第一章 空き家の中の住人

小料理屋にて

 6月30日。

 その日は、滝のような豪雨で藤原伊吹ふじわらいぶきが勤める小料理屋も閑古鳥が鳴いていた。


「すげぇ、雨音……」


 引き戸を開けて通りの様子を見るも、道を行き交う人はほとんどいない。

「伊吹、雨が入るから閉めとけ」

「すんません」


 一瞬開けただけなのに、床が水浸しになってしまった。裏に行ってぞうきんを持ってきて拭かないと万が一客が来たら滑って怪我をするかもしれない。伊吹は急いで裏へ行き、ぞうきんとバケツを持って戻ってきた。

 屈んで濡れた箇所を拭く。あっという間に水を存分に含んで本来の役割を果たせなくなったぞうきんを絞り、また拭く。それを何度も繰り返している間もどんどん雨風が激しくなり、雨が引き戸に打ちつけて店内に響く。

 確かテレビの天気予報だと、梅雨前線を伴った低気圧が停滞中で、大気が不安定だから局地的な豪雨になる可能性があると言っていた。


 まさしく今だ。


 しかも、それに合わせ鉄道各社も計画運休を行うと昨日から大々的に報じられていた。今夜は外食や飲みに出ず、仕事が終わったら早々と家へ帰るのだろう。

 自分なら確実にそうしている。だから、わざわざ急いで床を拭く必要もなかったかもしれない。それに、もともとこの店自体も客足がパッタリなのだ。店主である大将が無口な頑固親父で、単価も高い店なんて、この不景気じゃ足が遠のいて当たり前。


大将、この天気じゃ客も来なそうっすね……」


 濡れた床を拭きながらカウンターの中にいる大将に声を掛ける。

「あぁ」


 大根の桂剥きをしていた大将が、包丁を置く。はぁ、と深いため息を一つ吐き、手ぬぐいで手を拭くと被っていた白い和帽子を取った。


「伊吹、濡れた床を拭いたら、のれんを外して中に入れろ。終わったら、ちょっとそこに座れ」


 顎でテーブルを指す。大将の言葉に驚いた伊吹は、手を止め立ち上がった。


「え? 店閉めるんすか?」

「この雨じゃ、来ねぇだろ」

「まぁ……」


 確かに。このまま店を開けていても光熱費もかかるし、閉めた方が賢明だろう。引き戸を開け、急いで雨で濡れたのれんを店の中に入れる。濡れそぼったのれんをバケツの上で絞り水を切る。

 一通り雨の処理が終わった伊吹は、裏へバケツとぞうきんを置いて戻ってくると、すでに大将は腕を組み椅子に座っていた。表情をうかがうといつも以上に眉間に深いしわが刻まれてるような気がする。怪訝な表情を浮かべ、大将の前の席に座る。

 テーブルの上には、客に振る舞うはずだった惣菜が並んでいた。


(なんだ? まかないにしては豪華だし、あそこにあるの日本酒だよな?)


「伊吹、飲めるだろ?」

「はい。一応」


 大将は一升瓶に手を掛け、伊吹の前にある升の中のグラスへ注いでいく。ギリギリまで注いだら、自分の升へも注いだ。


「いただきます」


 こぼれないように升とグラスを持ち一口飲んだ。


「んっ。スッキリしてうまいですね」

「これも食え」


 取り皿をもらい、だし巻きたまごに手を伸ばす。口に含むと優しい出汁の味がジュワッと口の中に広がった。やっぱり、大将の料理は繊細で丁寧な仕事をしている。


「うまっ」


 和牛のたたきもサシが入った綺麗なピンク色で、噛むと肉汁があふれる。しかも、上にかかっている西洋わさび醤油のジュレがピリッと舌が刺激され美味しい。少しずつ料理を味わいつつ、日本酒を飲んで喉を潤す。


「なぁ、伊吹」


 ちびちびと日本酒を飲んでいた大将は、俯いて唇を硬く結んだ。ただならぬ雰囲気を感じ、もう一個だし巻きを食べようと伸ばしていた箸を置き、大将の顔を見つめた。


(えっ?)


 瞬きを繰り返し、目に映っているものが消えないことを確かめる。


(大将の周り、黒いもやがかかってる・・・・・・なんでだ?)


 小さい頃からこの黒いもやが見えると決まって良くないことが起きる。偶然と思ってやりすごして来たが、百発百中なのだから、予知能力の類いだろう。その良くないことがなんなのかは起きるまでわからずじまいだし、役立たずの能力なんだけども。

 店長から告げられるであろう良くないことを聞くために、ゴクッと口の中に入っていたものを飲み込んで居住まいを正した。


「はい」

「お前、何年だ?」

「えっと、ここで働かせてもらって3年が過ぎました」

「そっか。まだ3年か」


 そう言うと大将は、グイッとグラスの中の日本酒を飲み干した。


「へ?」


 構えていた伊吹は、拍子抜けし、気の抜けた声を出す。


「なんだ、変な声だして」

「いや、なんでもないっす」


 おかしいなと思いながら、さっき取り損ねただし巻き卵に手を伸ばした。

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