第30話 嫌いな人

 日光から帰った後、俺は疲れて再び眠ってしまった。


 次に目覚めたとき、夜になっていたから、健診は諦めて、その日は体力の回復に努めた。


 そして、翌日。


 病院に行き、いつも通り健診を受けた。


 そこで会いたくない相手と出会ってしまう。


 杭打だ。


 予想外――と言ったら、少し嘘になる。


 タイミング的に、会う可能性はあった。


 しかし、今日は平日だから会うことは無い――と高を括ってしまったせいで、最悪なことになってしまう。


(まぁ、無視をすればいいか)


 俺は気づかないフリをして、やりすごそうとしたのだが――杭打の方から話しかけてくる。


「おい、お前」


 ドキッとして胸が苦しくなる。本音を言えば、無視をしたい。


 が、今の俺にはそんなことができず、渋い顔で対応するしかなかった。


「……私ですか?」


「そうだ」


「何でしょう?」


「なぜ、勝手なことをした?」


「勝手なこと、ですか?」


「そうだ。あそこでは、俺の言うことが決まりだろう。なぜ、それを無視した?」


 決まり? そんなものはないはずだ。


 しかし俺は言い返せず、申し訳なさそうに眉根を寄せることしかできない。


 それが、俺にしみついてしまったさがである。


「……すみません」


「俺が聞きたいのは、謝罪の言葉じゃない。お前が無視した理由だ」


「……すみません」


「舐めてんのかぁ!」


 杭打の怒声が辺りに響き、周囲にいた人々が何事かと目を向けた。


 看護師が慌てた様子で駆け寄ってくる。


「あの、何かトラブルですか?」


「何でもありません。この男の舐めた態度に喝を入れているところです」


 喝を入れている? 


 違う。この男は、自分の思い通りにならなかった苛立ちを、俺にぶつけて発散しようとしているだけだ。


 そこに正論があるから、行為が正当化されているように見えるが、こいつがやっていることは、その辺の子供と同じ。


 立場的に弱い相手を、一方的にぶん殴って、気持ちよくなろうとしている。


「いいか、覚えておけ」と、杭打の語気が強くなる。


「これからは勝手なことをするな。お前ひとりが勝手に死ぬ分には、俺の知ったことではない。だが、お前の勝手な振舞いなせいで、多くの人間に迷惑が掛かることを忘れるな。いいか。これは俺たちのためであり、お前のためでもある」


 杭打は釘を刺すよに俺を睨むと、去って行った。


(お前のため、ねぇ)


 そう言えば、俺が納得するとでも思っているのだろうか。


 いかにも『一般論者』らしい結び。


 相手のためを思っての行為なら、どんなことをしても正当化されると思っている。


 本当にダサい連中。


 しかし、一番ダサいのは、そんな連中に対して無力な俺に違いない。


「あの、大丈夫ですか?」


 看護師が心配そうに声を掛けてくれる。


「ええ、まぁ、大丈夫です」


 俺は努めて明るく答えた。


 しかし、看護師が去ってから思う。


 心拍と血圧の検査は、後回しにしてもらった方が良かったかもしれない。


☆☆☆


 経験上、泣き面に蜂はよくあることだ。


 だから、健診を終えた後、俺は家で大人しくすることにした。


 本当は、バッティングセンターに行って杭打の顔面をぶん殴りたいところではあるが、我慢する。


 家にいれば、不幸になることは無い――そんな風に思っていたのに、家の前にいる人物を見て、息が詰まってしまった。


 家の前に立っていたのは、ゴボウのように細い女だった。


 その幸の薄い横顔に見覚えがある。


 彼女は――俺が絶縁したはずの母親だった。

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