第3話
デルヴィーニュ領北西にある地下獄牢を出たあと、ふたりはそのまま領内南西のはずれにある海沿いの森の中へ向かった。
聖女リーネリアによる釈放は、聖竜教会の後ろ盾によって正式な手続きとして処理される。しかし領主が難癖をつけて再度捕らえようとする可能性が否定できない以上、すぐに安全な場所に避難するべきだった。
海を眺望する崖沿いにある高地、ドルメキア山頂と岬の交点にあたる位置に到着したふたりは、見つかりにくい場所に隠された洞穴に立った。入り口に木扉がある。アシェルは扉を五回ノックした。
「『今日は風は吹いているか?』」
「南南西から吹いているよ」
「……『名前は何だ?』」
「星にでも聞け」
勢いよく扉が開けられると、アシェルと同じくらい年齢の肌の浅黒い男の子が現れた。アシェルの姿を認めると、感極まった様子で抱きしめた。
「馬ッ鹿野郎! ホントに帰ってきやがった……無事なのかお前!」
「ラシャド……心配かけたね」
「本当だ! ちっとは反省しろこの糞真面目が!」
ラシャドは背中をばしばしと叩いて出迎えたあと、リーネリアに「まさか本当に助けてくれるとは思わなかったよ。ありがとう、聖女様」と感謝を告げた。
「カリーナは?」
「街に出てるよ。待ってろ。呼んできてやるから。疲れただろ? お前と聖女様はここで休んでな。きっとあいつも喜ぶぞ!」
そういってラシャドはすぐに隠れ家を飛び出していった。
隠れ家は地下を掘って木で固定した空間になっている。蝋燭の明かりが光源という点ではあの地下獄牢と変わらないが、快適さは雲泥以上の差があった。
「あの子たちとは、どういう関係なのですか?」
「昔奴隷だったときに一緒になったんだよ。以来、ずっと三人で暮らしてる」
「奴隷……」
驚いたようなリーネリアの表情に、アシェルは薄く笑った。
「もうずいぶん昔の話だよ」
「それでもです。魔王オルドが人間の奴隷に身を
「やめてくれ。僕はもう魔王じゃない」
「では、なんとお呼びすれば?」
「アシェルでいい。……いまの僕は、ただの人間アシェル・アッシュだよ」
言いながらアシェルは手製の木椅子に腰かけた。
壊れかけているのか、ギィと軋む音がした。
ミアが自分にとっての妹なら、リーネリアは妹の友達だった。
彼女はミアの従者であり、ミアと暮らした天冥宮では長く時間をともに過ごした。牢で彼女が告げた詩は、魔王族と親しいごく一部の親族のみが知るものだった。
聖女としての天賦を見出されて彼女は天冥宮を去ったが、それまでの数年間、あの花咲き誇る庭で彼女とともに穏やかに過ごしたことは、魔王オルドにとっての美しい記憶の一つだった。
「あれがもう一〇年以上昔か……リーネリアはどうしていたの」
「私は……あの『魔王城の惨劇』からずっと真実を探していました」
魔王城の惨劇。
人間と魔族が平和条約を結ぶはずだったあの日、勇者ゼクスによってなにもかもがぶち壊された。和平条約など結ばれるはずもなく、魔族と人間の肯定派は勇者によって皆殺しにされ、魔王オルドは転生させられた。これが真実だ。
ところが世間に伝わる『惨劇』は異なる。
人間を裏切った魔王オルドは、最愛の妹と謳っていたミア姫を殺害し、あまつさえ条約を肯定するすべての人間・魔族を皆殺しにした。しかしいち早く異変に気づいた勇者ゼクスは、魔王に立ち向かい、死闘のすえこれを討伐。多くの被害者を出したものの、めでたく平和を取り戻した――これが世の中に広がる『惨劇』である。
現在も魔族と人間の対立は続いており、にもかかわらず、それを助長した勇者は英雄だと今ももてはやされている。
「あなたがミアさまを手にかけるなど、決してありえないと確信していました。ですからずっと、あの日の真実を調べ続けていたんです。それであなたが――アシェルさまが転生させられたことを知りました。色々と調べて、転生魔法がどこに座標をおかれていたのかを推測して……」
「
「そうでもありませんよ」
くすりとリーネリアは微笑んだ。
「あなたが善をなし、悪を捨て置けない人だというのは、知っていましたから。――案の定、あなたは助ける必要のない貴族を助けて、あそこに閉じ込められていました」
「ふん。どうせ僕はラシャドの言うとおり『糞真面目』さ……」
ふてくされたような顔で頬杖をついたあと、アシェルは思い出したようにそばにあった棚を動かして、裏にあった小さな穴に手を伸ばした。何かを取り出す。
「それは……?」
「カコの葉巻。悪いけど吸わせてもらうよ。二ヶ月ぶりなんだ」
葉巻、といってもエルトレン王国に流通するそれは太くはない。
小指ほどの太さで、すぐに吸い終わるサイズだ。
どこか戸惑った様子をリーネリアが見せるのも構わず、アシェルは蝋燭をつかって葉巻に火を点けた。吸い口を
「ふふふふ……ラシャドめ、僕の葉巻に対する執念を侮ったな。あぁ~~~美味しい! まったくカコの葉巻はやっぱり最高だよ! ……ん? どうしたのリーネリア。急にそんなところに突っ立って……!?」
「え……? い、いえアシェルさま、それは私じゃなくて椅子ですが……」
「まさかあ!」
カコの葉巻には多幸感と
久々なのもあり、アシェルはそれはもう爆速でキマっていた。
「ぼくがリーネリアを見間違えるなんて……鳥さんぽねぇ! だけど、桃なしトランポどんどこどん! だからもう、海を踊れなくてェ……リーネリアも一度畳んでみたら?」
「アシェルさま、何を言って……!? あとですからそれ、私ではなくて本棚ですが……!」
「え~、ワインが?? あっはっは! そっか久しぶりだからパン工房が分裂中か! 安心して、そのうちまともになるよ~。徐々に落ち着いて夏は妖精が王のもろもろーん。えへへはへは……」
「も、ものすごくヘラヘラしてる……」
えへらえへらと笑いながら、アシェルは幻覚と戯れ続けた。
◇
若干引き気味のリーネリアだったが、アシェルの症状は徐々に落ち着いていった。まだ微妙にテンションが高く酩酊した様子でふわついているが、一応は会話が可能なレベルにまで落ち着いた。
「それでリーネリアはあ、これからどおするのさ? あっ、ちなみに僕には、べつに何かやる気なんかないよ?」
まだ薬効が抜けきっていないアシェルは、へらへらと笑いながら頭をふらつかせる。
何かから逃げるような言い草だった。
「牢から出してくれたのはそりゃあ助かったよ。一〇年間も本当に苦労を掛けたね。会えたのも嬉しいかった。だけどまさか……僕に、勇者への復讐をしてもらおうと思ってたわけじゃあないよねえ!?」
「いえ、それは――」
「まさかね!? だってそんなこと、できるわけないんだから。あははは――はは」
言いながら楽しげに身体を動かしてはいるが、アシェルの目には精彩も気力も欠けていた。
……諦念を噛み締めた、絶望の目。
「……見てよ、この身体。ひ弱すぎて転生したときは僕、笑っちゃったんだぜ。地位もな~い、権力も金もな~い、魔法もぜんぜん使えな~~~い! ……ははっ。魔王だったときだって勇者と戦うのは覚悟しなきゃいけなかったのにさ、無理無理無理。できるわけないない!」
勇者ゼクスは、転生直前にこう言った。「呪われるのはお前のほうなんだよ」と。
あれはまさしく言葉のとおりだった。以前、魔王の身体で用いていた魔王族の専用魔法すべてが、強力な呪いによって縛められていた。どころか、人間の魔法さえも新たに学ぶことを阻害されている。
誇張でもなんでもなく、この状態で勇者に復讐するなど奇跡にも等しい難事だ。
「……アシェルさまは、何かおかしいとは思わないのですか?」
「ん~? 何が?」
「アシェルさまが転生をさせられたことです。和平条約の破綻が目的だったのなら、勇者はなぜあえて魔王さまを転生させたのでしょう? 魔王を殺せばそれで事足りたはずです」
「…………」
たしかにあの狡猾な勇者にしては合理的でない、腑に落ちないことではある。
だがあの勇者には、どこか底知れないものがあるのも事実だ。
「あいつは『赤ちゃんを殺したほうがいい』とか抜かす鬼畜だよ? わかんないけど、僕をこうして苦しめるためだけにやったんじゃあないの? ははっ」
「本当にそうでしょうか。アシェルさまは一〇年後にこうして転生させられました。勇者はそれをわかっていたはずです。自分が恨まれることを承知の上で、そんなリスクを冒すでしょうか? 私にはそこにある勇者ゼクスの真意を探るべきだと思うのです」
「……そんなもの、知ってどーするのさ?」
「わかりません。ですがそれこそが勇者ゼクスへの私なりの復讐に――いえ、無念のままお亡くなりになったミアさまを弔う、唯一の方法なのではないかと思っているのです」
「…………」
ミアを唯一弔う方法。
あの惨劇のあと、魔王城に人間の手は入っていない。
勇者に殺された多くの人間たちを含め、ミアの亡骸はあのまま取り残されているのだ。ろくな埋葬もされず――あまつさえ『魔王に騙された愚かな姫』などという汚名まで被させられて。
「好きにするといいよ。僕には無理だからがんばって。そんなことするより、僕はこーやって葉巻吸ってるほうが楽しいや。リーネリアのことは陰ながら応援しようかな、はは……」
アシェルはふたたびカコの葉巻を手に取った。蝋燭に近づけてそれに火を灯す。
その姿を、リーネリアがまっすぐに見つめていた。
「では……アシェルさまは、ミアさまが殺されたことを。――勇者を、憎んではおられないのですね?」
「っ……!!」
ぐしゃりと火種ごと葉巻を握り潰したアシェルの拳が、ぶるぶると震えた。
アシェルが拳を机に叩きつける。
「そんなの、憎いに決まってるだろうが!!」
それまでの酩酊したような態度とは一変して、激しい怒りと憎悪があふれだす。
「僕があの日を……ミアを目の前で殺されたあの瞬間を、一度でも忘れたと思うのか! 今だって毎晩夢に見るさ! 平和を誰よりも愛していた、あの祝いの日のために一生懸命花束を用意したミアの笑顔を、ケタケタと笑いながら殺したあの悪魔の顔を!! 何もできなかった僕の無力さをな……!!」
呪うようにアシェルは想いを吐き出す。
何もかもを奪われた、あの日への無念を。
「ミアは最後まで……最後まで花束を手放そうとしなかった。あの勇者がどこかで
「アシェルさま……」
「できることなら僕だって復讐してやりたい! あの外道を八つ裂きにして、死ぬほどの苦痛で存分に苦しませてやりたいとも! クク……アッハッハッハ! まったくこれがあいつの狙いだったのかもしれないな! 人間と魔族の平和なんてできっこない。本当に憎い相手を許すことなど、絶対にできないって僕に知らしめるのがね! 見事だよ勇者ゼクス、死んでしまえ!」
「そう思うのに……なんで、僕は、こんなにも無力なんだよぉ……。ごめんミア、ごめんあの日殺されたみんな。僕には、なにもできない……ちくしょう」
「いいえ。……できることは、あるかもしれません」
リーネリアがアシェルの両手をそっと手に取った。
「リーネリア……?」
「私ならあなたに可能性をあげられるかもしれません。アシェル、私はあなたに――」
「アーにい! 帰ってきたの!?」
隠れ家の木戸が開かれると、息を切らせた少女が姿をあらわした。
ひまわり色のショートヘア、マラカイトグリーンの瞳。
活動的な印象をあたえるショートパンツとタンクトップ――飛び込んできた少女は、アシェルの姿を認めると、じわりと涙を浮かべて飛びかかるように抱きついた。
「うわああぁん! ほんとにアーにいだあ! 大丈夫、怪我とかしてない!?」
「カリーナ! ……大丈夫だよ。心配かけたな」
「ほんとだよ! あんなクソバカ貴族ほっとけば良かったのに、アーにいってばホンット……。出してくれて本当に本当にありがとう、聖女サマ!」
「いえ……当然のことをしたまでです」
「そんなことないよ、本当に本当にありがとう! ……あっ! でもアーにい今回のことはマジで反省してよね!? アタシたち、ホントに心配したんだから!」
良くも悪くもカリーナがいると空気が一変する。リーネリアとの間にあった深刻な気配は、一瞬でどこかに吹き飛んでしまった。
再会したばかりのアシェルに、カリーナは喜びつつも猛烈な勢いでくどくどと説教しだした。奴隷だったころからカリーナは妹に近い存在だが、今回の件は無用な火種に自ら突っ込んだアシェルにも責任があったため、反論ができない。
その様子を、リーネリアはどこか微笑ましく見つめている。
「だ、だから申し訳ないとは思ってるよ……」
「いつもそう言って何度もなのよーもう! まあそれがアーにいの良いとこでもあるけどさ……だけど今回はガチで牢のなかで死んじゃいかねなかったんだからね? 将来はアタシと一緒に結婚するって約束したじゃん! ちゃんと守ってよ!?」
ギュォッ!! と、ものすごい勢いでリーネリアがアシェルの顔を見た。
「本当なんですか? アシェル」
「え……な、何が? リーネリア……怖いんだけど。しかもなんで急に呼び捨て? あっ、そういえばリーネリア、さっき何か言いかけてなかっ――」
「私は本当なのかと聞いているの」
「いや圧」
魔王だった頃に、まだ敵対していた勇者パーティと対峙したときよりも圧力を感じる。
よくわからない冷や汗を流しながら、アシェルは話を逸らした。
「ところでカリーナ、ラシャドはどうした?」
「あっ、そうだった!」
忘れてた、とカリーナは指を鳴らす。
「ラシャから伝言頼まれてんだった! そのまま残っていろいろ調べるから、アタシは先に帰ってアーにいに伝えてこいって。なんかね、勇者ゼクスが死んじゃったらしいよ」
「は?」
あっけらかんとカリーナは報告した。
―――誰が、死んだって?
あまりにも唐突な、あまりにも突然な話だった。
リーネリアとアシェルが揃って硬直した。二人の思考は完全に停止していた。愕然と、呆然とカリーナを見つめた。信じられないのか、信じたくないのかわからない。
もしかして、聞き間違えだったのだろうか?
死んだ? いま死んだって言ったのか? だってそんなわけが―――
「カリーナ……もう一度、誰が死んだのか」
「いやだから勇者だって。ふたりとも、なんでそんな驚いてんの?」
やはり怪訝そうな顔で繰り返すカリーナ。
アシェルがもう一度、確認した。
「勇者ゼクスが、死んだ?」
「だからそう言ってんじゃん。しかもなんか、自殺らしいよ。それで街はいま大騒ぎになっててさ。ラシャが本当かどうか調べるっていって、それで私に伝言したの」
アシェルとリーネリアは顔を見合わせ絶句した。
ふたりの様子に不安になったのか、カリーナは心配げに問いかける。
「そりゃ勇者は有名人だけどさ……そんなに驚くこと? ひょっとしてふたりとも勇者のファンだったとか?」
いつもなら即刻否定するようなその発言にすら、アシェルは言葉がでなかった。
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