天使の羽のペーパーナイフ

池永湖斗

天使の羽のペーパーナイフ


 アルルの街の古い骨董屋のカウンター前で、彼女は迷っていた。

天使の羽のデザインか、ライオンのデザインのペーパーナイフか。

天使の羽はレオナルド・ダ・ビンチの絵画に出てくる大天使の肉付きの良い羽のようで鈍い金色をしていた。ライオンのデザインもたてがみがスリムながら堂々としていて捨てがたく、立ち尽くしながらずっと迷っていた。 


 ふと、ライオンのデザインであれば(あの人)にぴったりだな、と彼女は思った。そうすると、天使の羽は自分用に。であれば、どちらをお土産に買って帰ろうか。

 彼女は えい、と天使の羽のペーパーナイフをカウンターに置いた。彼女はフランス語どころか英語もままならない学生だったが、周りの立派(に見えた)な骨董品ではなく、カウンター横の軽い扱いの体のペーパーナイフごときに長く迷っていた事に恥ずかしさを感じながらも、This one, please..などと呟きながら、全然大した買い物でもないのよ、これは。と異国の骨董屋で買い物をするという背伸びした大人の気分に浸っていたかった。


 もしかしたらずっとそこに居たかもしれない店主が、それを丁寧に包み始めた。店内は昼間の乾いた陽の光のせいで余計に暗く、店主が男性だったか女性だったかもはっきり記憶に残らないくらいだった。年老いていたことは、その動作でようやく伺えた。店主はなにか深い色の(あとで手渡されてから青だと気づいた)紙袋にそのペーパーナイフを丁寧に入れ、さらに細くて渋い金色リボンが細かなカールとともに丁寧にかけられていった。さっきは、この程度のペーパーナイフ、とバカにしていた自分こそが恥ずかしいと思い直すほど、店主の包装は時間をかけて慎重におこなわれた。

 その光景をじっと見ていた彼女は(これはあの人にあげよう。そうだ、そういうことだ)と直感的に決心した。


 その数日後、ぎゅうぎゅうになったボストンバックの一番上にリボンがつぶれないように差し込まれた紙包みは、日本へと帰国した。


 5年後、彼女は(あの人)と二人で逢うようになった。彼には妻がいた。

数ヶ月、数年、時には8年の月日を経ても彼らは ひさしぶり、と言いながら逢い続けた。


 そして、20年が経った。


 ある日、彼女はその紙包みを開けたくなった。

何度も引越しを繰り返したが、その包みだけは、いつかあの人に渡そうと無くさないように大事に持っていたのだが、なんとなく、もう開けてもいいような気がしたのだった。セロテープで止められたところを彼女は躊躇なく破った。あんなに大事に持ってきた紙包みはいとも簡単に、少し乱暴に開けられた。開けることに少し興奮した彼女は、出てきたペーパーナイフを上の空で確かめて、静かに破れた紙包みにしまった。


 冬の到来を告げる声がテレビから聞こえてくる頃、寒くなってきましたね、と彼女はあの人にメールを打った。数時間後に返ってきたありきたりの返事を見て、彼女は、もうおしまいにしよう、今度こそ。と強く思った。なぜか今度はできそうな気がした。

 その夜、もう一度ペーパーナイフを手に取ってみたくなった彼女は、紙包みから出てきたものを見て、驚いた。

 それは天使の羽ではなく、植物の葉模様が連なったデザインだった。

 え? え? 羽ではない?

もう一度、注意深く全体を見た彼女は、さらに驚いた。

ペーパーナイフだと思っていた刃先はただの薄い金属で、どちらかというと金属製のしおりだった。でも、もしかしたら、とそばにあった紙に当てて静かにひいてみたが、明らかにペーパーナイフのそれではない切れ方だった。


 彼女は、あきれたように静かに表情を緩め、長く息を止めていたことを思い出し深く息を吸い、吐いた。そして、しばらくその鈍い色をした金属片を眺めていた。


 机の上の携帯が(あの人)からの1年半ぶりの電話着信を知らせた。

ぬるくなりかけた紅茶のカップを握りしめ、彼女は、その画面をただずっと見つめていた。

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天使の羽のペーパーナイフ 池永湖斗 @momo_runa

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