ポラロイド

ポラロイド


通い慣れた部屋の中、窓際のベッドの足にもたれて床に座り込み、うなだれる瑛斗の横顔とその横顔の奥、大きな掃き出し窓の白いレースカーテンが揺れるのを比奈はただ立ち尽くし、見ていた。窓から入る風にあおられて膨らみながら柔らかくウェーブして舞い上がり、その隙間から白い光が視界に照射される。その強い逆光で瑛斗の顔が良く見えない。あまりに眩しくて目を細めた。

『…別れてほしい…』

長い沈黙の後呟いた瑛斗は、うなだれたまま比奈を見ようともしない。それが言葉より何よりショックだった。胸から喉にかけてギュッと締め付けられるように苦しい。通い慣れたはずの瑛斗の部屋が急に知らない場所のように感じた。強い風が吹いてレースカーテンが波打つ。繰り返し放つ強く白い光。

『…ごめん…』

瑛斗が呟く。白い光の連続に思わず目を瞑った。残像がチカチカする中、瞼の裏に瑛斗と過ごした日々が浮かぶ。


出逢ったのは、瑛斗が高校3年生、比奈が2年生の春だった。同じ高校の近所の1つ年上の恵に瑛斗を紹介されて出逢った。恵はニヤニヤして瑛斗を肘でつつきながら、

『比奈ちゃんを紹介して紹介してってうるさくって、こいつ高村瑛斗。同じクラスでいいヤツなんだよ。仲良くしてやってね』

『こんにちは』

そう言って恥ずかしそうにはにかむ瑛斗は、背が高い人だなぁという印象しかなかった。肩越しに見えた校庭の桜が満開だったのを憶えている。


出逢った頃と同じ時期に比奈は大事な家族を亡くした。

ムーというゴールデンレトリバーのオスで、11年前赤ちゃんのムーを飼い始め、飼うというより一人っ子の比奈と姉弟のように一緒に成長してきた。散歩に行くときもリビングでくつろぐときも寝るときも歯磨きするときでさえムーはぴったり比奈にひっついて離れなかった。モフモフの体に顔をうずめ、犬吸いすると温かく香ばしく、でもやっぱり犬特有のあの臭さが鼻を刺激する。それすら幸せでしつこく犬吸いを堪能しまくっていると決まって急に起き上がって走り出したかと思うと(遊んで!)と言わんばかりにお気に入りおもちゃをくわえて嬉しそうに持ってくるのだった。体を撫でてやると気持ち良さそうに目を細めて比奈に寄り添う。そのムーが老衰で亡くなったのだ。

あんなに食欲旺盛だったムーがある日ドッグフードを残し始め、窓際で寝ていることが多くなった。お気に入りのおもちゃを持ってくることはなくなり、散歩にも行きたがらなくなったのだ。動物病院の先生に老衰による症状だから仕方ないですね、とぴしゃりと言われた。痙攣止めの薬だけ処方され家に帰ると、ムーはリビングの窓際に寝転んで体を弾ませて息苦しそうに呼吸をしている。もう見守るしかできない、何もしてやれることはない。その日まで比奈はムーのケージの側に布団を持ってきて一緒に眠った。

大型犬にしては長く生き、大往生だった。それでも比奈はどうしてもムーの死を受け入れられなかった。亡くなる一ヶ月前くらいから日々痩せていくムーは段々別の生き物に変わっていくようで、最期の痩せ細った亡骸はあの頃のムーとはまるで別の犬だった。父も母も泣いていたが比奈は泣かなかった。死んだのはムーじゃない。

庭の隅にムーのお墓が作られた。リビングの大きなムーのケージは片付けられ、がらんとしてその空白は比奈には耐えがたいものだった。ムーの不在を突きつけられているようで辛くていたたまれなくて、家にいるときは2階の自分の部屋に閉じ籠った。

もやがかかったみたいに現実感がない日々が始まった。何の感情もわかなくてただ息苦しい。寝て起きて学校へ行き、授業を受けて休み時間友達としゃべって、家に帰る。普段と変わらない日常を何とかこなした。ただ寝ているときも起きていても何かしているときも何もしていないときも、四六時中ムーのことばかり考えて繰り返し繰り返し願った。ムー早く帰ってきてと。


突然昼休みに瑛斗が教室にやってきて、手招きして比奈を呼んだ。

『ちょっときて』

瑛斗は真剣な表情で早歩きで歩いていく。比奈は不思議に思いながらその後ろに続いた。人気の少ない渡り廊下に着くと、

『何かあった?元気なくない?』

と聞いてきた。

『…別に普通だけど?』

『…そうか…?ほんとに?』

『……何でそう思ったの?』

そう聞くと、瑛斗は少し間を置いて

『ちゃんと比奈のこと見てれば分かるよ』

瑛斗は真剣に真っ直ぐに比奈の目を見て答えた。

その言葉に真っ直ぐな眼差しに、心が揺さぶられた。思わず目頭が熱くなって涙がこぼれた。静かに比奈の側で息を引き取ったムー。

『ムーが死んだの…』

思わず口走っていたのと同時に、せききったように涙が一気に溢れた。嗚咽混じりに赤ちゃんの頃から一緒に過ごしてきたムーが段々衰弱していったこと、側で見守るしかできなかったこと、ムーの死をどうしても認めたくなかったことを一気に話した。瑛斗は優しく頷きながら何も言わずに聞いてくれた。不思議と息苦しさが消え、心が落ち着いて整理されていくのが分かった。

気付けばムーがどんな風に甘えたか、どんな遊びが好きだったか、変な寝方や寝言を言って爆笑したことなど泣き笑いしながら話していた。瑛斗は安心したように笑って比奈の頭をポンポンと優しく撫でてくれた。

頭から伝わる瑛斗の手の温もりが嬉しくて心地良くて何だか胸がドキドキした。

学校から帰るとすぐ庭の隅のムーのお墓に向かった。ムーと書かれたプラスチックの板の墓標の下にムーの大好きだったリンゴが2つ供えられている。そのリンゴの赤がぼやけて滲んだ。後から後からポロポロと涙がこぼれる。

『ムーごめんね、ムーありがとう。』

繰り返し呟きながらやっとムーのお墓に手を合わせることができた。

そんなことがあってから比奈は学校で瑛斗を目で追うようになった。背が高く細身でぱっちりした目が印象的で、少しくせのある真っ黒の髪。一見クールそうに見えて笑うと目が垂れて優しい雰囲気になる。先輩の中でも4、5人の目立つグループにいて、はしゃいでバカをやる仲間の側でそれを見て微笑んで見守っているような、少し大人びた雰囲気があった。

食堂で、廊下で、中庭で、休み時間のグランドでいつも瑛斗を探す自分に気付いた時にはもう瑛斗のことを好きになっていたんだと思う。

『比奈のこと前から見てて気になってたんだ。だからアイツに紹介してって頼んだ。付き合ってよ。』

照れ臭そうに瑛斗が言った。比奈は嬉しくて恥ずかしくて頷いてうつむいた。

『よっしゃぁ!』

初夏の突き抜けるような青の空に瑛斗の声がが溶けた。

2人とも8月が誕生日だったから、夏休み中におそろいの安いシルバーの指輪を買ってプレゼントし合い、お互いの左手の薬指にはめた。

夏祭りの夜、比奈は母に着付けてもらった浴衣を着て瑛斗との待ち合わせ場所に行った。

瑛斗はびっくりしたように丸い目をますます丸くし、まじまじと上から下まで比奈を見た。目が合うと途端に顔を真っ赤にして恥ずかしそうにプイと横を向くと、行こっと言って瑛斗は比奈の手を握って足早に歩きだした。慣れない草履におぼつかない足取りの比奈は

『ちょっと待って!』

と言って瑛斗の手を引っ張り、立ち止まった。

瑛斗は半歩先で立ち止まる。初めて繋いだ手は少し汗ばんでいて、ドキドキしながら見上げると、瑛斗は前を見たまま、

『浴衣似合うじゃん。めっちゃかわいい』

と呟いた。耳まで真っ赤になっているのが可愛くておかしくて比奈まで赤面したのだった。

夜店で食べ歩きをして回った。比奈はりんご飴ややきそば、瑛斗はさらにたこやきを5舟たいらげてまだ余裕と言ってからあげ串8本買おうとするので、爆笑してしまった。

公園のベンチに座って2人わたあめを食べながら花火を見てキスした。ただただ幸せで笑い合って浮かれていた。目に映る何もかもが楽しくて嬉しくてわたあめみたいにふわふわしていて、まるで夢みたいだった。全部夢だったのかもしれないと思う。

チカチカする残像の中で、キスして照れ笑う瑛斗の笑顔が浮かんで消えた。


『…ごめん…』

狭い部屋に瑛斗の声が低く響く。目を少し開ける。繰り返す強い光の逆光。黒い影のような瑛斗の横顔。目を瞑った。


イチョウの黄色が濃くなった頃、放課後のテニス部を切なそうに見つめる瑛斗を見つけることが多くなった。その視線の先にいたのはいつも同じ人だった。

焦りにも戸惑いにも似た不安が黒いインクを落としたようにじわじわと広がって比奈を包んだ。

『瑛斗!』

遠くから声をかけた。振り返る瑛斗の表情から何も読み取れない。比奈は何も聞けなかった。何か聞けばもうそれで終わってしまうような気がして怖かった。あの時聞くべきだったのかも知れない。そっと薬指の指輪を右手でなぞるように触れる。大丈夫…大丈夫。呟いてから瑛斗に駆け寄った。空に広がるうろこ雲が雨を予感していた。


『…何かいえよ…』

瑛斗が呟く。残像のチカチカは止まない。


その年初の木枯らしが吹いた日、バス停で瑛斗と2人並んでバスを待っていた。

車が通りすぎる度吹き抜ける風、その冷たさは肌を刺して熱を奪い去っていく。

夕暮れなのに夜みたいに暗くて流れるテールランプが物悲しくて、吐く息だけが白く、少しだけ優しく感じた。

『寒いよ』

呟くと息が白く細く風に流れて消える。

『…うん』

『ねぇ寒い』

『……うん』

『…寒いってば!』

語気を強めて瑛斗を見あげる。こんなことが言いたいんじゃない。

瑛斗は黙って比奈の片手を掴んで自分のポケットの中に突っ込んだ。

『さみ……』

見上げて瑛斗を見ると、遠くどこを見ているのか分からなかった。

なんで?

いくつもの問いを投げかけるように見つめたが、瑛斗は遠くを見つめたまま。

なんで…なんでよ…?

2人一緒にいるのに寂しくて淋しくて仕方がなかった。片手から伝わる瑛斗の温もりが余計に切なく悲しかった。


卒業式が終わり、瑛斗は自分の制服の名札を取って比奈に渡した。

『比奈が持ってて』

そう言って瑛斗は比奈を見つめた。比奈も瑛斗を見つめ返す。

目が合うとすぐ瑛斗は目を反らした。比奈はゆっくりとうつむき、視線を落として瑛斗の左手を見る。その時、付け合ったはずのおそろいの指輪は比奈だけの指にあるのだと知った。

校庭の桜はまだ蕾で、肌を刺すような寒さの残る日だった。


風が突然止んだ。部屋はしんとして何の動きも感じられない。

比奈は意を決して、祈りにも似た願うような気持ちで目をゆっくり開ける。

静かなレースカーテンから入る優しい光の中、そこにはうなだれたまま比奈を見ようともしないさっきと変わらない横顔があった。

あの頃の声が仕草が笑顔が全部が比奈を好きだと伝えていた瑛斗はもういなかった。もうどこにも見つけられなかった。

瞬きせず、その横顔を見つめながら比奈は静かにデニムのポケットに手をいれた。

その瞬間強い風が吹いてレースカーテンが大きく翻った瞬間、カメラのフラッシュのような一瞬の閃光の白が視界中心を縦に走った。比奈はそれが合図かのように光の白を目掛けてポケットの中の指輪を掴んで思いっきり投げた。逆光も瑛斗の横顔も2人の思い出も何もかも輪郭を失い白濁してぼやける。

目を瞑ると、激しいチカチカの残像の中に元気だった頃の走り回るムーと優しく比奈を真っ直ぐに見つめる笑顔の瑛斗が見えた。

ムーのところへ行ったんだね。

その瞬間、熱いものが両頬を伝った。両足に熱い雫がポタポタ落ちる。あとからあとから途切れることなく。

やっと今自分が泣いていることに比奈は気付いた。


サヨナラ


『…別れよう…元気で』

 胸が苦しく、喉の奥がひくついてうまく話せなかったが、何とかそれだけ言って部屋を出た。何か言う瑛斗の声が聞こえたが、一度も振り返らなかった。チカチカの残像はなかなか治まらず、涙があとからあとから溢れて仕方がなかった。

こんな日が来るって分かっていた、別れることが悲しいんじゃない。

もうどこにもあの頃の瑛斗がいないことが悲しかった。欠片でも見つけたかった、それでもどうしても見つけたかった。

最後の最後まで。


遠い昔、幼い恋の記憶。

思い出すのは、夢みたいに楽しかった日々じゃなくて。揺れるレースカーテンと強い光じゃなくて。影のような横顔じゃなくて。

思い出すのは、比奈を優しく真っ直ぐに見つめる大好きだった瑛斗の笑顔。思い出す度にくっきりと鮮やかに写真のように鮮明になる。思い出す度に心を温めるのだ。

それはとても晴れた日で。


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ポラロイド @hitomi_1984

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