第3話 霞╱ぬるま湯からの別れ

 気が付いたら、私は床の上に仰向けになっていた。あの頃と同じ景色が見える。ただの、天井。あの頃と同じ感覚…、痛くて、寒い。失神している時は、骨盤や尾てい骨、肩甲骨や背骨が床からの圧や摩擦から身を守ることができない。だから、目を覚ますと体の主要な部分のあちこちが痛むし、寒さがそれに拍車をかける。あの頃と違うのは、頬や脇腹、頭皮に激しい痛みが走っていない、それだけだ。


 私が株式会社・畑中建材に入社してから初めて参加した忘年会の晩だった。一次会の後、十数名が参加した二次会は会社の最寄り駅近くの『スナック セカンド』で催されていた。店名からして二次会用を意識した店なのか、その店内は十数名が同時にテーブル席につけるレイアウトだ。申し訳程度に設けられたカウンターは装花やママの趣味と思われる刺繍の作品が立て飾られ、客席の体は成していなかった。四人席が一つと三つでL字型になった座席の中の一番外側のテーブルで、私は同じ経理の先輩であった鈴木幸恵、二ヵ月ほど先輩の辻隆司と同席していた。私はあまり目立たぬよう、末席中の末席に陣取っていた。ただ、隣に座る幸恵さんとは、一度仕事以外のことでもおしゃべりしたいと思っていた。彼女は自他公認のヘビースモーカーとやらで、常時煙草を右手中指と人差し指に軽く挟んでいた。ただ、一本消費するごとに大して吸い込まない。あまり売っているのを見たことが無い外国製の女性煙草のようで、それは細身で長く、心なしか煙がストレートに綺麗に舞っている。ざっくばらんで明るい彼女の快活さを、上品な煙草が程良く女性らしさを助長するアクセサリーのように見えた。私もあんな風に煙草が吸えるようになりたいな。などと、私は彼女にぼんやりと憧れに近い眼差しを向けていた。


「結婚てさぁ、いいもんよぉ。但し、いい時は、ね。」

幸恵がその向かいに座る辻にぼやいている。

「いやいやいや、鈴木さんが言うと重みあるなぁ。」

辻が間合い良く余計な茶々を入れる。酒の力もあってか、私は咄嗟に口を挟んだ。

「重みって…。そんなぁ。」

「いいのいいの、私のお言葉、重み、ありまくりよ~? あれ、言ってなかったっけ。私シングルなの。シングルマザー。十二歳の息子がいるのよ。」

「そそそそそ。」

辻が知ったような相槌を打つ。私は意外に思って言った。

「えっ、知らなかったです。えと、まず、一二歳の息子さんがいらっしゃるようには見えない…。」

「そーれーはぁ、褒めてるっ??」

幸恵が少しおどけて返す。

「は、はい! いつも生きいきしてて、その、もっとお若いかと勝手に思っていました。あ、失礼なこと、言いましたか…。」

「ううん! 嬉しいこと言ってくれた! ほれっ! これあげるっ。」

幸恵は、自分の前にあるエビの天ぷらをご褒美をくれるかのような仕草で私の皿に乗せた。その素早さや、一番美味しそうなものでも平気で分けてあげる行動からは彼女の母親らしさがほのかに感じられた。

「ついでに、辻は口を慎め。で、霞ちゃんさ、恋人、いるの?」

そう、わざわざ小声で聞いてきた幸恵の気遣いをぶち壊すかのように、辻が慎めない口を開く。

「おっ、いるの!? 彼氏!?」

すかさず幸恵がゲンコツで辻の肩を小突く。

「肩パンって…痛ぇし~、ちょっと古いっすよ~、幸恵さん~。」

「ばかだ~。こいつばか~。」

そう言いながら幸恵は、ゴメン、というような仕草と目線を私に送った。仮に私に彼氏がいれば多少の気恥ずかしさを感じたかもしれないが、そんな相手はおらず、とは言ってもセックスだけの関係を断続している男はいたが、辻の大声に任せて向けられた数名の視線には特に気兼ねせずに答えた。

「いや、いません。いたらいいですけど。あはは。」

「あら、意外。私てっきりいるかと思ってたの。だって、霞ちゃん綺麗だから。」

「へっ!?」

私は思わず上ずった声で反応してしまう。

「そんなに驚くことじゃないでしょー? 霞ちゃんが入ってきてくれてから、どうも、そこら辺にいる若者、仕事に精が出たり、出なかったり? んふふふふ~。」

決して嫌味っ気なく、ただ後輩を可愛がるように言いながら、幸恵さんは辻に向かって目を細めて合図した。

「い、いやぁ、困るなぁ。困るなぁ~~それ。」

一瞬、辻が解せない顔をしたのを私は見逃さなかった。私に対する照れ隠しではない、私に気があると思われていることを素直に受け流せない、そんな顔だ。恐らく彼は、私ではなく、誰か他に想う人がいるのだろう。

「私も、困るなぁ。とか言いながら、辻みたいに頬を赤く染めてみたいわぁ。」

「うわっ、それ、お局っぽい! 幸恵さんまずいっすよ~~。」

辻はむきになった風にそう言いながら慌てて煙草に火を点けた。もしかすると辻は、幸恵さんを想っているのではないか。もしくは憧れか。幼さ故か、そのカムフラージュに私を挟んできたといった具合だろう。そんな辻に救いの手を、と思った私は唐突に自分の話題に戻してやった。

「実は私、年上の人が好きなんです。」

「ほうほう、うん、良いね。それは良いことよ~。多少自分より人生経験積んでてさ、それで霞ちゃんのこと穏やか~に包んでくれるような人がいいわよ。うん、私は賛成。」

幸恵さんはまるで自分に言い聞かせるかのように自己完結した。それに辻がズカズカと口を挟む。

「それって俺がガキみたいな? そんな風に聞こえるんすけどー、幸恵さーん。」

それからは、幸恵さんと辻の夫婦漫才風の掛け合いに身を任せ、私はちびちび飲みながら、ゆるゆると煙草を吸っていた。すると、

「持田さん、煙草吸うんだね。」

と言いながら、社長がこちらのテーブルに回ってきた。

「あ、すみません。気付かず…動かず…。」

「ははは、いいんだいいんだ。花はただそこで咲いていれば華。なんてね。弟がそんなこと言っていたような。仕事の方どうかな、もう随分慣れましたか。ほら、幸恵さんなんて持田さんのこといつも褒めているんだよ。真面目で気が利く、仕事も正確。入ってくれて良かった、ってね。」

社長と面と向かって話すことといえば採用面接の時ぐらいの印象しかなかったからか、突然の誉め言葉も頭を素通りで、私の酔いは一気に引いていった。そのかわりに私の気遣いモードは全開となり、社長のグラスにビールをハイピッチに注ぎすぎ、逆に恐縮されてしまう始末だった。

「いやいや、女性に気を遣わせてしまって申し訳ない。ところで、さっき盗み聞きしてしまったんだがね。その、年上の男性が好みとか、なんとか。」

「え…。あ、まあ。」

―げげげ、その手の誘いだったら勘弁してください。

私の気持ちが顔に出てしまったのか、社長は慌てて付け加えた。

「いや、セクハラだとか、変な風には受け止めないでほしいんだ。もちろん、僕とどうこう、って話でも決して無い。」

「はぁ。」

 私はよく分からない社長の言い回しに、下手くそな作り笑顔を固定した。

「いや、実はね。少々偏屈なところがあってか、なかなかお嫁さんが来てくれない弟がいてね。だが誠実な男なんだ、それは僕が保証するよ。どうかな、ちょっと歳は離れているが、一度会ってみてくれないかい? 仕事には無関係、もちろんそれも約束するよ。気軽に、さ。考えてみてくれはしないかい。」

「あー…、ええと。はい、わかりました。」

私は社長と末端社員という立場に負けてか、いやそれ以上に、きちんとしたパートナー、つまり結婚を視野に入れた関わりが前提の相手と出会えるチャンスが来たのかもしれない。そんな一抹の期待を感じ、その場で話を快諾した。


 畑中健太。今思えば、良いところと言えば見た目だけの男だった。しかしあの頃の私は、全てを彼で埋め尽くされていた。そう、仕向けられていたと言っても良いのかもしれない。きっと、そうに違いない。


 社長の勧めで出会うこととなった彼は、その頃から既に業界では名の知れた哲学者であり、臨床心理士でもあった。初めて彼と会ったのは、会社の忘年会から一週間後の金曜日の夜だった。日程は彼の方から提案があり、それはクリスマスイブだった。クリスマスだからと言って、初めて会う相手に何かプレゼントを用意していくのも気が引けたので、せめて女性らしく失礼のない格好で出向こう、私はそう考えた。正直、まともにクリスマスというイベントを誰かと二人で過ごすのは初めてだった。


まるで子どもが初めての遠足の前夜に浮足立つような、そんな無垢な気分が蘇ってきた。約束二日前の水曜日には、終業後急いで装いの主役を新調した。その深いネイビーのワンピースは広めの楕円形に開かれ、七分袖が細い手首を覗かせる、さりげなく女性らしさを強調できるデザインだ。全体的に貧弱で凹凸の乏しい私の体形も、それを味方につける装いがあれば気に病むほどでもない。アクセサリーは四つ葉のクローバーのネックレスで、葉の部分が四粒の小さいダイヤで埋まっている。これは唯一私が持っている中のジュエリーらしいジュエリーだ。身に着けるアクセサリーはそれ一つだけ。あまり多く飾るのは自信の無さが露呈しそうで嫌だった。コートは四年程前に古着屋で購入した、ブラックのウールで薄手だがきちんと寒風を防いでくれる丸襟のロングコートと決めていた。襟元はふくよかなボアを前で重ねて留めておくことにした。そして靴もまた古着屋で一目惚れした、かつて横須賀の老舗靴店で作られたらしき黒革スウェード生地の七センチヒール。バッグは母が気まぐれで買っては飽き、その度に横流ししてくれるブランドのもの。今日はクリスマスイブの語呂にかけて、イヴサンローランの深い赤色のハンドバッグにした。


 当日、約束の二時間前。私は靴を履いたまま鏡の前に立って、ふと恥ずかしくなってきた。今日の私、かなり気合が入っていると見られてしまうのではないだろうか。そう自覚してしまうと、いっそのこといつものジーンズとパーカーに裏起毛付きのジャンパー、ホームセンターで買った無名のスニーカー、という出で立ちで出かけてしまいたくなってしまう。だが、もう着替える時間もないし慌てて汗だくになるのも避けたいので、色々と考えることはやめ、私は思い切って玄関のドアを開けた。


 あのイブの夜、私はやはりいつものしょぼくれたジーンズで出かけていればよかった、そう思うことがある。そうすれば、畑中健太と結婚することにもならずに済んだのかもしれない。最初から心も外見も素顔の、ただの私として彼と出会っていれば、彼の手によって心の装いを一枚、一枚と剥がされていく悲鳴と快感にどっぷり浸かる危険は回避されていたのかもしれない。


 彼の常套手段は、いたってシンプルなものだったのだと思う。私に一人で生きる自信を無くさせ、とことん彼に依存させる。しかし私がそれを理解し、心から拒絶できるまでには時間がかかった。彼自身の本性がその外見と巧みに操る言の葉によって、重厚に包み隠されていたからだった。彼はとても美しい顔と、美しい躰を持っていた。左右対称の円らな瞳、真っすぐ高くも厚みのある鼻、顎から首にかけた重厚で男らしいライン。漆黒で艶のある短い髪。程よく付いた筋肉と長い手足、背も高く、肩幅もあった。それでいて、人をあそこまで痛めつけるとは思えないほど、綺麗な手指を持っていた。彼に初めて会った時、到底40代にさしかかった男とは思えないような少年らしさとその美しさに、私は既に自分という女を蔑んだ。私程度の女がこの男に見合うわけがない、相手は私だけじゃない、私を選ぶことは無いだろう、きっと会うのはこれっきりに違いない、と。私には最初から自尊心などなかったのだ。

神楽坂の路地裏にあるこじんまりとしたフレンチで向かい合った彼は、食前のワインを一口含むと私にこう言った。


「霞、とは、とても美しいお名前ですね。」

「名前負け、って感じで、お恥ずかしいです。」

私は謙遜しつつも、そう答えた。

「霞さんは、とてもお綺麗ですよ。お名前以上に。僕は隣にいることができて嬉しい。」

そう言う彼の表情は、冗談やお世辞で私を喜ばせようとする軽薄な男のそれとは違っていた。真面目であどけない、そして少し何を考えているか分からない、そんな印象だった。


 最初の夜は、互いに指一本触れ合うわけでもなく、ただただ彼の発する空気と言葉の波の中、私は自分が一人の尊重されて然るべき女であるという甘美な水面に漂うのみだった。しかし、後日彼に呼び出されて会った夜、早くも彼は私にプロポーズを申し出た。その時は、あまりの唐突さと彼の穏やかな物言いに、私は何を求められているのか理解するのに時間がかかった。だが、素直に嬉しかった。彼の行動の速さが私を求める質量とイコールに感じたのだ。私は深く考えなかった、というよりも考えさせてもらえなかった。彼の美貌と有無を言わせぬ空気が、私の思考を止めさせた。進むべき道は彼しかない、そう思った。



 結婚前の交際期間は、嵐の前の静けさとも言える、異変を孕んだ穏やかな日々だった。彼はいつも、私の稚拙な言葉を一つひとつ拾い上げ、ある時は名も知らぬ哲学者や歴史学者の話に例え、そしてある時は難解な物理学、化学の話を引き合いに出し、膨らませてくれた。私は彼に見たことの無い景色を見させられているような気分になり、その度に嬉しかったし、益々彼という人間に憧れを募らせた。私は怠惰に続けていたセックスフレンドらしき男とも、いつしか連絡を絶っていた。ついでに余計な人間関係を清算したい思いで携帯を変えようと思った。携帯を買い替えたいと私が言うと、彼はすぐに買ってくれた。無論、その理由は問われなかった。今思えば私に起こったその心境の変化も、彼の計算のうちだったのかもしれない。


 その頃の私は、彼以外の人間関係など不要とすら思うようになっていた。彼さえいれば自分は生きていける、そう思い込み、信じてやまなかった。新しい携帯を手にし、私は昔からの友人数名、会社の人間、そして親以外の連絡先は登録しなかった。連絡先が二〇名ほどに減ってしまったが、それによって私は自由になった気がした。そして最終的には、私は専ら畑中としか連絡を取ることは無くなっていた、それで全てが満たされていたからだ。


 私と畑中の連絡の取り方は、携帯を持ち始めた高校生のカップルのように断続的なものだった。その他愛無いやり取りが生活すべての合間に埋め込まれていった。彼と一緒になくても、彼を側に感じられ、私はそれまでに感じたことのない安堵感に包まれていた。同時に、数時間でも彼と連絡が取れなくなるだけで酷く狼狽しては、謎の焦りの渦に飲み込まれた。また、私はすぐに彼に不満をぶつけるようになっていた。しかし彼はその度に、必ず私を抱きに来た。いつ何時でも、終電が無い時は車で、車も出せない時はタクシーで、必ず来た。そして私は安堵した。やはり私は彼に愛されているのだ、そう思った。


 私はぬるく濁った湯の中で行き来する金魚のように、彼と私だけの世界の中、二人の愛を着実に育てている、と、実態の無い幻想を育てていたのだった。


 交際から一年を経て、私は畑中と結婚した。

 そしてついに彼は、私を自分のモノにした。


「君は弱い。それが美しい。その美しさを受け止められるのは僕しかいない。それが僕にとって最大の喜びだ。」


これは、結婚後の彼が私によく言った言葉だ。私を辱め、殴り、蹴り、或いは酷く醜い言葉で私という人間性をなじりこき下ろした挙句、とうとう私が心身ともに弱り切り、「もうダメだ。逃げたい。」そう私の心が悲鳴を上げ、私という一人の人間だったはずの者が、冷静さや平穏さとはかけ離れた判断力の無い瀕死の動物に貶められかけた、その時に。彼の言葉は魔法のように私を救った。私を貶めたのも彼であったと同時に、救いの手を差し伸べるのもまた彼だったのだ。だが実際は、救いの手を装った悪魔の囁きに他ならなかった。


 彼が私を傷つけるのは、いつも私が彼の感情を読み取り過ぎた時だった。疲れたような、辛そうな、そんな表情をする彼に、「大丈夫?」と聞いたり、厳しい表情や雰囲気を醸し出す彼に、「何か私、気に障ることをしちゃったかな?」などと聞いてみたり、そんな程度のやり取りだった。だが、大切な人が負の感情を纏っている時には自分が支えになってやりたいという想いが自然と沸いて言動に現れるのは、当然のことではないのだろうか。

 しかし、彼は私のそれに激しく拒絶を示し続けた。豹変する彼を目の前にする度に、私は自分という人間性を疑い、責め、自信を無くした。「どうして私は彼を理解してあげられないのだろう。」「私は彼を傷つけてばかりいる。なんと自分は自己中心的な人間なのだろう、それなのに彼はいつも私を許してくれる。」そう思いこみ、悩んだ。その現象が、私自身理解ができなかった。そしていつしか、「私は殴られても足らないほどに罪深い、最低の人間だ。」と感じるようになっていた。そしてその思考回路は、いくら殴られても心の痛みを実感することがない麻酔薬にもなっていた。最終的には、彼から殴られずなじられない日が続くと彼から愛されている実感が乏しくなり、彼に拒絶され懲らしめられることを望むようにもなっていた。それが無くては、まるで自分の存在が無視されているかのように感じて怖かった。

 酒や煙草も同じだ。一度習慣になってしまうと、それらの害がいくら頭で理解できても、それらが生み出すほんの一瞬の快感から抜け出せなくなる。習慣、慣れ、それだけのことであったのに、あろうことか私は、暴力と互いの依存を、彼との間にある愛情に無理やり変換させ、はき違えていたのだった。


 初めて私の異変に気付き、声をかけてくれたのは先輩の幸恵さんだった。ある日の昼下がり、私は会社の女子トイレで嘔吐していた。幸恵さんはドア越しに声をかけてきた。


「霞さん、大丈夫? 大丈夫じゃないでしょ?」


本当に、私はその時、大丈夫ではなかった。妊娠していたのだ。それも、まさにその日の朝に判明した。生理が一週間来ない時点で薄々気付いてはいたが、彼の目があるため到底自宅で検査できる気がしなかった。それで思い切って出社後すぐに、会社のトイレで市販の検査薬を使用したのだ。しかし、悪阻というやつがこんなに早く表れるとは思っていなかった。

 が、今は悪阻からくる吐き気よりも、妊娠と同時に来るべき喜び以前に、「産んではいけない。」そう思った自分に吐き気がしていた。


 幸恵には全て話した。何故、それまで必死に誰にも言わず隠し持っていようとした痛みと快楽を、あろうことか他人である幸恵さんに詳らかにし、手放すきっかけを作ったのか。それは、その時の私は本能的に、「母親」という生き物に変化していたからだろう。


 現代の児童虐待防止法では、児童が同居する家庭における配偶者に対する暴力、つまり子どもがいる場で私が夫から(逆も然り)暴力を振るわれること、それも児童虐待の一つになるという。そんなことは、言ってみれば当然だ。法律ができる遥か昔から、暴言暴力、性的暴力、ネグレクト等で子どもの感受性や心、身体の成長を損なうことは全て、虐待だったのだ。またそれらは犯罪であり、罪を犯した者は罰せられるべきなのだ。私は容易に想像できてしまった、畑中が子どもを間接的に、或いは直接的に傷つけてしまう様を。そんなことは絶対にあってはならない。


 しかしそれが「産まない」という選択肢に直結するかといえば別だと思った。産みたいのならば、産めばよいのだ。彼から離れ、自分で産み育てれば良いのだ。きっとそれが美しい世論の一派だろう。だから、私は自分を責めた。子どもの命以前に、私が彼と離れられないであろうことを前提に、「産めない」と直感してしまったのだから。だが、そんな私に幸恵さんは言った。


「その状況で産めないと思うことは、ごく自然なことよ。」

私はその言葉を上辺だけの慰めだと思った。慰められたところでお礼を言う話題でもないので、私は謝るしかなかった。

「すみません。」

「どうして? どうして、霞さんが謝るの?」

「え…。私が、馬鹿…というか、弱いから。」

「弱い? それじゃあ私も、謝らなくちゃならないわ。」

「いや、いえ、そんなことないです。すみません。」

「だから、まず、謝らない。んで、人間に弱くない奴なんか一人もいない。だから、弱くて謝る、っていうのはつまり、生きていてすみません、って言っているようなものよ。だから必要ない。」

いつになく、幸恵さんの声が強張っていた。

「そう、ですか、なるほど。」

「とにかく、今日は帰りなさい。と言っても、自宅には帰らないこと。私の家に来なさい。いい?」

どういうことだろうか。あまりに唐突の指示と、それから訪れるだろう怒涛の状況の変化に私は恐れ狼狽した。

「いや、いや、そんなのいいです。大丈夫です。ほんとに。ご迷惑おかけするつもりはなかったんです。」

しかし、幸恵は私の反応を予想していたかのように、少し微笑みながらこう言った。

「お腹の子を産むも産まないも、それはこの世で一番、後悔できない決断よ。その判断が、今のあなたにできるかしら。私はそうは思えない。霞さんを責めているのでは、決してないわ。ただ、あなたの身体と心を守ることは、お腹の子に対する最初で最後の誠意になるかもしれない。とにかく、今は冷静に、フラットに、自分の心に忠実になる時間と安全な場所が必要なの。言っていること、わかるかな?」

幸恵さんの言葉一つひとつがやけにはっきり、私の耳にこだましながら聞こえてくる。呆然としながら、私はすぐに返答することができずに棒立ちになっていた。すると霞さんは、私の左肘に手を添え少し持ち上げた。肩甲骨から手首にかけてが、筋肉痛のように鈍く軋む。

「こんなに震えてるじゃないの。いつも、両腕、両肩、首とかが痛むでしょ? 日常的に暴力から自分の頭を力いっぱい守っているから、普段も筋肉が硬直して、こうして震えがくるのよね。仕事のPC使う時も、きっと辛かったでしょうに…。」

「え…。なんでそれ…。」

「わかるからよ、そういうの。知ってるの。私もそうだった。」

「え…?」

「私の、前の夫。そうだったのよ。」

「そう…なんですか。」

「他人事とは思えないのよ。お節介かもしれないけどねっ。さ、今晩一緒にゆっくりしましょう。手ぶらでオッケーよ。嫌じゃなければなんでも貸すわ。うちのチビが寝るまではちょっと辛抱だけどね。」

幸恵さんは笑って言った。

もう、私に有無を言う選択肢は無い気がした。今しか、今を脱するチャンスは無い、そう感じた。左手の震えを右手でさすった。

「はい。」

私は安堵の溜息に近い声で返事をした。

「よし、決まり。とにかく今日は、霞さんの具合が悪くて仕事ができる状況じゃないと私が判断した。そう社長には話すから。それでうち、実はここから歩いて一〇分かからないのよ。歩ける?」

「はい。」

「それじゃあ、一息入れたら行きましょう。」

「これからですか? えと、一緒に、来てくれるんですか?」

「当たり前じゃない! 妊婦に知らない家に一人で行けなんて、言わないわよ~。」

もう、いつものざっくばらんで朗らかな幸恵さんだ。

「じゃ、事務所で帰り支度していて。社長に一言言ってくる。」

「はい。すみま…ありがとう、ございます。」

私はそそくさと事務所に戻り、夫から買い与えられた地味だが高級な仕事用の鞄を手にした。その取っ手をぐっと握りしめる。牛革が、ギギギ、と音を鳴らす。ふと、夫の殴打がこのお腹に命中する様子を想像してみた。私、逃げよう。片手で下胎を支えるように触れながら、私は決意した。



 幸恵さんの家に居候させてもらい始めた日から、一ヵ月が経った。しかし、想定していたような畑中からの執拗な連絡などは一切なかった。私はそれが逆に怖かった。自分から逃げ出したというのに、まるで自分が見捨てられてしまった。そんな想いにかられ、何度も彼に連絡を取ろうとしては、止めた。日に数十回も携帯の画面をつけては消し、彼からの連絡が無いか確認した。それでも、彼からの連絡は来なかった。私は泣いた。妊娠によるホルモンバランスの変化もあったのだろうが、彼との離別がここまで自分の情緒を揺るがしたのは、想像以上のことであった。

 時には、こんなに苦しむのは幸恵さんのお節介のせいだと思うことや、実際に幸恵さんに八つ当たりをすることで発散してしまう夜もあった。それでも幸恵はめげなかった。「辛いね、辛いね。」そうやってただ共感してくれ、眠れぬ私の脚をマッサージしてくれたり、悪阻で苦しむ私の背中をさすってくれた。


 あれはまさに、禁断症状、というものだったのだろう。それも重度の中毒の。よく、薬物やギャンブル、アルコールの中毒者が一人きりでそれを克服するのは非常に困難なことであると言われるが、人間への依存もまた、一人きりで乗り越えるにはとてつもなく難儀なことだと痛感した。今となっては、あの時の幸恵さんの惜しみない支えに、心の芯から温かい感情が蘇る。



 一つの別れは、突然やってきた。お腹の子が、死んだのだ。いや、死んでいた、ということを知った。

 結局この三週間、私は子を産むかどうか悩み続けていた。どうあがいてもお腹の子に父親は与えてやれないし、私の力だけでは豊かな生活も送らせてはやれないだろう、それがネックだった。それでも私は、やはり本能的にも産む選択をしようとしていたのだと思う。私は中絶の可能性は伏せながら産婦人科の門を叩いた。


 しかし、初めて産婦人科で健診を受けた時主治医はやんわりと、「この週数が正しければ、通常より小さめです。必ず来週また来てください。」そう言った。「小さめ」「必ず」この言葉に酷く不安を感じたのは、やはり私は産みたかったのだ。次の健診までの一週間、私は思わず下腹部に手をやり声をかけた。「ごめんね、ごめんね。」と。私の弱さがお腹の子を苦しめている、そう思ったからだ。しかし謝るのと同じぐらいに、「がんばれ、がんばれ。」そう声をかけている自分もいた。そして翌週の健診で、主治医は言った。「稽留流産と言って、胎児が育たず、妊娠の継続は難しい状況です。残念ですが、これはお母さんのせいではなく、ほとんどが遺伝子的な問題で…」薄々勘付いてはいたが、「流産」その二文字だけが私の頭の中をぐるぐると巡り続けた。


 手術は二日後に行われた。その二日間、私は妙な解放感に浸っていた。それは、本当のひとりぼっちの世界に放たれたような、空虚で穏やかな、死への感覚の麻痺であった。だが、手術台に上り意識が飛ぶその瞬間まで、私はお腹の子を愛した、愛したかった。理性は、「愛するな」「情を抱くな」と私の心を守ろうとしたが、既に放たれてしまった母性がそれを拒絶した。子は、まだここにいる、いるのだ…。そう思い、私はそれまで食い止めていた子への愛情のリミッターを外した。良い音楽を聴きながら、電車とバスを使い、歩き、立ち止まっては良い景色を眺めた。美味しい物を食べ、その二日間だけは煙草を吸うのを完全に忘れた。何をするにしてもその都度沢山、子に声をかけた。

手術当日、待合室でお腹を大きくした妊婦や、幸せそうな夫婦を見ても私は何も感じなかった。だが産院に付き添ってくれていた幸恵さんは、そんな私の不自然にも穏やかな様子に複雑な表情を見せていた。


 麻酔から覚めた瞬間、私は自分でも想定していなかったほどに、取り乱し、泣く、いや、叫んでいた。


「脚の方、もっとちゃんと抑えて!」

「大丈夫ですよ、もう大丈夫ですよ。」


そう言う看護師の声が遥か彼方から響いてきた記憶はある。術後の安静室で、私は麻酔の残ったぼんやりした意識の中、ああ、この世にこれ以上の虚無感は無い。私はそんな気持ちに殺されそうになっていた。


 世の男性が、妊娠や流産、中絶、それらにまつわる女性の感情を理解しようとするならば、全くもって不可能だと断言したい。だって、実際無理なのだ。結果はそれぞれにしても、自分の中に命を宿す経験は、同じ女同士でも経験の有無により全く共感し合えないものなのだから。しかしそうであっても、その中で辛い経験をした者にとって必要なのは、支えてくれる誰か、だ。私には幸恵さんがいてくれた。だが、畑中はいなかった。


 私はこの流産を機に、本格的に畑中との離別を決意した。そして彼に自ら連絡を取り、これまでの経緯を説明した。自分が被ってきた被害や心の痛みについても話した。しかし、彼の対応は変わらなかった。そして彼は言った。


「そうだ、フロイトがこう言っていたよ。〝あらゆる生あるものの目指すところは死である。” とね。」


 彼がどんなつもりでその言葉を選択し伝えてきたのかは知らないが、私はそれが許せなかった。この男には、人に寄り添うことと同時に、自分の世界の中に誰かを住まわせることができないのだ。それを彼自身も人間としての大きな欠如であるという自覚がありながらも克服できず、やがてそれは全身全霊で拒絶を覚えるコンプレックスへと変容してしまったのではないかと思う。だからこそ、自分より弱い人間を飼いならし、自分の感情に立ち入られる危険を感じる度に力で拒絶していたというわけだ。結局、彼もただの弱い人間の一人だった。私が頼り、信じて寄りかかっていた強さは、夢か願望か、いずれにしても幻に過ぎなかったのだ。日の目を見ずして旅立った子は、私に大きな気付きを与えてくれた。

 

 ◇


 畑中と居を異にしてから、三ヵ月が経っていた。流産で受けた衝撃も少しずつ和らぎ、私は幸恵さんと息子の順平君との三人暮らしにも穏やかな喜びを感じるようになっていた。会社には幸恵さんに協力してもらい、社長にだけは実際の事情を説明した。幸恵さんが一〇年前、私と同じように夫のDVから救われ別れることができたというのも、実は社長の奥さんである公子からの声掛けがきっかけだったという。


 公子は幸恵さんの小学校の同級生だったそうだ。その頃まだ二五歳だった二人は、たまたま地元千葉県のスーパーマーケットで遭遇した。公子は幸恵さんの顔が異常にコケ落ち、かつては明るかったはずの彼女がびくびくしながら話す様子に異変を感じたそうだ。そして、丁度その頃今の社長と結婚するために東京に出る寸前だった公子は、「ママ同士、互いに子どもを連れて東京ディズニーランドへ行こう」と銘打った計画を立てた。無論、それは彼女が考えた幸恵さんを逃がすためのカムフラージュであった。それを暗に悟った幸恵さんは、当時の夫が出張で九州へ出張する日程に合わせ、子どもを連れて旅立つことを決意をしたのだった。


 当時の幸恵さんの覚束ない様子、そして何より、危険を伴い面倒と思われる彼女との関わりに最初は戸惑いながらも、これから結婚するという妻の願いと思い協力した社長も、幸恵さんが徐々に健康的な本来の人間へ戻っていく様を見て最後まで協力を続けてくれたのだという。そのような経緯もあり、社長は現に私の状況に理解を示してくれ、会社での雇用については当面は休職扱いにしてくれている。とはいえ、そもそもの元凶が社長自身の勧めで結ばれた縁談だったこと、まさか自分の弟がDVをしているという事実に、幸恵さんのことを重ねながら戸惑い、苦しみ、そして恥じ、多大な責任を感じてくれているらしい。自分にできることがあれば何でも協力する、そう言って、畑中が異常な行動に出た場合を想定し、私とコンタクトが取れぬよう、また私の居所が割れぬよう、社内でもそれとなく連携をとってくれているという。


 幸恵さんの前夫の場合は、彼女が突然子どもを連れて姿を消したとなった途端、会社や幸恵さんの実家、友人など手あたり次第に捜索をかけてきたという。当初彼は、幸恵の気が狂い、それに対応していた最中の揉み合いで怪我を負わせてしまった。そんな架空の物語をあたかも真実であるように幸恵さんと関わりのある人間たちに吹聴して回っていたという。しかしそれでも幸恵さん、そして公子と社長が諦めずにいると、次第に彼は全面的にその本性を現したそうだ。これまで妻想いの苦悩している夫の体でいた彼は、幸恵さんの周囲の人間たちを調べ上げ始めた。その中から他人に知られたくないであろうネタを掴むと、悪質なマスコミのようにその情報を誇張、装飾し、整理した。そしてそれらを人質にして幸恵さんの居場所や情報を引き出そうとして回ったのだという。必然的に周囲は幸恵さんとの距離を一層広げることとなったが、同時に彼女が本当に被害者であったのだろうという実態も察することとなった。


 一方で幸恵さんは、それまでの人間関係を全て捨てた。実家にも被害が及ぶことを危惧し、連絡を絶ったという。そして一番重要な子どもの安全を考え、なんとかして我が子を児童相談所の一時保護に入れることにした。それで約一ヵ月は子どもの身だけは安全を確保できた。そしてその短期間において、社長に保証人となってもらい東京にアパートを借り、晴れて親子二人暮らしをスタートさせたのだ。それでも、当時の夫からの執拗な捜索からの恐怖とはいつも隣り合わせだったという。幸恵さんは自慢だったというロングヘアをベリーショートに変え、伊達メガネを欠かさずかけて外出した。また、いつでも走れるようにパンプスやスカートの類は持たず、スニーカーとパーカー、ジーンズしか身につけなくなった。


 そんな生活が一年続いた秋口の朝、当時の夫の実家から、幸恵の実家へ一通の手紙が送られて来たという。それは、夫が自殺したとの知らせだった。またその知らせだけではなく、「息子を苦しめ、死に追いやったのは幸恵だ。」などと、あろうことか幸恵さんへの恨みつらみが姑の言葉でびっしりと書き連ねられていたそうだ。方や死んだ本人は、「幸恵を愛している」と殴り書きしたメモ帳を口の中に押し込めたまま、首を吊っていたという。その時は、人が一人自殺をした、それがかつては愛し合って結婚し、子どもも設けた相手だということは幸恵さんの心をかすめることもなく、ただただ安堵しただけだった、と幸恵さんは言った。


 しかし、幸恵さんや社長夫妻、そして私の予想を裏切り、畑中からの自主的な連絡は依然として皆無だった。自ずとこちらからも連絡を取ることはしばらく無かった。



 体に不要な痛みも無く心に余裕が生まれると不思議なことに、今まで閉じ込めていた自分自身の心の声が聞こえてくるようになっていた。前に進みたい、漠然とだがそう願った。

 秋晴れの昼過ぎ、新宿のハイアットリージェンシーのカフェで、畑中と一年半ぶりの対面をすることになった。幸恵さんの提案で、彼に顔の割れていない彼女と辻が恋人同士の設定で、私と畑中双方の横顔が見える奥の席に座り見守っていてくれることになった。ホテルの駐車場で落ち合った時、辻の顔はいつになく緊張し、得意のヘラヘラしたしゃべりもできぬようだった。


「自然によ? 自然に! いい? あんたが不自然な様子だと、こっちまで集中できなくて何かあったら困るでしょ! 男なんだから、どっしりしてなさいよ。頼むわよ?」

そんな幸恵の追い打ちに辻の緊張はさらに増してしまったのか、彼は声無き頷きを繰り返している。その様子が先生と叱られた小学生のようで、私は不謹慎ながらもそれが微笑ましく、ふふふ、と声を漏らしてしまった。

「そうそう、霞さん、その調子でリラックス。おへその下に気持ちを落ち着かせて、堂々と、ね。」

幸恵さんは母親のような柔らかい声と笑顔で私の気持ちを和らげてくれた。

「そそそ、そうっす! 霞さん、勝負の時っす!」

若干無理矢理ながらも、辻の調子がノッてきた。

「ほんとあんた、ただい、る、だ、け、で、いいんだからね? 余計なことはしない、言わない。絶対目立たないように! わかったわね?」

「あ、はいっ。さーせん。さーせん!」

「ばかだぁ。もう大丈夫かしらね。ごめんねぇ。辻が一番暇そうだったから、こいつしかいなくてさ。」

「えぇぇーー。俺めっちゃ昨日仕事詰め込んで今日来たのにぃーーー!」

「余計な事を言うなっての、辻!」

その見慣れた夫婦漫才風の掛け合いは、私の気持ちを温かく和らげた。

「もしかして…。私のことより、憧れの幸恵さんが恋人役っていうことに、辻君、緊張してる?」

私の方が、つい余計な冗談を挟んでしまえるくらいになっていた。だが、どうも余計な冗談でもない様子で、一瞬、二人して微笑の表情のまま一瞬固まってしまった。私は慌てて付け加えた。

「あぁ、すみません、こんな時に。しっかりやります。お二人とも、今日は本当にありがとうございます。」

「もぉ~~、びっくりすること言わないでー、霞さーん。やだもう。…って、こっちを見るな、辻!」

「えぇ。見るぐらいいいでしょう!? 恋人なんすから今日はぁ~、冷たいなぁ、も~。」


やはりこの二人、まんざらでもないようだ。実に良いコンビで少し羨ましくもあり、頼もしかった。


 畑中は約束の時間から三〇分ほど遅れてやって来た。会話は挨拶だけに留め、私は早々に緑の紙を彼に提示した。連絡もよこしてこなかったことから、てっきり彼の中に私への執着など既に無いものと思っていたので、すんなりサインをしてもらえると思っていたが、そうではなかった。彼には私への執着が極まって過度な自信が生まれていたのだろう。何があっても私が必ず自分の〝下〟に帰ってくるとでも思っていたに違いない。


「心外だな。今日は、僕とやり直すために君から謝罪の言葉を受けるものだと思っていたよ。」

彼は右手で顎をさすりながら不敵な笑みを含みながら言った。


 その彼の歪んだ笑顔に、私の背筋は凍りかけた。私は走馬灯のように、あの頃繰り返された病を思い出した。


 そう、この顔。自信と不安の入り混じった、歪んだ笑顔。この顔になると、その直後に彼はみるみるうちに全身に血をみなぎらせ、まずはその場にある物を勢いよく破壊した。そしてそれに対する私のビクッとした反応が最初のスイッチとなり、標的を私という物に変える。そこから数分間はひたすらに言葉でなじられ、私は謝る。私の謝罪がさらなるスイッチとなり、今度は胸ぐらをつかまれ揺さぶりながらなじられる。私の目からは勝手に涙があふれ出る。それが最後のスイッチだ。


 その後は小一時間徹底的に突き飛ばされては蹴られ、持ち上げられ、殴られる。そして最後に責めるのは後頭部だった。「汚い、弱い、いるだけで迷惑だ。本当にお前の存在はもどかしい。どうしてここにいるんだ。なぁ? 聞こえてるのか、反省しているのか、生きていることに謝罪はないのか。こら、おい、おい!!」そんな暴言が宙を舞いながら私の後頭部をスリッパを履いた足の裏でぐりぐりと執拗に踏みつけるのだ。その時、彼はいつもこう言っていた、「お前のような人間は、汚らしくて、直には踏みつけられないからな。」と。そんな非現実的な状況の最中にいる私は、とにかく死なないためにどうするか、ということしか考えられなかった。逃れようと試みたり、抵抗を示すことで表出する、より一層狂暴を増した報復の前で、私の命は無いだろう。


「ごめんなさい、ごめんなさい、私がいてごめんなさい…。」

私は恐怖と麻痺の狭間で身動きできず、ひたすら呪文のように小声でつぶやき続けていた。


そしてしばらくすると、唐突に彼のスイッチはオフになる。次第に彼の足音が不規則に後ろへ退いていく。その音と気配を合図に、私は失神した。目が覚めると、身体のあちこちが痛み、疼き、酷い寒さを覚えた。涙と汗で顔面は汚れ引き攣る。食いしばりきっていた顎は、少し開くだけでぎしりと鈍い音を出す。どこか折れていては障るので、慎重に肘と掌を支えにし上体を起こす。そしてしばしぼんやりと玄関の扉を眺めるのだ。


―ここから出られないのは、自分が弱いから。


苦痛を伴う、諦めというぬるま湯につかりながら、漂う意識の中私は自分の弱さに酔っているようだった。


しばらくそうしていると夫が足早に近づいてくる。その足音に私は全身を静かに硬直させる。彼の両腕が背後から私の上体を柔らかく包む。


「愛してる。」


彼は私の耳元でそう繰り返しながら、私を愛情深げに抱きしめる。私の肩の力が抜けるのを感じると、彼は私を抱きかかえ、風呂場へ連れていく。いつも、私が失神している間に湯舟に温かい湯を溜めておくようだった。ゆっくりと私を湯に浸からせ、絹製の柔らかい手ぬぐいで私の顔面から首、肩、胸元、腕へと、丁寧に優しく撫で洗ってゆく。


「君は弱い。それが美しい。その美しさを受け止められるのは僕しかいない。それが僕にとって最大の喜びだ。」


そう、囁きながら。


 彼は私を赤ん坊にそうするように湯舟から引き上げると、私の身体から垂れる水分を優しく丁寧に、清潔なタオルで抑えていく。乾いた私の身を抱え上げ、ベッドへ横たわらせる。ベッドサイドに置かれたゲランのボディローションが惜しみなく、彼の手で私の全身に擦りこまれてゆく。彼の好きな香りが、赤茶の斑模様を成した私をしっとりと、ヒリヒリと包みこむ。そうされながら、私は静かに涙を流しながらも自分のオンナを濡らしていった。溢れそうになったそれを彼の綺麗な指先が一気に掬い取る。そして、私の目の前でじゅるじゅるとわざとらしく音を立てながら舐めとった。私は喉の渇きを彼に訴える。それを待っていたかのように、彼が私の頭上を跨って、私の咽喉奥まで彼のオトコをゆっくりと差し込んで上下させるのだ。程なくして飛び出した彼の分身は、私の喉を渋辛く満たした。それと同時に、彼の唇が私の唇に覆いかぶさり、貪る。えげつない味と感触が二人の間を行き来する。そして、驚くべき速さで息を吹き返した彼のオトコは、幾度も幾度も、ぶつけるような強さと勢いで私を深く貫いた。「もうだめ。」私は彼に口答えをする。すると、彼は一気にオトコを引き抜き、「綺麗だ」「愛してる」「僕だけのものだ」そう繰り返しながら私の両腕をベッドボードの柵と繋げる。両腕の自由が利かないことに、私のオンナはさらに潤っていく。臀部を両側から掴まれ持ち上げられた私は、彼にオンナを突き出す態勢を取らされる。彼の大きな掌が私の臀部を何往復も叩きのめす。「もっと、もっと、ごめんなさい、ごめんなさい…。」と、私は枯れた声を上げて懇願した。


それはまるで、私の弱さや汚らわしさを許されていくことのように感じられ、私はその悦びに惜し気もなく喘いだ。その態勢のまま、しばらく彼に突かれていると、疲労と快楽で私の全身はガクガクと痙攣しはじめる。すると彼は私から身を離し、震える私をそのままにベッド脇にスツールに腰を下ろすとしばし私を眺めるのだった。彼を前に、私は泣きながら訴えた。私のオンナを彼のオトコで壊してもらうことを。その間、私のオンナはその苦痛と恥ずかしさに比例して益々溢れ続けた。私を辱めることに満足すると、彼はポケットから長年愛用している万年筆を取り出した。キャップを外し、美しいくびれの先にある鋭利なペン先で、触れるか触れないかの微妙な力加減で私の身体をなぞり始める。足裏から足首、ふくらはぎ、太ももへと、秘部や乳首を巧みに避けながら。コントロールを失った私の様をまじまじと眺めながら、彼は恍惚とした表情で言う。


「君はどこもかしこも、美しいよ。僕にしかわからない、ぼくだけの美だ。完全な形に意味など無い。こんなに汚れて、傷ついて淫らな君だからこそ、僕にとっては最高の美しさなんだよ。わかってくれるよね? これは二人だけの秘密で、宝物だ。いいね?」

「はい。」

私にはもう、そう返事する以外に選択肢はなく、彼に許され認められたと感じるその瞬間を悦んで味わっていた。彼の操る万年筆の先端が私の首から耳元へ到達すると、彼はそのキャップを丁寧に締め、私の口へとねじ込む。拘束を解かれた私は万年筆を咥えさせられたまま仰向けの態勢に促される。そして今度は優しく、ゆっくりと、彼の左手で私の乳房は揉みしだかれ、彼の舌が私の乳首を緩急をつけながら弄ぶ。同時に、彼の右手指は私の秘部の末端をじりじりと刺激した。私はそこで幾度とわからぬ昇天を繰り返す。「もう一度いきなさい」「もう一度」「もう一度」彼は乱暴で紳士な声で私を促す。いつしか私の身体は、どこを触れられても踊るように敏感な反応を示す物体と化していた。そしてとうとう、彼のオトコが私のオンナに再び滑り入ってくるのだった。その絶望的な快楽に酔う私の口元から万年筆を取り除かれると同時に、彼の口づけが唾液で汚れた私の口回りを舐めとるように這い、吸う。彼はその合間合間にも、「愛してる」と唸るように囁き続け、私もそれに呼応した。長いようで一瞬の擦り合いの末、ついに互いの限界が来た時、彼は私の中の一部となり、ドロドロに溶け合うように感じられたのだ。


 こんなことの、繰り返しだった。恐怖と許し、愛欲と懇願、そして恐怖。この負のループが目に見えない緊縛となって私の思考と手足の動きを封じた。最早私の頭には、彼から逃げ出すというアイデアなど浮かんでくることは無くなっていた。しかし、あれは一種の大病であり、所謂依存症であったのだ。決して人を生かすものではない、ゆっくりと殺していく病であったと思う。

 だが一方で、彼もまたその病の虜になっていたはずだ。だからこそ、私を飼いならしていたという過信は過大妄想にまで膨らみ、私を手放すことなど毛頭考えられていなかったのだろう。だが今の私は、既に治療を開始したのだ。その病の実態にも気付いている。だから、私は彼の元には戻らない。後ろ髪を引かれる思いがしなかったといえば嘘になるが、もう彼を振り返る自分など許せないところまできた。過去は彼と共に葬ってしまわなければならない。



 その後畑中は、私が離婚調停に持ち込んでも尚一年間は判を押さなかった。二人で暮らした家の中にあった私の物も全てそのままにしていたという。だがある日、サインされた離婚届けが私の実家に届いていた。封筒の中にはその緑の紙切れ一枚で、何も書き添えてあるものは無かった。社長曰く、畑中は最近になって新たな女を見つけ、行方を暗ましたのだという。私の実家に離婚届けが届いたのと同じ頃、「ついに真実の愛を見つけたよ。もう縁を絶つ。探すな。」それだけ記された手紙が社長宅に届いたというのだ。念のため、社長と辻が畑中の出た後のマンションに行ってみたが、私の物はおろか、部屋はもぬけの殻だったそうだ。


 あの日々は、愛情ではなかった。私と彼の間にあったのは、人間の弱さ同士の引力が起こしたブラックホールだ。互いに互いを必要としたのでも、支え合ったのでもなく、傷つけ合うことで自分の存在を明らかにしようとする、所謂自傷行為の共同作業。そんなところだったのだろう。



 床に寝転がりながら、ぼんやりと畑中の記憶の中を漂っている私の耳奥に、リビングの方から不躾な足音が響いてきた。私の視界の端に宗和の顔がにょきっと現れる。


「霞、どうしたの? そんなところで。酔いつぶれ?」


―ああ、そうか。


何をしていたのか、どうなっていたのか、宗和のきょとんとした面に覚えた苛立ちが刺激となって、私は今が今であることを思い出した。


 それにしても、「どうしたの?」とは、なんだ。酔いつぶれた妻が床で倒れているという事態が珍しくないのなら、別だ。だが、こんなことが珍しくないわけが無いではないか。仮に、帰宅してこの光景を目にしたとあらばその瞬間、どうにかしなければ、と慌てて妻をベッドに運ぶぐらいはできたものではないのか。救急車を呼ぼうと思っても不思議ではないだろう。私の目には、畑中の記憶と目の前にいる夫の間抜けで思いやりのない顔が重なり合って見えた。胸糞悪い感覚が私の強張った体をさらに冷却させてゆく。


「別に。大丈夫。いつ帰ってきたの。」

「さっきだよ?」

「あ、そ。」

「俺、風呂入っちゃってお湯ほとんど無くなっちゃった、ごめんね、霞入る?」


彼の的外れで気遣いの欠片もない言動に、私は言葉が出なかった。玄関先の廊下で倒れた妻の体を跨いで風呂場まで行き、まずは自分の入浴を優先した夫。私が自力で目を覚まさなければ、彼はそのまま床に入っていたのではないだろうか。自身の行いが招いた夫婦の危機的な状況下においても、依然として妻に対しておざなりな対応に出られること自体、ひょっとすると、もう彼の中では罪悪感も自責の念も消え去って、過去を都合良く無かった事にしてしまっているのではないだろうか。この男は、馬鹿なのか、阿呆なのか、いや、もしかするとどこか異常なのではないだろうか。


 ポーズだけでもいい、私のことを女として、一番大切な女性として、ただ、大切に扱ってほしい。本当は、私を心の底から思いやってほしい。でももう、彼の顔も見たくない、その声すら耳にしたくはない。と、私はこの夜初めて実感した。寂しさと悔しさで冷え切ってしまった心と身体を温めるべく、汚れた湯を落とし綺麗に磨き直した湯舟に、熱い湯を溜める。汗と涙が同時に染み出ては、湯と混ざる。しかしどれだけ長く浸かってみても、私の心の芯は冷え切ったままだった。



 結局、絹子さんとは十年ほどの付き合いになったが、彼女は無事に去っていった。やはり十年も関わりを持つと、それが喜ばしい別れとはいえ寂しいものがある。とはいえ、すぐに次の課題へ取り組まなければならないことでその寂しさは紛れていく。だいたい、俺は過去に縛られている場合ではないのだ。霞さんは、あとどれくらいで去っていくのだろうか。まだ時間が必要な気もするが、初めて対面した時の彼女の印象からは、思ったよりも早くその時が来るかもしれない気もする。しかし、焦ってはならない。焦るとそれだけ自分がしんどくなるだけだ。もし霞さんで課題が最後とならなかったとしたら、期待するだけ苦しいのだ。


 さて、これで何人目なのだろう。昭和二〇年に死んでから、もう七〇年、俺は課題と関わってきた。本来与えられていたであろう天寿を全うするとしても、あれから七〇年ならばあり得る長さだ。しかし、最愛の者との別れがあったかどうかでは、同じ期間、時間でも何万倍も長く感じるものではなかろうか。かつてアインシュタインが似たようなことを言っていた気もする。


 だいたいもって、「何か」を知るということはこんなにも時間がかかるものなのだろうか? いくつかの人生の断片に随行させてもらってはきたが、例えばその「何か」が「幸せ」なのだとしたら、それはこんなにも道のり険しいものでしかないのだろうか。もっと、他愛ない、さりげない、路地裏に咲く花一本を見つけた時のような安堵感。それだって、「幸せ」と呼んでよいのではなかろうか。


 俺は、何を探して何を目指しているのか、知らねばならない「何か」とは、一体何なのか…。考えてしまうと気が遠くなる。正直、俺はこの課題で最後にしたい。もう勘弁してくれ、とすら思う。神だか仏だか知らないが、そろそろ、俺を彼女の所へ行かせてくれ。俺の、最愛の者の所に。

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