九死に一生を得る
血走った眼を伊吹に向けていた女が、ゆっくりと顔だけ振り返ったのと同時に風がシュッと女の手首を切る。
「――ッ!」
痛みに苦悶の表情を浮かべた女は、伊吹の首を絞めていた手も緩む。緩んだと同時に金縛りにあっていた体が動いた。そのまま上体を起こし腕を思いっきり伸ばして女を突き飛ばした。風が吹いた戸口の方向へと視線を移していた女は、突き飛ばされたのに腹を立て、再びギロリと伊吹を睨みつけすぐさま向かって飛んで来た。
(と、飛ぶとか、なんなんだよっ! すごい脚力だな、おいっ)
襲いかかってくる女にガクガクと震えながら後ずさりする伊吹だったが、壁にぶつかり逃げ場を失ってしまう。一瞬にして目の前までやってきた女は、くつくつと笑いながら再び伊吹の首へと手が伸びてくる。
(や、やられる!!)
ギュッと目をつぶり唇を噛みしめるも、首を絞められる気配がない。おかしいなと思っていると、ドンッという衝撃音が聞こえおそるおそる目を見開いた。
そこには女の首を絞めて壁に押しつけている真っ白な長髪の男がいた。女の首に爪を立てギリギリと締め上げて持ち上げると女は、苦しげに呻き声を上げて足をバタバタと動かしていた。いくらを殺そうと殺意を向けて来た女だとしても、このままだと逆に相手が死んでしまう、と焦った伊吹は、床を這うように男に近づきズボンの裾を掴み引っ張った。
「こ、これ以上すると死んでしまうっ!」
男は視線を下げ首をかしげた。
「死んでしまうだと?」
「この人もなんか事情があると思うし、俺は生きてるので警察に任せたら……。すぐ警察を呼ぶから待って」
ポケットをまさぐりスマホを取り出すと、スマホが手から弾かれた。スマホが無くなった自分の手を目を大きく見開き凝視する。
「こやつが死ぬ? その目は節穴か?」
男の怒りを含んだ声に顔を上げる。バカにしたように口の端を上げ笑う仕草に頭に血が上り、立ち上がって男の腕を掴んで引き剥がそうとした。
「は? 初対面の人に言われたくない! つーか、早くその人を離せって!」
「……初対面か。やはり節穴だな」
伊吹の言葉に意を返さない様子の男は、首を絞める強さを緩めない。しかも、伊吹の自身の逞しい腕を片手で掴み壁へと投げつけた。細くひょろひょろとした腕からどうしてこんなも力が出てくるのかと驚愕しながら男から目が離せない。
男は、真っ白な長い髪の毛を逆立てながらブツブツと何かを唱えていた。すると、頭から角と長い爪が見え、周りが金色に光っていく。いつの間にか男の右手には分厚い本が開かれ、女をその本の中へ埋めていく。
「ギェェェェェーー」
断末魔のような叫びが止むと、男は本をパタンと閉じた。周りを包んでいた金色の光りも長い爪も角も消えていく。そして、長い真っ白な髪の毛は金髪になり、前髪の長い丸みを帯びたショートヘアーになっていた。今見たことがなんなのか混乱したまま瞬きもせず男を見つめることしか出来ない伊吹のもとに男が近づいてくる。
「あ、あんた一体……」
伊吹の声をかき消すようにグゥゥゥゥゥ~~という、緊張感のない音が聞こえてきた。驚いて音の元凶を見つめると、バツの悪そうな顔でお腹を押さえている。再びグゥゥゥゥゥ~と音がし、男は前屈みになりながらお腹に力を入れているようだった。
「腹空いてるのか?」
「ごめん、僕……」
聞きたいことはたくさんあるが、腹を押さえながら男が何か喋ろうとするとその都度かき消すように鳴る腹の虫と、締まりの無い間抜けな結末にぽかんと口を開けた。
「いや、どうしてもお腹すくっていうか、しかたないっていうか」
おろおろする男。さっきまでのぞんざいな態度と口調だったやつとは同一人物と思えないくらいの変わりように驚いた。落ち着きが無く焦る様子に、先ほどまで腹立たしく思っていたことなんて些細なことな気がしてプッと吹き出して笑う。
首をかしげ不思議そうに伊吹を見る男に、「わりぃわりぃ」と砕けた口調で返す。
「腹へってんだよな? 俺、たいした物もってないんだよな。あんたもロードバイクでここまで来たのか?」
「ロード……バ、イク?」
「あ、わかんねぇか。自転車だよ、自転車」
「あぁー、あの二輪車!」
感心したように手を叩いた男は、首を振る。
「僕は、キャンピングカーってや……」
「はぁ?」
伊吹が買えなかったキャンピングカーをこの得体の知れない男が乗り回しているというのか。目を細め男を見ると、ビクッと肩を震わせ縮こまる。
「あ、すまん。つい、羨ましくてな」
ポリポリと頭を掻いた。
「じゃあ、そこに飯あるんだろ?」
うん、と頷いた男は、しおしおと再び縮こまっていく。
「キャンピングカーにあるんだけど、そこまで正直もたないっていうか」
「なんで……」
「妖力使っちゃって、正直立ってるのもしんどいというか……」
「妖力?」
「……うん」
「妖力って、どういうことだ? さっき見たやつってことか?」
伊吹は男の肩を掴み興奮した様子で前後に揺する。あわあわしている男の何度目かわからない腹の虫が豪快に部屋中に轟く。
グゥォォォォォォォォ~~。
「もう腹が限界みたいだな。しかたねぇ、話は後だ」
伊吹は、細くひょろひょろした男を持ち上げ抱える。
「ちょ、待って。これは、どういう」
顔を真っ赤にして動揺する男に、笑みを浮かべたまま言う。
「車まで連れてってやるよ」
「ありがと……、いや、違って。この体勢は」
「抱き抱えてるだけだろ。ほら、落ちるといけねぇから、首に手を回しておいてくれるか?」
伊吹に言われるがまま男は細い腕を首に回す。
「………お姫さま……だっ、こ……」
ブツブツと呟きながら顔を赤くしたり青くしたり忙しい男の様子に笑いを噛み殺しながら伊吹はキャンピングカーまで抱えてつれて行き、ドアを開けて一緒に乗ったのだった。
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