Bonus Chapter : Tiger in the sky
宇宙の虎(前編)
それは虎だった。
高度100キロメートルの上空。窓の外を見れば、青い惑星の海が広がっているのが見える高さ。弾道飛行による
「レイノルド・リベイン・チャン」
機内は既に無重力状態になっており、個室に現れた虎は宙に浮いていた。相対する男、レイノルドはと言うと、しっかりとした座り心地の
レイノルドの所有する
今時、それなりに値は張るが、中間所得層の庶民であっても大型旅客機として利用する時代だ。
レイノルドの所有するこれは個人機であり、操縦室を除いても十人以上が搭乗することのできる機体だが、現在は操縦士と部屋の外に居る筈のボディガード数名を除き、レイノルド以外の乗員はいない。
「助けを求めても無駄だ。機内には既にお前独りしかいない」
だが、虎は無慈悲にもレイノルドに現実を突きつけた。
「乗員は操縦士を含め、全て、皆殺した。レイノルド・リベイン・チャン。機内に残っている人間はお前しか居ない」
「お前は……」
虎はグルル、と唸り声をあげた。
「俺の本体は確かに人間だが、お前の目の前に居るのはただの虎だ。
虎は無重力状態の中を静かに泳ぎながら、レイノルドに近付いた。虎の温かい吐息が鼻先に掛かる程の近距離。
「このままお前の喉笛を噛み千切ることだって造作ないが、聴きたい。ロシア東南沿岸のラゾフスキーに造られた軍事基地をお前は覚えているか」
レイノルドは深く頷いた。当然だ。ラゾフスキーの軍事基地は、武装蜂起した
「私の迅速な判断により、
あの時の
だが、あの時恨みを抱いていた者であれば、どんなことがあってもレイノルドを殺しに来ることに、疑問を挟む余地はない。
それこそ、宇宙空間に虎を放ってまでも。
「お前はあの時の日本人の残党だな?」
虎はレイノルドの言葉を聞いた瞬間、大きく咆哮した。虎の叫びは宇宙全体に響き渡るかのように大きく、そして力強かった。そして呆れたように鼻息を鳴らす。
「見当違いも甚だしい。お前は何も覚えていないのか。あの時のことを」
「お前は何を……」
何を言っているのかレイノルドには分からなかった。あの戦争に勝てなければ、おそらく世界は焦土となっていた。
当然、頭の緩い平和主義者から鷹派のレッテルを貼られ戦争狂いだの好戦的過ぎるだの言われたことがないではないが、それでもこんな孤独な宇宙空間の中、今にも喉元に噛みつきそうな虎に睨みつけらるようなことをした覚えはない。
「最後のチャンスだ。レイノルド」
虎は低く唸り、レイノルドの目を見据えた。
「あの戦いで、お前が犠牲にしたものはなんだ。日本人の命。兵士の命、それ以外にも山程ある筈だ」
戦争なのだ。当然人は死ぬ。そんな当たり前のこと、レイノルドだってわかっている。救国の英雄と持ち囃されて社会的地位を加速度的に手に入れても尚、レイノルドは戦死者の弔慰だって、毎年欠かしたことはない。
「そうか。ならばもう、お前に問うことはない」
「待て」
虎は最期の一声を発しようとするレイノルドに構うことなく、彼の喉元に噛み付いた。部屋の外にいるボディガードや、
レイノルドはガタガタと身体を震わせた後に、首をガクンと落とし、動かなくなった。
虎は無人となった機体の中を泳ぎ、窓が見えるところまで行く。
窓の外には、地球が見えた。もうすぐ、操縦士の居なくなったこの機体は、人工知能の自動操縦によって地上へ帰るだろう。その前に、この雄大な景色を虎は一望した。
地球の表面は雲が掛かってはいるが、それでも雄大なロシアの大地を見下ろせる。
あそこでレイノルドとレイノルドの指揮する軍達、そして日本人テロリストが戦った。
レイノルドはあの戦いがなければ、世界は焦土に変わっていたと嘯いたが、そんな政治と世界情勢の機微を、虎は詳しく知ることはない。
だが、今日の為にレイノルドが唯一独りになるこの宇宙空間で、レイノルドの所業を思い出させる為に綿密な計画を立てて、虎は今ここに居る。
それもレイノルドにはどうでもいいことであったが。
「最期に、普通の虎なら決して味わえないこの景色を味わえよ。俺の最後の罪滅ぼしだ。……いや、こんなことエゴであることは俺だってわかってる。でも……すまなかった」
パチリ。
小さな音が鳴る。音と共に、虎は身体をぶるぶると震わせた。もう、虎の意志は操られていない。自由である。
虎は先程とは打って変わり、おぼつかない足取りで機内を泳いだ。しかし、窓の近くを決して離れることはなく、ただひたすらに、青い地球の大地を、見下ろし続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます