第16話 夏祭り

 日曜日の午後六時、俺は陽子の家の前で彼女を待つ。空を見上げると紺色の空が街を覆っている。まるで花火用に作ったキャンバスみたいだ。

 五分ほど待つと陽子が家から出てきた。彼女は下駄を履き、紫陽花の描かれた薄紫色の浴衣を着ていた。

「……お待たせ」

 恥ずかしそうに陽子が言うので俺は首を横に振る。

「大して待ってないから安心しろ」

「そういう時は今来たとこって言いなさいよ」

「なんでだよ」

「そういうものでしょ、普通」

 普通が何かは知らないが働いていない男に普通を求められても困るなと俺は思った。

「浴衣、似合ってるな」

 あっさりと俺が言うと陽子の顔がリンゴ飴のように真っ赤になる。

「……あ、ありがとう」

「昔を思い出すな」

 学生時代、一緒に夏祭りに行っていた時も陽子は浴衣を着ていた。

 あの時は、照れ臭くて言えなかったことが今ではすんなりと出てきてくれた。

 そのことが嬉しいようで寂しい。

「それじゃあ、行くか」

「うん」

 千葉県四街道市の中央公園で開催される『ふるさとまつり』では太鼓演技やよさこいソーラン、敬葉高校ダンス部によるBON-DANCEなどのパフォーマンスや、障がい施設とコラボレーションしたチャリティTシャツの販売などがされる。勿論、屋台は並ぶし、花火も上がる。

 そんな地元で一番大きな祭りに俺と陽子は向かう。

 中央公園に続く並木道にはふるさとまつりと書かれた赤提灯が並んで飾られており、いつも見慣れた道が今日だけ違う世界になったような感覚がする。

 人混みで前に進むのもゆっくりだ。中央公園が見えるが信号に捕まる。中央公園の入り口では警官が懸命に交通整理をしている。それに従って浴衣を着た人々が中央公園に吸い込まれていく。

「混んでるな」

「混んでるね」

 日本人は祭りが好きなんだなとつくづく思う。

信号が緑になり横断歩道を渡る。後ろから人々が波のように押し寄せてくる。ここからは気を引き締めないとはぐれてしまう可能性が高い。

俺は深呼吸してから陽子の手を取る。柔らかい手の感触と彼女が漏らす戸惑いの声が確かに聞こえる。

「念の為だ。嫌だったら後で離しても良いから」

 だから、悪いけど今だけは我慢してくれと願う。

 チラと横を見ると陽子はゆっくり首を横に振っていた。

「……嫌じゃないよ」

「そうか、それなら良かった」

 俺は安堵して、陽子のことを気にしながら前に進む。

 街灯が少なく夜はいつも暗いはずの公園内は並んだ屋台の灯りによって生き生きとしている。

 大勢の客がいるからか公園内はとても蒸し暑い。それだけ熱気があるのだろう。また、屋台で火を扱っているのも理由としてはあるのだろう。

 食べ物系の屋台は焼きそばにたこ焼きにイカ焼き、リンゴ飴にチョコバナナにかき氷がある。中にはジュースを売っている屋台もある。それらを眺めて俺は聞く。

「何か食べたいものあるか?」

「奢ってくれるの?」

「今日くらいはな」

 俺から誘っておいて幼馴染とは言え、女性に財布を出させるのは流石の俺でも気が引ける。

「じゃあ、リンゴ飴」

「そうだと思った」

 俺は苦笑してそう言う。そんな俺をクスリと笑って陽子は言う。

「和也、今日はなんか男らしいね」

「そうか?」

 リンゴ飴を奢るだけで男らしくなれるなら安いものだと思ったがそうではないことはすぐにわかる。

 陽子はコクリと頷く。

「和也から手なんか握ってきたの、初めてでしょ?」

「ああ」

 そう言われるとそんな気もする。

 今までそんな機会はなかったし、そうする理由もなかった。

 それに、前までの俺にそんな勇気は全くなかった。

「手汗かいたらごめんな」

「そんなこと気にしないよ」

 陽子は苦笑してそう言った。


 屋台で飴のコーティングでキラキラと輝くリンゴ飴を買ってそれを左手に持つ陽子は少しだけ子供のように見える。

「似合わない、かな?」

「似合わないと言うより、懐かしい感じがするな」

 子供の時からリンゴ飴を必ず買っていたのを思い出す。

 陽子は苦笑して言う。

「お祭りに来たら絶対買ってたからね」

「そうそう、それも大きいリンゴを頼むから食べ切れない分を俺が食っていた」

「硬い硬いって言いながら、ね」

「それを見て陽子は楽しそうに笑ってた」

「だって面白かったんだもん」

「酷いなぁ」

 もう戻れない夏が俺たちにもあった。

 戻ろうとしても無理矢理、流れるプールに逆らえないように次の季節に流されてしまった。

 そして、俺は餓鬼のまま、この夏まで流されてきた。

 時の流れはあっという間で残酷で儚い。

 懸命に生きていても怠惰に生きていてもその事実は変わらない。

 だけど、人はその尊い時間を大切な人と長く過ごしたいから必死にもがくのだ。

 ふと考える。俺に本物の夏は来ているのだろうか、と。この夏を永遠にしたいと思える夏を今年は過ごせたのだろうか、過ごそうとしていたのだろうか、と。

 俺は自分の問いに首を横に振る。

 俺は今年も本物の夏を過ごせなかった。過ごそうと懸命に生きられなかった。

 夏の最後に幼馴染と祭りに来ただけ。それだけなのだ。

 流される前の夏となんの変わりもない。

 変われない餓鬼がそのまま大きくなっただけのこと。

 隣にいる陽子はちゃんと大人になって社会という荒波で泳いで夏の終わりを迎えているというのに。

「和也、大丈夫?」

 俺の顔を覗き込む陽子に俺は大丈夫だと伝える。

「それなら良かった」

 胸を撫で下ろす陽子に僕は苦笑する。

「心配かけてごめんな」

「いいよ」

 彼女には昔から心配をかけてばかりの気がする。

 人付き合いが苦手だった俺を嫌う人間は学校という場所では当然いて、その仲介役になってくれていたのは紛れもなく陽子だった。

 陽子がいてくれたから俺は友達はできなかったがいじめられはしなかった。

 大人になったら恩返しができるかと思ったがニートができる恩返しなど雀の涙ほどだ。

 いや、今の俺が陽子に返せるものなど何もないのかもしれない。

 俺は陽子の左手を少しだけ強く握る。

「どうしたの?」

「陽子に少し話が……」

 そう、俺が言いかけると目の前に見知った顔が二つ並んでいた。

「先生と小島じゃん」

 麻の葉文様が描かれた水色の浴衣に身を包んだ金髪ガール、田村美月が俺たちを見つけて声をかけてくる。すぐさまこちらに駆け寄ってきた。

 隣にいる中村さんは菊牡丹の描かれたベージュ色の浴衣を着ている。

「デート?」

 違う、と答えようとしたが田村さんの視線は俺たちが繋いでいる手に集中していたので俺は咳払いをする。

「これは、その、とにかく違うんだ」

「男らしくないなぁ」

 俺の慌てぶりを見て、田村さんにさっき陽子に言われたことと真逆のことを言われ、溜息を吐かれる。

「先生、和也さん、こんばんは」

「ああ、中村さん。こんばんは」

「……こんばんは」

 小さな声で言葉を返し、陽子は俺の後ろに隠れようとする。生徒に見られるのが恥ずかしいのだろう。その気持ちは十分わかったので俺は彼女に少し被るように立つ。

 そんな俺たちを見て、中村さんはクスッと笑う。

「中村さん、なんで笑うの?」

「いえ、とてもお似合いだと思ったのでつい」

 浴衣のことか、それともリンゴ飴のことだろうか。どちらにしても同意見だ。

「リンゴ飴良いなぁ。ねえ、小島。私にも買ってよ。口止め料!」

「なんの口止めだよ」

「ニートと教師が祭りに来ているのだよ」

「意味わからねえ」

 隣で俺たちの話を聞いていた陽子が仕方ないなと言った様子で溜息をつく。俺の手から手を離し、前板から白の長財布を取り出す。

「田村さんのは私が買ってあげるわ。口止め料としてね」

「……いや、そういう意味じゃなかったんだけど」

「じゃあ、どういう意味で言ったのかしら?」

 陽子は田村さんに鋭い眼差しを向ける。それにビビった田村さんは開き直る。

「じゃあ、先生が買うので良いよ!」

「私が買うのだと不満なの?」

「そうは言ってないじゃん!」

「あと、先生にタメ口はやめなさい!」

「祭りで説教しないでよ!」

 言い合いながらリンゴ飴の屋台まで彼女たちは歩いていく。

 華奢な二人の背中を見ながら、なぜリンゴ飴でこんなに揉めているんだと思うくらい彼女たちはバチバチしていた。

「大変そうですね」

 軽やかに隣にやってくる中村さんが言うので俺は頷く。

「リンゴ飴くらいで大袈裟なんだよ。中村さんもそう思うよな?」

 彼女たちと違って中村さんは精神的には大人だ。だから、俺が同意を求めると中村さんは頬を膨らませて言う。

「リンゴ飴のことじゃないですよ。……和也さんはもう少し、女心を学んだ方が良いですよ」

なぜか俺が怒られてしまった。

「自己啓発本は読んでいるのにな」

「本だけの知識じゃなくて、リアルを見てください」

 ぐうの音も出ない。

 目尻を下げて中村さんは二人を見て言う。

「あんなに可愛い二人がいるんだから。和也さんがちゃんと、見てあげてください」

 俺は首を傾げる。

「三人だろ」

「え?」

 驚く中村さんに俺は続ける。

「中村さんも同じくらい可愛いだろ。だから、そこには中村さんも入るはずだ」

俺が思っていることをそのまま言うと中村さんの頬が朱色に染まる。自分でも気づいたようでそれを手で慌てて隠そうとするが指と指の隙間から見えてしまっている。

「何か飲む?」

「良いんですか?」

熱くさせてしまったのは俺の責任なのでコクリと頷く。

「では、お言葉に甘えて。そこにラムネが売っているのでお願いします」

「了解、買ってくるよ」

 俺は人混みの中、人にぶつからないように上手く避けながら進む。

 ジュースの屋台に置いてあるケースに氷で冷やされたラムネがぷかぷかと浮かんでいる。

 タオルを巻いたオッサンにお金を渡し、俺は別のタオルで拭かれたラムネを貰う。

 中村さんのところまで戻ってきてからラムネのビー玉を沈める。

勢いよく泡が溢れて俺の白Tシャツにも少しかかった。

 大人しくなったラムネの瓶を中村さんに渡す。彼女はラムネを一口飲むとパッと明るい笑顔を俺に向ける。

「とても美味しいです!」

「それなら良かった」

「ラムネってこんなに美味しかったのですね」

「俺も最近、飲んでないから味忘れたな」

「……飲みますか?」

 そう言って、ラムネの瓶をこちらに向ける中村さん。

「え?」

 俺は彼女が言ったことに少し戸惑ってしまう。間接キスなんて彼女は気にしていないのかもしれないが俺は気になってしまった。

「……その、和也さんが買ってくれたものなので」

 優しい中村さんのことだから気を遣ってくれたようだ。

 俺は首を横に振って言う。

「ああ、気にしなくて良いよ。中村さんのために買ったんだから」

「そう、ですか」

 なぜか少し残念そうに中村さんは呟いた。

 ラムネに口をつける彼女を見て俺は目尻を下げて口を開く。

「中村さんはラムネが似合うな」

「そうですか?」

「ああ、ラムネの宣伝とか来ちゃうかもな」

「なんですか、ラムネの宣伝って」

 苦笑して中村さんが言うので俺も苦笑する。

「そうだな、何言ってんだか俺は。時々、訳の分からないことを言うこの口が嫌になる」

「あ、決して嫌だった訳じゃないですよ」

 自嘲気味に言うと中村さんは慌ててフォローをしてくれる。

「うん、大丈夫。ちゃんとわかっているから」

 中村さんには冗談が通じない。それが玉に瑕だが、彼女らしさを形作っている気がする。

「あー! 萌香が小島にラムネ買って貰ってる! 私にも買え!」

 リンゴ飴片手に騒ぐ田村さんの後ろについてくる陽子の呆れた表情が見える。

 俺は溜息を吐く。

「礼儀を知らない子には買わないよ」

「小島のくせに生意気」

「生意気なのは君の方だ。もう少し、年上を敬うことを学ぼうな」

 田村さんは俺のことを悔しそうに睨むがその目に迫力はない。

 その様子を見るに一応は自分の行いが良くないことだと自認しているらしい。

 妹と祭りに来たらこんな感じなのかなと想像しながら俺は苦笑して言う。

「仕方ないから買ってあげるよ」

「ほんと!」

「ああ、その前に陽子にはちゃんとお礼を言ったのか?」

「……言ってない」

「正直でよろしい。まずはそれからだ」

 俺がそう言うとすぐに田村さんは陽子にお礼を伝えに行く。ラムネのためとは言え、大切なことだ。そういう積み重ねを面倒なくらい社会は要求してくるからな。

 そして、金髪を揺らし田村さんはカタカタと下駄を鳴らしながら戻ってくる。

「先生にお礼言ったからラムネ買って」

「はいはい」

 俺は再び、ラムネを買いに行く。

 ラムネを一本手にして戻りそれをそのまま田村さんに渡す。

「開けてくれないの?」

「田村さんなら自分で開けたいかと思って」

 俺がそう言うと田村さんは眉間に皺を寄せる。

「どういう意味よ」

「そういう意味だよ」

「私だってか弱い女の子よ!」

 か弱い女の子はそんなに強気じゃないと思うが。

 俺は手を差し出し、ラムネの瓶を受け取る。

 再び、ラムネのビー玉を沈める。泡はさっきよりは溢れてこない。

 それを彼女に渡すと田村さんはビールを喉に流し込むようにゴクゴクと飲む。そしてラムネを半分ほど減らしプハーと息を吐く。

「そんな飲み方する奴がか弱いわけあるか」

 堪らず俺はツッコんでしまう。

「ラムネはいつもこうやって飲むんだから仕方ないでしょ」

 恥ずかしそうに田村さんが言って、まあ、飲み方は人次第かと思う。

「美味しいか?」

「普通に美味しい」

「素直じゃないな」

「それはアンタもでしょ」

「田村さん、和也をアンタ呼ばわりするのは良くないわよ。一応、年上なんだから」

「おい、陽子。一応ってなんだ。俺はちゃんと年上だ」

「和也も、ちゃんと年上と言いたいなら年上らしい振る舞いに気をつけなさい」

 ピシャリと言われ、俺はジロリと田村さんを見る。

「君のせいで陽子に怒られたじゃないか」

「私のせい? 小島がちゃんとしてないからでしょ」

 それはその通りなのでこれ以上田村さんに文句は言えない。

「皆さん、仲良くしましょうね。もうすぐ花火ですし」

 この中で一番、大人な中村さんが宥めるように言う。

 只今午後七時三十分、もうすぐ花火が打ち上がる時間だ。

 周りの客もこだわりの場所で花火を見るために移動を開始している。

「俺たちも移動するか」

「そうですね」

「花火楽しみだなぁ」

「ただの炎色反応だけどな」

「つまらない男」

「和也は昔からこういうこと言うのよ。だから、気にしないであげて」

 そんな会話をしながら公園内をダラダラと移動する。

 陽子だけ立ち止まってこちらを見ているのに気づく。不自然に左手をブラブラとさせていた。

「どうした?」

「え、いや、なんでもない」

 そして、陽子は左手を引っ込めた。

「そっか、それなら良いけど」

「……ばか」

 花火を見る位置を決めて俺たちは夜空を見上げる。

 俺の隣には陽子がいて、前には田村さんと中村さんが並んで立っている。

「和也と花火見るの、久しぶり」

「ああ、そう言えばそうだな」

 高校生までは一緒に見に行っていたが俺が東京に行ってからこうやって並んで花火を見るのは初かもしれない。

 ヒューっと小さな種が打ち上がり、太鼓のようにドン!と音を鳴らし夏の夜空に花が咲く。

 赤、緑、ピンク、オレンジ。大小、次々に花が咲いては灰色の煙だけを残して消えていく。

 そして、新しい種から違う花が咲く。その繰り返し。

 そんな儚さが花火の魅力なのだろう。日本人の心を長年揺り動かしてきたのも納得だ。

「綺麗だね」

 花火の音にかき消されない程度の声量で陽子が呟く。同感なので俺も頷く。

「綺麗だな」

 俺は花火に照らされた彼女の横顔を見て言う。

 花火は勿論、綺麗だ。だけど、大人になった幼馴染の美しさはそれに負けていないと思った。

 だから自然と俺は彼女を見つめていた。

「お二人さん、私たちの後ろでイチャイチャしないでくれる?」

 田村さんが振り返って文句を言ってくるので俺は苦笑して言う。

「イチャイチャなんかしてないよ。純粋に花火を楽しんでいるだけだ」

「そ、そうよ、田村さん」

「先生は動揺しちゃってるけど?」

 ニヤニヤと笑う田村さんに俺は溜息を吐く。

 そして、彼女の両肩を軽く掴みくるっと花火の方向を向かせる。

「花火に集中しろ」

 俺がそう言うと田村さんの耳が赤くなる。

 それを見て無意識にやったことが女子に対しては失礼なことに気づく。

「あ、悪い」

 慌てて俺は謝った。

「……別に良いわよ」

 顔を背ける彼女に俺は悪いことをしたなと反省する。

「美月も和也さんとイチャイチャしちゃ駄目だよ」

 諭すように田村さんの隣で花火を見上げていた中村さんが言う。

「……してないわよ」

 田村さんの言葉は花火が散っていくように力がなかった。

 最後の花火が打ち上がる。

 琥珀色に輝く種がまだ咲きたくない、姿を見せたくないと勿体ぶるようにどこまでも天高く打ち上がる。そして、限界を迎えたようにドン!と夜空のキャンバスいっぱいに大輪の花を咲かせた。

 きっと、花火だって終わりたくないのだ。セミの一生より短い、数分で終わる晴れ舞台。

本当は一発で終わる命なんかで満足なんてできないのだ。もっと美しく鳴きたいはずだ。

 それでも夏の役目を終えて、この夏は過去になって次の季節へと移ろう。

 その儚さを俺たちは美しいと思う。

 風物詩なんかと言いそんな花火の扱い方さえ、人間は残酷だと思う。

 やはり人間は身勝手で我儘で自己中心的な生き物だ。

 そんな生き物が作った社会が生きづらいのは当たり前だ。

 それでも、美しく生きている人間がいるのは確かだ。隣にいる幼馴染や前でお互いを尊重し合う女子高生二人がその証拠だ。

 だから、少しは美しく生きられるよう俺は夜空のキャンバスに残る灰色の煙に誓った。



 花火が終わり、もうすぐ祭りも終わる頃、ブチっと私が履いている下駄の鼻緒が切れてしまう。最悪だと思った。せっかく祭りでテンションが上がったのに。

 私の下駄を興味深そうに見て、小島が口を開く。

「本当に鼻緒って切れるんだな。漫画とかだけかと思ってた」

 どんな感想だよ、と思った。

 少しくらい心配してよと思ったら彼が口を開く。

「大丈夫か、田村さん。いや大丈夫ではないよな。歩けないだろ、嫌だろうけど乗って」

 小島は屈んで自分の背中を指差す。

 人目があるから嫌だと言おうと思ったが私は意外と広い彼の背中に気づいたら身を預けていた。

「軽」

 そんな感想を漏らして、彼は私をおぶって立ち上がる。

 萌香は小島におぶられる私を見てお母さんのように微笑んでいた。

 超恥ずかしい。

 彼は私の方を向いて聞く。

「家はそこまで遠くないか?」

 私はコクリと頷く。

「安心して、公園のすぐ近くだから」

「それなら良かった。流石に山を超えてとかだとキツイからな」

 安堵した様子で冗談ぽく彼は笑って言う。

「和也、運動不足なんだから無理しないようにね」

 彼の横で先生が心配そうに言う。

 今日の先生はとても嬉しそうで少し子供ぽく見える。

 きっと、小島と祭りに来られて相当嬉しかったのだろう。

 好きだった人と、好きな人と祭りを楽しめるのは羨ましいなと思った。それと同時に今の状況を先生は羨ましがっているのかなと少し意地悪なことも考える。こんな私が私は少しだけ嫌いだ。


 人生で一番楽しかった祭りだった。

 私と萌香と先生と小島。

 不思議な縁で結ばれたメンバー。

 もう、同じ夏は来ないのだとわかる脆い絆。だけど、決して軽くはない絆。

 これから先生は小島と付き合うのかな。付き合えるのかな。もし、そうなら素敵な物語だと思う。ハッピーエンドだ。

 でも、ちょっとだけそれを望まない私がいる。

 卑怯な女が少しだけ私の中に存在している。

 ねえ、小島。私はアンタが少し気になっているよ。

 クラスの男子よりもニートを気になるなんて私って少し変かも。

「小島は祭り、楽しかった?」

 人の流れに乗ってゆっくりと並木道を進む小島に私は聞く。きっと、小島が私と同じ気持ちなのかを確かめたかったんだと思う。

「楽しかったよ」

 その答えが聞けて私は安堵する。

「珍しく素直じゃん」

 素直じゃないのは私の方だ。

「田村さん、いくら和也相手からだってタメ口はやめなさいって言ったでしょ」

「おい、陽子は俺のこと下に見過ぎだぞ」

「そう?」

「ああ、昔の成績は俺の方が良かったことを忘れたか?」

「昔のことを持ち出すなんて器が小さいわね」

「お前だって居酒屋で昔のこと言ってたじゃねえか!」

「それは仕方ないでしょ! それにこの子達がいる前でそういうこと言わないでくれる!」

 ほら、こんな空気感に私は入ることができない。

 二人は既に固い絆で結ばれている。

 だから先生、なんの心配もいらなかったんだよ。

 私が小島に声をかけなくても全部上手くいっていた。

 ちゃんと先生が小島のことを想い続けていたから。

「美月」

 鈴の音のような声で萌香が私の名前を呼ぶ。

「なに?」

「来年も一緒に行こうね、お祭り」

 寂しそうに笑う萌香を見て私はコクリと頷く。

 多分、萌香もこの夏が特別なのだとわかっているのだ。

「そうだね」

 とても早い祭りの予約を親友とする。

 来年の祭りにきっと先生と小島はいないはずだ。会ったら少しくらい話すかもしれないけど一緒に行動はできない気がする。

 オレンジ色の温かい灯りが照らす高層マンションの前に辿り着く。ここが私の家だ。

「ここで良いよ」

「人をタクシーのように言うな」

「人間タクシーご苦労様」

「結構、疲れたわ」

 コンクリートの地面に膝をつき私をゆっくりと下ろしてから彼は肩で息をする。

「ありがとう、小島」

「どういたしまして」

 小島は苦笑して言う。

「来年、祭りに行く時はこんなベタな展開がないようにしろよ」

 来年、祭りで鼻緒を切ったら誰が私をおぶってくれるのだろうか。

 私にも春が来て彼氏がおぶってくれたりするのかな?

 それとも萌香が頑張ってくれるのかな。

「余計なお世話!」

 ほんと、小島はお節介で困る。

 これが先生の言った優しさなのだろう。

 私にはお節介な優しさも先生にとったら全て大切でありがたい優しさなんだろうなと思う。

「それでは私もここで。今日は楽しかったです。和也さん、ラムネご馳走様でした。先生もまた学校で」

 大人な別れ方をする萌香を見てまだまだ子供の私は凄いなと思う。

「やっぱり、家の中までおぶるか?」

 なかなかマンションのエントランスまで行かない私に小島は言う。

「大丈夫だって、それより先生をちゃんと送り届けて」

 私なんかに言われなくてもそうするだろうけど一応言っておく。

「わかったよ。気をつけてな」

 小島は苦笑してそう言った。



 三日月が浮かぶ夜空の下、俺は陽子と共に帰路につく。

 祭りが終わった夜はいつも以上に静かで涼しく感じる。

 クールダウンするように俺は祭りの余韻に浸る。

 花火や太鼓などの賑やかな祭りの音が俺の中に未だ残っている。

「お祭り、楽しかったね」

 夜に優しく言葉を置いていくようにポツリと陽子が呟く。

 俺はそれに頷く。

「そうだな」

 彼女たちとの祭りは楽しかった。俺だけではなく、陽子もそう思ってくれたのはとても嬉しいことだ。

「そう言えば和也、あの子たちと会う前になんか私に言いかけなかった?」

「あ、ああ」

 中央公園で俺は確かに陽子に言おうとしたことがあった。

 記憶力の良い陽子は忘れていなかったようだ。

「なんの話?」

 なんの話か、と問われると困るようなそんな話。

 どうしようもない男のどうしようもない話。

 過去に幼馴染とあったどうしようもない恋の話。

 俺はポツリと言う。

「……その、悪かったな」

「なにが?」

突然、なぜ俺が謝っているか当然わからず、陽子は首を傾げる。

俺はボソボソと補足する。

「だから、昔。……陽子が俺に告白してくれたのに、という話」

 今更と嘲笑されるかもしれない。

 告白を断っておいてふざけるなと罵倒されるかもしれない。

 居酒屋の時のようにもう済んだこととあっさりと流されるかもしれない。

 それでも身勝手な俺は自分の気持ちを彼女に伝えたかった。

 伝えないと前に進めないから、欲しいものが手に入らないから。

 そして、諦められないから。

「前にも言ったでしょ。あれは私の勘違いだって。だから、和也が責任感じることじゃないよ」

 俺は拳を握って口を開く。

「……勘違いじゃないよ」

「え?」

 彼女の顔を見られない俺は横を向いて言う。

「俺は陽子のことが好きだった」

 俺がそう言うと陽子が息を呑んだのがわかった。視線を戻すと彼女は目を見開いていた。

「……じゃあ、なんで?」

 陽子がそう思うのも当然だ。今の話が本当なら過去の俺の行動が矛盾していることになる。

 俺は苦笑して言う。

「その気持ちに気づいたのが、陽子と離れて東京の大学に行ってからだったからな」

 必死に勉強して偏差値を上げていた俺だが恋愛偏差値は全く上げられていなかった。

 だから、人より恋愛に疎く、気持ちに気づくのがとても遅くなった。

 恋愛の本を読み込み、確認作業をするという確かめ方した俺にはできなかったのだ。

 俺がガキだったから陽子を傷つけたのは事実だ。だから、俺は謝るのだ。

「本当に悪かった」

 道路の端で俺は深く頭を下げる。

 ヘッドライトをつけた車が一台、横を通り過ぎる。

「やめてよ」

 ピシャリと彼女が言った。

 しかし、俺は頭を上げられない。上げられるはずがなかった。

「……なんで、今更、そんなこと言うのよ! 言えるのよ!」

 声を荒げる彼女はとても辛そうだった。

 地面に雨粒のような涙がポタポタと落ちている。

 どうやら俺はまた、陽子を傷つけてしまったようだ。

 沢山、恋愛の本を読破したって大学で心理学を学んだって俺はあの頃のまま、成長できていない。

 楽しかった祭りの後味を悪くさせる苦い味。きっと甘いリンゴ飴を舐めても中和はできない。

 苦い恋の味なんてロマンチックなことを考えたくはないけど、俺たちにとってあの時間は青春とはほど遠い場所にあった。

 勘違いだと流されて、好きだったと後悔する。

 すれ違い続けた俺たちはどうすれば良いのだろうか。

 その答えを俺たちはどちらも持っていない。

 だからこそ、俺は彼女への気持ちに気づいたきっかけの話をすることにする。

「俺さ、仕事が辛くて死のうと思ったんだ」

 できる限り、重くないように俺は軽めの口調で言う。

 陽子は何も言わずに話の続きを聞いてくれるようだ。

「通勤前の月曜の朝、線路に飛び込んで電車に轢かれようと思ったんだ。みんなには迷惑かけちゃうけど、これ以上俺が生きるよりはみんなにも迷惑かけないんじゃないかと思ってさ」

 もっと俺はできると思っていた。自信もあった。だけど、そんなものは簡単に打ち砕かれた。

 涙を必死に我慢して、結局我慢できない彼女を見て俺は微笑む。

 別に幼馴染に同情して欲しいんじゃない。ただ、気持ちの整理を俺自身がしたくて、この気持ちを彼女に知って欲しいだけなのだ。

「色々と考えたよ。人身事故で電車を止めちゃうなとか、家族は悲しんでくれるかなとか、でも、足は止まらなかった」

 一歩、一歩、確かに俺の足は交互に前にでていた。

 黄色い線を越えて、右から轟音を立てて走ってくる電車との距離感を測っていた。

 もう一歩、右足をホームにギリギリ残るところに置くと走馬灯みたいに過去がブワっと流れてきた。どれも大した思い出じゃなかったから後悔なんてしないはずだった。

 ――あの放課後に告白されたこと以外は。

「陽子、お前の顔が浮かんだんだ」

 俺が初めて好きになった人、世界で一番大切な人、悲しませたくない人。それが、俺の中では陽子だった。

「ああ、まだ死ねないなと思った。死んだら、陽子ともう関われないと考えると寂しく思えた。また会いたいな、話したいなと思った」

 家族よりも仕事よりも陽子がいない世界に行くのが怖かった。

 気持ち悪いかもしれないが俺はまだ初恋が終わっていなくて一方的に彼女のことが好きだったのだ。

「だから、大袈裟かもしれないけど俺が今生きているのは陽子のおかげなんだよ。陽子がいなかったら俺はとっくに死んでいた。遅くなったけど俺を死なせいでくれてありがとう」

 笑顔で俺はお礼を言った。

「これだけは言いたかったんだ」

 たかがお礼。それでもこれを言いたいために俺は仕事を辞めて、生きて、故郷に戻ってきた。

 馬鹿だと自分でも思う。大手企業の正社員を手放して、社会からドロップアウトして、幼馴染にまた関わろうとするなんて。挙げ句の果てに俺は今、ニートだ。本当に馬鹿だ。

 でも、馬鹿になった方が人生は色鮮やかに見えてしまった。

 毎日が楽しくて、仕方なくなってしまった。

 永遠なんて絶対にない。近い将来、働く必要性は勿論ある。

 だけど、東京で死んでいたら俺の人生は灰色のまま終わっていた。

 また、幼馴染と祭りになんか行けなかったのだ。

 俺は拳を握る。

「もう一度言う。陽子、俺はお前のことが大好きだった。大好きでした」

 遅すぎる告白を幼馴染にする。

 三日月が上から俺を馬鹿にしたように笑っている。そんな嘲笑を受けても、見下されても別に構わない。

 陽子は涙を浴衣の袖で拭う。

 彼女を泣かせてまで伝えたかったことなのかはわからないが俺だけは言いたいことを言えてスッキリしている。

「これで本当に終わりだ。おしまいだ。だから、陽子が俺に関わりたくなかったら関わらなくても良い。陽子の生徒とももう関わらない。約束する」

 ここを0にしよう。

 月明かりが陽子を照らす。

 彼女は三日月のようにニッコリと笑って口を開く。

「やだ」

 彼女は短くそう答えた。

「え?」

 想定外の言葉に俺は戸惑い、首を傾げる。

 陽子は溜息を吐いてから俺の手を取る。

「私が和也を助けたように、私は和也に助けられたから」

 陽子は微笑んで言って続ける。

「貴方がいたから私は教師になれた。そして、可愛い生徒たちに出会えた」

 そう言って陽子は俺の手を優しく握る。

「貴方は弱かった私を強くしてくれた」

 俺の指と指の隙間に自分の指を絡めてくる。

「勉強を教えてくれた。一緒に遊んでくれた。優しくしてくれた」

 今度はギュッと手を握られる。

「私があの時、欲しかった答えを遅いけどちゃんと考えて答えてくれた」

 陽子が俺の胸に飛び込んでくる。

「そして、ちゃんと生きていてくれた」

 また涙を流す陽子を自然と俺は抱きしめていた。華奢な背中に手を回し、ガラス玉を壊さないようにそっと抱く。

 シャンプーの甘い匂いが鼻腔をくすぐる。高級な香りだ。値段は高いのだろうなと思う。

「好きだよ、和也。……大好きだよ」

 彼女の言葉を俺はもう無視することができない。

 だけど、彼女に応えることを俺はできない。

 俺も好きだよ、と素直に言えればよかった。

 言える勇気があればよかった。

 言える現実を俺がちゃんと生きていられればよかった。

「和也?」

 上目遣いで涙目の陽子が首を傾げて俺の名前を呼ぶ。

 俺の幼馴染は本当に可愛くて、綺麗で、美しいと思う。

 そんな陽子とずっと一緒にいられれば俺は幸せ者だと思う。

 だけど、陽子は本当に幸せなのだろうか。幸せになれるのだろうか。

 今の俺は彼女を本当に幸せにできるのだろうか?

俺たちは法律上、大人なのだ。もう、子供ではないのだ。

 打算なしの恋愛感情だけで結ばれる年齢ではない。

 俺が東京の大手企業の正社員だったら。

そんな過去の自分のステータスを今更になって羨む。

莫大な貯金があれば良かったがそれも俺にはない。

今の俺には何もないのだ。

「ごめん、陽子」

 謝ってから俺は彼女から手を離す。そして、目を瞑る。

 贅沢を言えば、欲しいものを欲しい時に欲しかった。そうすればハッピーエンドを簡単に手に入れられたのに。神様は本当に性格が悪いなと思う。

 俺は下手くそな笑顔を作って、自分の気持ちに下手くそな嘘を吐く。

 どうか、この嘘がバレませんように、と。

「陽子には俺よりもっと相応しい人がいるよ」

 こうして、嘘つきな俺は過去の過ちを繰り返した。



 和也と別れて家に戻った私はうつ伏せで部屋のベッドに沈む。ギシっとベッドの軋む音が聞こえる。

 それにしても私のことを和也が好きだったなんて思いもしなかった。

 そして、また振られることになるとは思いもしなかった。

 私は溜息を吐く。

「……和也より良い人なんてどこにいるのよ」

 振るならもっと適当に振って欲しかった。

 あんなに苦しそうに振られるなんて勘弁して欲しい。

 もう一度、私は溜息を吐く。

「私、大好きなんだよ。和也のこと」

 一人、ベッドに向けて正直な気持ちを零す。そして、目から涙も溢れる。

 私では今の彼も救えない。そのことだけがなんとなくわかってしまった。

 今の彼を救えるとしたら正直で無垢な女の子。

 身近で言えば、あの子だろうなと思う。

 もし、あの子が和也に告白したらどうなるのだろうか。

 私と同様に振るだろうか、子供だから相手にもしないかもしれない。

 でも、付き合うことになったら……。

 そう考えると私の胸はズキっと痛む。

「まあ、するわけないよね」

 そう言って、馬鹿な想像を私は慌てて消した。

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