第2話
それは
じとりと湿った冷たい空気。常にどこかで水の滴る音と、這い回る虫の音が聞こえている。
換気も効かないこの狭い空間には、糞尿の悪臭が充満していた。ときおり鼻の奥を刺すようなアンモニア臭が漂ってくる。
天井が低いため立つことさえもままならず、冬は底なしに冷え、夏は地獄のように蒸すという。およそ人が生きるには適さない、苛酷な地下牢獄である。
その
ひと目見て聖職者だとわかる出で立ちである。
濃紫色を基調とした、起伏のあるボディラインが露わな修道女を思わせる衣服。
小さな灯火に照らされる肌は、透き通るように白い。
穏やかな眼差しはかすかも揺るぎなく、桜色のくちびるがこの場に不似合いなほど映えていた。汚濁な地下に舞い降りた
彼女の足が止まった。
囚人として与えられた、ごく簡素な麻の服を身につけている。年齢は十五歳前後だろうか。
ろくな栄養状態にないのだろう、彼は痩せていた。牢内には皿があり、食べ残された麦粥の上を
灯りが眩しいのか、彼はそむけるように顔を
「あなたが、アシェル・アッシュですね」
「…………」
聖女の問いかけに、少年は
しばし黙していたが、やがて彼は気だるそうに口を開いた。
「どうやってここに来た?」
少年の声はかすかに枯れていた。
まるで声の出し方を忘れたかのようだった。
「ここは牢獄じゃない。体のいい処刑場だ。ここに来るのは僕みたいに領主の怒りを買ったやつだけだ。……だけど、あんたは違いそうだ。聖竜教会の聖女か? わざわざ僕を憐れみに来たか」
「あなたは何も悪くありません」
聖女は意に介さずに告げた。
「あなたが捕らえられたのは、ここデルヴィーニュ領の領主家でのことだそうですね。臨時の使用人としてあなたは、その日開かれた社交会の給仕として働いていた。そこであなたは、強引に言い寄られていた若い貴婦人を助けたそうですね」
「…………」
「助けた相手は、デルヴィーニュ領主家の三女であるアラベラ。言い寄ったのはイースト地方はブラッドベリー家の長男オズボーン。ほとんど暴力に訴えかけていたオズボーンを、あなたは止めた。それを見咎めたのが領主のマルコ・デルヴィーニュだった」
マルコは娘がオズボーンに言い寄られていたと知り、喜んだ。
ブラッドベリー家は王国内における有力貴族の一つ。血縁が出来れば心強かったのだろう。しかしそれを阻止した『馬鹿』がいるという。彼が言うには、アラベラが嫌がっていたから助けたのだという。
領主マルコは娘のアラベラに問いただした。それは本当か、と。
アラベラは答えた。――いいえ、私は嫌がってなどおりません。オズボーン様をお慕いしております。襲われるなどもってのほかです。あの給仕が勝手に彼を襲ったのです!
「……三女アラベラは、どうやら他に意中の男性がいたようですね。オズボーンと揉めていたのは敢えて嫌われることで、先方からの求婚を避けようとしていたためだった。そこへ何も知らないあなたが『助けにきた』。結果、領主マルコの知るところになってしまい、保身のためやむなく、彼に好意を抱いていると言わざるをえなくなった」
思い出したのか少年は、うんざりしきった様子だった。
「助けたはずの女から口汚く罵られたよ。『邪魔しやがって。出しゃばるな下民風情が』だとさ。……まったく、昔からパーティではろくな目に合わない……」
「
「……よく調べたもんだね」
「あなたを慕う男の子と女の子に教えてもらいました。とても心配していましたよ」
「ラシャドとカリーナか……」
少年の呟きにはかすかに懐かしげなニュアンスがあった。
彼がここに閉じ込められて、すでに二月が経過しているという。地獄にも等しい環境が、実時間以上に長く感じさせているのかもしれない。
「で……結局あんたは何をしに来たんだ。ここで野垂れ死ぬ僕を笑いに来たか」
「私は聖竜教会の聖女としての超法規的な特権を有しています。出そうと思えば、あなたをここから出すことは不可能ではありません。ですが――それはすべて、これからの貴方の返答次第です」
聖女は屈んで手燭を掲げる。
蝋燭の光がアシェルを照らしあげると、聖女は言葉を紡いだ。
「『竜はまにまに。陽はつれづれに。色めきたつ
聖女がなにか詩のようなものを詠み上げると、それまで一貫して顔を伏せていた少年は、初めて顔を上げた。その表情には、驚きがありありと描かれている。
「どうしてそれを知って―――!!」
眩しそうに目をこらしながら、少年は聖女を見つめた。
そして今度は、はっとして言った。
「君は――待ってくれ。ひょっとして君は、リーネリアなのか……!! ああ、よく見れば面影が……あんなに小さかったのにこんなにも大きく……。今の君の姿をみたら、きっとミアも喜んだだろうな……本当に立派になった」
「っ……!!」
聖女は手燭を投げ捨てた。
泥に汚れるのも構わず、アシェルのもとに飛びついた。必死に自らの手を伸ばして、すぐに彼のやせ細った手を掴んだ。その手は激しい感情にかすかに震えていた。
先程とはまるで正反対だった。
少年は聖女を見下ろし、聖女はまるですがるように手をつかんで俯いていた。それはまるで泣きついた子どもをあやす大人のような、そんな姿だった。
「ここにおられたのですね……」
リーネリア、と呼ばれた女は泣いていた。声は涙声で震えていた。
「この一〇年間、ずっとお探ししておりました。あの憎き勇者の所業で、どこかに転生させられた貴方を! やっと、やっと見つけた――」
「そうか……随分と苦労を掛けたようだね……リーネリア」
「いいえ。貴方さまの心痛に比べればたいしたものではございません」
リーネリアは顔を上げた。
涙に頬を濡らしながら、彼女は微笑んだ。
「お迎えに上がりました、魔王さま」
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