空白の盤上

兎ワンコ

本文


 目の前には六十四マスの市松模様のボードがあり、端には英数字とアルファベットが振り分けられている。

 暖色の蛍光灯がチカチカと光り、木製のボードにはうっすらと埃がつもり、その下でコーティングされたワックスに反射された私の顔が微かに映る。


 視線を上げ、狭い六畳間の壁に目をやった。薄汚れた白い壁紙の中央にポツンと寂しく置かれた振り子時計に目をやった。時刻は十八時二十五分と八秒を過ぎたところ。部屋の片隅に置かれたラジオからは、四ヶ月前に東南アジアで起きた飛行機事故のニュースを流している。気を紛らわすには随分と暗い話題だ。


 あと五分と三十秒したら、この部屋を貸してくれているチェス好きの年老いた新井田さんが来るだろう。ドアをゆっくりとした手付きで三回ノックし、斜めに曲がった腰で入室して「そろそろお時間ですので」と言い放つだろう。


 私には先が見える。いや、正確に言えば“その人が次にどう動くのか読める”のだ。

 通りを歩く人間が何歩目で体躯をどちらに向けて歩くのか、とか、黒板で計算式を書いている教師があと何文字目でチョークを折ってしまうのかとか、そんな些細なこと。大したことじゃない。

 でも、このボード上での話になると別だ。盤上に聳える全十六個、六種類の役割を持った白黒の駒たち。この駒を動かし、相手プレイヤーの駒を取っていかなければ勝利にならない。チェスというゲームのルールは簡単だが、勝利への道は苦難の連続だと、父はいう。


 チェスを始めたのは私が八歳の時。初めての相手は父だった。

 穏やかな父の手ほどきは決して優しいものではなかったが、チェスに必要な知識をどんどんと吸収していった。


 おかげで先述の能力と相まって、駒がどう動くのかを見ればわかるようになった。私がポーンを動かせば、父のどのポーンがこういう風に動き、あとに控えるビショップやナイトが盤上を飛び越えていくのかわかるのだ。だから、私も進んでくる駒に対してどのような対応すればいいのかわかり、父が進めてくる駒を狩り取っていった。

 初めて父に勝った日から、私は負けることはなかった。遂に父が根負けして、「もう美月とチェスをやっても勝てる気がしない」とぼやいた。


 父は知り合いのチェス好きを呼び、私と勝負させていった。だが、そこでも相手の戦術を読み、呆気なく打ち破っていくのだ。父の知り合いは私の実力に驚き、「これはまいった」と白旗を上げていった。


 やがて噂が広がり、学校で一番ボードゲームが上手い同級生や上下級生などから勝負を挑まれた。だが、そんな彼らも簡単に打ち破り、彼らは悔しさや諦めの表情を見せた。その度、胸が空く様な気分になる。

 いつだって、計算された上での勝負に勝つことは心地の良い気分だ。蜘蛛の巣に掛かった獲物を捕食するクモのように、いとも容易く彼らを捕まえ、私の手中で躍らせる。嗜虐心と征服欲の絶頂の虜になった。


 そして十五歳になった去年、ひとりの青年が私の元に尋ねてきた。

 その頃の私はNCS会員になっており、週末に尋ねてくる物好きな人たちを相手に、この新井田さんが管理するチェス屋敷で試合を受けたりしていた。


 青年は私より少し年上くらいの風貌で、名を長谷川はせがわ浩平こうへいといった。穏やかな表情でほっそりとした顔つきは文字通りの好青年という印象だった。然、私を指名して「勝負したい」といった。

 

 私は快く受け、彼と勝負した。彼は父に似た穏やかな面持ちで「お願いします」と頭を垂れる。

 どんな相手だろうと容赦しないし、手は抜かない。チェスというのはゲームという名のついたスポーツだ。全身全霊で挑むのが礼儀である。


 先行は私となり、私は相手の出方を見るために当たり障りのない動きを始めた。

 大事なことは相手の動きを見抜くことであり、決して勘や希望的観測で駒を進めることはしない。俗にいうギャンブルは絶対にしないのだ。


 彼は進めたポーンを見て、考える素振りを見せたあと、浩平さんは私と同じようにポーンを進めた。オウム返しのような戦法だった。

 次の手でまた無難な進め方をすると、彼はまた似たような戦法をしてきた。まるで素人だ。そのうち彼の手が読めてきた。

 今度はルークをB―4と読めば、予想通りそこに置いた。やはり、この試合は私に流れがある。私は彼の予想に備えて駒を進めていく。


 試合が始まって二十分。ここで異変に気付いた。私の布陣が妙に追い詰められていることに。

 どうしたものか? たしかに優勢のはずだ。だが、彼の駒のあいだに挟まれた私の駒たちはどれも窮屈で、限られた動きしかできない。

 今までこのような試合はあった。もちろん、盤面を読み、すぐに突破するのが私の常であるが。

 今日の試合はどうにも気味の悪さを覚えた。じわりじわりと退路を防ぐその戦略に、真綿で首を絞められているような息苦しさ。駒を退くべきか、進むべきか。

 迷いを振り払って駒を進める。彼も合わせてくる。だが、彼が進める駒に合わせていく度、私がどんどん深みに嵌まっていく。まるで、アリジゴクに突き進んでいるような気分。

 次の手を考えようと思考を巡らせていた。そんな時だった。


「美月さんは、かなり先まで相手の動きが読めるとお伺いしました」


 突如、屈託のない笑みを浮かべる浩平さん。挑発か愉悦か。前者として受け取る。ウワサの人物なら、この先も読んでみろ、と言いたいのか。表情を作らず、小さくお辞儀するが、腸が煮えくり返りそうなほど苛立ちを覚えた。

 負けるものか。私は絶対に、あんたには負けない。憎しみに近い闘争心が芽生える。

 そうして駒を進めていった。活路が見えたような気がした。

 間違いない。私が負けることはない。そう思った時だった。


 彼の手が伸び、私の陣営を守るビジョップが取られた。それは、予想しない行動だった。。冷静にみればわかるはずなのに。

 茫然とし、私は盤上に目を落とす。信じられなかった。凡ミスだ。こんなこと、今までなかった。どこで失敗した? 相手の挑発に乗ったことか? それとも、最初からなにか仕組まれていたのか? いやそうならば……。

 敵の駒が進む。悠々と、私の領域にナイトが侵入してきた。

 思考がグルグルと回り出し、壊れた機械のように信憑性に欠ける仮説を演算していた時だった。浩平さんの手が止まった。


「もう遅くなりましたので、今日のところはこの辺で……」


 ハッと顔を上げ、置時計に目をやった。時刻は六時半。いつの間にかこんな時間が経っていたのか? 全然気づきもしなかった。

 彼の一言でやっと息苦しさから解放された。いや、その思考こそが私が追い詰められていた証拠なのだと、改めて自負した。


「今日はありがとうございました。試合の途中で申し訳ないですが、二十時までに家に戻らないと家族が心配するので……」と立ち上がる浩平さん。

「……あの!」


 声を荒げ、退室しようとする彼の背を止めた。


「もしよろしければ、来週もこの続きをしませんか? 基面はこのままで、この試合の続きをしたいのです!」


 上擦り気味の声に振り向き、彼は「えぇ、それではまた」と来た時と同様な爽やかな笑みを浮かべたあと、小さく会釈して去っていった。


 この日、試合の勝敗は決まらなかったが、私の敗北が決定された日だった。完全にしてやられたのだ。それと同時に、彼という存在がとても気がかりになった。

 なぜ、彼はあのタイミングで声をかけたのだろうか? あの不敵な笑みも、どういう意味だったのかも知りたい。もしかしたら、彼も私と同じような先読みが出来る人間のひとりなのか。もしそうならば、彼の方が実力は上だ。

 なんにせよ、彼との次の試合が楽しみだ。いままで対戦相手の人生に興味を持ったことなかった。そんな私が、ここまで興味を引かれるのだから。


 ◆


 彼との出会いを思い出すのを止めて、私は性懲りもなく予想をする。彼が屈託のない爽やかな笑みを浮かべて入室し、真っ黒な椅子に腰かける姿を。そして、うやうやしく頭を下げたあと、盤上の駒をどのように動かすのかを。

 時計の針が動き、私が予想したとおりの時刻にドアをノックする音が響き、ゆっくりとドアが開かれる。


「そろそろお時間ですので……」

「えぇ、分かりました。今日もありがとうございます、新井田さん」


 腰の低さを表すように、その低姿勢を保った新井田さんが入ってくる。ほうれい線が深く、白髪交じりのその髪はその性格を表すように整えられている。


「毎日毎日……ありがとうございます」


 彼は途中で言葉を変えた。その先がなんであったのかは、なんとなくであるが分かる。だが、それに関して追及する権利や興味など、私にはない。


「いえいえ。新井田さんありがとうございます。いつも、この部屋を綺麗なまま保っていただいて」


 私の言葉が気になったのか、新井田は部屋じゅうをぐるりと見回した後、うやうやしく頭を下げる。

 この六畳間は建物が建築されてから一度もリフォームされたことがないのだろう。歩けば床鳴りのギイギイと軋む音がするし、真っ白だったであろう壁紙だって日焼けして古ぼけて見える。だが、埃や小さな紙屑といったゴミは一切ない。この穏やかな老人が几帳面に毎日掃除しているからだ。

 椅子から尻を浮かせ、部屋から出ていく。今日も彼は来なかった。

 予想はしていたが、こればかりは外れてほしかった。


 私にだって予想できないものがある。

 彼のことをここまで引きずるのだって。

 だからこそ、想像できない微かな希望に、賭けてみたいのだ。

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