼は元々子煩悩な人物であったが、エレイナが幼い頃に妻を亡くしてからは、エレイナを猫かわいがりするようになった。

 伯爵には子供が四人いて、エレイナの他は全員男子だ。しかしそれも、幼い頃に病で命を落とすか、大きく育っても事故や戦死で亡くなり、誰ひとりとして残っていない。そのせいか、父娘ふたりきりになってからは、父の過保護ぶりが一段と増した気がする。

 娘としてはそれで結構。このまま父と一緒に領地を守り、宮廷貴族をうまくあしらって、使用人や農民とともに楽しく暮らしていければいいと思っていたのだが――。

 食卓の席に着くと、伯爵はナプキンの端をクラヴァットの中に押し込みながら、そわそわしはじめた。きっとまたあの話だろう。エレイナは咄嗟に身構える。

 こほん、と伯爵はひとつ咳払いをした。

「ところでエレイナ。例の縁談の件は考えてくれたか? 先方はお前をいたく気に入ってくださってな。返事はまだかと矢の催促なのだ」

 ほら、やっぱり。

 父はにこにこ顔で毛虫のような眉を上げる。

 エレイナはゆっくり瞬きをして、静かに首を振った。

「あのお話なら、とっくにお断りしたはずだわ。お父様にはもうだいぶ前に、生涯独身を貫いて伯爵位を継ぎますと言ってあるのに」

「そのことは覚えちゃいるが……まあ、もう一度考えてみたらどうだ。悪い相手じゃないのは、お前にもわかるだろう?」

 伯爵はそう言って、ぐびりと食前酒をあおる。

「確かに彼はいい人そうだけれど、なんというかちょっと……趣味は仕掛け罠づくりだなんて、私、退屈してしまいそう」

「そういう地味な男がいいんだよ」

「でも、私より十五も年上だわ」

「三十を過ぎても頭はふさふさだし、腹も出てないんだぞ? おまけに父親のダエン侯爵は、もう棺桶に片脚を突っ込んでる。こんなに好条件の縁談などあるものか」

 エレイナは反論しかけたが口をつぐんだ。父の言うことはもっともな気がしたし、条件の話を出されると、ぐうの音も出ない。

 縁談の相手というのは、馬車で半日ほど離れた場所に城を持つ、ダエン侯爵家の長男スタンフィルだ。


 ひと月ほど前、父親とともに城下町へ馬車で出掛けた際、街道で立ち往生している別の馬車に行きあった。どうやら轍にはまってしまったらしく、身なりのいい男性ふたりがキャビンを押している。しかしびくともしないので、父が馬車を降りて手伝ったのだ。

 ほどなくして事態は解消されたが、戻ってきた父が相手方の男性ふたりを連れている。どういうわけか、エレイナに挨拶がしたいらしい。

 エレイナは父の手を借りて馬車を降りた。先に挨拶をしてきたのが、父と同じくらいの年頃の年輩の男性だ。そしてもうひとりの、やたらとおどおどした小柄な男性が、縁談相手のスタンフィルだった。

 侯爵家の息子は緊張のためか、全身をぶるぶる震わせてエレイナにお辞儀をした。顔を上げたものの、視線を合わせることすらできず、暑くもないのにだらだらと汗をかいている。おまけにしどろもどろで、まともに会話ができる状態ではない。ついには介添人と思われる先ほどの男性が、代わりに彼の紹介を始めたのだった。

 そんなわけで、エレイナがスタンフィルと直接話したのは、ほんの二、三ことくらいだったろうか。彼の趣味や、家柄の良さ、どんな有力貴族と付き合いがあるかなどは、隣にいる介添人が説明をしてくれた。

 その日の夕食後、部屋で読書でもしようとエレイナは席を立った。ふと視線を上げると、伯爵が顎の下で手を組んで、何やら探るような目つきで見ている。

『お父様。何かご用でも?』

 尋ねると、伯爵はもったいぶるようにため息を吐いた。

『なあエレイナ。お前はもう十八になった。私は最後のチャンスだと思うのだよ』

『……え? 何が言いたいのかわからないわ』

 エレイナが眉を顰める。

『うむ。昼間行きあった侯爵家の子息だが……お前のことをいたく気に入ったそうでな。結婚しちゃくれまいかとの申し入れがあった』

『ええっ、なんですって!?』

 エレイナは驚いた。気に入るも何も、あいさつ程度の会話しか交わしていないではないか。しかも、侯爵家からは馬で半日かかるのに、『結婚の申し入れ』を持った使者は、一体いつ来たというのか。

 しかし、考えてみればおかしな点はいくつもある。

 たかが買い物に行くだけの話なのに、父が何日も前からたびたび予定を確認してきたこと。

 着ていくドレスを指定したり、化粧をやり直しさせられたこと。

 広い街道にも拘わらず、スタンフィルの馬車が、わざわざ道の端っこで轍にはまっていたことなど――。

 エレイナが問いただすと、実際は示し合わせての出会いだったことを父が白状した。

 結婚のけの字もない娘に痺れを切らした父が、知り合いの知り合いの、そのまた知り合いから紹介されたのが彼らしい。

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