第7話 絹子と豊子とそしてヨネ╱花瓶

 絹子は独り、よく散歩をしていた網走川から続く小さな漁港を歩き終え、かつてはせわしなく稼働していた筈の造船場跡を遠くに眺めた。そろそろ、あの場所に向かおうか、四人で過ごした、あの店に。胸の奥がヒリヒリとした淡い緊張感に包まれはじめた。誰に言われたわけでもないが、この場所に戻ってきたからには、訪れなければ…。けれど、もし建物すら残っていなかったらどうしよう。それはそれで、その虚しさに耐えられるだろうか。或いは全く違う業種の店に変わっていたりしたら…。でも、その可能性の方が大いに高い。いざとなると思うように歩みを進められずにいる自分がいた。立ち止まっては深呼吸をし、また漁港に踵を返しては、埠頭に行き着き煙草をふかして落ち着こうと試みる。その繰り返しを三度目にし、絹子が残り少ない煙草の一本に火を点けたその時だった。


「もしかして、絹ちゃんかぁ?」

どこからか、歳をとった男性の声がする。だが、このしゃがれた声には記憶があった。私はその声がどこから聞こえたのか辺りをキョロキョロと目で探る。

「ここやで、ここ! 目の前やって!」

 私は真正面に停泊している小さな漁船の操縦室裏から、体の半分を覗かせ左手を振っている男性に目をやった。あれは…大村さん?

「ちょっと待っとって、すぐ行く~。」

男性はそう言うと、一度操縦室に入ってからしばらくして、ゆっくりとした足取りで船からこちらに下りてきた。

「絹ちゃん、やね?」

「大村…さん?」

「よぉ~、覚えとってくれたなぁ。おっちゃん、嬉しいわ。やや、おっちゃんやのうて、もう爺さんやけど。あははは。」

 男性は、確かに大村さんだった。人のことは言えないが、相当歳を召されお爺ちゃんの様相だ。だが、このあっけらかんとした関西弁は未だに健在で、私は彼との思わぬ再会に心が波打った。私の中で先ほどまで燻ぶらしていた緊張や不安がふわふわと浮いていく。大村さんは煙草をふかしながらニコニコ笑い、私の横に並んで立った。


「それにしても絹ちゃん、ふけたなぁ。いくつになったん?」

「大村さん、変わってないね。ふふふ。もう、六十二になります。私もお婆さんですよ、気付けば。」

「何を言うとるの、そんなん言うたら俺、いつくやと思う?」

 そういえば、豊子さんから大村さんを紹介された四〇年前に、既に彼は五十代くらいだったように思われる。私が答える前に、彼が持ち前のテンポの良さで続ける。

「御年九十三やでぇ。ほんまにぃ。ようボケもしやんと生きとるわぁ言うて、みんなに驚かれんねん。船もこれぇ、出たら帰ってこんようになる言うて、周りに止められんねんけどまぁ、俺としてはこれ~、なぁ? いつでも準備万端にしとくわけよ。なんでかなぁ。」

 彼は相も変わらず、こちらが何か問うわけでもなく滑らかにしゃべり自然と相手の心を解してくれる。かつて、出産を控えその不安から、私はよく大きなお腹を抱えてここまで散歩に歩いてきていた。その度に、大村さんはかなりの頻度でどこからともなく現れては、その達弁で私の不安をかき消してくれたのだった。あの頃と、そして今、もしかすると何も変わっていないのかもしれない。ふいに、私はあの頃に戻ったような、懐かしい幻想を抱きそうになる。

「絹ちゃん、今どこにおるん? 東京行ってしもて、も~、何年?」

「四〇年は経つかな…。」

「そやわぁ、そんな経つんやねぇ。ほな、まだ東京に?」

「いえ、いや…うん。家は東京に…。」

 私の曖昧な返答に、大村は何かを察したようだった。それに、彼は豊について何も聞かないし、豊子さんたちのことにも自分からは触れてはこなかった。私は何かしらの違和感を覚えた。

「あの、豊子さんのお店って、もう無い…のかな。」

 私は思い切って彼に聞いた。彼は笑みを努めて保ちながらも、どこか遠い目をして黙ってしまった。勝也から聞いてはいたが、網走川に浮かんでいた豊子さんを発見したのは、明け方出港しようとしていた大村さんだったということだ。豊子さんの名前を出しただけでも、黙ってしまうのは自然なことだったかもしれない。私は聞いた傍から後悔して呟いた。

「ごめん…。」

 大村さんは打って変わって、真面目な顔で言った。

「言うとくけど、絹ちゃんが謝ることなんか一個もないんやで。そこ、ちゃんとしい? そやないと、俺、何もできやんよ?」

彼の真剣な面持ちに、私は彼が何かを胸に秘めているのではないかと感じた。

「大村さん、私…。実は探しているんです。あの子…、豊を。二〇年前に突然いなくなってしまって。お恥ずかしいのですが…。」

 しばしの沈黙の後、煙草の煙を長く深く吐き出した大村さんが意外な言葉を発した。

「そやなぁ、俺も、探してきたんやろうなぁ、自分を。」

「自分、を?」

「そや、自分の死に場所を、と言うた方が正しかったんかなぁ。ちゃーんと胸張って死ねる場所に行くんには、自分のことわからんままやと、あかん。そう、思うてな。でもそんなん、見つからんわ。でも、生きとるしなぁ。探し続けるしか、ないんかなぁ。暇やし?あははは。」

「私も、そうかもしれません。」

「そぉか~。豊ちゃん探しながら、絹ちゃんも自分のこと探してるんやわ。きっと。」

 大村さんは、私が豊を探している、ということに何ら驚いた反応を見せなかった。だが本当に、大村さんの言う通りなのかもしれない。私はこの旅で、何を見ようとし、何を恐れ、何を求めているのか。私は最後の一本に火を点けた。大村さんもまた、かつてと変わらぬハイライトを胸ポケットから出し、火を点けた。二人の吐き出す白い煙が、網走川の河口に向かって流れてゆく。大村さんは、呟くように口を開いた。

「あの店、豊子ちゃんの店、まだやってるで。」

「ほんとに!? え…もしかして、徹郎さんが?」

「うーーん、いや、徹郎ちゃんは引退して、あの店舗の管理ちゅーか、貸してる側、ちゅーかな。大家や。んで、普段はなにやら研究やー言うて、二階に引き籠ってんねん。読書しとるらしい。頭ええらしいやん? まあでも陽に当たらんとボケてまうから、たまに俺が連れ出すけどな。そやかて、いつ死んでもおかしくない者同士やし。そんな毎日しゃきしゃき動け、っちゅーほうが無理やけど。あはは…。」

「徹郎さん、まだ、ここにいるんだ。」

「そやで~。会うたら、喜ぶよ。絹ちゃん顔見たら。」

 私はそれには答えず、続けて聞いた。

「じゃあ、お店だけはあって、誰かがスナックをやってる、ってこと?」

「うーーーん、ちゃう。喫茶店やな。」

「そうなんだ…でも、お店はお店として残ってて、私なんだか、嬉しい。」

 徹郎さんが健在で今尚あの場所にいると知り、私は自分の鼓動が速まるのを感じた。だが、彼に会って、何を話せば良いのだろうか。しかも、娘に次いで妻をも失っている徹郎さんに、「豊が失踪した」などと、誰が言えるだろう。私はやはりすぐにでも東京に戻ろうか、という考えすら頭を過ぎった。その想いが私の顔に出てしまっていたのだろうか。大村さんが少し声を張って言った。

「絹ちゃん、行った方がええよ、店。行った方がええ。」

 私は迷った。だが、徹郎さんもいい歳だ。豊子さんと同い年だったはずだから、もう七十二歳か。とすれば、再び会えるかどうかと言えばその可能性は限りなく低いだろう。やはり、今、彼に会って、あれを渡さなければ。

「そうだね。うん…。行ってみる。」

「そうしぃ。それがええ。」

 大村さんは笑顔でそう言うと、いつの間にか立ち上がり、「ほなな~。」と言いながら後ろ手に手を振って、ふらりとどこかへ去って行った。

 私はフィルター間近まで吸った煙草を地面で消し潰し、携帯灰皿にそっと仕舞った。ここからお店までの道のりは、今でもはっきり覚えている。景色が変わろうと、道標が無かろうと、この街の道は今でも真直ぐに、私を帰るべき場所まで導いてくれるのだ。



「コーヒーか、お茶、淹れます。何になさいますか?」

新山はそう言い、カウンターに入っていった。小野寺がにこやかに答える。

「俺は、ほら。雰囲気だけ頂くよ。」

「あ…。」

新山が少し申し訳なさげな顔をしたまま、私の方を見た。

「じゃあ、私はコーヒーで。」

「かしこまりました。」

 店内にコーヒーの甘く朗らかな香りが立つ。そこにいる大人は皆、その香りを頼りに何も言葉を発さずにいた。


 コンコン。


 店の扉がノックされる音がした。私は思わず新山の方を見て、どうするのか目で聞いた。彼は少し微笑んで、首を横に振る。しかし、再び扉がノックされる。新山は少々不審な表情をして扉を見つめながら、私にコーヒーを運んできた。

「なんだろう。」

新山は独り言ち、扉に向かった。

チリン。

彼が控え目に扉を開けた。外にいるのは誰なのだろう。郵便か、配達か。私は首を伸ばして新山の背の奥に目をやろうとした。小野寺もまた顔を扉に向け、そして何かに気付いたのか私に目を向け、何か言おうとしたがやめ、また扉に目を向けた。私は耳を聳てた。

「ゆた…か。」

 女性の声が遠くから聞こえる。新山は何も答えない。また女性の声が聞こえた。

「豊、なのね?」

 新山は、何か決心したようなしっかりとした口調で、その声に答えた。

「はい。」

 女性は消え入りそうな声で彼に問うた。

「入っても、いいかしら。」

「どうぞ。」

 チリン。

新山の後に続いて姿を現したのは、私がここに来るきっかけをくれた人、佐々木絹子だった。彼女の呆然とした顔は、店の奥に座る私に目を向け、驚きを隠せない表情へと変わった。私とて、それは同じだった。

「てん、ちょう?」

「霞、さん…?」

私と彼女は同時に聞き合った。

「どうして…」

「なぜ…」

 またしても同時に聞き合う。

「母さんが、彼女をここに連れてきた、というようなところかな。」

 カウンターに入り水とおしぼりを盆に用意しながら新山が言った。

「それは、どういう…。」

店長、いや絹子さんが少し右に頭を傾げながら、私を見つめる。私はテーブルに置かれたポストカードを表にし、できる限り彼女の近くへ寄せた。

「あっ、あのこれ…。」

 彼女はそれを手に取り、まじまじと見つめて言った。

「これ、あなたがお店の最後の日に渡した。持っていて、くれたのね…。」

「はい。あれから色々あって…、実は今日の今日、思い付きみたいな形でこの子と…、ここに書いてくださった住所を頼りに来てしまいました。」

 私は膝の上で眠っている智花をちらりと見て言った。

「そう。遥々、よく来たのね。」

彼女はそう言うと、恐る恐るといった様子でカウンターに目をやった。見つめ合う彼女と新山から、私は小野寺に目を移した。小野寺は口を窄め、どうしたものか、という表情で宙を見ている。どうやら絹子には小野寺が見えていないようだ。それは小野寺がコントロールできることなのだろうか。だとすれば、小野寺は自分の姿を彼女に見せるかどうか迷っている、ということだろう。そうでなければ私の目に映ることも無いはずだ。私は何を思ったか、咄嗟に小野寺に声をかけた。

「絹子さんですよ、小野寺さん。」

 小野寺は目を丸くし、絹子さんは勢いよく私の目線の先に目をやった。小野寺からは抗議染みた視線を感じたが、私は無視して再度小野寺に声をかけた。

「小野寺さん、せっかくだから。」

 小野寺は絹子さんの方を一瞥し、次いで新山に目を向けた。新山は小野寺に目を合わせ、小さくひとつ頷いた。絹子は新山の目線を追った。そして一歩後ずさりをして、言った。

「あなたまで…。と、いうことは、どちらの。」

「霞さんですよ。」

 小野寺は彼女に答えた。

「そうなの。霞さん、なの。そう、そうなのね…。」

「君と上野駅で別れた後、霞さんになったんですよ。不思議なもので。」

「本当にね。そう、そうね…。本当に。」

 絹子は力が抜けたような様子で、そのまま私の向いの椅子に腰を下ろした。そのまま数秒間、四人はこの状況を整理すべく考えを巡らせているようだった。すると、新山が静かに絹子さんの前へ水とおしぼりを運んできた。

「何に、なさいますか。」

「あ…、ええと…。」

 絹子さんは久々の息子との会話にたじろいでしまっている様子だ。彼女が答える前に新山が口を開く。

「ロイヤルミルクティー、甘めで濃いめ…、もございます。」

「うん、そうね。覚えてたの…。」

「はい。」

小野寺が口を開いた。

「絹子さん、それ、好きですもんね。さすが豊君だ。」

「いえ。」

 豊は少し照れ臭そうに言った。沈黙の中、店内は甘くまろやかな香りに包まれていった。


「おいしい…。」

 新山の淹れたロイヤルミルクティーを一口含み、絹子さんが呟いた。それを聞いた新山が、ふぅ~っ、と深く息を吐く。絹子の目には涙が溜まっている。新山は、それでは、と前置きしてからで絹子さんに問うた。

「徹郎さん、呼んだ方がいいですかね。」

「あなた、徹郎さんのこと知ってて、ここに?」

「いえ、僕もついさっき、小野寺さんからここで僕が生まれたことを知って。ということは、母さんがいつか話してくれた恩人の旦那さん、なのかと…。そうだとしたら、お呼びした方が良いのではないですか。」

「そうよ、徹郎さんは私の恩人、豊子さんの旦那様。今、彼はこの上に?」

「ええ。渋谷さん、僕が誰だか、知ってたのか。それで僕をすんなりと…。」

「徹郎さんが、あなたを助けてくれたのね。」

 絹子の目に溜まっていた涙がぽろぽろと落ちていく。

「ああ、なるほど。そうか。」

 新山は天井に目を向けながら短く溜息をつき、軽く鼻を啜る。そしてゆっくりと二階に上がっていった。



 鼈甲柄の眼鏡をかけた男性が暖簾から顔を出し、一歩前へ出た。その後ろから新山がカウンターへ入ってゆく。絹子さんはおしぼりで涙を軽く押さえ、その場に立ち上がった。

「徹郎、さん。ご無沙汰いたしております。」

「ああ、絹ちゃんだね。よく、よく来てくれた。」

「はい…。」

 二人は神妙な面持ちで見つめ合う。小野寺はどう出るのだろう、私は彼に目を向けた。すると驚くことに、徹郎さんから小野寺に話しかけた。既に小野寺は彼に姿を見せていたのだ。

「あなたは、小野寺駿さん、ですか。」

 あまりに自然な調子での問いかけに、小野寺は少し驚いた様子で答えた。

「はい。小野寺で、あります。」

「豊子から、あなたのことはよく聞いていました。初めてお目にかかります。」

「そうでしたか。豊子さんが…。」

「ええ、あなたには度々助けて頂いたと申しておりました。」

「いえ、自分は…、結局…。」

 小野寺はそう言いかけて、目を伏せてしまった。徹郎さんは、「うん、うん。」と感慨深げに頷く仕草を見せてから、穏やかな声で新山に言った。

「僕は、アメリカンをお願いしようかな。豊ちゃん、君の分も僕がご馳走するよ。」

 徹郎さんは、「立ち話もなんだから。」そう言ってカウンターの一番奥に腰を下ろし、店内を見渡せるように身体を向けた。

「豊ちゃん、君もどこかに座ったらどうだい。」

 徹郎さんが新山に勧める。

「いえ、僕は、ここで。」

「そうか。」


 徹郎さんの様子はいたって穏やかだった。彼はするするとコーヒーを啜ると、ソーサーにカップを置いた。絹子さんが静かに口を開く。

「徹郎さん、豊子さんのことがあってから、音沙汰なく…本当にごめんなさい。それに、豊のこと…、今までずっと知らなくて。あの、いつから、その、お世話になっているのか。」

 徹郎さんがにっこり笑って答える。

「豊ちゃんが来てくれて、もう、二〇年近くなるんじゃないかな。ね? 豊ちゃん。」

 新山が徹郎さんにお辞儀をするような仕草をしながら、「はい。」とだけ答えた。

「絹ちゃん、僕こそ謝らなければならない。大事な息子さんを預かっていながら、君には何も知らせなかった。」

「いえ、謝るだなんて…そんなこと。」

「だがね、僕は僕なりに、豊ちゃんの人生の選択も大事に見守っていたい。そんな想いもあってね。言い訳になってしまうんだけど。」

「渋谷さん…。」

徹郎の想いを聞いた新山が呟く。

「でもね、豊ちゃん。お母さん、てのは子どものことが世界で一番大好きなんだ。いや、その一言に尽きない想いだ。それは分かるね。」

 新山は口をぐっと結んだまま少し黙って、意を決したような目を絹子さんの方に向け口を開いた。

「母さん、僕は…、僕は、恥ずかしいけれど、母さんに迎えにきて欲しかったのかもしれない。ここに。」


―え?


その言葉に、私と小野寺が驚いた様子で新山を見つめると同時に、絹子さんが言った。

「…待ってて、くれたの?」

「ごめん…。」

「ううん、待っていてくれたのね、豊…。」

 絹子さんは拭うこともせず、再び涙を流した。

「家族なんだから、いいんだよ。」

 徹郎さんは新山の発言に驚く様子も無く、やはり穏やかに呟いた。新山と絹子さんの鼻を啜る音が店内に響く。すると徹郎さんが思い立ったようにこう言った。

「そうだ、小野寺さん。僕はいつかあなたに会えるような気がしていたんです。その時のために仕舞っておいた物がありましてね。これは、豊子に頼まれていたことでもあったのですが。少し待っていて頂けますか?」

 小野寺は少し戸惑ったように答えた。

「豊子さん…が?」

「ええ、じゃあちょっと持ってきますね。」

 徹郎さんはゆっくりとした足取りで暖簾の奥に消えていった。絹子さんと新山は目を見合わせている。一方、私は自分がこの場にいて良いのか迷いを感じ始めていた。長年越しの親子の再会、そして小野寺にとっても何か大事なことが起きる、そんな気がした。方や、私は目が覚めてしまえば賑やかな幼児を抱え、彼らにとっては一番関わりの薄い人間だ。私がいると大事な瞬間に水を差してしまうのではないか…、私は僅かに居心地の悪さを感じたが、やはり私が席を外すのは許されない。今さっき聞いた小野寺の話からすると、私がいなければ、小野寺もまたこの場から去らねばならなくなる可能性があるからだ。


 徹郎さんが靴箱ほどの大きさの箱を持って現れた。その箱を小野寺の前まで運び、カウンターに乗せ言った。

「これです。僕は見慣れていた物でしたが、豊子にとってはとても大事な物だったようです。だが、どうしてかは教えてくれなかった。小野寺さんと会える時があったら渡して欲しい。そう豊子から頼まれましてね。豊子が、亡くなる直前のことだった。」

「そうでしたか。では、開けても、宜しいでしょうか。」

小野寺が真剣な目を徹郎さんに向けて問うた。徹郎さんも少し厳かな声で答えた。

「是非、お願いします。」

 そのやり取りを、絹子さんはいつしか立ち上がって見つめていた。新山も私も息を殺している。小野寺が箱に対して正面に体を向き直し背筋を伸ばした。両手を指先まで真直ぐ伸ばし揃えた指先を腰に添え、一度しっかりと敬礼をする。その姿に、その場の空気は一気にピンと張りつめた。小野寺が箱の蓋に両手を添えて開ける。私達は同時にごくりと唾を飲み込んだ。箱が開けられると同時に、小野寺がはっと息を呑む。

「これは…。」

 小野寺は箱の蓋を手にしたまま硬直している。箱の中身が見えたのだろう、絹子さんが思わず口を開いた。

「それ…、豊子さんの部屋にあった、花瓶…?」

「そう、豊子の部屋にあった花瓶なんだ。」

徹郎さんが答える。小野寺は驚きとどこか解せない顔で独り言ちた。

「何故だ。何故…。どうして。豊子さんの傍にいた自分には、もし飾られていたら確実に気付けていたはずなのに。」

 徹郎さんが言う。

「安恵が亡くなってからの数年間、豊子は花を生けなくなっていた。丁度絹ちゃんがうちに来た夜、久しぶりにその花瓶を出したのだと思います。絹ちゃんが店で気を失っている間、豊子に言われて僕は大急ぎで車を走らせて花を買いに行かされてね。でも、僕は嬉しかったよ、豊子が花を生ける。それはとても良い兆しのように感じてね。だが、絹ちゃんたちが東京に行ってから少しして、豊子はまた花を生けなくなってしまった。それから一年ぐらい経って、彼女は安恵の元に行ってしまった。」

 徹郎さんの話を聞いた絹子さんは、その両手を暖めるように揉み合わせながら口元へやり、ぎゅっと目を閉じた。小野寺は言った。

「つまり、俺が豊子さんの傍にいた期間…、そうだ、あの時期絹子さんと豊君はいなかった、その、一年間のことだ。だから、この花瓶を目にすることもなかった…、ということか。」

小野寺は自分を納得させるかのようにまた独り言ちた。そして花瓶を取り出し、自分の目の前にそっと置いた。茫然とした様子の小野寺に、新山が恐る恐る声をかけた。

「小野寺さん、この花瓶は一体…。」

 それは、その場にいた小野寺以外の人間誰もが知りたいことであった。何故、豊子さんという方がその青い花瓶を小野寺に遺したのか。小野寺は懐かしむような顔で天井を仰いだ。そして目の前に置いた花瓶に語り掛けるように話し始めた。


「俺がこの花瓶を見つけたのは、七〇年前、長崎の松ヶ枝町にあるグラバー坂から少し入った小さなガラス店だった。休暇の度、これが最後の帰郷と思っていた俺はまず五島を訪ね、その帰りに立ち寄ったのだ。ヨネは深い青色が好きだった。丁度、こんな青がね。俺は奮発してこいつを包んでもらった。きっとヨネは喜んでくれる、いつも傍にいられなくとも、こいつならどこでも傍にいてやれる、俺の代わりに。そう思った。俺は戦争が終わったら、ヨネと一緒になろう。彼女をあの籠の中から出してやる。そう決めていた。特攻に行く、その話が出るまでは。


 俺が初めてヨネと出会ったのは、兵学校の上官である加山少尉に連れられて行った吉原だった。彼女は御職、つまり売れっ子花魁だった。俺は金も無いが、何故かヨネの方から俺を呼んでくれた。女性経験なんか一つも無かった俺を見かねた加山少尉が金を払ってくれるというから、俺は勧められるままに酒を呑み、いつしかヨネの部屋へ通されていた。だが、半ば強制的に連れていかれた吉原だったし、俺は正直、女を買うなんてことはしたくはなかった。だから初めてヨネと二人きりになった夜、俺は彼女に指一本触れなかった。畳の上で正座を崩さずにいる俺に、ヨネはこう言ったよ。「私、あんたみたいな顔、大好きよ。見てるだけでも嬉しくなっちゃう。でも少しは足崩してくれなきゃあ、私も寛げないわ。」ってね。だから俺はぎこちなくも胡坐をかいて見せた。そんな俺を見て、ヨネは少女みたいな顔して笑って言った。「すごい、私、兵隊さんに命令しちゃったわ。」と。それから一晩中、俺はヨネと語り合った。俺が故郷の言葉で話しても、彼女はそれがなんだか旅をしているようで耳に心地良いと言ってくれた。それで俺は調子に乗ってしまい、色々な話をした。彼女も大いに語ってくれた、「こんなにお客さんと話し込んだの、初めてよ。」と嬉しそうに言いながら。あれは商売用の台詞だったのかもしれないが、俺はその時彼女に惚れた。嘘でもいい、こんな女性と生きていけたら、どんなに俺は幸せか、どんなに頑張れるか。そう思った。


 それからというもの、俺はヨネのことが頭から離れなかった。だからと言って任務が疎かになるわけでもなく、むしろ俄然力が漲った。俺はもっともっと腕を上げて、絶対に生きてヨネを迎えに行く。そればかり考えた。思えば、死ぬのが怖くなったのもその時が初めてだった。その時の俺は、俺の命がある限り、彼女を守れる。そう信じていた。それから稀に休暇が出る度、俺はヨネに会いに行った。方や、ヨネはそれを心配してくれた。お金があるならば、故郷に送ってやらなくていいのか、ってな。だが、俺は所詮客だ。だからヨネも帰れとは言わなかった。ヨネと出会って三度目に、俺はヨネを抱いた。しかし、俺は悔しかった。心底悔しかったんだ、客でいる以上、結局は彼女を金で買ってしまうことになる、ということが。彼女があの街から出られたら、そうすれば俺は純粋に彼女を愛してやれる。それに、俺の知らぬ男に抱かれることなどしなくて済むのだ。そういう気持ちで、俺は苦しかった。それでも、大富豪でも大地主でもない俺に成す術はなかった。だから俺は初めてヨネを抱いた翌朝、ヨネに言ったんだ。「戦争が終わったら、迎えに来る。どさくさに紛れて、俺と逃げよう。長崎に、一緒に帰ろう。」とね。ヨネの泣いた顔を見たのは、それが最初で最後だった。ヨネは俺の話に対して、何か言ってくれるわけではなかった。だが、その涙で十分だった。


 それから一年半程、俺は東京へ立ち寄ることができずにいた。そしてとうとうあの任務が下されてしまった。菊水十号作戦、つまり、特攻だ。ある朝、点呼がとられた後俺達パイロットは皆上官の部屋に集められた。そしてその作戦について知らされた。しかし詳細はなかった、ただ、「十死零生の作戦により国を守る最後の礎となることを期待す。」その言葉で、俺達は全てを悟った。「生きて帰れない」作戦だということ、そして志願者を募ると言われながらにして、これは命令だということを。特攻隊員たちは皆、出撃の前に最後の休暇を与えられた。そこで真に最後の帰郷をする者もいれば、既に帰る家も無く基地に留まる者もいた。俺達はまだ良かったのかもしれない、大村という俺の後輩から聞いた話だと、結局は休暇すら無く飛び立っていった者の方が多かったとのことだ。俺は四日間の休暇を使って、実家のある五島に寄って挨拶をした。そしてこの花瓶を買ってから、ヨネの元へ向かった。


 彼女は勘が鋭い人だった。久々に俺の顔を見ただけで、俺が何かを悟ってやって来たということに気が付いたようだった。いつもならべらべらと喋って過ごす一夜も、その晩のヨネはほとんど言葉を発さなかった。そのかわり、彼女はしきりに俺の心臓に耳を当てていた。「生きてる」そう呟きながらね。店を出る前に、俺はこの花瓶を取り出して、そっと彼女の部屋の窓際に置いた。その意味を、彼女は無言で悟ったんだろうと思う。「綺麗なガラス。私この色大好きよ。覚えていてくれて嬉しい。私、あんたのこと絶対忘れないから。」そう、言ったんだ。


 特攻の任務を受けてから、俺は生きることを考えなくなった。ヨネと出会った頃、あれほど彼女のために生きようと決意したというのに、俺の中で、ヨネを守るために俺は特攻する。そう考えるようになっていった。そもそも、自分から兵隊になった時点で、死ぬ運命を受け入れる覚悟があったはずなんだ。それが敵艦に数発弾をぶち込む程度じゃない、戦闘機諸共体当たりだ。これが成功すれば敵に大打撃を与えることができる。これでいいんだ、これでいい。特攻隊に任命され、出撃できるということは最早最大の使命であり名誉ある特務である、と。俺は徹底的に自分を鼓舞した。そうせざるを得なかった。自分に命など既に無いものと思った。死ぬのが怖い、それは俺にとって、ヨネに会えなくなることと直結していた。だが、日本が負けたらヨネはどうなる? 当時は、敗戦国の女子は皆敵兵に犯され殺される、そんな噂が広まっていた。俺もそれを大いに恐れていた。俺が死んでそんなことにならぬのであれば、その方がよっぽどましじゃないか、そう考えた。「俺が逝けば、ヨネを守れる。」と、毎晩呪文のように自分に言い聞かせた。


 しかし、戦争が終わった。日本は負けた。そして俺にとって初めて課された課題が同じ隊として出撃した大村だった。彼は出撃から一時間ほど飛行した時点で機体トラブルにより帰還した。当時は練習機ですら特攻に使われていた始末だったし、整備兵すら爆撃で少なくなっていたことに加え皆の疲弊も蓄積していた。だから志半ばで帰還を余儀なくされる隊員も多くいた。大村もその一人だ。

 死後、俺は大村とともに戦後の日本を見た。あれだけ忌み嫌っていたはずの、いや、そうさせられていたと言ってもいい、「鬼畜米英」と称していた米英人に手を振って歓迎している日本という国を。俺の命は、共に散った仲間たちの命は、命を命とも思わぬ方法で焼き尽くされた数多の命は、一体何だったのか。そう思うと、感じ得ないはずの痛みで全身が張り裂けそうになった。あの想いは、今でも俺自身の胸をザワつかせるものがある。

 それで、だ。すぐさま俺は、大村に頼んでヨネを探すため東京へ同行してもらうことにした。だが、吉原は焼け野原だった。ヨネのいた店のあったはずの場所は、燻ぶった灰と瓦礫の山だった。当然、ヨネの姿も無かった。


 今になって思うよ。俺が特攻なんか嫌だと言って逃げ出して、無理矢理ヨネを連れて五島にかくまってしまえば良かったのか。そうすれば互いに生きて共に過ごせたのだろうか、とね。だが、そんなことができるだろうか。今の世の中で、急に一人で戦争を始める、そんなことは到底できないのと同じだ。言い訳にしか聞こえないだろうが、俺は自分が生き延びるという考えを思い浮かべもしなかった。

 ああ、何故だろう。自分がこんなことを思っていたことに、話しながら気付いたよ。だが、あれだけの焼け野原になってしまった吉原にあったはずのこの花瓶が、どうしてこのように綺麗なまま…。そもそも、どうしてここに…。」



 小野寺の言葉の後に、誰もが吐息すら音立てることができないでいた。が、しばらくすると新山が口を開いた。

「皆さんおかわり、いかがですか。」

「そうだね、お願いするよ。」

 徹郎さんが優しく答えた。


 小野寺を除いて皆、しばし無言でおかわりのドリンクを啜っていた。小野寺の話の中心にあった、ヨネという女性が受け取ったはずの花瓶が、今ここにある。何故なのか。私だけではなく、皆が同じことを考えているはずだ。すると、急に絹子さんが声をあげた。


「あっ。もしかして…。あの、あの…。」

 彼女の慌てた様子に皆が注目する。絹子さんが鞄の中を探り、古びた封筒を取り出した。

「もしかして、ここに書いてあること…。これ、勝也の育てのお母さんが勝也の形見として私に下さったものなんです。これは、豊子さんが最後に書いたお手紙、です。」

 徹郎さんが初めて恐ろしく真剣な目を見せ、絹子さんの手元に目を注いだ。絹子さんが続ける。

「私、何度もこのお手紙を読みました。今日ここへ来て徹郎さんにお会いすると決めたのも、この手紙をお渡ししたいと思っていたからなんです。でも、今はまず先に小野寺さんに読んで頂いた方が良いかもしれません。」

 そう言って彼女は小野寺に手紙を渡した。小野寺は封筒を両手で丁寧に受け取り、やはりそれに対して一礼してから封筒を開いた。彼が取り出したのは数枚に渡る便箋の束だった。

 小野寺が便箋を捲り終え、それを元通りに畳む。そして封筒を枕に便箋の束を徹郎さんに手渡した。その両手は震え、小野寺は涙を堪えているように見えた。徹郎さんがそれを読み終える。彼もまた、その両目に涙を湛えながら、手紙を新山に手渡した。新山はそれを読み進めては、何度か同じページを読み返し、最後にはとても真剣な目を絹子に投げかけた。その目に応えるように絹子が頷き、受け取った。そして彼女は私に手紙を渡しながら、言った。

「霞さん、あなたのお陰だと思う。今日という日が、訪れたのは。」

「いえ、そんな…。」


 私は恐縮しながらも、手紙を受け取った。その内容は、読み進んでゆくほどに私の胸を強く打ち付けるものだった。ただでさえ、一人の人間が最後に遺した貴重な文章なのだ。しかも、小野寺の語ったヨネという女性が産んだ子が豊子で、その弟の勝也であった、そういうということなのか? その勝也と今の前にいる絹子さんが一緒になり、新山はその二人に育てられた、と。そして最期に花瓶を渡したかった相手が、この世には存在するはずのない、小野寺。ということは、豊子さんは小野寺と話しているうちに気付いてしまったということだろうか…、本当の父親の存在に。

 私は小野寺の目が真っ赤に染まっている理由を悟り、慌てて彼に目を向けた。彼はカウンター席に腰を掛け、その花瓶を両手で愛でるように眺めている。その背中は、酷く小さく丸まっていた。


「俺は、娘を救えなかったんだ。ヨネだけではなく…。誰も、誰一人…。」

微かに聞こえるか聞こえないくらいの弱々しい声で小野寺が独り言ちる。それに呼応するように徹郎さんが呟いた。


「あなたが、豊子の父親だったとは。」


 私は畳み直した便箋の擦れる音すら出せず、悲し気な男の背中を二つ、ただ見つめていることしかできなかった。徐々に店の中を重たい空気が覆っていく。新山は気を紛らわせるかの如く、カップやソーサーを洗い始めた。絹子さんは何か考えを巡らせているような、或いは何かを懐かしむような表情で店の中をゆっくりと見渡している。


「誰も、きっと、悪くない。」

 絹子さんの声に、男たちの顔が少し上向く。新山は動かし続けていた手を止めた。絹子さんが続けて言った。

「誰もが、ちゃんと生きていた。そういう、こと。」

「どういう、意味?」

 新山が訝し気に彼女に問うた。だが、絹子さんはそれらしき答ええは言わず、さらに不思議なことを言い出した。

「私達、こうして会えたのは奇跡なんかじゃない、と思う。」

 私からすればかなりの奇跡に思えるのだが、やはり絹子さんの視点は興味深い所にあるらしい。私は彼女に問うた。

「奇跡じゃない、というのは…。」


「流氷…、ね。うん。私達、流氷みたいなものだと思う。流氷ってね、ロシアと中国に挟まれたアムール川から流れ出た淡水が、オホーツク海と出会って初めて凍ることができるんだって。それで晴れて流氷になるのよ。そしてその流氷がいつも辿り着くのはここ、網走よ。流氷ってね、上から眺めると、それはそれは白くて綺麗な広い氷の世界。でも、実は一つひとつの氷たちが流れ集まった景色なの。」

 いつしか皆、絹子さんの方に体を向け、彼女の話に聞き入っていた。絹子さんは誰を見るでもなく、少し微笑んで話を続けた。

「氷って、面白いのよ。目に見える部分は全体の一部分だけで、本当に重要なのは、海に浸かってる見えない部分なの。だってそこがないと、綺麗に浮いていられないでしょう? 恐ろしく冷たいわ、海の中って。私達もきっと、一つひとつの流氷なのよ。皆、心の海の中に何かしら抱えて流れてる。その抱えた何かを手放した時、やっと溶けて無くなるの。春が来るのよ。そして海になる、ただの海にね。私達は流氷みたいに流れて、流れて、みんなここに集まった。私達はそれぞれ何かを抱えてる。大きさも形も違う氷を、ね。でも、集まったとなれば、春は遠くないってこと。そう思わない?」


「何かを、手放し、春が来る…。」

私は彼女の言葉を繰り返した。

「そう、きっと、そう!」

 絹子さんが明るい声を出した。それは全く嫌味の無い、まるで珍しい石を見つけて喜ぶ少女のような声だった。彼女の一言に、智花がムズムズ上体を起こす。

「のど、かわいたぁ。」

 智花が眠気で赤く染めた頬を見せた。

「おはよう。」

 新山が優しく智花に声を掛けた。つられて皆、智花に声をかける。

「おはよう。」「おはよ。」「おはよう、智花ちゃん。」

 智花は、いつの間にか集まっていた大人たちから次々に挨拶を受け、その目をぱちくりとさせている。

「おやつ、食べちゃう?」

 私は誘うように智花に問うた。彼女の答えは明白だ。元気いっぱいに、「たべる!」と発する智花に、新山が可笑しそうに応えた。

「じゃあ、今日は特別だ。皆さんにホットケーキをご馳走します。智花ちゃんにはミニサイズを三段にしようか。」

 智花は大喜びでその寝癖の付いた髪を振りながらカウンターへ駆け寄った。

「よしっ。」

徹郎さんが智花を抱き上げ、小野寺との間に空いた一席に座らせた。その小さな観客に、ボウルの中身を智花に見せてやるように生地を混ぜながら新山が言った。

「なんだかお兄ちゃん緊張しちゃうなあ。上手く焼けるかな?」

「お兄ちゃんじゃないよ、おいちゃん、おいちゃん、えへへ~。」

「こら、智花っ。」

私は微笑みながら智花を諫め、絹子さんの方を見た。絹子さんは嬉しそうに笑っていた。そして私達は目を見合わせ、また笑った。小野寺は右ひじをカウンターにかけ、手の甲に顔を預けながら智花と新山を見つめていた。彼の目だけは、依然として悲し気だ。

そんな小野寺に新山が茶化すように話しかけた。

「小野寺さんは、食べられない…っすよね。こりゃあ残念っ。」

 智花に小野寺が見えているということに、最早その場の誰もが違和感を抱くことはなかった。小野寺は努めて穏やかな声で新山に応えた。

「いいよ、俺は腹減らないし、想像だけで頂くよ。」

 彼の声は力弱げだが、心なしかその表情は少し開けた。少々過激な冗談ではあったけれど、新山なりの彼への気遣いだったのだろう。そこですかさず、智花が子どもらしい疑問を小野寺に向けて投げかけた。

「なんでおにいちゃん、おなか、へらないの? なんで、なんで?」

「い、いやぁ、そういう魔法に、かかっちゃってねぇ。」

 小野寺が子ども相手に苦戦している様子が、なんだか微笑ましい。

「なんで? どんなまほう? おにいちゃん、まほうつかいなの!?」

「いやぁ、その~、そうだよ~?」

新山の冗談をきっかけに始まった智花の容赦のない追及と小野寺の攻防戦に、その場の空気は穏やかな可笑しさと優しさに包まれた。

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