第5話 霞╱冒険

 ここのところ、智花が良く癇癪を起すようになっている。もう四歳になろうとしているというのに、今までの反抗の仕方とは明らかに違う様子が目立つ。昨日、幼稚園の担任から折り入って話はあるということで、お迎えの一時間前に幼稚園の面談室まで呼ばれて行った。子どももいない、学生に毛が生えたような担任と五十代ほどの主任教諭が私を仰々しいほどの柔らかい物腰で迎え入れた。一通りの挨拶を済ませ、草々に主任教諭の持田先生が口を開く。


「お母さん、最近育児の方で何か悩みなどありましたら、もしよろしければ伺いたいな、と。そして、何かお手伝いできることがあればと、思うのですが…、いかがでしょう?」


 わざわざ折入った話と言われて来ているのに、そんな下手なオブラートは私にとってまどろっこしいだけだった。私は質問に質問で答えた。


「智花、何か園で問題を起こしているのでしょうか?」

「そうですね、問題、とまでは表現し兼ねることなのですが。」

「何か他のお子さんにご迷惑がかかることなど、しているのでしょうか?」

私は本題が見えてこない苛立ちと、これから何が話されるのかという不安で足早に反応してしまう。さらに柔らかい口調で持田先生が答える。

「実は、ここ一ヵ月ほどの智花ちゃんの様子に、すこし心配なところがありまして。と、申しますのは、智花ちゃん、時折自分で自分の頭をぶったり、お漏らしをすることが多くなっています。頭をぶってしまう時に担任が止めにかかるとすぐに止めてはくれるのですが、その後どうしてそんなことしちゃったのか聞いても、あまり覚えていない様子でして。それからお漏らしをしちゃう時にも、おトイレしたい時は我慢しなくていいんだよ、と担任が言いましたら、「めんどくさい」と言っていたそうで…。」

「え…。」

何をどう反応すればよいのか私は分からず困惑した。そんな私の様子も予想していたのだろう、持田先生が付け加えた。

「この年齢のお子さんには、発達段階として赤ちゃん返りですとか、言葉にできない感情の表現に戸惑ってしまうですとか、往々にしてあることではあるんです。ですから…」

 持田先生が話し終える前に、私は呟くように声を出した。

「私の、せいなんです。」


担任と持田先生が軽く目を合わせた。私の目からは、ひとりでに涙が流れていた。今まで隠し通せておけたと思っていた私のストレスは知らず知らずのうちに娘の心を追い詰めていた。そう思うと悔しくて申し訳なくて、どうしようもない。自分で自分の頭をぶつなんて、そんな、四歳の子どもが…。私は茫然と目前のローテーブルの上に目線を漂わせていた。


「お母さん、大丈夫ですよ。お話できる範囲で、お聞かせくださいますか? 智花ちゃんのためです。」

 実習生さながらに存在感を消していた担任が急に身を乗り出し、真剣な声で言った。しかし持田先生がその若い担任の勢いを優しく制するように、こう言った。

「お母さん、無理に全てをお話して下さらなくても大丈夫ですよ。ただ、今日は智花ちゃんがお腹の中にいた時を、少し思い出してみてください。お母さんが嬉しいとき、楽しいときは、お腹に触れてその気持ちを伝えたり、言葉にして話しかけたりしてあげませんでしたか?そしたら、お腹にいた智花ちゃんはどうだったでしょう?反対に、お母さんが無理してしまったり、辛い気持ちや不安な気持ちになった時、お腹がキューっと張ってしまったりとか、胎動が激しくなったりしませんでしたか?」

「そう…、ですね。すごく昔のことみたいですけど、思い出します。」

私は消え入りそうな声でそう答えた。持田先生が続ける。

「そうですよね、もう四歳になる智花ちゃんですが、まだ、お母さんのお腹から出てきて四年しか経っていないんですよね。子どもというのは不思議なもので、お母さんの気持ちとか、状態とか、そういうものをすごく感じるようなのです。それは、仮に離れた場所にいても、です。子どもに限らず、母子という関係の上では、それ以外の関係では感じ得ない繋がりの強さと言いますか、通常の人間関係では越せない壁を越していく瞬間もあるのは、大人になってもあることです。それだけに、まだ四歳の智花ちゃんにとって、お母さんの存在の大きさはとても大きいわけですね。」


 つまり、私の負の感情や状態が、智花の異常な言動を引き起こしている、ということが言いたいのだろうか。私はつい身を固め、言い訳にならない言葉を繰り返した。


「私のせい、なんです。すみません…。」

「いいえ、お母さんを責めているわけではありません、安心してください。確かに、智花ちゃんに現れている行動とか、言葉は、ポジティブなものに見えにくいものでは、あります。ですが、それをお聞きになったお母さんが、ご自分のせいだと感じられてらっしゃるということは、思い当たる何らかの変化などがあることと思います。それが今回は仮にネガティブなものだとしても、智花ちゃんは素直にお母さんの変化に影響を受けている、ということになります。それはお母さんと智花ちゃんのつながりがしっかりある、ということでもあって、お母さんが智花ちゃんに注いでいる愛情を智花ちゃんが素直に吸収する関係性が出来ている、と私どもは考えています。」

「はあ…。」

「はい。そして、大事なのは、お母さんの愛情を全身で吸収している智花ちゃんだからこそ、愛情の源であるお母さんのちょっとした変化にも大きく反応が出るということです。つまり、これは智花ちゃんに頭を叩くのを辞めさせたり、お漏らししないよう働きかけていくことを繰り返すというよりも、お母さんの悩みとか、辛さとか、そのへんをクリアにしていって、結果的に智花ちゃんにとって心地の良い状態として愛情を注いであげることを大切にしていった方が良い、ということです。」

「クリアに、ですか。」

「悪いものを取り除く、という意味では無いんですよ、お母さん。いつだってポジティブなことばかりでもなければ、時には子育てだけとっても後悔するようなことも度々あるのが、自然なことです。ただ、子どもが吸収して心地よい愛情の源には必ず、〝自分を大切にしている〟お母さんが、います。」

「自分を、大切に? 私を?」

私は少し拍子抜けしたよう顔で、自分の胸に指を差して聞いた。

「はい、お母さんが、お母さん自身を、です。強いて申し上げるとすれば、お母さんでも、奥様でもないご自身も、です。」

「それは…そんなこと、考えもしませんでした。私は…」

「お母さん。ですよね。だけど、智花ちゃんのお母さんを支えているのは、お母さんでも、奥様でもない、ご自身の安定です。」

私が言いきる前に持田先生は言い切った。私は答えた。

「少し、家で考えてみたいと思います。」

「そうですね、でも、決して考えすぎないでください。もし、泣きたい時があったら、智花ちゃんに一緒にいてもらうのも、ありですよ。お母さんのダメなところ、いや、言い方が変ですけどね、泣きっ面も見せてあげてください、たまにはお母さんから頼りにされることも、智花ちゃんにとって嬉しいことかもしれませんよ。」

持田先生はオブラートに包まれぬ笑顔で、そう言った。

 智花の様子についてはよりきめ細かく見ておくよう配慮すると言われ、私は彼女たちに深々と頭を下げ、面談室を出た。ただ、このまま智花のいる教室まで真直ぐ向ってゆける気がしなかった。足に力が入らないのだ。私は廊下の角を曲がった所で立ち止まってしまった。

「お母さんでも、奥様でもない、自分…。」

 ごく小さな声で、私はつぶやいた。それはとても安心するようでいて、末恐ろしい言葉であるようにも感じた。私が私でなくなってしまうような、私が私であること自体が存在しないかのような。何者でもない自分など、一体どこに在るというのだろうか…。



「考えるな、感じろ。」


どこからか小野寺の声が聞こえ、私は周囲を見渡した。彼は数メートル先、智花のいる教室の前の廊下で壁に背を持たれかけながら腕を組んで立っていた。教室のドアには約五十センチ四方の窓があり、彼は窓越しに子どもたちの様子を眺めているようだった。


「その言葉、どこかで聞いたことがあるわ。」

 私は彼の傍まで歩いて行き、彼に倣って壁に背をもたれて言った。幸い、まだ活動中の時間だからか見える範囲に職員は見当たらない。私は彼との静かな会話を続けた。

「ああ、ブルース・リーの言葉。」

「よく知っているね。」

「あなたこそ…その、よく知ってるわね。」

「ああ、死んだ後のことでも有名なスターのことぐらいは目に入るよ。」

彼は面白そうに皮肉って言った。彼が独り言のようにつぶやく。

「子どもはいいなぁ。嫌だと思ったら、すぐに泣いたり喚いたりする。」

「そうね。」

「かと思えば、次の瞬間ケロッと笑ったりしている。」

「そうね。」

 確かに彼の言うように、子どもの、特に幼児の瞬間的な感情表出の切り替わりやその素直さには、時として羨ましさも感じるものがある。

「あ、智花ちゃんだ。」

 彼が指をさして私に教える。教えられるまでもなく、私も智花の姿をすぐに捉えてはいた。智花は小さい紙と色鉛筆を持って席についた。そして前屈みになり、一生懸命に何かを描き始めた。その真剣な面持ちに、私はしばらくその様子を見てみることにした。

「智花ちゃん、何を書いているか知ってるかい?」

小野寺が穏やかな声で私に問う。

「え? 今?」

「そう。でも、いつも。」

「わからないわ。」

「手紙、だよ。」

「手紙? でもあの子、まだ字も書けないわ。」

「いや、手紙なんだ。ママへの。」

「私への?」

「そうさ。君が迎えに来る時間の少し前になると、書き始める。」

「あなた、よく智花の様子を見に来るの?」

「ああ、いけなかったかな。」

「もし人間だったら通報するところだけれど、あなたなら良いわ。」

「ははは、すまない。出過ぎた真似とは承知だが、君もわかっているように、俺も智花ちゃんの様子が気になっていてね。」

「そう…。」

しばらく沈黙が続いた。小野寺がまた独り言のようにつぶやいた。

「俺にも子どもがいたのなら、何をしてやれただろうな。」

 私はその独り言のような問いかけに、何も答えることができないでいた。

 智花が作業の手を止め、前屈みだった姿勢を正した。先ほど面談室で会った若い担任が教室に向かってきた。軽く会釈をして、私は智花を迎えに教室に入った。



 晴れた土曜の朝、智花はリビングでアニメに夢中になっている。私はその合間に染み付いたシンクの汚れと格闘していた。

夫の宗和が遅く起きてきたと思ったら、慌ただしく身支度を整えている。きっとまた、お客からの電話で起こされそのまま訪問へ向かうのだろう。私は手を止めず、コーヒーの一杯も入れずに作業を続けた。


「いってくる。」


 宗和が私の背中に声をかける。私は振り向きもせず、「うん」とだけ答えた。その味気ない態度に、宗和は小さくため息をもらしながら玄関に向かった。スーツに着替えた宗和を見た智花が、ササッと立ち上がりパタパタと玄関まで宗和を追いかける。私はスポンジを握る手を止め、玄関の方に耳を聳てた。


「いってらっしゃーい!」

 智花が父親を見送りに行ってくれたのだ。

「おお、ともちゃん。じゃあね!」

じゃあね、とはなんだ。友達じゃないんだぞ。私は苛立ちながらも父娘のやり取りを黙って聞いていた。智花が焦った声で言う。

「おみあげはねぇ、ともかねぇ…」


バタン。


 なんということだ。智花が話しかけている途中だというのに、玄関の扉が閉まる音がした。私は夫の無神経さを疑った。無意識に握り潰していたスポンジから溢れ出た濁った泡が右手を覆いつくしている。私は急いで手を洗い流し、智花がいる玄関へと体を向けた。  

智花は独り黙々と、下駄箱から私の靴を出して並べていた。並べる、というよりも敷き詰めている。私は彼女の作業の邪魔をしないよう、なるべく柔らかい足取りで智花に近づいていく。智花が私に気づいて顔を上げる。


「ともか、おくつやさんになったの。」

「そうなの、お靴いっぱい売ってますねぇ。」

 父親から十分な対応をされずにモヤついた気分を、遊んで切り替えようとしているのだろうか。私はそのまま智花の遊び相手をすることにした。小さな店員さんの手で、玄関の床が靴で埋め尽くされた。智花が大きな声で私に言う。

「いらっしゃいませー! どれにいたすます?」

 まだ言い間違いの多い智花の言葉に、私の顔も素直に綻ぶ。

「そうねぇ、じゃあその赤いお靴、くださいな!」

「こちらですねぇ。ふくろに、いれますかー?」

「はい、お願いします。」

「しょしょー、おまちくださいっ。」

 智花は玄関の壁にかかっている私の買い物バッグを手に取り、そこに赤いパンプスを入れ始めた。いつもであれば、「それは食べ物を入れる袋だからダメよ」と制していたかもしれないが、智花の真面目な姿に負け、私はそのままその様子を眺めていた。やっとできた!というような表情で、私の顔を見上げて智花が言う。

「おまちどう! いっちょあがり!」

 お寿司屋さんの真似っこと混ざってしまっているのであろう智花の成りきった様子に、私はついケラケラと笑ってしまった。

「なんでわらったの?」

 智花が不思議そうな顔をする。

「ううん、上手だね。それ、おいくらですか?」

「ええとねぇ、にひゃくえん! いただき!」

「頂きます、でしょ? んふふふ。」

 私が可笑しそうに笑いながら言う様子に、ふふふふ、と智花もつられて笑っている。私はエプロンの端に挟んだままにしていた洗濯バサミを取り、「チャリーン!」と言いながら彼女の手の平に乗せた。智花は満足そうな笑みを浮かべている。

「はい、おあずかりしました。ええと、おつりです。ちゃりーん。」

智花はそう言いながら、私の手のひらに透明のお釣りを渡してくれた。

「ありがとうごさいました! またきてね!」

「はい、また来ますね。」


 私たちはお店屋さんごっこの調子そのままに、商品を棚に並べようということで出された靴を一足ずつ丁寧に下駄箱へ戻すことにした。こうして懐かしく美しい靴たちと向き合うのは久々だ。

この黒いパンプス、ヒールが高くて随分と履いていないが、妊娠前まではお気に入りでソールを張り替えながら頻繁に履いていた。それにこのベージュのパンプスは、肌の色が綺麗に映えるから、男と会う時には足首を出して素足で履いていた。そうそう、このサンダル。伊勢丹で一目惚れして買ったは良いものの、見栄えは良いが痛くて歩けたものではなく、今ではたまに眺める目の保養になってしまっている。いつから私は平坦で機能性ばかりを重視した靴ばかり履く女になってしまったのだろう。夫の帰りを心待ちにしていたあの頃までは、多少無理をしてでも靴だけは気を遣って女性らしいものを履いていた。そんな頃も今も昔か…と、私はぼんやり過去の相棒たちを眺めては並べていた。


 すると、すぐ横でカツカツとヒールの音がした。智花がバッグから出した赤いパンプスを履いていたのだ。その小さな体と足にはあまりにも大きすぎるそれは、智花にとても似合っていた。

「ママ、ともか、すてき?」

 満を持したような顔つきで、智花がこちらに向けてポーズをとった。私は無性に誇らしい気持ちになった。なんというか、女に生まれてよかった、そんな気分だ。

「すてき。すごく素敵よ。でも、ちょっと大きすぎるかなぁ?」

「でもママ、ともか、これはいておそとあるきたいの。」

 いつかこの子も、その足に十分フィットした綺麗なパンプスを履いて玄関を出て行く日が来るのだろうか。そんな日は、どんな予定があるのだろう。きっと嬉しくて足の痛みなど忘れてしまうような日に履いていくのだろう。私はふいに思い立って、智花に言った。

「ともちゃん、これからママとおしゃれして、お出かけしようか!」

 智花は嬉々とした瞳で答えた。

「うん! やったぁ! おしゃれしなきゃ!」

 そう言い残し、智花は足早に自分の洋服ダンスに向かって走っていってしまった。私はその背中を微笑ましく見送った。

 私は乱暴に脱ぎ捨てられた赤いパンプスの足先を玄関の外に向けて揃えて置いた。


 今日はこれを、履いて行こう。



 約5年ぶりに降り立った原宿駅は、その人混みはそのままに、しかし初めて訪れたかのような新鮮な空気を感じさせた。都内とはいえ郊外に住んでいるため、バスと電車で一時間もかかってしまったが、智花を連れていても思っていたよりすんなり到着することができた。時計の針は午前十一時半をさしている。私は智花を連れてまずは明治神宮の鳥居をくぐることにした。初めて見る特大の鳥居や、森の中を歩いているような景色に智花は目を輝かせ、ぴょんぴょん跳ねるように歩いている。お参りを済ませ、私たちは境内の食堂でカレーとうどんを分け合って食べた。隣の土産店では、背面に富士山と桜の絵が施されたお揃いの手鏡を購入した。智花はそれを自分の肩に下げてきた小さなポシェットに大事そうにしまった。


 お腹も満たされ良い空気を吸ったからか元気が出た私達は、その勢いでかつて私のよく通ったテナントビルやブティックに向かって行った。そこでは偶然に、智花にぴったりの赤いエナメルの靴が売っていた。すぐに履けなくなるとは百も承知で、私は智花にそれを買ってやった。敢えて子連れで入店した方が、あたかもこの土地を普段使いしているような根拠のない優越感を得られることは、都心の不思議である。ましてや子どもに何か買ってやる余裕があるということは、店にとっても上客に映るのだろう、対応も丁寧になるはずだ。智花がどうしても買った靴を履いて歩きたいと言うので、私はやけに丁寧な店員にここまで履いてきたスニーカーを包んでもらうよう頼んだ。店員は快く対応してくれた。かつて自分で自分の物をここで買った時よりもずっと、その買い物には快感を覚えた。


 店を出てしばらく表参道を青山方面に歩いていると、智花の歩みがぐっと遅くなったことに私は気づいた。私はしゃがみ、智花に小さく尋ねた。

「おしっこ行きたい?」

 幼稚園で聞いた話が頭にあるからか、私は少しばかり臆病な声を発してしまったかもしれない。智花は、申し訳なさそうな表情で答えた。

「うん。でも、いい…。」

 私は即座に、娘に対する遠慮がちな気分を振り切って言った。

「よぉし! 行くぞぉ!」

 私は智花をおんぶして、トイレのありそうな建物に目星をつけ、走り出した。

「えっさ、ほいさ、どっこいしょっ。えっさ、ほいさ、どっこいしょーっ。」

 私は自然と、智花がお腹にいる時から息が切れそうになると呟いていた言葉を繰り返していた。その掛け声に似た言葉に智花はケラケラと笑い始め、いつしか二人一緒に口ずさんでいた。ほど近くに、表参道ヒルズたる商業施設があってくれて助かった。私は急いでトイレに向かったが、そこでは土曜日ということもあってか数名が列を成していた。しかしこれ以上移動しても間に合わない…そう諦めかけた時、智花が叫んだ。

「もれちゃうよー!」

 私は咄嗟に、「しっ。」と智花の声を制そうとしたが、次の瞬間一番前の老婆が振り返って言った。

「お嬢さん、急いで。私の前においでなさい。」

 私は焦った。周りの目が気になることも去ることながら、ここでお漏らしをされることの方がよっぽど大変な事態なのだ。老婆は繰り返した。

「ほらほら、お母さん、空いたからお先にどうぞ。」

 老婆はそう言うと、その後ろに並んでいた婦人方に嫌味のない笑顔で会釈した。私はその老婆と婦人方に大きな声で礼を言い残し、勧められるままに開いた個室に智花と入った。便器の中に落ちていく小便の音を聞きながら、

「はぁ~~、間に合った!」

私はつい独り言ちた。そして私と智花は二人でクスクス笑った。ただおしっこを漏らさぬよう奔走したというだけのことだが、そこには親切な老婆との出会いもあり、底知れぬ達成感を私たちは共有していた。


 トイレを出ると、走ったこともあってか急にお腹が減ってきた。それは智花も同じだったようで、私たちはそのままこのビルの中でおやつを食べることにした。幸運にも、とらやカフェが並ばずに入れた。ケーキよりも和菓子派の智花にとってはベストな店だったのようだ。智花には広すぎる小洒落たシートで背筋を伸ばし、一丁前なすまし顔で座る彼女の姿が可笑しくも愛おしい。抹茶と練り切りのセットを注文した私は、かつて習っていた茶道の所作を思い出しながら茶を啜った。すると、甘いアイス抹茶オレと羊羹を食していた智花がじいっと私の手元を見ながら、自分もママのように抹茶を飲みたい、と言い出した。苦くてきっと飲めないよ、と言っても聞かないので、これも経験か、と思った私はもう一つ抹茶を注文した。

 

 案の定、抹茶を啜った瞬間に智花の眉間には幼児らしからぬ深い皺ができていた。その様子に、私はつい可笑しくなって笑ってしまう。智花も恥ずかしいのか、えへへ、と笑った。土産に、智花の大好きな栗蒸し羊羹を一本買った。なかなかの値段だが、使うときは使うのがお金というものだ。今日はとことん、太っ腹な気分だった。

 ビルから外に出、横断歩道で反対側の歩道へ渡る。そしてしばらく歩いた後に右手に入っていくと、喧騒から少し外れた界隈に大きな絵本の専門店がある。私が幼い頃、母がよく連れてきてくれた場所だ。何故だろう、私の足は自然と母の面影を目指して動いているような気がした。



 私が幼かったあの頃も、父は土日も仕事で家を空けていて、休日に家族三人でゆったりと過ごした記憶は殆ど無い。その代わりに、母は毎週末と言ってよいほど私を連れて都心へ出かけた。母もパートながら働きに出ていたので、体の疲れは度外視の外出だったのだろう。ただ、どの休日にも家族が揃わない、夫の姿が見えない、そんな寂しさを娘との外出で掻き消していなければ母の精神の疲れは溜まる一方だったのかもしれない。

 もちろん、母にも休日を家で過ごす日もあった。だが出かけない日は逆に、私の存在は無いものとしているかの如く、ひたすら床に伏せっていたように思う。そんな日は、母の目を盗んで私は近くの商店街や公園などで一人ふらふらと歩いていた。


 思えば私の母は、私がくたびれて歩みを止めるといつもしゃがんで声を掛けてくれた。「何か甘い物でも食べようか!」と。私はそう言う時の母のことが大好きだった。私を元気づけてくれるような快活な優しさを感じたからだ。甘い物、とは、大抵が母の好きなカフェでのケーキを指していた。「ここのお店は材料をケチったりしないから、クリームが美味しいのよ。」そう得意げに話す母の言葉を聞き流しながら、私はフルーツが沢山盛り付けられたタルトか、ザッハトルテに舌鼓を打っていた。私がケーキの半分くらいを食べた頃、母は決まって私の顔を覗き込み、「美味しい?」と聞いてくる。それに私は、「うん」とだけ答える。すると母は嬉しそうに、「よかった」と言う。私はそんな他愛ないやり取りに底知れぬ安堵と幸せを感じていた。

 

 母は、自分が自信を持って勧められる食事や甘味を外でご馳走してくれる時以外、つまり家での食事の際は、私が自ら「美味しい」と感想を述べずにいると至極機嫌が悪くなった。眉間に皺を寄せながら、「せっかく作った食事が不味くなる。感謝してくれないなんて、ママ悲しいわ。」と呟きながらせっかちに箸を動かし、先に完食して片づけてしまう。きっと、母には自信が無かったのだ。多くの人々にとっても美味とされる店での食事では、食事相手の評価はさほど気にしなくても良い。しかし自分の作った食事に関しては、一刻も早くその評価と感謝を表されなければ不安で仕方なくなるのだろう。


 彼女が私に評価と感謝を過度に求めてくるのは、家での食事に限ったことではなかった。子育てや家庭環境、私に買い与える品物一つとっても、私からの迅速で自主的な評価と感謝が無ければ、彼女の安定は保たれなかった。だから私は常に気を抜く事が出来ないでいた。いつ彼女の期待を裏切ってしまいやしないかと、常に自戒し続けなければならなかった。


 彼女が仕事帰りに私の洋服を山のように買って帰ってくることはよくあった。ある晩、彼女が帰ってきたのは午後二十一時、家事に無頓着な父は既に帰宅していながらも無言で自室にこもり、食事の準備などまるで気に留めていない様子だった。当時私はまだ小学高学年だったので、炊飯器で米を炊いておく以外には、やはり母の帰りをただじっと待っていた。嬉々揚々とした様子で母が帰宅し、私は空腹のためか、迂闊にもいつもの自戒を忘れてしまっていた。

 帰宅し開口一番に母は、私に買って来た服を試着してみろ、と言った。私は言われるがまま、何着もある趣味の合わない子供服を着て見せたが、私は空腹を通り越して眠気に襲われ始めていた。母はその私の様子にも気付かぬまま、「似合う、似合う!」と言って喜んだ。しかし、その時つい、私は言ってしまった、「こんなに沢山、タンスに入るのかなあ。」と。それは嫌味の一つも含まぬ、心から素直に出た子どもの一言だった。だが、その一言は母の逆鱗に触れた。


 母は叫んでこう言った。


「だったら全部捨てちまえ! せっかく買って来てくれた人に対して、何だその馬鹿にした態度は。そんな自分勝手な人間に育てたつもりはない!」


 その瞬間から、小学生の子どもが一人、眠気に任せるがまま平穏に眠りにつくことは許されない夜を過ごすことになるのだった。私は働かない頭を無理矢理に叩き起こし、謝罪した。しかし、やはりそれも徒労に終わった。その晩母は、私に一言も発さず、私の言葉にも全く反応しなかった。私は自分の存在自体を責めた。そして二階の自室に籠り、出来る限り物音をたてぬよう努力し存在を消した。無視されるぐらいならば、血が出る程殴られた方が良い、そんな風に思いながら、自分で自分の太ももを強く抓った。涙がはみ出る程の痛みが、瞬間的に全ての感情を麻痺させてくれる。「死ねばいい。私なんか死ねばいい。」私はそう唱えながら眠ってしまった。


 翌朝気が付くと、私は父に揺り起こされていた。昨晩から何も食していないまま寝てしまっていた私の頭は、自分が何処にいるのか、自分を揺さぶっているのは誰かすら、しばらく判断できずにいた。「早く起きろ。ママが買って来た服、畳んで仕舞っておかないとまずいぞ。」父が焦った面持ちで私に言った。あの時の私は、その恐ろしい予想図に恐れおののいて無意識のままに体を起こし、まるでロボットのように、無意識の中ひたすら新品の洋服のタグを取り外し、一着一着丁寧にタンスに収めた。タンスの中はぎゅうぎゅうで、綺麗に仕舞うのに苦労した。あまり着ない服を取り除き中身の見えない袋に詰め、クローゼットの奥に隠してスペースを作ることで、新しいものを仕舞えたのだ。母が起きてくるのを、私はリビングで待った。いつ起きてくるか分からない緊張感から、水の一杯も飲む余裕は無かった。母が起きてきた瞬間に、昨晩のことを謝罪し、その数倍に感謝の弁を述べるのだ。そうしなければ、今日も私は自分の存在を消して過ごさざるを得ない。嫌だ。私は必死だった。


 母は、起きてくるなり直立する私を一瞥した。私からの「正しい」言葉を待っているのだ。私は半ばクライマーズハイのような状態で、すっきりとした思考と発語で熱弁した。母は、笑ってくれた。「ママもごめんね、怒りすぎちゃった。でも、やっぱり買ってくれたものに感謝してくれないと、ママ悲しいからね。分かるよね?」そう、恐ろしい言葉を発しながら。

 その傍ら、父は何食わぬ顔をして、事態が収束したことを確認するかの如く妻と娘の様子を横目で見ながら新聞を広げ、煙草に火を点けた。


 こんなことが、私が物心ついた頃から高校を卒業するあたりまで、月に一度は勃発していた。その火種が私だけならばまだ良かった。私が存在を消し、「正しい」対応をすれば良かったのだから。だが、根本的な火種は私ではなく、そもそも父と母の夫婦としての関係性にあったのだと思う。


 それは半年に一度程度の頻度で勃発し、数週間かけて収束していた、激しい離婚騒動だ。大抵の契機は父の言動にあったのだろう。如何せん、彼はキレてしまうと途端に人を殺めてしまいやしないかと思わされる凶暴さを発揮する男だった。私は今でもあの姿を思い出す度に下胎にむず痒さを感じては苛立ちを抑えるのに苦労する。だが、そんな父の衝動的な凶暴性の発端を掘り下げれば、父が人並み以上に繊細であることに無知だった母の言動であったりもした。そしてそれをさらに掘り下げれば、自身の繊細さを母に表明し、理解を求めることができなかった父の過ちにも行き着くのだろう。


 今となっては、全ての火種は彼らの中にあったのだ。父の繊細さ故に作り上げた家庭に対する鈍感さが、常に母を拒絶していた。母もまた、彼女自身に根付く自信の無さから、あらゆる問題を「怒り」と「悲しみ」に変換し、父の関心を遠ざけていた。互いに求めるもの、欲するものを一度も口にすることなく、彼らは拒絶し合うことで求め合っていたのだろう。それは今尚変わらないし、変えられない。このような、所謂共依存的な夫婦の関係性を、彼らが長年築き上げてきた愛情の形と言えば美談かもしれないが、その狭間でひたすらに自分の存在を薄めていった子どもたちは、どうなるのか。言わば流れ弾を食らい続けてきた一般市民。今尚生きているのが奇跡の子どもたち、と言ってもよいと思う。だが、そんな大人の下にいた子どもたちは大人になってハタと気づく。


 ただの自分、それが誰でどんな人間かも分からぬまま人と人との間を彷徨っては、満たされぬ愛着形成と承認欲求を手軽な痛みで誤魔化し、過度に不幸へと足を突っ込んでみては、表面上ではあたかも幸せを気取って生きていくしか生きる方法を知らないでいる、ということを。私も、その一人だ。



 智花の姿が見えないと思いきや、両手に何冊もの絵本を抱えて運ぶ小さな体が、本棚の陰からひょっこり現れた。店内にはいたる所に子どもの背丈に合わせたテーブルと椅子が備え付けられている。智花はその中でも一番広いテーブルを選び、小さな椅子にちょこんと座った。一番上に積んだ絵本を掴み、両腕をいっぱいに広げ、表紙を開く。何の本を読んでいるのだろう。

 私はその表紙に目をやって少し驚いた。それは私が幼い頃に一番気に入っていた一冊だったのだ。あの絵本が今尚版を重ねているのだと思うと、自分が大人と呼ばれる年齢に至っていることに改めてハッとさせられる。智花の目線の先をよく見ると、まだ文字の読めない彼女はその絵本を逆さに持っていた。私はその光景が、やけに微笑ましく感じた。逆さに読んでも、それによって絵本の中身が難解なものになっていても、彼女がそれに気が付くのを待ってあげたい。或いは、そのまま逆さの絵本を彼女なりの感性で受け止めても良い。子どもは、それでいい。そう思った。

 

 夕飯には青山の中華ダイニングの個室を取ることができたので、智花とふたり悠々と食事を楽しんだ。デザートにゴマ団子を注文すると、智花はそれが大層気に入ったようで、結局土産に数個包んでもらった。さすがにくたびれたのか、智花は帰りの電車で私の膝に頭を乗せてぐっすり寝てしまっていた。智花の靴、羊羹、土産のゴマ団子。それだけではなく、道中に立ち寄った雑貨店やアンティークショップなどで衝動買いをしてしまった細々としたものを合わせると相当な荷物が出来上がっていた。それでも、智花の寝顔と身体中に広がる心地よい疲労感と達成感の中、約一時間の帰路はゆるりと過ぎていった。

 ただ、気付いたことがある。智花はこの一日、一度も「パパ」という単語を発しなかったのだ。私も然りだ。あの頃、幼い私と母もそうだった。母娘二人で、各々が何かから解放され過ごせた時間。それが幸福であり私にとっては家族の姿だったのかもしれない。智花は、どう感じていたのだろう、この一日を。


 帰宅後、智花を風呂に入れようと時計を見ると、既に午後二十一時を回っていた。智花はホットミルクが飲みたい、と言い残したまま、私が風呂を沸かしている間にソファで眠りに落ちてしまっていた。私はその愛らしい重みを身体全体で包み込み、智花の寝床に運んでしまうと、予想外に早く訪れた自分一人の時間の始まりに拍子抜けした気分になった。まだ二十一時半、これから何をしよう。久々の遠出に下半身は歩くことだけでもしんどい。風呂に入ったら私も寝てしまおうか、とも考えた。だが、この高揚感の余韻の中、もう少しだけ一人の時間を味わおう。私は智花と入る時には使えない香料入りの入浴剤を湯舟に混ぜ、久方ぶりの長風呂を愉しんだ。


 午後二十三時、貰い物だが割と上等なワインの白をちびちび飲みながら、数週間前に読みかけていた小説を読み、煙草をふかしていた。その絶妙にゆるりとした時間を、宗和の出す野暮な物音にぶち壊された。玄関を思い切り開閉し、ずかずかと足音を立てながら帰宅した夫は、「寒い寒い」と独り言ちながら洗濯機にばさりばさりと脱いだ物を放り投げる。どう考えても智花は寝ている時刻だというのに、もう少し音を控えるような気遣いはできないものか。というか、帰宅早々にまずは智花や私の存在や様子を伺い、一言でも声をかけてくれるという気はないのだろうか。私は矢継ぎ早にもう一本の煙草に火を点け、ライターを少し乱暴にテーブルに放った。暗に、私はここにいますよ、と訴えたかったのかもしれない。それでも、夫は私の顔を見に部屋のドアを開けることもなくそのまま風呂に入ったようだ。いつもなら、ここで私は彼の鞄やスーツのポケットを漁り、良からぬ行動を取ってきてやしないかと下手な探偵になっていたところだろう。しかし、今夜はそんなことをする気が起きなかった。


 彼は未だにいかがわしい店に通っていることだろう。あれだけ私の前で謝罪をしても、どれもこれもがその場しのぎの心無い謝罪に過ぎなかったのだと思う。「とにかく現況を打破したい」という、かつて私が親に対して行ってきた愚行の繰り返し、あの心境と似たものがあるのかもしれない。だが、私と彼との違いは一点、明白だ。徹底的に相手の立場を想像しての謝罪か否か、だ。もちろん彼は後者だ、謝罪しても尚罪を犯し続けるなんていうことはもとより、悲しませてしまった相手をそれまでの数倍喜ばせる努力をしなければ信頼を再び手にすることはできないというのに、彼はそれをしない。  


 思えば、彼に抱いてきた違和感や不信感は風俗の件だけではなかった。宗和は、時間を守らない。約束を忘れてしまうことも多く、娘の七五三のことすら前日に私に釘を刺されて慌てふためいていた。そして誕生日やクリスマスなどのイベントでさえ、私が言葉にして求めても毎年のように花の一輪買ってきたことは無い。だというのに、私が一度でも「美味しい」と喜んで食べていた菓子や飲み物を、時折大量に買って帰ってきてしまうので、仕方なく私はそれらを消費した。

 するとまた同じことが起きた。私だけならばともかく、智花の怪我や病気にも興味がないのか、と虚しく感じさせられることも多々あった。私の若年性更年期障害について再三説明して理解を求めたが、度々起こる私の体調不良とその病名を関連付けてくれたことは一度もない。智花が彼と出かけた先で肘を怪我して四針も縫う事態になった時も、私が病院に駆けつけると同時に、友人との飲み会の約束がある、と言って私達を置いて出かけてしまったこともある。店で借りたDVDや漫画など細々とした類の滞納は頻繁で、何度私が尻拭いしてやったことだろう。大概にして、収入と支出のバランスを保つという経済観念の無さはある意味徹底していた。そのせいで公共料金の支払いは私が直接コンビニ払いをすることになり、いつしか私が家計を全て管理するようになっている。そんな風だからか、借金が無いのは良かったものの、結婚当初は彼の年収が世の平均を上回るような額であるということに安心していたが、ふたを開けてみればまるで貯蓄が無いという有様だった。それを知った時、私は愕然としたものだった。


 そして、中でも私が一番堪えたのは、夏場になって害虫が出るようになったことが気になって家周りに薬剤を撒こうと試みた時、度々彼に頼んでいた出されたはずのゴミ袋が、玄関の右手奥の細い裏道に溜め込まれていたことが発覚したことだった。それらは既に泥状に発酵されたような形状を成し、ひどい異臭を放っていた。この異常事態について、私が彼を問い詰めた時もその場では、「朝急いでいたからとりあえず置いておいては忘れ、の繰り返しだった。悪気はなかった。すぐに片付ける。」という言い訳を、彼はまるで心の底から反省しているような態度でもって私に謝罪した。それなのに、翌朝、翌々朝になっても汚物はそこにあり続けた。こればかりは私が我慢すれば良い問題でもなかったため、結局私が汚物を片付けたのだった。私は嫌味たっぷりに、私がいかに苦労して汚物の処理を行ったのかを彼に伝えた。それでも彼は、「ありがとう」と明るい声で言ってのけたのだった。

 

 こんな風に挙げ始めるとキリがない。それでも、「のんびり屋」「マイペース」「小さなことでくよくよしない」「ポジティブ思考」など、その違和感一つひとつを今まで私は肯定的な言葉によって見逃してきた。だが、本当にそれらは全て肯定的な言葉によって覆い続けてしまって良いものなのだろうか。度重なる物忘れ、中途半端な対応、繰り返される同じような失態。そして、それらが発覚する度に見せる一時的なる猛烈な謝罪と反省の弁の直後、熱の冷めやらぬうちに表すケロッとした態度。私が彼に対して神経質になりすぎているのか、そもそも私の性格が細かく口うるさい女、ということなのだろうか。


いや、それにしてもおかしい。何かがおかしい…。

 

 夫の出すけたたましいシャワー音と鼻歌を聞き流しながら、ぼんやりと夫について考えを巡らしていたら、煙草の灰が落ちそうになっていた。私は慌ててそれを灰皿に押し付けた。



 智花との初めての青山デートから三ヵ月ほど経った、日曜の朝。智花は毎週日曜日に放映される大好きなアニメに夢中だ。夫は珍しく朝早く起き掃除機をかけている。そのけたたましい物音に、智花が時折そちらを見ては眉間に皺を寄せている。私は夫に、智花のテレビが終わってからにしてあげるようこっそり頼んでみたが、「大丈夫だろ。」の一言で一蹴されてしまった。家事をやっている夫の気分を削ぐのも気が引けたので、それ以上は私も言及しなかった。

 

 ここのところ、夫がいてもいなくても、私は智花と一緒に自分の行きたい所、智花が行きたいという所を交互に訪れた。その効果か、夫に対する苛立ちや不信感を強く感じることもなく過ごせていた。時折小野寺はその姿を見せ、私たちが楽しそうに過ごしている様子を何も言わず微笑んで見守っていた。彼は物理的に何かを助けてくれるわけではなかったが、それでも楽しい時間を見守ってくれる存在がいることで、私の心は不思議な平穏を保ったままでいられたのかもしれない。

 

 無駄に長い掃除機の騒音が静まった。私も洗濯を干し終えたところで、智花の隣に腰を下ろし一休みしようとした時だった。突然、私の携帯が鳴り出した。日曜の朝に誰からだろう、私は小走りで携帯を置いたテーブルに駆け寄り、その画面を見た。画面には、宗和の母親の名前がふわりふわりと光を放っていた。彼女から連絡が来ることは滅多に無いし、私からも盆暮れ正月の打ち合わせをするくらいにしか連絡を取っていない。何事か、と、私はおもむろに携帯を耳に当てた。


 「もしもし? 霞さん?」

義母の声はいつになく険しい。私は不穏な予感に襲われ、敢えて明るい声で応対する。

「はいっ、霞です。ご無沙汰しております、お義母さん。」

 電話の向こうでは、白々しく咳払いの音が聞こえる。私は続けて声をかけた。

「お義母さん、お元気でいらっしゃいますか? まだ風は強いですけど、少し暖かく…」

「霞さんね、ちょっとこのままお話、いいかしら。」

私の嫁らしい応対も虚しく、義母は我慢できない調子で切り込んでくる。智花が人差し指をすぼめた唇にあてて、こちらに目で訴える。私は部屋を移ろうかと思ったが、夫の母親からの電話なのだから、夫がいる場で話を聞いていた方が良い、そう判断してその場に立ったままでいた。何食わぬ顔で智花の横に座り携帯を眺めている夫に、私は鋭い眼光を向けたが、彼はその圧力を感じる様子もなく、むしろ不自然なほどに何の反応も示さないでいる。

「え、あ、はい。どうされましたか…?」

「どうされました、って。あのね、昨日、いえ昨日だけじゃないわ。ここ最近、あなた、どうかしてしまったのかしらと思って。」

私は別にどうもしていないが。強いて言うならば、おたくの息子がどうかしていると言いたいぐらいだ。内心で毒づきながら、声だけはしおらしく振舞った。

「え? わ、私ですか? いえ、特に…元気、ですけれど。」

 義母はその皮肉っぽい調子を加速させ、さらに言う。

「元気は元気なのでしょうね、それでも、ちょっとやり過ぎだとは、ご自分でも思わなくて?」

「は…? それは、どういう…。」

私はいよいよ何の話をけしかけられているのやら、皆目見当がつかず戸惑った。

「そう、ご自分でも自覚がないわけ。それは息子もお手上げになるはずだわ。」

 その彼女の言葉に、どうやら私は言われの無いことで陰で批判されているのであろう事態を察した。それも何食わぬ顔で生活を共にしているこの夫と、義母の間で、だ。私の下胎はみるみるうちに怒りと悔しさと言い得ぬ焦燥感で細かい痙攣を起こし始めていた。私は会話の冒頭と相反する、震えと凄みを含んだ声で答えた。

「ええと、何をおっしゃりたいのでしょう。」

 待ってましたと言わんばかりに、義母が調子を上げて喋りだす。

「こんなお話、私も口に出すのも憚られるのだけど、はっきり言いますね。ここ一年、きちんとした夫婦生活も無いそうじゃないですか。それでいて毎晩息子に対して説教染みた話をするだなんて。それじゃあ一家の大黒柱がしっかり稼ぎに出るのもままならなくなるのは、当然じゃないかしら?」

 私は冷え切った手で携帯を耳から離せずに固まっていた。私が誰と話しているのかも気に留めていない、いや、そんなポーズで身を固めている宗和は、決してこちらに顔を上げずその視線を携帯の画面で守っている。私は心の中で彼の胸のど真ん中を、ぐりぐりと荒い刃物で突き刺した。静かな鬼が、私の中で目を覚ます。

「ああ、お義母さん。なるほどそうですか。可哀そうに…。」

「は?」

 虚を突かれたかのような、間抜けな老婆の声がする。この際、智花がいようと関係無い。

 私は一気に、しかしゆっくりと聞き取りやすい調子で電話の主に事実を教えてやることにした。私の眼は宗和を捉えたまま離さない。

「息子さん、随分面白いご趣味を持たれているようで。去年の今頃私も知ったんですけどね。風俗ですよ、風俗。ご存知ですか?どこの馬の骨かも分からない、今しがたどんな男を相手していたかも分からない、そういう女の手とか、口とか、もちろん陰部ですとかね。そういう部分を使って息子さんみたいな男性を可愛がってくれるお店のことですよ。そういうお店に、息子さんお好きですねぇ、たった二、三ヵ月で二〇個も来店したスタンプもらって来ちゃって…。全部溜まると一〇〇〇円引きになるスタンプカードみたいですよ。しかもそれ、一店舗の話でして、他にも色々出るわ出るわ。あはは、それじゃあ娘に何も買ってやれないわけですよね。でもやっぱり、男の甲斐性かもしれないじゃないですか、そういうお店に行くのって。女には分かりませんけどね。で、そう思って私、行くな、とは言いませんでしたよ。行かないで、とは頼みましたけども。だって、娘に変な性病でも移されて将来子どもを産めない身体になってしまっては…ね。そう思うと、母親としてそれは避けなければならない、と。それだけは思いまして。それでもね、それでも止められないほどに、息子さんにとっては大切なご趣味のようで。ふふふ、だったらもう、ご趣味を優先して頂いて、セックスなんかは私が相手をしなくても良いわけじゃないですか、そう思いません? 同じ女性として。まぁ、でも、こちらとしては嫌悪感なんていうものは、とっくに超越していますのでね。悲しむのも女として努力するのも止めました。だって、無意味なんですもの。ですから、私と息子さんがここ一年セックスをしていないというのも、その代わりに説教染みた話に及んでしまうのも、辻褄が合うという話です。それから、説教と言いましても、最早風俗に行く行かないの話じゃあないんですよ。時間を守ってほしいとか、ビデオの延滞を一万円以上もするなとか、そういうまるで出来の悪い息子にお説教するようなお話ですよ。そういうのって、家計にとって地味に響くじゃないですか、お義母さんなら分かって下さると思いますけど。でも、お義母さんが息子さんからお聞きになったお話の内容は、間違ってはいませんよ。ですが、伺った感じですと、それは切り貼りされた虚像とでも言いましょうか、そんな所な訳です。ですから、お義母さんも可哀そうだなぁ、って思って…。同じ女として、同じ男に上手く騙されてしまって。」

私は立て板に水の如く話し、一旦息継ぎをするべく間を置いた。だが、老婆の声は虫の息すら聞こえてこない。私は鋭い声で一言、追い打ちをかけてみた。

 

「私のお話ししたこと、分かります?」

 その声の威力からか、いつしか目を伏せたまま身動きできなくなっていた宗和が無言でその場を去ろうとした。逃がしやしまい。私は電話をスピーカーに切り替え、宗和に声をかけた。

「ねぇパパ。お義母さんが話したいそうよ。ほら、早く出て差し上げて。」

 機械に疎い老婆は、携帯のスピーカー機能など理解も察しもつかないだろう。私は速やかに彼の行く手に立ち、携帯を自分の顔の横に掲げて画面を彼に向けた。

「お義母さん、宗和さんに替わりますね。」

私は恭しい笑顔を作って声を発した。宗和は何も言えず、怯えるような目で私と携帯を交互させていた。痺れを切らした老婆の声が響く。

「もしもし? カズちゃん? 聞こえる? ねえ、カズちゃん返事して!」

 カズちゃん、とは…二人きりの間では、夫は未だにちゃん付けで呼ばれているのか。初めて知ったが、失笑ものだ。

「ごめん、ママ…。」

 まさか、ママときたか。私の知らないママとカズちゃんの関わりの様に、苦笑いを押し殺す私の顔は歪に力んだ。

「ごめん、って…あなた…。今、霞さんから聞いたわ、あなた変なお店でそういうこと…。嘘なの? 嘘よね? 言っていたじゃない、霞さんの気がふれたんじゃないか、って。そういうことよね? 全部、彼女の妄想なのよね!?」

 全く、馬鹿バカしくて聞いていられやしない。だが、まぁいい、このまま全ての膿を捻り出して見せてくれ。やれ、もっとやれ。私は心の中で老婆の阿呆な妄想に加勢してやった。

「いや、その…。後で、かけ直すよ。ごめん。」

 さすがにこの状況は苦しいのだろう、宗和はお得意の逃げに走ろうと試みた。しかし、今度はママがそれを許さなかった。

「カズちゃん、ちゃんと答えて! あなたまでそんな、汚らわしい…女を買うなんて…。ママがどれだけ苦しんでいたか知っているでしょう!? それなのに、どうして? どうして同じ過ちを繰り返すの!? どうして皆して、ママを苦しめるのよ!」

 予想以上に老婆は怒り狂っている。しかも新たな事実が露呈した。恐らく、宗和の父親もまた同じことで妻を苦しめていたとは。老婆がグズグズと雑音を漏らし始めた、泣いているのだ。私は彼女に一抹の同情を感じたが、その気持ちは宗和の反応によってすぐに打ち消された。

「ママ、ママ泣かないで。ママを悲しませたかったわけじゃないんだ。そんなつもりじゃないよ。そうだ、そうだよ、行きたくて行っていたんじゃないんだ。先輩に誘われたり、上司に…。付き合いなんだよ。仕方なかったんだ!」

 目の間にいる自分の妻を正面に阿保らしくも必死な弁明を始めた彼の間抜けさと言ったら。とんだ喜劇の一幕だ。

「馬鹿じゃないの…あなたまで、パパと同じ言い訳…。そんなの、嘘に決まっているじゃない! 霞さんが言っていたわよ、スタンプカードですって? そんなもの、付き合いなら作らない…集めたりしないわよ! 本当に無理矢理連れていかれたのなら、何もせず、どこにも触れずにやり過ごせばいいじゃない! 違う!?」

 ママは完全に息子が黒だと判決を下したようだ。「付き合い」その言葉が決め手だったのだろう。それにしても、ママはカズちゃんに対し、可笑しいぐらいに私と同じことを話すものだ。彼女もまた、私と変わらぬただの女なのだ。

「とんだ恥さらしね。私までお嫁さんに恥かいたじゃないの。どうしてくれるの。本当に…。」

 チッ。

 私は宗和を思わず凝視した。彼が舌打ちをしたのだ。一瞬だが、彼の眼が冷たく凍って見えた。数秒の沈黙の後、ママの悲痛な叫びが徐々に大きく漏れ出てきた。その雑音に、宗和はその眼をやけに虚ろに変容させながら、酷く味気ない言葉を並べた。

「俺が全部悪い。はい、そういうことです。大変申し訳ございませんでした。責任を取ります。それ以上申し上げられることはございません。」

「カズちゃん…そんな、そんな言い方やめて。パパみたい。ひどいわ。だいたい、謝ってどうなるというの。責任を取るって、どういうこと?」

「ああ、分かってるから。」

 宗和の眼は依然として虚ろなままだ。 

「ね…カズちゃん、だめよ? 馬鹿なことを考えてはだめよ。カズちゃん、聞こえる?」

「ああ。」

宗和がおぼろげに返事をする。

「いい? ママが世界で一番愛しているのは、カズちゃんよ? いい? 分かるわね? いいわ…わかった。私が霞さんにどうにか許してもらえるよう話してあげるから。だから、あなたは変なことを考えちゃ、だめよ? 分かった? カズちゃんきっと辛かったのよね、何かがそこまであなたを追い詰めていたのよね。きっとそうだわ。そうじゃなきゃ、そんな馬鹿な真似、するはずないもの…。カズちゃん? カズちゃん? 聞こえる?」


 私は夫のことを何も知らなったのかもしれない。ママとカズちゃんのやり取りに、私は底知れぬ気味の悪さを感じた。結婚前から夫に聞かされていたのは、「両親とは反りが合わず自分としても最低限の関わりだけで構わない。だから霞には余計な苦労をかけないで済むはずだよ。」という話だった。それはそれで間違ってはいないのかもしれない。しかし、夫とその両親との関係は、物理的に疎遠でいなければならないほどに粘度の高いものだったのかもしれない。

 

 宗和が沈黙を断ち切るように、諦めるような口ぶりで声を発した。

「ああ、ごめんね。ママ…。大丈夫だから。大丈夫。」

 

 そこで、私は舞台の幕を下ろすことにした。これ以上の茶番は自分の尊厳すら傷つけてしまいそうだ。私は黙って終話ボタンを押した。茫然と立ち尽くす宗和を背に、私は無言で智花の手を取り靴を履いておくよう伝え、玄関で待たせた。階段下の物置には、いつでも家から離れられるよう最低限の智花と自分の衣服とお金、クレジットカード、通帳、キャッシュカード、身分証の類、そして署名捺印済みの離婚届を小型のトランクに詰め、収納してある。これは前の夫である畑中との生活から得た教訓だ、いざという時に男は何をしでかすか分からない。だからこんな時こそ迅速にその男の元を離れるべきなのだ、それも、その後なるべく会わずして事態が収拾するよう念を入れて。私はそのトランクを引っ張り出すと、流れるような速さで智花と家を出た。事の一部始終を、そしてこれまでの私のストレスを目の当たりにしてきた智花は、涙を押し殺した表情で私の手をぎゅっと握っていた。

 


 幼い娘と母親が安いビジネスホテルに連泊するのも異様であるし、安全面にも不安がある。それに今後のことを考えるとなるべく経済的な方法を取りたい、そう考えると、まず向かうのは私の実家の他に選択の余地は無かった。とはいえ、私も智花もまともに実家を訪れるのは智花が生まれてから一ヵ月経った頃の初宮参りの日以来となる。智花の写真などは数回郵送してはいたが、両親に孫らしい孫の姿を見せてやったことは無かった。その喜ばしいはずの面会がまさか娘夫婦の危機を機に訪れるとは、両親にとってはなかなか不愉快なサプライズであろう。


 三〇分程電車に揺られ、実家のある駅に降り立った。自ずと肩に力が入っていくのを感じる。私は知らず知らずに、智花の手を強く握り続けていたことに気付いた。私は慌てて手の平から力を抜く。自宅を出てからというもの、智花は何も言わずその圧力に耐えていたのだ。赤くなってしまった智花の小さな手のひらを見つめ、撫で、私はいつものようにつぶやいた。


「かわいい手って。」


 智花が赤ん坊の頃から、私はこの小さな手を見つめてはこう呟いていた。その可愛さと愛しさに、そう呟かずにはいられないのだ。だが、今私は初めて気付いた、この小さな手の平が持つ、そこはかとない温かみと逞しさに。私はその場でしゃがみ智花を抱きしめ、思わず泣き崩れてしまった。ちらほらと行き交う通行人が、私たちを怪訝そうに見つめては、去っていく。明るすぎる正午の日差しの中、私は底知れぬ孤独を感じた。このまま実家に帰ったからと言って、どうなるのだろう。あの父と母に守ってもらうとでも言うのだろうか。そうできるものならしてみたいが、それが可能かどうかも分からない。私という存在が彼らに無条件に受け入れられる自信は、この歳になっても尚見当たらないのだ。


「誰か…助けて。ごめんなさい…ごめんなさい…。智花、ごめんね、ママ弱虫だ…、ごめん。ごめん。」

 私は嗚咽交じりに声を上げた。智花は黙って、しゃがみ込む私の顔をさらに低い位置から覗き込み、「だいじょぶ、だいじょぶ。ママ、ないちゃダメ。おばけさんに、みつかっちゃうよ。」そう声をかけてくれる。いつもは私が彼女を泣き止ませたい時に使う言葉を、彼女は私を励ますために発してくれる。その優しさに、私の涙は留まることを知らず、余計に勢いを増してしまう。


「考えるな、感じろ。だよ。」

 私は塞ぎ込んでいた顔を少し上げた。小野寺の黒いブーツの足先が目に入る。彼は腰に手を当て、仁王立ちのまま私達を見下ろしていた。

「考えるな…。」

私は彼の言葉を繰り返した。

「そうだよ、霞さん。君の行きたい所に行けばいい、行きたいと感じる場所にね。智花ちゃんは、もう君のことを守ってくれているじゃないか。彼女の力も借りるといい。」

 私は智花に目をやった。きょとんとした目で私を見つめている。そうだ、今、私の感じていることは、何だ。どうすべきか考えるよりも前に、私はどうしたかったのだ。私は思わず、智花に言った。

「智花、ママとお出かけしよっか。冒険! 行ったことない所に、冒険しよう! ママ、したい!」

「うん! 行く! ぼうけん、しゅっぱつしんこー!」

 智花の手を優しく握り、降りてきた駅を上っていく。切符売り場には、端に腰をもたれかけ立つ小野寺が待っていた。彼の温かい笑顔が私の背中を優しく押す。電子マネーには、羽田に行ける分だけの金額を入金した。キオスクでジュースと焼き菓子を買い、ホームのベンチに腰を下ろして智花とともにエネルギーを補給する。

「君たちは自由だ。朝も来れば、夜も来る。そしたらまた朝だ。」

ベンチの横に立ち、電車の来る方向を眺めながら小野寺が言う。そして振り返って言った。

「どうだ、素晴らしいだろう?」

 勢いを緩めた電車がホームに入って来ると、いつしか彼の姿は見えなくなっていた。



 羽田に着いてすぐに、当日の搭乗券を二人分購入した。今、私自身が行きたいと感じる場所、それはどこなのかは分かっていた。かつて宗和との結婚を控えた私に、「幸せを目指してしまえば不幸になる」と言った人、佐々木絹子が、何かを意図してか否かは分からないが、餞別に贈ってくれたポーチュラカの鉢に添えたポストカードに記した住所。網走、という街だ。

 羽田から一時間半ほどで、私たちは女満別空港に降り立った。東京を離れるとしても、これまで親戚の多い九州方面に行くことばかりで、東北やまして北海道といういかにも寒そうな土地を訪れたのはこれが初めてだった。到着ロビーを出るとすぐ目の前に空港のエントランスがある。天気は良いようだ。私たちはひとまず外の空気を吸いたい、と、エントランスに向かっていった。

 自動ドアが開き、私は智花の手を引き一歩外に足を踏み出した。一瞬の静寂の後に、きめ細かく無数の粒子のような冷気が私達を包み込んだ。頭皮にはピリリとした緊張が走り、無防備な頬は毛穴が引き締まり皺の一本でも減ったのではないかという感覚になった。

「さむーーーい!!」

私と智花は同時に声を上げた。そしてそそくさと建物の中へと戻った。三月に入り、東京では小春日和もぽつりぽつりと顔を出すような時期ではあったが、北海道では未だに冬、であったのだ。半ば勢いで感情に任せ、行く当ても無いままここまで飛んできてしまったが、はて、これから智花を連れてどうすればよいのだろう。私は自分の無計画さと思わず湧き上がりそうになる不安感で、何故かふいに小さく噴き出してしまった。


「ママ、何で笑ってるの?」

智花が可笑しそうな顔で私を見上げる。

「とりあえず、お腹減ったね。」

 羽田と比較すれば、ここが空港であることすら忘れてしまいそうな規模の簡素な建物ではあるが、食堂の一つぐらいはあるだろう。私は智花の手を取り、すぐ右手から上に向かって静かに稼働しているエスカレーターへと進んだ。二階部分に到達するとすぐに、搭乗ロビーらしきスペースがある。その反対側に目を向けると、奥の方に土産店が一つ、その向かいに小さなファミリーレストラン風の店看板が控え目に光って見えた。食堂へ入ると、年甲斐もないウエートレス姿をさせられた中年女性が素っ気なく、好きな席に座って良いと言う。私たちは窓際の席に向かい合って腰を下ろした。適当な軽食と飲み物を頼み、大きく開けた窓の向こうに見えるジェット機を眺める。どの機体かは分からないが、これらと同じような機体の翼に乗って、「行ったことのない所」までやってきたのだ。飛行機に一時間半乗っていただけのことだが、とても大それたことをしてやった気分だ。そうだ、これは冒険なのだ。


 空腹が満たされると私の頭は徐々に回転の速度を高めた。鞄の中から手帳を取り出し、表表紙の裏に仕舞っておいたポストカードをテーブルに出す。

「ママ、それなぁに?」

智花が身を乗り出して机上を覗き込む。

「ここに、ここに行きたいの、ママ。どう思う?」

「いいよ! これ、どこ?」

 私はそれを表にする。北海道網走市…と続く、謎の住所。私はそっと人差し指でなぞった。



 タクシーを降りると、そこは寂れた商店街の一角だった。タクシーの運転手にポストカードに記された住所を伝えると難なく理解してくれたので、ここは網走の中でも無名の場所ではないのだろう。真直ぐに続く二車線の道路を挟むように流れるアーケード。その長さからすると、相当な店舗数があるように思えるが、それにしては余りに人影が少ないように感じる。どこからか流れるBGMが独り言のように空回りして聞こえている。それもそうか、何もかもを東京と比較してしまえば、地方のほとんどが過疎という問題に直面していると聞く。ここもまた、地図で見る位置からしてもその一つだと察しはしていた。

 それにしても、やはり寒い。晴れているからか空気が澄んで、余計に冷気が体の芯まで浸透してくるような感じがする。私は既にかじかんできた手で、もう一度ポストカードの住所を確認する。そして、下ろされたこの場所からなるべく離れぬよう辺りを見回した。道の向こうには、個人店であろうカラオケ店、シャッターの閉まった文具店の看板、それから薬局…であった形跡のある空き店舗。そしてこちら側には、スナックが数店入ったテナント、それから角に一店、喫茶店がある。「さむいよぉ~」「ママ~、どこにいくの?」と、少し不機嫌そうに呟く智花の手を離さぬまま、私は角にある喫茶店に体を向けた。もし営業していたら、智花に何か飲ませてやろう、あわよくばバターたっぷりのジャムトーストでもあれば食べさせてやりたい。それから一旦落ち着いて、今夜の宿について考えなくてはならない、そう思った。


 喫茶店の前につくと、赤茶色のレンガが敷き詰められた外壁に中の見えない小さな出窓という、昔ながらのスナック、そんな外観を成していた。出窓とそのすぐ脇にロマネスク様式のドアがある。店の前に置いてある看板には、『純喫茶 しまむら』と記されてはいるが、いかにも一見お断り風の雰囲気が漂っていて、まして幼児を連れて入れる店のようには思えなかった。やはり別を当たろうか…。私がそう思い直そうとしたその時だった。店のドアが開き、若い…わけでもなさそうだが中年とも言い切れないような、少し白髪交じりの黒髪をツーブロックに流し、やせ型ではあるが背の高い清潔感の漂う男が白いじょうろを片手に現れた。


「あ、すみません。こんにちは。」

 男は嫌味の無い柔らかな笑顔で私に挨拶をした。私は一瞬目をぱちくりさせつつも、つられて挨拶をし返した。

「こ、こんにちは。」

「こんにちは!」

私に続き、智花も挨拶をする。あっ、いたのか! というような驚いた表情で目線を落とした男が、

「こんにちは。」

と、柔らかな声で智花にも挨拶をしてくれた。

「ええと、お茶。されて行かれますか?」

「ジュースがいい!」

その智花の素直な反応に、私とその男はクスクスと調子を合わせて笑ってしまった。男はどうやらここの店の人なのだろう。


 男がドアを開けてくれ、私たちは店内へと入っていった。店内はその外観からは想像が付かないほど、所謂カフェ。そんなインテリアに統一されていた。とはいえ、東京で見る今風のカフェで感じるような、どこか意識の高さを誇示してくるような気取った印象は受けなかった。むしろそこは、まるで自宅の居間にいるような、帰ってきても良い場所に帰ってきたような安堵感を纏った空間だった。店に入るやいなや智花は既に座りたい席を決め、よいしょよいしょと腰を掛けようとしている。店の一番奥の右端、正方形の小さなテーブルを間に、深い青色の一人掛けの椅子と古い木製の椅子が向かい合った席だった。その様子を見て、カウンターに入った男はニコニコとしている。私はそのまま智花の座った青い椅子の向いに座った。絶妙に腰と背中を包んでくれる、木製とは思えない柔らかさを感じるその椅子に私の心は音を立てずに深く安堵の溜息をこぼした。


「何か、温かい物がいいですかね。」

男が問う。

「そう、ですね。カフェオレとか…。あれば。」

「かしこまりました。お嬢さんは、ジュースだよね、りんごとオレンジ、どっちがいいかな?」

男は優しい口調で智花を見て首を傾げる。智花が大きな声で返事をした。

「りんご!」

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