第13話 忘れ物

 暦は八月になった。俺は未だニートのまま。

パソコンで求人を検索してみるがどれもやりたいと思えないし、やれるとも思えない。未経験歓迎の言葉も信じられない俺はそっとパソコンを閉じる。

リビングに行き、テレビをつけると炎天下の甲子園で球児が土に塗れながら汗と涙を流して戦っている。その姿を俺はエアコンのよく効いた部屋でソファに座って見守る。

今年の千葉県代表は専修大松戸高校だ。母校ではないが千葉県に住んでいるものとして応援しない訳にはいかない。対戦相手は山梨県代表、東海大甲府高校だ。

カンと金属音が響き青空に白球が打ち上がる。それをバックして追いつきガッチリと外野手がグラブにおさめる。

これで5回裏が終了する。球児たちの給水タイムと呼ばれる時間が来た。

 俺もその間にキッチンに行き冷蔵庫の中から缶ビールを取り出そうとする。

 家にいて、運動していなくても喉は乾くのだ。

 ピンポーン。

 チャイムが鳴る。

 インターホン越しに出るとベージュ色の半袖Tシャツ姿の中村さんが立っていた。

「どうしたの?」

『和也さんの忘れ物を届けにきました』

 忘れ物?

 俺は首を傾げながら玄関に行き、鍵を開ける。扉を開けると中村さんは首筋に汗をかいていた。それもそのはず外はむわっと蒸し暑い。

「俺、忘れ物なんかしてたっけ?」

「これ、なんですけど」

 中村さんはクーラボックスを持っていた。それを掲げて言った。

 中身を確認するとそこには一本の缶ビールが入っていた。

 冷蔵庫から取り出して飲もうと思っていたのでタイミングとしてはバッチリだった。

 まるでウーバードリンクだなと思いつつ、それを受け取る。

「涼んでいく?」

「良いんですか」

 俺はコクリと頷く。暑い中、わざわざビールを届けにきてくれた少女を帰らせるほど俺は鬼ではない。

 中村さんを家にあげて冷蔵庫から麦茶を取り出しグラスに注ぐ。

 それをテーブルの上に置く。

「ありがとうございます」

 喉が渇いていたのだろう。中村さんはゴクゴクと麦茶を半分まで飲んでゴトっとテーブルにグラスを置く

「良い飲みっぷりだな」

 俺がそう言うと彼女は照れ臭そうに言う。

「夏は麦茶がとても美味しく感じますね」

「大人になったらビールが美味しく感じるんだよ」

「それは大人になる楽しみが増えそうです」

「大人になったらその分、苦味も増えるけどね」

 だから、大人にはアルコールが必要なのだ。アルコールさえあればいい。

「飲み過ぎて身体を壊さないでくださいね」

「大丈夫だよ。酒に呑まれるタイプではないから」

 どちらかというと彼女の担任である陽子の方が酒に呑まれるタイプだ。

「それなら安心です。和也さんがいないと困りますからね」

「お世辞を言ってもなにも出ないよ」

 俺が苦笑してそう言うと彼女は首を横に振る。

「お世辞ではないですよ。私が熱を出して倒れた時、和也さんが助けてくれましたし、テスト勉強も見てもらいました。口ではああ言っていますけど美月だって私と同じ気持ちだと思いますよ」

 真剣に話す中村さんの言葉が嘘に思えなくて、思いたくなくて、俺はその評価をそのまま受け取ることにする。

「そっか」

「はい! 和也さんはもっと自分に自信を持ってください!」

「田村さんには自信過剰って言われたけどな」

 真逆な評価をする人間が親友の仲というのは面白いなと思った。もしかしたら、真逆だからこそ人は惹かれ合うのかもしれない。

「本当に和也さんは美月と仲が良いですね」

「良くはないよ」

 適切な距離を再確認するため突き放すように俺は答えた。

 妹がいたらこんな感じだったのかなと思うような子。それが俺の田村美月に対する正直な印象だ。まあ、こんなことを口に出したら気持ち悪いので絶対に言わないが。

「そうなんですか?」

「嫌いではないけどね」

 俺がそう言うと中村さんはほっとした様子で口を開く。

「それなら良かったです。私の大事な人が私の親友を嫌いなのは悲しいですから」

 笑顔で話す彼女を見て、良い子だなと素直にそう思った。

「あ、高校野球。和也さん、野球お好きなんですか?」

 テレビに視線を移した中村さんに質問される。どうやら給水タイムが終わって6回表が始まるようだ。

「好きだよ。これでも少年野球はやっていたんだ。下手だったけど」

 守備はまあまあだったけど、バッティングが悪くて素振りをしても上手く打てなかったなと思い出す。監督にもよく怒られていた。だから、あの頃は純粋に野球を楽しめなかった。

 運動への苦手意識があって中学は部活に入らず勉強していた。

 才能がなかったので野球も続けようとは思えなかった。

 それでも、野球を嫌いになったわけではない。野球を観るのは好きだ。高校球児が羨ましく感じるのは未練があったからかもしれない。

 もし、過去に戻れたら高校野球をやってみたいかもしれない。

 口元に手を当てて彼女は微笑んで言う。

「野球をしている和也さんは想像できませんね」

 そう思うのも無理はない。今では立派なヒキニート。炎天下、グラウンドで戦う彼らとは真逆の存在。

「そうだろうな」

 俺は苦笑してそう言った。

 専修大松戸高校は後攻だ。エースの林が5回まで3安打ピッチング1四球と好投。しかし、味方の援護がなくスコアは0対0のままだ。

 キャッチャーはストレート、スライダーを軸に配球している。四番打者を迎えるがアウトコース低めに丁寧に集めてショートゴロに打ち取る。

 三者凡退でスリーアウトチェンジ。テンポの良い投球が光る。

 6回裏、そろそろ先制点が欲しい。

 俺は中村さんが持ってきてくれた缶ビールのプルタブを開ける。

「お昼から飲むんですね」

 中村さんに困り顔で言われる。さすがに呆れられただろうか。

「酒は飲みたい時に飲んでおけが俺のモットーだからな。それに、お昼から飲めるのがニートの特権だ」

 そう言って俺はビールを一口飲む。舌がジリジリと刺激され苦味が口の中に広がる。

「美味しいですか?」

「美味しい。野球を観ながら飲むビールが一番美味しい」

「そうなんですか?」

「ああ」

 海浜幕張にあるZOZOマリンスタジアムに足を運んだ時もビール売りのお姉ちゃんからビールを買ったな。あそこのビールはとても美味しかった。

 結論、ビールと野球は切っても切れない関係性なのだ。

「そんなに美味しそうに飲んでいると私も飲みたくなっちゃいます」

 上目遣いで甘そうな声で彼女は言った。

「子供にはまだ早いからダメ」

「もう、子供扱いしないでください!」

「中村さんは大人びているけどまだ子供だよ」

 働いているとかいないとかそういう問題ではなく、法律がそれを証明している。

 酒を飲んで良いかどうか、タバコを吸って良いかどうか、結婚して良いかどうか。それは限られた大人が都合良く決めたルールに則るしかない。それを守らないといけないのだ。

 だけど、その殻を早く破りたくて踠こうとする子供を否定することはいけないと個人的には思う。少しの背伸びを許容してくれる社会でないと子供たちが息苦しくなってしまう。

 今の社会は子供にとって息苦しい。法律上で大人な俺はそう感じる。

「中村さんが大人になったらみんなで一緒にお酒を飲もう」

 その時までに俺は働いているだろうか。それはわからないが彼女たちと気持ち良くお酒が飲めるようにするには頑張らないといけない。

「それは素敵な提案ですね」

 中村さんは手を叩いて喜ぶ。ただ、オッサンと酒を飲むのが素敵かどうかは知らないが彼女にとっての楽しみが増えることは良いことだ。

 美しい未来を思い描くのは簡単だ。しかし、現実というやつはそれを実行するのがとても難しい。だから、人は必死にもがき努力するのだ。その必要な努力を今の俺はできていない。

「どうしたんですか? 難しい顔をして」

「別になにもないよ」

 そう誤魔化して、俺はテレビに視線を戻す。

 6回裏、ツーアウト。バッターは4番の藤井。1打席目はフォアボールだった。

 身長が高く選球眼の良いパワーヒッター。予選だとホームラン五本と長打が期待できる選手。

 ワンボール、ワンストライクの3球目だった。インコース低めのストレートを彼は綺麗にすくった。ボールはグングンと伸びていきライトスタンドに吸い込まれた。

 その瞬間、球場は歓声で埋めつくされた。

 藤井がゆっくりとダイヤモンドを周り、ナインが沸く。一塁側のチアリーダーが舞い、応援団たちも太鼓を思い切り叩いて彼を祝福している。

 首筋に汗を流す彼が俺には目を逸らしたくなるほどに輝いて見えた。夏の主役がそこには映っていた。

 やはり人間は平等じゃない。俺にはあんなホームランが打てない。現実では努力をしても到達できない域が確かに存在している。

 それがわかっていてする努力はなんなのだろうか。報われないとわかっていて努力することが果たして美しいのだろうか。

 俺は働くのが根本的に向いていない。それでも働けと社会は圧力をかけてくる。ヒットも打てないのにホームランを打てと言ってくる社会。そんな社会が息苦しいのは当然だ。その息苦しさに耐えられなくなって俺は死のうと思ったのだ。

「ヒーローって奴は眩しいな」

 ベンチに戻るホームランバッターを見て、俺は呟く。そして、このなんとも言えない感情を消化するためにビールを呷った。


 試合結果は2―0で専修大松戸高校が勝利した。

 俺と中村さんは熱い戦いを見せてくれた球児たちに拍手する。

負けたチームの選手が土を袋に入れるのを見て野球をあまり知らない中村さんが言う。

「なんで土を持ち帰ろうとしているんですか?」

「甲子園まで来た記念だよ。まあ、人それぞれ想いは違うだろうけど」

三年生は野球の思い出と諦めを。一、二年生は来年への誓いをその土に込めるのだ。

「良い試合でしたね」

「そうだな」

 この試合が良い試合だったことに違いはない。

 良い試合でもちゃんと勝ち負けがつくのが高校野球の良いところだ。

 勝つ人間がいれば、負ける人間もいる。それを正しく学ぶためにスポーツというものはあるのだろう。

 この中にプロ野球に進める人間はごく僅かだ。それでも、それをわかっていても彼らは努力をやめなかった。だから、この夏、この場所にいられた。

 俺の歪んだ思考では辿りつかない結論を年下である彼らの方が先に手にしていた。


 負け犬の俺はどうすればこれから勝つことができるのだろうか?

 仕事を辞めてから毎日、それを考える。

 朝起きた時、ご飯を食べている時、夜、ベッドに入った時。一日の中で一回は必ず、その疑問にぶつかる。そして、その疑問から逃げ続ける。

 酒に逃げて、明日が来て、明日が今日になって、また酒に逃げて、新しい明日が来る。

 その繰り返し。その繰り返しだけを俺は継続できている。継続してしまっている。

 働けば解決できるのか、いや違う。働いていた時も俺は負け犬だった。会社で一匹、負け犬が働いているだけだった。負けてないと自分を励まし、負けないと自分に誓って、空回る。ただの孤独で哀れな犬だった。

「それでは私は帰りますね」

 そう言って中村さんは椅子から立ち上がる。

「あ、ああ。気をつけて帰って」

「野球、とても面白かったです。和也さん、また一緒に観ましょうね」

「そうだな」

 中村さんはニッコリと笑って言って帰っていった。

「それにしても母さん遅いな」

 買い物に出かけるとは言ったものの近くの商業施設に行っただけだ。距離的にはもう帰ってきてもおかしくない。

 そう思っていると家の固定電話が鳴る。その電話に俺は出る。相手は女の人だ。

『こちら、小島和也さんの電話番号でお間違いないでしょうか?』

「はい、そうですけど」

『私、東葉総合病院の者です。和也さんのお母様が倒れて救急で参りましたのでその連絡を……』

 頭が真っ白になった。

 母親が倒れた?

 俺は財布とスマホを持って、すぐ家を出て近くのタクシー乗り場に向かう。

 途中、信号に捕まるが赤信号を無視して突っ走る。

 息を切らしながらタクシー乗り場に着いて、止まっているタクシーに勢いよく乗り込む。

「東葉総合病院まで!」

 タクシーの運転手に行き先を告げてから背もたれに身体を預ける。そして、落ち着くために俺は目を瞑る。

 母親が年齢を重ねていることを俺は忘れていたようだ。いや、年齢を重ねていることはわかっているが理解をできていなかったと言うべきだろう。

 年齢を重ねれば身体が弱くなるのは人間の構造上仕方がないことだ。だからこそ、若い人間が配慮しないといけないのだ。

 無事であってくれと俺はタクシーの中で祈る。タクシーの走る速度は同じはずなのにいつもよりスピードがゆっくりに感じる。

 落ち着け、俺。今、俺ができることは落ち着くことだけだ。

 そして、タクシーは病院に着いた。


「ただの熱中症よ。大袈裟なんだから」

 カーテンで仕切られたベッドに案内されると点滴を打って元気そうな母親がいて、開口一番にそう言われた。

 倒れたと聞いて急いで来たので熱中症と聞いて少し拍子抜けする。

「熱中症を甘くみてはいけませんよ」

「「すみません」」

 医者に注意されて母親と俺は頭を下げる。

「お大事にしてください」

 そう言って医者は出ていく。

「鍵はちゃんと閉めてきた?」

「閉めてきたよ」

「お昼ご飯は食べた?」

「まだ食べてない」

「タクシーのお金は足りた?」

「足りたよ。病院代も持ってきた」

「そう、それなら良かった。……迷惑、かけたわね」

 申し訳なさそうに言う母親を見て俺は唇を噛む。

 ずっと迷惑をかけているのは俺の方だ。働かないで家でダラダラしている俺の方だ。そんな俺を寛容な母親は見放さずにいてくれている。俺はそれに甘えているのだ。

 もし、母親が死んだら俺はどうするのだろうか?

 真面目に転職活動をして、就職して、働くのだろうか。それとも、貯金が尽きるまで今まで通りの生活を送れるところまで送って息絶えるのだろうか。

 そんな疑問を真剣に考えなければいけないほどに俺は母親が倒れたと聞いて焦った。

 とても、焦ったのだ。

「……無事なら良かったよ」

 俺はそれだけ言う。そして、点滴を外しに看護師が部屋に入ってくる。年齢は俺と同じくらいに見えた。ショートカットの黒髪で背が高く美形だった。看護師も医者の目の保養とかで顔採用とかあるのかなと少し思った。

「点滴を外しますね」

 そう言って看護師は母親の腕に刺さっている点滴の針を抜く。躊躇なく針を抜く姿に男らしさを感じる。

「ありがとうございます。ご迷惑をかけました」

 母親がそう言うと看護師はニコニコして部屋を出ていく。

「イケメンだな」

「バカ、あの子、女の子よ」

 つい、俺が呟くと母親に怒られる。

「わかってるよ」

 この歳になって本物の白衣の天使という奴を初めて見た気がした。


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