第5話 水

 朝、起きて俺はいつも水を飲む。冷蔵庫から2リットルのペットボトルを取り出し、紙コップに注いで飲むのだ。水道水で良いではないかと思われるかもしれないが水道水は雑菌が怖いので母親に買ってきてもらっている水を飲む。ペットボトルに口をつけるのは菌が繁殖するのでわざわざ紙コップを使う。意外と俺は潔癖症なのかもしれない。

 今日は水で乾いた喉を潤すというよりも酒を飲み過ぎて二日酔いを軽くするために飲んでいると言った方が正確な気がする。

 ニートが二日酔いなんて生意気だと思うかもしれないが勘弁して欲しい。酔っていないとニートなんてやっていられないのだから。

 ゴクゴクと頭痛を治すために水を飲む。水の飲み過ぎは水中毒の可能性があるから注意しよう。そんなことを考えながら水を飲み干した。

 朝の水分補給を終えた俺は階段を上がり自室に戻る。

 人間の六十パーセントは水で出来ていると言うのだから不思議だ。水は人間にとって必要不可欠で代わりがない。俺もそんな存在になりたい。唯一無二のニートに。

 ニート道を極めるために俺は読書を始めることにする。本棚からライトノベルを手に取ってページをペラペラと捲る。

 異世界転生もの。無職が異世界に転生して本気を出してリア充になるという物語。

 この物語の主人公は異世界に行って自分を変えようとしているところが凄い。

 俺が異世界転生しても家からあまり出ないと思う。それでもリア充になれるなら転生したい。

 ギルドに行っても仕事なんてしないと思うが酒場でエルフの女の子とお酒は飲みたい。

 パーティーなんて組める自信はないが安全圏のクエストに付いていくだけでお金が欲しい。

 そんな都合が良い転生物語を俺は想像する。

 いや、きっとこんなクズ主人公では物語にはならないだろうと思った。

 読書に飽きたら次はワイヤレスイヤホンを耳に挿し、スマホのサブスクで音楽を聴く。ジャンルはバンドの曲が多い。聴くたびに思うが音楽は才能を最も必要とする仕事だと思う。その中で売れるのは容易なことではないと素人の俺でもわかる。

 非ニートの人たちに伝えたいことは娯楽を消費し過ぎると飽きるということだ。例えると、ご飯を食べ過ぎたようにお腹いっぱいになるのだ。

 だから俺はイヤホンを外し、スマホと財布をジーパンのポケットに入れる。

 運動不足は身体に毒なので散歩に行くことにする。部屋を出て階段を降りて玄関で靴を履き外に出る。外は嫌味のように晴れていた。

 ニートの活動範囲は狭い。その理由は体力がないことと世間の目が厳しいことの二つがある。だが、体力は使わないともっと体力が落ちるし、世間の目は日曜日ということもあって俺は土日休みの公務員だと思い込めばクリアできる。だから、絶好の散歩日和だと言える。

 二年前くらいに買ったアディダスのスニーカーをパタパタと鳴らし灰色のコンクリートの道を歩く。信号待ちしている間に俺は考える。

 俺の行くところは限られている。

 日曜日なので映画館は混んでいるし、カフェも混んでいるはずだ。書店に行っても買いたい本はない。カラオケは土日、値段が上がるので行くなら平日に限る。

「公園にするか」

 お金を使わず日光浴ができる自然が多い場所。おまけにベンチで昼寝もできる。人と比べると税金は払っていないがありがたく公共施設を活用させて貰おう。

 中央公園方面に足を向ける。この街、唯一の大きな商業施設を超えたところに中央公園はある。広い公園内はグラウンドなどもあって子供が野球をやっていることもある。

 木漏れ日の中、ダラダラと並木道を歩いていると中央公園に着く。

 とりあえず公園内を一周する。運動不足解消にはもってこいのコースだ。ペット連れやランニング中の若者にすれ違うと老人の気分だが悪い気はしない。もう年金が欲しいなと思っていると知った顔が走っているのが見えた。紺色のジャージを着てポニーテールにした金髪を揺らしている。

「あ、小島」

 俺を呼び捨てするのは金髪女子高生の田村美月だ。立ち止まった田村さんは膝に手をついてハアハアと肩で息をして汗も相当かいている。アスファルトの地面に汗が滴り落ちる。水玉のように灰色が濃くなる。

「大丈夫か? ハードワークは身体に悪いぞ」

「小島に関係ないでしょ」

 そう言って再び走り出そうとする彼女の腕を軽く掴む。掴まれた手を見てキッと田村さんは俺を睨むがその目に鋭さはない。

「なにするのよ」

「とりあえず水を飲もう。自販機で買ってくる」

 俺は田村さんが走り出さないか見張りながら近くの自販機前に行く。ポケットから財布を取り出し、小銭をコイン投入口に入れる。ボタンを押し、取り出し口から水を取り出す。それを持って田村さんのとこに駆け寄る。

「はい、水」

 田村さんはそれをしぶしぶ受け取ってキャップを開けてゴクゴクと飲む。

「少し日陰で休もう」

「別に大丈夫だから」

 頑張っている人間の大丈夫は信用できない。

 逆に頑張っていない奴は大丈夫ではなく、もう無理とすぐ言える。

 今の俺は後者だ。

「良いから休め」

「……わかったわよ」

 しぶしぶ頷く田村さんを確認して俺は先を歩く。日陰でベンチのある場所まで彼女を案内する。

 ベンチに座る田村さんの隣に俺は腰掛ける。

「ふぅ」

「何普通に隣に座って一息吐いてるのよ」

「俺にも休憩が必要なんだよ」

不機嫌そうに文句を言う田村さんに構わず俺は言った。

日々、休憩みたいなものだけどそれでも休憩は必要なのだ。

休憩がないと長い人生を楽しんで歩くことはできないから。

溜息を吐いてから田村さんは口を開く。

「小島って結構お節介だね。そんな暇あるなら働けば?」

 彼女は皮肉を言っているつもりだろうが別に構わない。

「暇があるからお節介ができるんだよ。あのまま無理して走っていたら倒れていたかもしれないぞ」

「私は大丈夫だから余計なお世話よ」

 ベンチから立ちあがろうとする田村さんに俺は言う。

「頑張るのは素晴らしいことだが無理は良くない。自分が思っているより身体は大丈夫じゃないこともある。だから、ほどほどが一番良い」

「うるさい!」

 田村さんの甲高い声が公園に響く。しかし、すぐにそれは木々に広がり青空に吸い込まれていく。

 二人の間に沈黙が流れる。

 気まずい空気で逃げ出したくなるがここで逃げ出してしまえば田村さんは絶対に無理を続ける。無理をしなくてはいけない時があるのは知っている。でも、無理をし続けるのは間違っている。だから、それを身をもって知っている俺はここで逃げてはいけないのだ。

 沈黙を破るためにとりあえず俺は疑問を口にする。

「なんで、走ってたんだ?」

 ダイエットをするほど太っているようには見えないし、見た目からして日課としてランニングをするようなタイプには見えない。人を見た目で判断してはいけないがそれが正直な気持ちだった。

 汗を流すようなタイプではないはずなのになぜだ?

 この疑問を解消しないことには話が進まない。

「ただの体力作り」

田村さんはポツリと言った。聞き逃してしまいそうな小さな声だった。

「体力作り?」

 俺が首を傾げると彼女は頷く。

「そう」

「なんか部活やってるのか?」

「やってないけど」

 部活をやっていないが体力作りをしている。それもこんなに必死で。

「よくわからないな」

 本音が口から漏れてしまった。

 怒られるかと思ったが田村さんはふっと吹き出していた。

「確かに。よくわからないことしてる。小島と同じくらい。それは自分でもわかってる。でも、私にとって、私の夢にとっては大切で必要なことなの」

 田村さんが言っていることは全く意味がわからない。だけど、なんとなく伝わった気がする。だからこそ彼女の夢がなんなのか気になった。

「夢ってなんなんだ?」

 親しくない間柄だが、親しくない間柄こそ気を遣わずに聞きたいことが聞けることがある。

 ニートなんて壁と同じくらいの存在だからな。

「先生には言わないって約束して。約束できるなら言ってあげても良い」

 先生というのは陽子のことだろう。

 勿論、彼女の夢を吹聴することなどしないので俺は頷く。

「言わないよ」

「それじゃあ、……私、声優になりたいの」

 声優。その夢が難しいことは素人の俺でも想像がつく。最近ではアニメだけでなく、ライブでの歌手活動やダンス、舞台、モデル、バラエティと活動の幅が広い仕事だ。

 その仕事に隣の少女は憧れてなろうとしている。なるための努力を裏でしている。まだ、高校生なのに。その現実が美しくて自分の身を考えると残酷に思えた。

「な、なんで無言なのよ!」

「あ、いや、その、凄いなとか偉いとかそういう感想しか出てこなくてもっと良い言葉探しをしていたから無言になってた、悪い」

 早口で捲し立てると田村さんは手を口にやってクスクスと笑った。なにが面白かったのだろうか、俺は首を傾げる。

「慌てすぎでしょ。まあ、内心で馬鹿にされるよりはマシか」

「馬鹿になんてするわけないだろ。凄い、偉い、やばい」

 語彙力がなくなった俺を未だ田村さんは笑っている。彼女は笑うと子供ぽく見える。

「ヤバいってひど。でも、ありがと」

「え?」

 彼女にお礼を言われてキョトンとしてしまう。

「私の身体を心配してくれて。私の夢を馬鹿にしないでくれて、ありがとうって言ってるの」

 なるほど、これがツンデレというやつか。

 普段ツンツンしている子に素直に礼を言われるのは意外と恥ずかしいものだなと思った。

「どういたしまして」

 田村さんはベンチからヨッと立ち上がる。

「小島が言った通り、今日はこのくらいにしておく。他にもやれることはあるしね」

 俺は目尻をさげる。

「そうだな。テスト勉強、しっかりやれよ」

「げ」

「げ?」

 反応を見る限り、田村さんが勉強をやっていないのは一目瞭然だった。夢に向かっての努力はできる子なのに。

「ちなみに聞くけどテストっていつからだ?」

 俺が聞くと彼女は言いづらそうに口を開く。

「……明日」

「走る前にやることがあるだろ!」

「べ、勉強の気分転換に走ってたのもあるから良いでしょ!」

 俺は眉間に皺を寄せる。勉強面を彼女に任せていたら大惨事になりかねない。

 留年されても困るしな。

 仕方ないか……。

「これから俺の家で勉強だ。一夜漬けで良いから良い点数取らないと許さねえ」

「これからなんて無理!」

「無理でもやるんだよ!」

「さっきは無理するなって言ってたじゃん!」

「無理をしないといけない時だってあるんだよ!」

 田村さんと話しているうちに、こんな騒がしい時を学生時代に送れていたら良かったのにと思った。


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