第31話 戸惑い
俺の人生を狂わせた張本人を前にして、俺は軽くパニックになってしまった。
なぜ、あの人がここに……。
怒りのような感情が湧いてくる。と同時に、恐怖のような感情も湧いてきて、焦りの感情も湧いてくる。
つまるところ、俺の頭の中は様々な感情がごちゃ混ぜになってしまい、自分の気持ちを正確に言語化することができなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあって、それは、目の前の女と関わりたくないと思っていることだ。
――逃げようか。
そんな風に思った瞬間、彼女と目が合ってしまう。
彼女が軽く頭を下げた。久しぶりに会った知人へ行う挨拶のように。
俺は会釈を返す気になんてなれなかった。
だから他人のフリをして、彼女の前を通り過ぎ、急いで鍵を開けて中に入ろうとした。
しかし、俺が家の扉に鍵を差し込んだところで、彼女に手首を掴まれてしまう。
簡単に振りほどけそうなほどの力であったが、俺はその手を振り払うことができなかった。
「少しだけお話しできませんか?」
俺は言葉に詰まる。もはや、家族でもなんでもない俺たちの間に言葉なんていらない。
それでも、彼女の提案を拒否しようとすると、冷や汗のようなものが出てくる。
唇はかすかに震え、口から空気が漏れだした。
彼女の何を恐れているのか、俺自身、よくわからないが、彼女を拒絶できない俺がいた。
「……本当に、少しだけなら」
「はい。お願いします」
「……店に行こう」
俺は落胆した気持ちで彼女を引き連れ、近くにあるチェーンのカフェに入った。
そして、彼女が金を出そうとしたが、それを無視し、自分の金でコーヒーを買って、ソファーの席に座る。
彼女は対面の固い椅子に座った。
それは、俺のささやかな反抗心の露わに違いなかった。
俺たちは向かい合ったまま、とくに何を話すでもなく、沈黙を保ち続けた。
(早く喋れよ)
俺は彼女に対し、苛立ちを覚えるが、それを口に出すことができずにいた。
すると、彼女が口を開く。
「……あなたの住所は、弟から聞きました」
「そうなんだ」
勝手なことをした叔父に対し、怒りを覚えたが、叔父にはいろいろとお世話になっていたから、その気持ちはすぐに萎む。
むしろ、今頃になって会いに来た彼女に対する怒りが強くなってきた。
自分でもわかるくらいの苛立ちを滲ませて、彼女に言った。
「それで、俺に何の用?」
「……ごめんなさい」
彼女は深々と腰を曲げて頭を下げた。
その光景に俺は動揺することしかできなかった。
できるなら怒鳴りたい。
そして、彼女の胸倉を掴み、何に対する謝罪なのか、今更なぜそんな謝罪をするのか、問いただしたかった。
しかし、嫌になるほどビビりな俺には、そんなことができるはずもなく、全ての感情を押し殺して、黙って見ていることしかできなかった。
もしかしたら、人はそんな俺を大人だと言うかもしれない。
けど、俺からしたら、俺は感情表現が苦手なだけのただの子供でしかなかった。
だから、コーヒーを全て一気に飲み干すと、席を立った。
返却口にコーヒーのカップを返し、そのまま出口へ向かう。
俺は店を出る前に、一度だけ彼女を見た。
彼女は、俺が目の前からいなくなっても、それに気づいていないのか、はたまたそういう人形であったかのように、ずっと頭を下げていた。
☆☆☆
俺は、公園のベンチに座ったまま、動けずにいた。
あの人の謝罪していた姿を、今すぐにでも忘れたい。
しかし、他人の流し忘れた排泄物を見てしまったときのような強烈な不快感をもって、俺の脳みそにこびりついていた。
それに、形容しがたいわだかまりのようなものが胸中にあり、そのせいで落ち着かなかった。
(こんなとき、どうすればいいのかな)
ふと、俺がうつ病になったとき、お世話になった医師の言葉を思い出した。
『嫌なことや困ったことがあったら周りに相談しましょう』
その言葉を聞いた時、医師にネガティブな感情を抱いたことを覚えている。
俺にそんな相談ができる人物なんていない。
――が、ネムのことが頭を過った。
彼女になら相談できるかもしれないと思った。
(いやいや、そんなわけないじゃん)
ネムとは冒険者としての仲であり、身の上話をするような間柄ではない。
だから、そんな彼女に相談するのは何か違うと思った。
(それに、ネムの連絡先も知らな――いや、知っているな)
ネムから教えてもらった連絡先のことを思い出し、スマホを確認する。
そこにネムの連絡先がメモしてあった。
俺はSNSを開き、教えてもらったIDをもとに、ネムのアカウントを見つける。
あとは、ここにメッセージを送れば、ネムと繋がることができるのだが、何と送るべきか。
とりあえず、適当にメッセージを書いてみる。
『
お疲れ。
昨日はありがとう。
ネムと攻略できて良かった。
急なんだけど、今日、話すこととかできる?
』
書いた文章を眺め、俺は自嘲してしまう。四行目が唐突すぎる。こんな文章を送ったとしても、変な奴に思われるだけだろう。
送信前だったので、メッセージを消し、書き直すことにした。
会う会わないはひとまず置いといて、彼女へ感謝のメッセージは送ろうと思ったからだ。
しかしそのとき、「あの」と後ろから声を掛けられ、反射的にスマホを隠してしまう。
声を掛けてきたのは、帽子を被った好青年だった。
俺は慌てて答える。
「はい、何でしょう」
「この辺に、小銭入れを落としたかもしれないんですけど、見ませんでしたか?」
「いえ、見てないですね」
「そうですか。すみません」
「いえいえ」
青年が去った後、俺はスマホを確認し、血の気が引いた。
先ほどのメッセージをネムに送っていた。多分、消すときに間違って『送信』ボタンを押してしまったんだと思う。
(やべぇ、急いで消さないと)
俺はメッセージを削除しようとするも、そのタイミングで『既読』がついてしまう。
俺は頭の中が真っ白になった。
やはり、泣き面に蜂である。
今日の俺は、とことんついていない。
これで、ネムに出会厨だと思われて、次の攻略では距離を置かれてしまう。
俺が全てを諦めかけたとき、ネムから返信が来た。
そしてその返信は、俺の予想だにしないものだった。
『いいよ』
ネムからの返信にはそう書いてあった。
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