第6話 小野寺╱戦友

 あの頃とあまり変わらない緑と空、そしてどこからか漂ってくる家畜の匂いを感じ、絹子の胸には懐かしさが押し寄せる。広大な景色の後に続く網走湖の眺めを過ぎると、見慣れない景色が現れる。あの頃には無かったファミリーレストラン、コンビニエンスストア、東京でもよく見るドーナツ店。当たり前だが、降り立ったバス停も新しくなっていた。

 気づけば、あれからもう四〇年以上も経ってしまった。たった二年ばかりを過ごした街だったというのに、やっと帰って来られた、そんな気持ちにさせられる。だが、果たして私はここに帰ってきても良かったのだろうか。


―豊子さん、私、これで良かったのかな…。


バスを降り、しばらくその場に立ち尽くしていた私は、心の中で今は見ぬ彼女に問いかけた。一瞬、体をすり抜けるような美しい冷気が私を通り過ぎていった。豊を生み、育てた街。私のスタートラインだった街。その景色の移ろいの中にあの頃の景色を探すため、私はまだ朧げな記憶を頼りに船着き場の方へと一歩踏み出した。



 出された温かいカフェオレは、鮮やかな黄色とブルーの南仏模様が施されたカフェオレボウルに並々と注がれていた。霞はそれを両手で包み込む。チクリとした熱さの後に、じんわりとした心地よさが指先へと、そして腕、肩、胸の奥まで伝わってくる。智花は赤色のストローを小さな指先でつまみ、片手でしっかりとグラスを押さえてりんごジュースを吸っている。まるで絵本に出てくるミツバチのようだ。


「おいしいです。あったかい。」

私はカウンターの中で洗い物をする男に声をかけた。

「よかったです。ゆっくり休んでいってください。まだまだこっちは、寒いですから。」

 程よい距離間を作ってくれるこの男に、私は初めから親しみ易い印象を抱いていた。そもそも自分から店員に話しかけることなどしない性分だったが、私はその勢いのまま思い切って男に話を切り出した。

「あの、ちょっと探している所があって、お聞きしてもいいですか?」

 男は、んっ? という顔をして、エプロンで手を拭きながらカウンターからゆっくりと歩み出てきてくれた。私はダウンのポケットからポストカードを取り出し、男に手渡した。

「これ、この住所って、どこかお分かりになりますか?こういう、何条とか、番地とかって書かれた住所、あまり見慣れなくて。」

 彼はそのポストカードの表を見ながら、先ほどまで見せていた柔らかな表情を消し、真剣な…どこか驚いた眼でそれを凝視している。何も言葉を発さない彼に、私は何か気の障るようなことをしてしまったかと不安になった。

「あの…すみません、その…。もし私変なことをお聞きしたのなら…。」

彼は表情を変えぬまま、我に返ったような声で答えた。

「いや、ええと、そんなことは無いです。ただ…。これは。」

「これは、なんと言うか…。私の…。」

 私はこのポストカードをなんと表現してよいか分からなかった。冒険の地図、とでも言うべきか。いや、それでは意味不明だろう。すると静かに彼の方から問うてきた。

「この、佐々木…絹子。と、いう方とは、お知り合いなのでしょうか。」

「え、ああ、はい。以前東京で働かせて頂いていた店の、店長、です。」

「店?」

「ええ、喫茶店です。新宿の。」

「喫茶店…、新宿の?」

 彼は、佐々木絹子のことを知っているのだろうか?

私はやたらと真剣に問いかけてくる彼の様子を不思議に感じながらも、聞かれたことにただ答えていった。


「喫茶店…新宿…。それは、いつ頃のこと、でしょうか。」

「そうですね、ええと、もう…七、八年前になるかと。でも、もうお店は畳んでしまったようですが。」

「そうですか…。七年前。その、そのお店はいつから、いつまで…、やっていたのでしょうか。」

「いやぁ、そこまでは。」

「そうですか…。かあ、彼女は、お元気、でしょうか。」

「いえ、私もそれは知りたいところ、というか…。もしお会いできたら、という思いもあって、ここに来たのかもしれなくて。」

「え?」

「あの、ここに、住所が書いてあるってことは、ここにお家があるのかな、って。」

「ああ、そう、そうですよね。なるほど。」

 今度は私が彼に問う。

「あの、この方のこと、ご存じなんですか?」

「いや…、その。僕は…。」


「豊君、か。君は。」

 私と彼は同時に店のドアに目を向けた。そこには小野寺が立っていた。

「あら、いつの間に。」

 私は彼の登場にさほど驚きはしなかった。しかし、ポストカードを手にした彼は違った。驚いていると同時に、何か恐ろしいものを見てしまったというような強張った表情のまま固まっている。無理もない、小野寺はいつでもこの、威厳と威風に満ちた軍服姿という出で立ちだ。この時代、彼を目にした人間は誰だって自分の目を疑って何ら不思議はないだろう。

「あの…あなた、は?」

やっとの思いで、というような声で男が小野寺に問いかける。

「俺は小野寺駿。宜しく。君は、豊君だね?」

小野寺が再び男に問う。しかも、いつになくかなり真剣な面持ちで。私は二人の男の様子をじっと見つめる。ふいに、智花の声がした。

「あ、おにいちゃん。どうしてここにいるの?」

「おお、智花ちゃん。」

小野寺は強張った顔を一瞬解して、智花の方に小さく手を振った。

「ええ…?」

小野寺に目を奪われている男の方は、混乱を露わにしている。

「どうして僕の名前を。それに、あなたは一体。」

「だから、俺は小野寺駿だ。君は豊君、だな?」

小野寺は念を押すように男の名前を再び問うた。男が恐る恐る答える。

「はい、新山…、豊。…ですが。」

「絹子さんの息子、だな?」

小野寺が、信じられない言葉を放った。私は勢いよく、男の方に目を向けた。

「はい。そうです。でも…なぜそれを。なぜ、母のことを?」

「詳しくは説明するが、一言で言えば彼女とは古い友人だ。絹子さんとは君が姿を消してから出会った。」

「そう…ですか。あの、母とはどういう…?」

 小野寺はやっと少しばかり表情を和らげ、答えた。

「君が思うような男女の仲ではないよ。それはあり得ないし、断言する。君のお母さんは、お父さん一筋だよ。たしか、佐々木勝也、といったかな。」

「父さん…ですか。」

「そのポストカードには、お母さんの名前がお父さんの姓になっているだろう。そういうことだ。」

「そうですよね、これは…父さんの、苗字だ。」

新山豊、というらしき男は、両手で持ったポストカードに目線を落とし眺める。

「お母さん探してたぞ、君のこと。今もだろうが。君が生きているか、それだけ考えて生きてきたはずだ。」

「はい…そうだろうと、思います。」

新山は顔を上げることなく答えた。

「まあ君にも、何か事情があったのだろう。俺は君を責めるつもりは毛頭ない。だが、君のお母さんが命を落としかける程に、君を心配していた事実は伝えたかった。ちなみに、君を生んだ時にこの店の上で暮らしていたということは、知っているかな?」

小野寺が人差し指を上に向けて言った。

「ぇえ!?」

新山は声にならない声を出し、顔を上げた。気付けば私は無意識に智花の座っていた青い椅子に彼女を膝に乗せて座り、新山と小野寺のやり取りを眺めていた。

「母から、網走のことは聞いたことはありました。でも、それがこの店だったとは…全然、知りませんでした。」

「そうか。まあ、とにかく、君は帰るべくしてここに帰ってきた。そういうことかもしれんな。」

「はぁ…。」

新山の茫然とした横顔からは、その頭の中の混乱がはっきりと見て取れる。それを小野寺も同じように感じたようだった。小野寺さらに物腰を柔らかくして切り出した。

「俺も、どこか席についても良いだろうか。」

「あ、はい、もちろんです。どうぞ。」

「ありがとう。」

小野寺はそう言って、六席あるカウンターの中央の椅子に腰を掛け、私達の方にぐるりと体を向けた。新山は店少し慌てた様子で、店の看板を「準備中」に架け替えた。私は小野寺に、「どういうこと?」というメッセージを込めて目で訴える。小野寺は左手を腰に当て、反対の手先で顎をいじりながらわざとらしく眉間に皺を寄せた。新山は後ろ手に扉を閉めると、脱力した様子で店のドアからすぐのテーブル席に腰かけた。

「俺のこと、何者かと思っているだろう。よく言われるのが、幽霊だ。」

小野寺は少しふざけた顔で切り出した。その言葉には、私の心も強く惹かれた。なぜなら、これまできちんと彼から彼自身の存在の意味について聞いていなかったからだ。それについて疑問を募らせるより先に智花や夫のことについて頭が一杯で、小野寺という男の存在を自然と受け入れてしまっていたのだ。新山は答える。

「はい。正直なところ、何をどこから驚いてよいのか、自分でもよく分からない感じです。」

「無理もないよ。お母さんのことを見知らぬ女性から聞かれるわ、不可解な格好をした男が突然現れては君の名前を口にした。しかも、君の知り得ないことまで知っているときたら、君の心中は醬油と味噌と塩をごちゃ混ぜにしたような、解せない思いで一杯だろう。」

小野寺は冗談を交えたつもりか、分かるようで分かりにくい例えを言った。沈黙を貫いていた私は、我慢できずに口を挟んだ。

「ちょ、ちょっと待って。まず、あなたが絹子さんのことをよく知っているだろう、ってことは何となく知ってた。だけど、どうしてこの…新山さん…が、絹子さんの息子さんだって分かったの?」

小野寺が、まあまあ、というような手振りで私を軽く制する。

「それも含めて、今から説明するよ。」

「う、うん…。ごめん。」

「いや、俺も気付けば一年に渡って君と関わっておきながら、きちんと俺について説明をしないままきてしまった。それは君の関わりやすさと受容に甘んじていた部分が大きい。申し訳なかった。」

 私と小野寺の不可解なやり取りを、新山はポカンと口を開いたままに聞いていた。

「まず、改めて俺の名前は小野寺駿。享年二十六。人間としては死を経験している。この辺りは霞さんにも、ああ、彼女は杉下霞さんだ。それからお嬢さんは、智花ちゃん。俺から紹介するのも変な話だが。」

 小野寺が新山に対して私たちのことを紹介する形になった。新山は両膝に預けていた両肘を離し、改まったように背筋を伸ばして軽く会釈をしてきた。私も、「あ、杉下霞、です。宜しくお願いします。」と言いながら、彼に会釈した。

「それで?」

 私は神妙な面持ちで、小野寺に話を振った。小野寺は無言で私にひとつ頷き、新山の方を見、少し目線を落としてどこを見るわけでもない様子で語り始めた。それは、とても一度聞いただけでは消化しきれぬような話だった。


「ああ、そうだな…。俺が死ぬ前の概略は霞さんも知っているかと思うが、豊君にも話しておきたい。俺は大正八年、長崎は五島列島に生を受け、その後十七の時に海軍兵学校に入った。それから厳しい訓練を受け、俺は晴れて飛行機乗りになった。そして間もなく支那事変が勃発し太平洋戦争に至った。俺が最後に着任したのは鹿児島の鹿屋基地で、最終的には特攻隊に志願、した。そして戦争が終わる二ヵ月前の六月二十三日夜、菊水十号作戦において神風特別攻撃隊・第一神雷爆戦隊の一員として沖縄へ出撃し、敵艦隊に命中、俺は死んだ。とはいえ、俺は敵艦に狙いを定めた瞬間から、既にこの世の者とは思っていなかった。死んだつもりでいなければ、仮に命をこの手にしている自覚などしてしまえば、あんな作戦に身を投じることなど…。あのG、恐怖、全てを振り切って突っ込むことなど、生身の人間には不可能だった。急降下を始めてからの数秒、目や鼻からは血や内臓が飛び出ているような感覚があった。身体に力が籠っている感覚も既になく、殆ど精神の力で操縦桿を握り続け、超低空飛行の末機体と共に敵艦へ突進した。敵艦を発見してから体当たりまで、その流れは今思うとゆっくりとイメージできる。が、実際は一瞬のことだった。死んだと思われる時、痛みは感じなかったと思う。全ての苦痛からぽっかりと置き去りにされたような、拍子抜けしたような感覚だった…気が、する。


 で、だ。君たちにとって重要なのが、俺が死んだ後のことだろう。

敵艦突入の記憶を最後に、気付くと俺は大村の家の玄関内に立っていた。大村という男は俺の後輩で、同じ隊の一員として出撃した仲間だった。大村の家は大阪の通天閣の近くにあり、それは小さなバラックの一つだった。彼は何もない台所の隅で額を土間の地面に擦りつけるように蹲り、泣いていた。俺は、自分がどうしてそこに立っているのかも分からぬまま、その時はただ、大村が生きていた。と、その驚きと喜びのまま、彼の名を叫んだ。大村は、俺の立つ玄関の方にカッと振り向くと一瞬唖然とした顔をし俺を見つめたが、すぐさま、狂ったようにこちらに立ち向かってきた。しかし、俺をいくら掴もうと殴ろうとしても、叶わなかった。俺には物理的な実体が無かったのだ。俺は、自分が所謂、幽霊になってしまったのか。そう思った。それは大村も同じだったようだ。彼は俺の足元で、また泣き崩れた。「俺は狂ってしまったんやろか。俺はなんで死ねなかったんや? なんで俺は生きてんねん! 畜生、畜生! 小野寺伍長、殺したって下さい! 俺を、殺したって下さい! お願いや、お願いや…、敏江と和子が、待ってるんや…、俺のこと、待ってるんや…。」そう言いながら、大村は叫ぶように泣き続けていたよ。俺はどうすることもできず、ただ彼の傍にいた。彼の肩に手を置いてやることも、胸を貸してやることもできないことが、悔しかった。


 それから大村は、何も飲まず、何も食わず、四日間、ただ畳の上で横になっていた。彼の手には、若い女性が赤ん坊を抱いて微笑む写真がずっと握りしめられていたよ。基地で生活を共にしていた頃、気のいい大村はよく奥さんと娘さんの話をしていたんだ。奥さんとは尋常小学校からの仲で、兵隊の嫁にはやらん、と奥さんの父親に何度も突き返されたが、とうとう結婚できた。子どもも生まれたから、俺は日本を守らなあかん。この戦争に負けでもしたら、女子供は鬼畜米英に大変な目に遭わされる。それだけは俺が阻止してやるんや。俺が家族を守るんや。…そう、言っていた。だが、その家に待っている家族の姿は既になかった。大阪の都心だ、空襲で亡くなったのだ。恐らく、家族という唯一の希望を求めて帰還した大村はそれを知り、自分も死ねたら。と、一度ではなく願ったのだろう。だが、本気で死のうとすれば出来たはずだ。短刀もあるし、首だって吊れる。しかし、彼は時折ぼそぼそと独り言ちてはぼんやりと天井を眺め、ただ横になっていた。その四日間、俺は彼を見守りながら、俺自身についても考えた。俺は死んだのか? その疑問を晴らすべく、新聞やラジオを求めて彷徨った。もちろん俺も家族の元に、と願ったが、大村から距離が離れすぎると、いつも振り出しに戻るように大村のいる家に戻ってしまった。その不思議な現象に、俺はやはり死んで幽霊にでもなってしまい、大村に憑りついてしまったのかもしれない。そう思うことにした。


 大村が寝食せずに横になって五日目、大村の衰弱はいよいよ放っておけないところまで達していた。俺は我慢できず彼に声をかけた。「お前、俺みたいになるなよ。」と。その時、大村は初めて俺の目をしっかり見つめてきたよ。それから、俺と大村の奇妙な共同生活が始まった。大村は闇市で商売を始めた。俺はそこで用心棒のような役を買って出た。そうやって過ごしていたある日、偶然か必然か、俺は俺と同じような存在と出会った。それは佳代という若い女だった。その日の夕刻時、大村の商売がひと段落したところで俺は闇市近くの辺りをふらついていた。すると小さな寺があってな、昭和とは思えない、江戸時代からやってきたような出で立ちの若い女が地蔵の前で泣いていた。彼女は朱色の浴衣のようなものを一枚羽織っただけで裸足だった。黒く長い髪は乱れ、半分ほど後ろに垂れ流していた。その出で立ちに、何か酷い目にでも遭ったのではないかと心配になった俺は、聞こえるわけもなかろうが…と思いつつも、「大丈夫ですか。」と声をかけた。すると彼女は物凄く驚いた様子で俺を見たな。そしてこう言った、「私のこと、見えるん?」ってな。それは俺も同じ気持ちだったから、「君も、俺が見えるのか?」と聞き返したよ。それで俺達は、互いに同じような存在であることを理解した。

 それからしばらく俺達はその寺の隅に座り込み、話した。佳代は、俺の見立て通り江戸の人間だった。そして吉原で働いていた花魁だったそうだ。だが、身請けの話を出しては引っ込め、の惚れた男がいたらしい。佳代はその男を信じ、ついに身籠ってしまった。しかしそれを知った男はそれ以来一度も佳代に会いには来なかったのだそうだ。佳代は絶望した。お腹の子を産もうと決めてはいたが、身請けがされないのであれば諦めるしかない。だが、それには時間が経ち過ぎていた。佳代はある晩、自分の部屋で客が寝付いた時を見計らい、剃刀で首を掻ききって死んだそうだ。それが安政二年と言っていたと思う。仮にお腹の子を産んでも、その子はこの吉原で生きていくか、それ以下の所に売られていくしかない。そうであるならば、いっそのことこの子と死んで、一緒にあの世で幸せになろう。そう思ってのことだったらしい。だが、実際はそうはならなかった。彼女は悲しそうに微笑みながらこう言った、「死んだと思ったら、この通り、楽になるどころか出口のない時間の波を彷徨っているのよ。」と。あの、彼女の寂しそうな横顔は忘れられないよ。

 

 しかし彼女は俺に重要なことを伝えてくれた。佳代曰く、同じような存在の者に出会ったら言い伝えろ、と彼女に伝承した者から言われたことなのだという。それは、〝私達のような存在は、「何か」を見つけなければ真に死ぬことはできない。「何か」とは何かも、一から自分で探し出すしかない。そしてそれを見つけられるまでの間、私達には課題が課される。その課題とは、ある特定の生きている人間との関わりである。課題は一人で終わるとは限らない。ついに私たちが「何か」を見つけた時、その時点での課題対象は最後の課題となり、来る最期の時、一度だけ生きている人間の体を借りて話をすることができる。但し、話す相手は子どもに限られている。それを終えた時、私たちはやっと真に己の望んだ幸福に身を投じることが出来る〟という話だった。それから佳代はこうも言った。

 「決して課題の対象となっている人物を、物理的に助けることはできないのよ。私はそれを悟ったわ、この九〇年間でね。私たちは悪霊でも守護霊でもない、もちろん神でも仏でも。だって何もできないのだもの。私たちに残された希望は、課題というやつをこなしていくだけ。そして、「何か」を見つけるの、それだけを考えるのよ。それから、時間の概念を持っておくことは大事よ。格好も死んだ時から変えられないし、だってほら、熱くも寒くもないし、痛くも痒くもないからね。だからつい、時間の流れを忘れてしまうの、視界だけで四季を感じなきゃいけないのって、意外と大変よ。でも今は、時計とかカレンダー? という便利なものが至る所にかけてあるでしょう? あれを使うのよ。」と。

 

 俺は軍にいたから、もちろん暦はおろか時間の概念は必要以上に重要視していた。だが、言われてみれば温感や痛覚という感覚がまるで無くなっていること、時間の流れや期限があることにも疎くなっていたことに気付かされた。その頃佳代は、自分よりも若い、とはいえ死んだ時の年齢よりも、という話だが、一五歳の女の子が課題となっているとのことだった。そしていつもこの時間になると、この寺の小さな地蔵を参っては、自らの手で無に帰してしまった我が子に謝り続けているのだという。しかし、俺達は二度と会えないだろう、そうも彼女は言った。何故か、と俺が問うても彼女は、「そういうものみたい」としか答えなかった。俺は翌日も、翌々日も初めて佳代に会った同じ時頃にその寺に行ってみた。だが、彼女の姿を見ることは二度となかった。俺は彼女の話を信じた。


 それからというもの、約七〇年間に渡り俺は佳代の話通りに、課題と向き合い続けることとなった。そして時として同じような存在と出くわすこともあった。そして俺は俺達の存在について、佳代から聞いた話を伝承した。それで、だ。俺の課題であった人物というのが、大村、見知らぬ中学生の男子、次いで中年の男、そして豊子さんという女性、それから絹子さん、霞さんあなた、だ。


 ちなみに大村との別れは、彼と関わって数年経ち、突然彼が旅に出ると言い出した頃だった。旅とはいえ、どこへ行くのかと俺が問うと大村は言った、「海だ」と。それで彼は知り合いのつてを頼って漁船に乗ることになった。その漁船は長い時には一年かけて外国の漁場で操業するエビのトロール漁だというから、俺は危険も多い、良く考えろ、そう言ったよ。だが、彼の決心は堅かった。彼は大阪から北海道の釧路港へ向かう朝、俺にこう言った。

 

 「俺は元々、海で死ぬはずだった人間や。せやかて、ただ海行ってぽちゃんと落ちて死ぬゆうのも、面白ないやろ。あんなぎょうさんでっかい戦闘機乗り回してたもんが、ぽちゃん、は面白ない。せやから、俺はこれから海で生きてやるんや。もし沈没したかて、それはそれでええんや。どうせ死ぬなら死ぬまで生きて、父ちゃん外国行って死ぬほどエビ獲ってきたんやで~! 言うて、敏江と和子に自慢してやるんや! 俺はやったるで。だが、お前は着いてくるな、俺は、一人で行く。」


 ・・・とね。大村がどうしてそう決めたのか、それに何かきっかけがあったかどうかは分からない。だが、俺はかつて自分が励まされた大村の明るさと大きな口ぶりを目の当たりにして、とても嬉しい気持ちになった。その晩、最後のフェリーで大村は旅立った。それ以降、俺達は会うことはなかった。そこで俺は初めて課題の変更の瞬間を迎えた。それは突然で、物凄い頭痛と眩暈に襲われた後、気付くと次なる課題の人物の傍に立っている。そんなことの繰り返しだ。


 そんなわけで、俺がどうして君、豊君のことを知っているのか、君のお母さんのことを知っているのか、分かってもらえるだろうか。君のお母さんとは、先ほども言ったが、君が消えてしまってから関わりが始まりつい去年までの約一〇年を共にした。とはいえ、絹子さんはあまりよく喋る方ではなかったから語り合うような機会は殆ど無くてね、最初は大層怪しまれたが、俺は彼女のやる喫茶店の用心棒として静かに彼女を見守るような形をとっていたよ。あまり多くを語らなかった絹子さんだったが、君、豊君についての想いはよく聞かされた。夜中、彼女が眠れずに深酔いしてしまったりした時なんかは、特にね。その中で、ここの店をやっていたという豊子さんとの関わりも小耳に挟んだことがある。絹子さんが俺の存在を納得するようになった、というのも、豊子さんが遺した手紙というものの中に俺の名前があったからだそうだ。それも絹子さんの前に豊子さんが課題対象であった俺としては、とても感慨深いものがあったのだが。うむ、大体が、こんな話なのだが。伝わっただろうか…。」


 

 話終えた小野寺が、私と新山の顔を交互に見つめた。私も新山もまた、小野寺を見つめ固まっていた。智花は私から伝わる体温の中、小野寺の話を子守歌代わりにし、いつのまにかすやすやと寝息を立てていた。

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