第3話 突然もたらされた縁談②
当然、エレイナは憤慨した。
『ひどいわ、お父様……! ひどい!』
『まあ落ち着け、娘よ。生涯独身なんて寂しいことを言うな。お父さん、泣いちゃうぞ?』
『だからって騙すなんて、紳士のすることじゃないわ』
『こうでもしないと、お前は彼に会ってもくれないだろう?』
『そっ、それは、そうかもしれないけど……!』
伯爵がまったく悪びれた様子もなく、丸い顔をにこにこと綻ばせているので、何も言えなくなった。
その晩エレイナはじっくりと考えた。
まんまと嵌められはしたが、実際スタンフィルは誠実そうな男ではある。彼と結婚すれば、刺激的な生活ではなくても、それなりに幸せな人生を送れるだろう。
それに、ダエン侯爵家は中央地域ではちょっと名の知れた名家だ。父親は王都の外れにいくつもの領地を持っていて、王家御用達の繊維工場も経営しているらしい。その父親が亡くなれば、まるまるそれがスタンフィルのものになる。
対するクロナージュ家はといえば、伯爵が王の宰相を務めていた頃から比べると、その威光は衰退の一途をたどっていた。所有している荘園はここ数年の異常気象でだいぶ貢納が減っているし、何より、現国王になってから税金がはね上がったのが痛い。荘園の管理を人に任せるのではなく、エレイナがするようになったのは、人件費をできるだけ安く済ませるためだ。メイドの数も減らした。
このままでは、いつか貴族の体面を保てなくなる日が来るかもしれない――そんな風に思っていた折に、こちらを大変気に入ってくれて、持参金もいらない、身ひとつで来てほしいと望んでいる侯爵家の長男が現れたのは、クロナージュ家にとって千載一遇のチャンスなのだ。
しかし。
次々と食事を口へ運ぶ父を前に、エレイナはカトラリーを持つ手を止めた。
問題はもっと別のところにある。すなわち、エレイナ自身の気持ちだ。
エレイナにとっては、誰と結婚するかということはさほど重要ではなかった。そもそも、自分が結婚するのだという事実が受け入れられない。結婚という言葉を聞いても心は冷えたままで、それを勧められているのは、どこか遠くにいる知らない女性ではないかとさえ思う。
まだ十八歳。もう十八歳。しかし、幼い頃から一緒に遊んでいた王家の次男、ルシオールのことを未だに忘れることができないのだ。
これまで生きてきた中で、心ときめいた男性は彼ひとりだけ。
丸くて白い、夜空を照らす満月のように透きとおる頬も、青い瞳を縁どるプラチナ色の睫毛も。思春期特有のハスキーな声も、子供らしからぬ艶美なたたずまいも――。
彼を構成するすべての要素が、六年経った今でもエレイナを惹きつけて止まなかった。
子供の気まぐれとはいえ、その彼にキスをされ、結婚の申し込みまでされたのだ。叶わぬ恋だとわかっていても、忘れることなどできるはずがない。
彼は今、どんな姿になっているだろう。十七歳になった今でも、あの妖艶な仕草や囁きは健在なのだろうか……。
「どうした? 全然食べてないじゃないか」
心配する父親の声で、エレイナははっと我に返った。伯爵の前に置かれた皿は、ほとんどが空になっている。
「ご、ごめんなさい。荘園の農民にスープを振る舞ってもらう約束をしていたのだったわ」
エレイナは嘘を言って、そそくさと立ち上がった。後ろを振り返り、控えていたメイドを手招きで呼び寄せる。
「残りはあなたたちで食べてちょうだい。ほとんど手は付けてないから」
「えっ……本当によろしいのですか? エレイナ様」
「ええ。食べかけで申し訳ないだけれど」
「いいえ、とんでもございません。ありがとうございます!」
若いメイドのルルエは嬉しかったのか、本当に心の底から喜んでいる。
その笑顔を見て、エレイナの胸はちくりと痛んだ。普段、水分の多いスープや芋のマッシュ、鶏のガラで炊いたリゾットといった、農民と変わらぬ貧しいものを食べている彼女からしたら、貴族の豪華な食事は宝物のように見えるだろう。
本当は彼女たちに、もっといいものを食べさせてあげたい。
亡くなった母は、使用人にひもじい思いをさせるなんて、あってはならないことなのだと教えてくれた。それが貴族に生まれた者の、最低限のプライドなのだと。
エレイナは静かにため息を吐く。
――私がスタンフィル様と結婚すれば、もうこんな顔をさせずに済む。貴族の娘に生まれた以上、富や名誉と引き換えに、ある程度の犠牲を強いられるのは当然のことだわ。
「お父様」
ナプキンを外して最後にワインを啜る伯爵に、エレイナは声をかけた。
「なんだ?」
「スタンフィル様との結婚のことだけれど、お受けすることにしました」
「ええっ!?」
がたーん! と椅子をひっくり返しながら、伯爵が慌てて立ち上がる。
「おおお……エレイナ、本当か!?」
「ええ。だけど、先日お会いしたときはあまりにも短い時間だったので、もう一度お話するチャンスがほしいの」
駆け寄ってきた伯爵は、首がもげそうな勢いでうんうんと頷いた。
「構わないぞ。では先方に連絡を取って、スタンフィルと会えるよう手筈を取ろう。……エレイナ。よくぞ決断してくれた」
めっきり白髪の増えた伯爵の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
愛情に満ちた抱擁を受けながら、エレイナは安堵した。きっと、これでよかったのだ。
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