第2話 霞╱出会い
明美を駅まで送ってから、私は人ごみの中で静寂を感じていた。人と会って、別れた後のこの安堵感は心地よい。きつめのベルトを外した時のような解放感がある。今更酔いが回ってきたので、それも少し醒ましたいと思い、すぐに地下鉄へ潜らず、少しばかり歩くことにした。
人影もまばらになった靖国通りを歌舞伎町方面にゆっくりと歩く。
いびつなドミノのように連なり輝くネオンは、『TOKYO』と描かれた土産用のポストカードを眺めているようだ。あれは、宗和と出会った場所。元々私だけの場所だったのに、彼との場所になってしまった場所。私はなんとなく、あの場所を自分の手に取り戻したいような気持ちになった。
そういえば、あの頃アルバイトしていた喫茶店『しまざき』は、まだ営業しているのだろうか。結婚を機に辞めてしまってから一度も訪ねたことはない。酔っているのか、本当はもう帰りの電車に乗らなければならない時間とは分かりつつも、私は『しまざき』のあった場所まで向かうことにした。
区役所の横道を右に曲がる。夜の店と黒服がギラギラと蠢いている。誰一人私に関心はない。もうこの街の住人である空気を身に纏っていない女が一人で歩いていること自体に抵抗を示す視線が、一瞬、一瞬に注がれてしまうだけの連続だ。でも、私は歩き続ける。しばらく行くと風鈴会館がある。これ以上まっすぐ行くとラブホテルばかりだ。喫茶店までは左折して旧コマ劇前まで真っすぐ行く方がわかりやすい。慣れ親しんだ、不自然な活気をまき散らしているこの街並み。懐かしくも、来るもの拒まず去る者追わぬ、そんな安堵を感じさせてくれるこの街。
さっきまでの明美との会話が、実に平和な物語の一ページのように思い出される。平和で平穏な場所に生きていなければ、子どもを産むか産まないか、そんなことを悩む余裕など生まれないものだ。産めるわけがない、と多くの人が口を揃える状況にある女性ほど、その選択肢を与えられていない場合がほとんどなのだ。人間は、追い詰められていればいるほど、選択肢を見失う。目の前に並べられたカードにすら気付けない。窮地で生きている時ほど、人間は動物的な本能に身を任せる。明美のように選択肢が見えているうちは、平和なのだ。明美は平和を生きている。だから、子どもを産んでも育てていける、きっと。
しかし、果たして子どもを産むことを後押しするような言葉をかけた私は、正しかったのだろうか。あれで、良かったのだろうか。私は、あんなに風に偉そうに語り、命の後押しをするような真似をしていい人間ではない。私こそ、迷子になっているというのに。
人の幸せや不幸、そんなもの。昼過ぎのワイドショーで不倫だ収賄だ、そんなどうでも良い出来事に対して真剣に解説やコメントをあてがう様子を眺めているのとさして変わらない。画面の向こうではそりゃあ真剣にやっているのだろう。食っていくためのお金を貰い、それらしき人物を演じているアナウンサーや専門家らしき人々。だが、画面をただ観ている側は幸せそうなテーマにほど不快を覚え、不穏なテーマにほどアドレナリンを刺激される。人の幸せも不幸も、所詮その程度のお話なのだ。そんな具合なのに、私は演じて見せた。命の尊さまでは語れなかったが、明美の求めた答えを順に追って、背中を押してやる友人を演じてしまった。そんな熱演の後には、いつも消化しきれない罪悪感が私の胎底をチクチクとむず痒くさせるのだった。
[私は、あれでよかったと思います。]
彼の声がした。
―どうして。
心の中で私は応えた。
[平和な世界に生まれる命は、一人でも多い方が良い。私はそう思うからです。]
―なんだか宗教みたいな言葉。
[宗教、ですか。]
―命ってなにかな。平和とか、命とか。そういうのって、なんだか宗教っぽい。
[それもそうかもしれませんね。]
―なによ。今日はなんなのよ。
彼の声と心の中で対話することには、ここのところ慣れてきていた。私がこうして自分の行いが正しかったのかどうかと自問自答している時、言いえぬ罪悪感や孤独を持て余している時に、頻繁に彼の声は現れた。その度、特に中身のある会話はないものの、彼はいつも私の味方をしてくれているような言葉をぽつりぽつりと語り掛けてきては、気付くといつの間にか声と気配は消えている。
[邪魔をしましたね。]
―いや、べつに。
[ところで、そろそろ帰った方が良いかもしれませんね。あなたは酔っておられる。女性が一人このような時間にこのような場所をぶらついてしまうのは、あまり、いや強くお勧めし難い。]
いつになく、彼の声が厳しい口調であることに私は少々驚いた。
―大丈夫。前にこの辺で働いてたのよ。だいたい一〇代の女の子じゃあるまいし。
[いくつであっても、あなたは女性ですら。]
―んなこと、わかってるわよ。
[そうですか。ただ、いつの時代も女性は女性であります。]
一体何を言い出すのか。女の一人歩きに心配してくれているのか、なんとお優しいことで。と、私が皮肉っぽく思い黙っていると、やはりいつの間にか声と気配は消えていた。
無料案内所から男が一人出てくるのが見えた。量産型の出来合いのスーツがよれよれと身体にぶら下がったような、なんとも冴えない中年男だ。私は男を横目で一瞥し、旧コマ劇の横を右折した。大学生の団体が不均等な群れをなし、前進するでもなく蠢いているのがかなり邪魔だ。そういえば、以前この広場でキャンパスライフデビューしたての女の子たちが泥酔させられ、その多くが地面に卒倒し中には脱糞している者まで出た、という事件があった。死者が出なかったことが幸いだったが、将来自由を謳歌するために勉強をし始めた分際であることの自覚のない若者同士の殺し合い、あの騒ぎに対して私はそんな印象を抱いた。あんなことがあった広場には今日も、時間の概念をどこかに忘れてきたような影の薄い女の子たちが安い煙草をふかしながら、空になったその箱をポイとその場に捨てている。私は浅い溜息を漏らしながら、『しまざき』のあった場所を目指した。
『しまざき』は、チェーン経営のラーメン屋に変わっていた。「そっかぁ。」私は独り言ちた。何とも言えない寂しさが胸をチクリと刺す。私はなんとなく帰る場所を一つ失った感じがした。
とはいえ、『しまざき』の店主は私が世話になっていた当時既に還暦は過ぎていたというだけに、彼女がいつ身を引いていたとしても何ら不思議はなかった。店主は無口で、従業員(といっても週一日しか入っていない自称作家の青年と私の二人だけだったが)のプライベートには踏み入ってこない初老の女性だった。
彼女はいつも無駄な愛想も高い声も出さない接客をしていた。この街で商売をやってきたからにはそれなりの経験や教訓を以ていたのか、それ故のやり方なのだろうと思っていた。働き始めてしばらくはその彼女の愛想の無さに、私は嫌われているのではなかろうかと不安になったりもしたが、どの客にも差を付けず媚を売ったりもしない彼女の営業スタイルから、そこまで気に病むことは無かった。だいたい、あんなことがあったのだから、もしも私と関わりたくないとしたらそもそも雇ってはくれなかったはずだ。
しかし、私が結婚を理由にアルバイトを辞めると話した時、その時だけは彼女が言葉らしい言葉をかけてくれた。私は何故か今でもその時の会話を鮮明に覚えている。
「わらしだば、できたのか。」
彼女とはまともに会話をしたことが無かったからか、彼女が東北地方のものらしき方言で話すことに、少々私は戸惑った。
「わ、わらし?」
「子どものごどだし。」
「いえ、それはまだ。」
「そしたきや、結婚しても暇できゃが。」
「そ、そうかもしれませんね。」
「えさ入ってほしいって言ってんのか、相手こ。」
「え、えさ?」
「家に入ってほしいって言ってるの? 相手。」
「特にそんな感じじゃないんですけど、私、実は結婚二度目で。」
「知ってらし。」
「え?」
「わかるわよ。ってこと。ごめんね、私気持ちが入ると故郷の言葉が出ちゃうから。」
「いえ、それは別にいいんですけど…。え、東北? ですか?」
「青森。」
「へぇ~。」
店主が青森出身だったことも初めて知った。それはそうと、何故私の結婚が二度目だと知っているのだろう。私は気になって質問した。
「えぇと、私がバツイチってこと、ご存じで?」
「入ってきた時、薬指、日焼痒いのあどがあっだ。」
彼女は何を今更と言うかのように、クスッと笑いながら言った。
「え、えぇ??」
「面接ん時、ここに指輪の跡が残ってた、ってば。」
そう言いながら彼女が自分の左手の薬指を右手の人差し指で小さくなぞった。
「す、すごいですね。そんなところで分かっちゃうなんて。」
「それはんだど、二度目だかきやって、尽ぐしすぎちゃあ、まいねじゃ。」
「ええと…。」
「ふふ、ごめん、ごめん。」
方言への理解力の無さ故、眉間に皺を寄せながら聞き耳を立てる私を見てか、彼女はまた、クスッとしながらそう言った。
「二度目だからって、尽くし過ぎたら、だめよ。ってこと。」
「あ、なるほど。はい…、すみません。」
「やだ、謝るところではないでしょう、全然。で、相手は? 優しいの?」
「あ、はい。」
「結婚しても、優しい?」
「…それはまだ、結婚してないのでわかりません。でも、そう願っています。」
私は彼女の問いかけがあまり一般的ではないように感じながら、自ずと不思議そうな顔で彼女を見つめていたようだ。彼女はまたしてもクスっと笑い、こう言った。
「愛するってのはね、技術なの。」
「え、技術。ですか。」
「そうよ。技術者なの? その相手は。」
「と、いいますと。ええと、殴らない、とか。そういうことですか?」
「ううん。いや、それもそうかもしれないけど。そりゃあ殴ったらだめよ、それはもうおしまい。それより、あんたが嬉しいとか、楽しいとか、そういうのを黙っていてもこしらえてくれる奴か、ってこと。」
「…はい。多分。」
「多分、ね。まぁいいや。…あのね、幸せになんか、なろうとしないことよ。それは不幸のはじまり。」
「えっ。」
私はいよいよ彼女が何を考えているのか分からなくなってきた。だが、かえって彼女の方が不思議そうな顔でこう言った。
「もしかして、あんた、幸せになろうって気で結婚するの?」
「ええと、それはどういう…。結婚して幸せになりたいというのは、なんと言うか、普通なのでは…。」
「幸せ、ね。とにかくさ、幸せってね、そうなっていることにいつの間にか気付くもんなの。でも、わざわざ目指してしまい始めたら、一生不幸のままよ。」
「はあ。ふ、深いですね。」
「まぁ、いいわ。おめでと。」
確か、こんな会話で終わったと記憶している。あの時の私では、彼女の言葉を腑に落とすことができなかった。
アルバイト最後の日の閉店作業が終わった頃、店主は白いレース柄の半透明のセロファンと青いリボンで綺麗に包装されたピンクのペチュニアを一株、私に贈ってくれた。家に帰って包装を解くと、そこには一枚のポストカードが添えられていた。表には、何故か北海道網走市南三条…と続く住所、初めて知った彼女の名前、そして点線の下に一言、「ありがとう、いってらっしゃい。」と、書き添えられていた。裏にめくるとそこには、広く青い空の下、広大無辺の白の世界に一本の筋を描きながら進む一隻の船の写真と、左下には小さく、『オホーツク・冬の流氷』と印字されていた。
今になって、あの日彼女が言ってくれた言葉にすがりたい気持ちが湧いてくる。ペチュニアは家の窓際で、今でも逞しく生き続けている。そういえば、今朝水やりを忘れてきてしまった。なんだか急にペチュニアをぼんやり眺めたい気持ちになってきた。その場所に来てみて初めて蘇る気持ち、情景、会話、そういうことがある。わたしは黄昏たような気分で、安っぽく様変わりしてしまった旧『しまざき』の道向かいに立ち、煙草に火をつけた。
すると、いつのまにか斜め手前一メートルほどの距離に、男がのっそりとこちらを見つめて立っていた。こいつ、どこかで見たような気がする。そうだ、さっき無料案内所から出てきた冴えない中年男だ。やばい、ここは一寸先はホテル街、こんな場所で立ち煙草とは、たちんぼだと思われている可能性が高い。つまり、この男は私の客になろうと目論んでいるのだ。頭の中でそう悟った私は、無表情でその場を離れようとした。
しかし、煙草をどこに捨てるか。こんな時はそのあたりに捨てて踏み消してしまえばいいものを、もう無いとはいえ、私はかつて自分が開店前の掃き掃除をしていた場所に吸い殻を残していく気にはなれなかった。私がそうやって動きを躊躇している間に、男は何を勘違いしたか、私の横に触れそうな距離まで近づいてきた。
「違いますんで。」
どう見たって違うだろうが! だいたい、私の歳をいくつだと思ってるんだ、クソじじい。私は心の中で悪態をつきながら男を睨んだ。しかし、男は引くどころか押してきた。
「人妻でしょ? ねぇ、結構払うよ。」
「違いますから。」
私は立ち去ろうと方向を変えて歩き出した。
「いくらならいいの? 3?」
男はしつこくも、私を追ってついてきた。男からは、死に間際に漂う生温く鼻につく死臭のような臭いがまとわりついてくる。
「はぁ? やめてくれません?」
私は一歩立ち止まり、大きめの声で抵抗した。
「だってお姉さんそこまで若くないでしょ。旦那に触ってもらえなくて寂しいんだろ? いいでしょ? 3だよ?」
男は懲りもせず暗に私を侮辱してくる。私は自分が値踏みされていることもさることながら、このような気色の悪い中年男の相手として妥当だと言われているような気がして、腹が立つと同時に軽い吐き気を覚えた。まだ酔いも中途半端に残っていることもあってか、私は沸き立つ感情をコントロールできなくなった。
「やめてって!」
私は男に強い口調で言い放ち、処理に困っていた煙草を男の足元に投げつけた。まだ火が付いたそれは、男の安物の靴に煤を付けた。
「馬鹿にすんなよぉ、この年増女がぁ!」
男の汚らしい言葉と唾が私の首元をかすめた。そして今度は目立たぬようにじり寄ってきた男は、私の耳元でとんでもないセリフを吐いてきた。
「誘ってたのはそっちだろうが、あぁ? 人妻ウリにして売ってんだろ? なぁ、客だよ、ほら、お客様なんだよこっちは。」
男はそう言い私の手を掴むと、あろうことか男の股間の方にこすりつけてきたのである。
「好きなんだろ、金払ってやるから、感謝しろよ。したいんだろ?」
―違う、違う、違う。やめて、やめて。
私は恐ろしさと気色悪さですぐにでも走って逃げたい思いに駆られた。だが、動くことはおろか、喉が蓋をして声すらはみ出してもこない。気持ちが悪い。実に気持ちが悪くて、ものすごく怖い。どうしていいのか分からない。パニックとはこういうことだ。やばい、逃げたい、逃げられない。なのに、なのに、こんな時に女という生き物は力で対抗せずに命を守ろうという本能があるようだ。どうにかして何もなく家に帰らなければ。私には娘がいる。娘に恥じることは何としても避けたい、してはいけない。こんな場所で立ち止まっていたことを後悔した。働いていた時と、ただの通りすがりとでは、違うんだ。ここはそういう場所だったことを、今更ながら思い出し、理解した。とにかく、私は謝ろうと思った。謝るべきじゃない、だけど、怖い、怖い、とにかく謝って、事なきを得ようと、私は必死に声を出そうとした。その時だった。
「ひっ。」
男が僅かに悲鳴を上げた。その顔面が歪に硬直し、浅黒く贅肉でくぼんだ目の下に脂汗が溜まっていく様子がはっきりとわかる。男は両肩をぐっと引き上げながらガクガクと、出来損ないのロボットの如く後ろに後ずさりしていく。サスペンス劇場でよくある、正面から一突き刃物で刺された瞬間の役者の様相にそっくりだ。急にどうしたというのだろう、私はさっぱり状況が読めないでいた。
「なんだよ、なんだよ、ぁぁ…なん、なん…」
男が先程とは打って変わって弱々しい声を漏らしている。するとすぐ後ろの方から聞き覚えのある声が低く響いた。
「逃げられると思うなよ。」
―彼だ。彼の声だ…!
だけど、男の様子からして、彼の声が…聞こえている…それに、見えている…? 彼が、私の後ろにいるということだろうか。彼は私の幻聴ではなかった、ということなのか!?私の頭の中では恐怖と冷静が絶えず行き来し、まるで目の前の状況の中に身を納めることができない。私の体は金縛りにあったかのように身動きが取れず、未だに喉も蓋を閉じたままだ。
「逃げられると思うな。死ね。」
透き通るように、真っすぐ突き刺すように、彼の声が私の胸に重く響いた。そして私はやっとまとも呼吸を取り戻した。男は手首から下を見たことが無いぐらいに震わせながら財布を取り出し、あるだけの札をボロボロ落としながら私に渡してきたのだった。
「さっさと消えろ。さもなくば、殺すぞ。だが、逃げられると思うな。」
彼が追い打ちをかける。
「しみましぇん、あ、あ、これ、許してください、ほんとに…」
男は恐怖のあまりか震えが止まらぬ様子で、私に目を合わさず、というよりも、見えているのであろう彼を視界に入れぬよう、がっぽり開いた瞳孔と白目を剥きだした眼を地面に向け泳がせながら、モゴモゴ声を出している。
カチャリ。
何かが引っかかるような、装着されたような、テレビか何かで聞き覚えのある音が聞こえた。それと同時に、どすん、と私の胸に何かが響いた。男の鼻の頭からはついに脂汗がしたたり落ちた。私は静かにこぼれ落ちた札を拾い、男の手に握られた札を引っこ抜き、綺麗にまとめた。そしてそれらを両手でぐしゃりと丸めた。そして、男の目を直視した。
「あなた、故郷は。」
私は男に尋ねた。男は驚いた様子で答えた。
「おか、おかや、お、岡山…です。」
「親御さんはご健在ですか。」
「ああああ、はは、はい、母が。」
「そうですか。どのようなお母様かは存じ上げません。もしかしたら、とても酷いお母様かもしれません。もしくは、とてもお優しいお母様かもしれません。どちらにせよ、このお金、あなたの手で真っすぐ綺麗に伸ばして、お母様に送って差し上げて。」
「へ、へ…? は?」
男は私が何を言っているのか理解できない様子でいる。私かて、自分がどうしてこんなことを口走っているのか明確な自覚は無い。だが、自然と胎底から力と声が噴き出してくるのだ。
「あんたの母さんは、無理矢理女を金で買おうとするような息子を命がけで産んだ覚えはないんだよ! 好きな物でも買えとでも一筆添えて、この金送ってやれっつーの! 馬鹿野郎!」
私は自分でも驚くほど伸び伸びと通った声を男に放った。その衝撃で私の胎底はぶるぶると震えていた。男は、私が固く丸めた数万の札を受け取り、ガタガタと震えながら自分の鞄の中に戻し入れた。
「さあ、もう失せろ。」
怖いぐらいに落ち着いた重低の声が響く。男は一度大きく肩を震わせ、見えているのであろう声の主を確かめるように見つめた。そして怖れそのもののような表情のまま、無言でふらふらとその場を立ち去っていった。私はその場に立ち、幽霊のように揺らめきながら人混みにかき消されてゆく男の背中を見送った。
私は男の姿が完全に見えなくなったことを認めてから、そのままゆっくりと歩き大久保病院の横にある公園の前で立ち止まった。ここならば、交番まで目と鼻の先だ。前方の宙を眺めながら、完全に処理しきれないアドレナリンの放出量、胎底の震え、手足の冷えが落ち着くまで、花壇の縁に座って煙草をふかした。周囲には、これから事に及ぼうということしか眼中にない男女が数組通り過ぎるだけだ。私のことなど全く気に留める人間はいやしない。しかし、確かに近くに、彼の気配はあり続けている。
そして初めて、私から彼に声をかけた。初めて、声に出して彼に問うた。
「います、か?」
一拍置いて、彼が応えた。
「おります。」
「どこに、いますか。」
「お目にかかっても、宜しいのであれば。」
「はい。お礼も、言いたいですし。」
「お礼? ははは、そうですか。」
「笑うところですかっ?」
私はつい、何故か自然と気配を感じる方へ顔を向けた。
「いえ、お礼には及びませんよ。男として当然の対処です。いや、もっと早く出ていけば良かった。申し訳ない。」
申し訳なさげにも微笑み答える彼が、まさに私と同じ花壇の端に腰を下ろしていた。そして、すこし高い位置にある二つの瞳が私を捉えた。
―彼が、いた。いる。私を見ている。私も、彼を見ている。
今しがたの事件の最中に聞こえてきた声からは想像できなかったが、彼の眼からはひどく優しい色合いを感じる。暗くてはっきりは分からないが、顔は少々日に焼けているようで、顎のラインはくっきりとしている。しっかりとした眉とそのすぐ下には一重だが切れ長のはっきりとした目元、両目頭から実直に流れていく川のような通った鼻筋。唇は厚くもなく、薄くもないが控えめに口角が上向きに納まっている。なんというか、そう、成端。そんな言葉がしっくりくる雰囲気だ。歳は同じか、少し下かもしれない。座っているので背は分からないが、姿勢が良いためか大きく見える。全体的に痩せているが、肩から腕にかけてはがっしりしており、首は太い。そして何より、どう考えても、この世、特に現代の世には相応しくない格好をしている。恐らくこの感じは…、軍服だ。
「あ、あー…。」
いざ面と向かうと適当な言葉が浮かんでこない。今日の今日まで自分を見失いつつある一人の女の幻聴だと思い、それはそれで、と受け入れつつあった架空の声の主が、私にとっては確かに目で見える存在となったのだ。当然、驚く。しかも、なんだかとても恥ずかしい。それもそのはず、悪態、醜態を匿名で書き込んでいたネットの掲示板に、突如自分の実名を載せられてしまったような、見せてはいけないものを暴かれてしまったかのような羞恥が一気に押し寄せる…。彼にはこれまで、私の心の中を全部見透かされていたようなものなのだ。
「私も、驚いております。」
彼が私の目を見て言う。
「えっ! やっぱり…心が読めるの? えぇ…。」
私は咄嗟に頓珍漢な反応をしてしまった。
「ははは、敬語ではなく、いつものようにその調子でお話下さった方が良いです。ちなみに、読心術は心得ておりません。ご安心ください。」
「ははは…、あー、はい。そ、そうだね…。でも、でも、あなたはずっと敬語だけど。その…、タメ語でいいと思う、よ。」
「確かに、霞さんに勧めておきながら、私は敬語でしたね。タメ語というのは、友人との話し言葉のようなもの、でありますか?」
「友人との話し言葉的な? 感じであります、はい。」
「ふふっ。」
「ははっ。」
二人は同時に小さく噴き出した。この期に及んで敬語かタメ語かをああだこうだと言い合っていること自体に、互いに可笑しくなってしまったのだ。まるで、愛の告白を終えた直後の中高生のカップルが互いの呼称について取り決め、試しに呼び合い、その慣れぬ響きに笑い合う。そんなどこかむず痒くなるワンシーンのようだ。私は、母でも妻でもなく三〇代の女であるということも忘れ、ただの少女のような感覚に浸りかけている自分に対し、それこそ本当のむず痒さを感じ人差し指でこめかみを軽く掻いた。
◇
霞さんはこめかみの辺りを押さえたまま口を開いた。
「と、ところで。あなたは一体…なんなの? って言うのも失礼なんだけど、本当に、誰? というか。どちら様ですか? というか。すみません…。」
どうも、彼女は会話に謝罪を織り込む癖がある。彼女は一体何を恐れているのか。それはさておき、
「そうお思いになるのは…」
俺は一つ咳払いをし、話し方を変えて繰り返す。
「君がそう思うのは、とても自然なことだと、思う。」
友人と話すように、とはいえ、初めて対面する相手であり、さらに若い女性となると敬語で話すことが俺の文化には根付いている。これは少々難儀だ。友人を思い出そうにも、俺に友人は輩しかおらぬ。
「ふふふっ。いいよ、タメ語で。大丈夫、大丈夫。ふふっ。」
霞さんが笑ってくれるので俺のたどたどしさは少し救われた。よし、どっしりいこう、どっしり。ただでさえ、通常ならばこの状況で平静を保つことが難しいのは俺ではなく、霞さんの方なのだ。しかしながら、これまで関わりのあった女性の場合とは随分違う。現代の女性はかなり友好的で距離感が近いものだと、感心すら覚える。これは一丁、輩と話していると思ってやってみるとしよう。
「まずは、そうだな、自己紹介をしておこうと思う。」
「うん、そうだね。どっちからいく?」
どうやら霞さんも自己紹介をしてくれるようだ。まあ、好きにしてもらって構わないが。
「そ、それならば、俺から。」
「お願いします。是非に!」
「お、おう。」
現代女性というよりかは、霞さんだからこその話しやすさというか、垣根の低さがあるのかもしれない。やはり実際に会って話すと随分と印象が違う。元より今日までは、彼女と直に言葉を交わすタイミングを俺自身まだ選べる段階ではなかった。彼女が精神的な深みにどっぷり浸かっているか、そうなりかけている時にしか叶わないものだったからだ。それに、明るくしっかりとした彼女の姿はこれまでにも頻繁に見たことはあるが、ここまであっけらかんとした、子どもらしさというべきか、無邪気さというべきか、純粋なる穏やかさを纏った彼女は初めて見る。人はやはり、眺めているのと接するのでは結構に違うものだ。
「俺の名前は、小野寺 駿。小さい野に寺、駿は駿河のする、の字。俺が死んだ後、駿なんて早死する字をあてなければよかったんじゃないか、と元も子もないことを仲間に言われたことがあるよ。それはまあ、いい。」
「良くないでしょ! 死んだ後!? その格好からしてなんとなく勘付いてたけどさ、やっぱり、やっぱり…ゆーれい、なの?」
「あ、ああ。いや、幽霊というものを俺も死ぬまでは幽霊として想像して半ば信じてはいた。しかし、違う。少なくとも死んだことのない人間が想像したり絵に描いたりしているようなそれとは、実際はかなり隔たりがある。」
「へ、へぇ。ふぅーーーーん。えーーー?」
霞さんは明らかに納得のいかない顔をしている。それにしても語尾を伸ばしすぎやしないか。
「そうだよな、そりゃあ、そうだ。この現象や、俺のような存在意義について一時に理解してくれとは言えない。それに関しては説明しようと思う。」
「ごめん、私、いちいち口を挟みすぎだよね。続けて、どうぞ。」
「そんなことはないよ。明らかに不思議な体験をしているに際して、反応を示さない方がむしろ不自然だと思う。ちなみに疑問があれば逐一答えるので、遠慮なく。」
「ありがとう。小野寺さんって優しいんだね。あ、また口挟んじゃったし。へへ。」
「優しくは、ないが。」
なぜ、このタイミングで俺を褒めるのか、驚くではないか。そして、「すごい」ではなく、「すごく」だ。まあいい、時代が違うのだ、日本語の変容としてあまり気にしないでいこう。だが、気軽によく知らない男を褒めてしまうのはいかがなものか。しかしながら、嫌ではない。
「えっと、大丈夫?」
霞さんがこちらの顔色を窺うように問う。いかん、予想外に褒められてしまったからか、一瞬ボケてしまっていた。
「大丈夫。ええと、そうだな。そう、俺は大正八年生まれ。享年二十六歳だ。生まれは長崎の五島列島は奈留島という小さな島だ。両親、祖母、曾祖母、二つ下の弟と五つ下の妹がいる。長崎に原爆が投下された事実は知っていると思うが、家族は皆五島にいたのでアレの被害には遭わなかった。子どもの頃は、よく海でサザエなんかを採って食ったり、海が大好きだった。父は漁師をしていたが俺の家はかなりの貧乏だったから、俺はなんとか弟だけでも大学まで行ってほしくて、十七歳の時に海軍に志願兵として入隊し、家に金を入れようと考えた。海軍に入れた俺よりも頭が良かった弟だから、きっといい大学に入って、いい仕事に就いて人生を全うしたことだろう。妹も、兄から言うのも変な話だが、なかなかの別嬪だった。それに利発な奴だったから、きっといい縁に恵まれたことと思う。いや、そう思いたいだけかもしれない。彼らのその後は、残念ながら俺にはまだ分からない。で、ご覧の通り、この格好から察してもらえるかと思うが、俺は日本帝国海軍の兵士だった。そしてもちろん、俺は戦争に行った。そして戦争で死んだ。俺が死んだのは、沖縄の海だ。生きて最後に地を踏んだのは、鹿児島にある鹿屋航空基地だった。そこから特攻隊として出撃した。ざっと、俺個人についてはこのくらいだ。少し、長かったかな。」
「いえ…。なんだかとても、何と言ってよいのか。映画とかテレビとか…うん、教科書とか。そういうのでチラッとしか知らなかった…戦争とか、特攻隊? 小野寺さんはその中で生きていた…ということなのよね。信じられないわ。なんだろう。不謹慎かもしれないけど、その大変だった時代の、小野寺さんの話、すごく聞きたい。もっと。」
「え? こんな昔の話は嫌じゃなかと? こがん昔の話は、若い人からすっと辛気臭く感じられっかと思ったけん。」
俺はつい自分の故郷の言葉が出てしまうくらいに、自分の話に興味を持ってくれたことに嬉しさを感じた。この感覚は、遠い過去、ヨネとの時間を彩った感覚と似ている。そうか、俺の心がどうも浮つくのは、霞さんの実際の印象がヨネに似ているから、かもしれない…。
「そんなことない! すごく、すごく興味深いわ。あと、いい響きね、その方言。」
「そうか。それは、嬉しいというか。ありがとう。方言は…また出てしまうかもしれないが、許してくれ。では、君の番。お願いします。」
「え? 私の…なんだっけ。」
「ははは、すまん、俺の話が長かったか。自己紹介を、していたところだよ。とはいえ、霞さんが無理にする必要はないので好きにしてくれ。」
本当にこの方が、夫のことであのように修羅の如く真っ暗闇の中うずくまっている人物と同一なのか、人間は不思議なものだ。その人物を包む環境によって数多違う面が現れ、時として鬼のようにも変容することもあれば、無垢な子どものようにもなれる。霞さんの場合、いつでもこんな風にいることができたら、きっと楽だろうに。だがそれは、俺が人に言えたことでもない、が。
「そうそう、自己紹介でした。へへ、なんかもう小野寺さんの話でお腹いっぱいだよ。ええと、私の自己紹介…。うーーん、いざ自己紹介をするとなると、難しいもんだなぁ。」
「確かに。俺の場合は慣れているからね。一度に急ぐこともないよ。生年月日、血液型、出身地、家族構成ぐらいでも。」
「え、もしかして私にそこまで興味、無い??」
何故だ、何故そうなる? 確かにそこまで詳細な自己紹介は不要なのだ。肝心なのは俺の正体を霞さん自身に信用してもらう足掛かりを作りたかった、というだけの話なのだから。若干調子が狂うが、これはこれで新鮮というか、面白がるべき所なのかもしれん。
「いやいや、そういう意味ではない。変に勘繰らないでくれ。」
「ごめん…。私また余計なこと。こーゆう所なんだよねぇ! 私ほんと、面倒な女なの! あ~ぁ。」
いよいよ彼女の反応が俺の理解を越してきた。とりあえず、自己紹介をするという目的を達成してもらおう。俺は努めて明るく切り出した。
「自分を面倒、だなんて揶揄してはいけないよ。さあ、自己紹介だ。お名前を、どうぞ。」
「は、はい! えと、私は杉下霞、三五歳の女です。出身は、生まれも育ちも東京です。一応四大を卒業して、一度は介護施設で事務をしていたんだけど…事務っていうか、まあいいや。そこで所謂、人間関係で問題があってすぐ辞めてしまって。その後アルバイトを転々と…。で、たまたま正社員募集の張り紙を見つけて就職したこともあったんだけど、そこで出会った人と一度…結婚して、色々あって離婚になって。その後またアルバイト、そう、さっきの変態オヤジと揉めた場所にあった喫茶店、もう無くなってしまったみたいなんだけど…、そこでアルバイトをしばらくやってた。で、今の夫と出会って再婚、智花が生まれて、今に至る。…おしまい。」
うむ、非常に簡潔だが、彼女の自己紹介は所々肝心な部分を端折っている気がしないでもない。だが、話したくないことは敢えて聞かぬ方が良いだろう。俺が頭の中で考えを一巡させていると、霞さんは申し訳なさそうにこめかみを掻きながら言った。
「つまらない、自己紹介でしょ。ごめん、小野寺さんのに比べたら、本当に私の人生って、つまらない。」
「おいおい、それは大きな間違いだ。」
俺は、彼女が自分を卑下することに抵抗してみた。だが、彼女の受け取り方はどうしても屈折してしまう。
「そう、間違いなの。間違いだらけなの。私の人生ってさ。」
彼女の屈折した認知というか、自己否定の思考回路にさすがに俺は苛立ちを覚え返す言葉が見つからなくなってしまった。だがしかし、こういった彼女の表面にある粗を削ったところで、その面にはさらに細かい粗が生じて複雑に彼女自身を傷つけてしまう恐れがある。そう考え、俺はひとまず彼女の言葉を丸呑みすることにした。
「間違いだらけ、とは。」
「就職、離婚、その他色々失敗とか中途半端ばかり。やっと幸せを手にしたと思ったら、今度は夫が風俗狂いでしょ? その挙句、夫の一挙一動をコソコソ探っては傷ついて、自己嫌悪の毎日、ですよ。その辺は、小野寺さんも知ってるか。でも、ここまでくると、私という人間に欠陥があって、でもそれが一体何なのかも分からない…いや、私の全部が間違いで出来てる出来損ないの人間なのかもしれない。そんなことを、思ってしまう、っていうか…、ね。」
霞さんはそんな悲しい言葉を、あろうことか笑顔で話した。先ほどまで見せていた温かい灯のような笑顔ではなく、それは長年に渡り作りこまれた笑顔のように見える仮面のようだった。彼女はこれまでその仮面で自分を守り、守るつもりが己を蝕んできたのでは無いだろうか。俺も伊達に年月を過ごし人間たちを観察してきたわけじゃない。彼女のように、体温の通わぬ仮面で自身を覆い隠して命を縮めている人間は少なくないのだ。それはいずれ俺達のようになってしまう危険性の高い命の費やし方だということを、どうにかこの方にも伝えてあげたいのだが、伝えただけではどうにもならない。結局は本人次第なのだから。しかし、霞さんには大事な娘がいるのだ。未来に繋げていける最も重要な宝が。そのためには、俺はなるべく素直に接していこう。
「霞さん、ひとつ面白いことを教えてあげましょうか。」
「面白いこと?」
「君の人生、だよ。これまでの。」
「え? どういう、こと?」
霞さんは若干ムッとして聞いたが、これも想定内の俺なりの工夫した言い回しなのだ。頼む、気分を害さないで聞いてくれ。
「つまり、これまでの君の人生は、全く〝つまらなくない〟ものだったということだ。むしろ実に興味深い。俺の頭の中には今、アレコレと質問したいことが山積しているよ。どうして間違いがあることと、つまらない、という言葉が直結する? 正解だらけの本が面白いかい? 例えば教科書だ。あれには正解とされるものしか載っていない。だが、俺はあれが嫌いだ、なぜならあれは、つまらない。誰が決めた正解だか知らんが、その正解に騙され、飲み込まれ、失われていった人間も大勢いる。いいかい、基礎と正解は別物だ。君は人を信じ、思いやるという人間の大事な基礎を持っていると、たったこの数ヵ月の観察の間にも俺は確信している。そんなこと、誰もができることか? 否、だ。基礎が無いまま、正解をなぞり続けている人間の人生ほど虚しいものはない。君が間違いだと言っていることは、君が人間である証拠だ。言わば生きているということの証明だ。だから否定する必要性は皆無と俺は思う。ただ…。」
「ただ…?」
彼女は呆気にとられたように俺を見て言った。
「ただ、語弊を恐れずに言うと、君にあってほしい基礎がもう一つある。それは、自分を信じるという力だ。」
「自分を、信じる…。」
「そうだ。だが、これほど難しいことは無いと言っても過言ではない。」
「そんなの…難しいと思う。というか、そんなこと今まで考えたこともなかったし…。」
「正直、これは俺もまだできていない。」
「は?」
「いや、申し訳ない。偉そうにまくし立ててはいるが、これは本当に難儀な基礎だと思う。だが、これができたら、君はとても楽になると思って。」
「小野寺さん…。」
何故か、彼女の声が震えているように感じるが、気のせいだろうか。頼りない声で、彼女は言った。
「小野寺さん、ありがとう。」
「え?」
わからぬ。彼女の反応は予測不可能だ。だが、腹を立てているわけではなさそうだ。
「私、こんなに自分を否定しないまま、自分のことを考えてもらえた瞬間って、なかなか無いの。だから、嬉しい。」
「そ、そうか。いや、偉そうに話してしまい恐縮だが、それなら、いいんだ。」
「あの、ところで小野寺さん、私にいつから付いて回っていたんですか? あ、いやあの、言葉が他に浮かばなくて。数ヵ月観察、って今言って…」
付いて回って…いるわけではないのだ。そうだ、そこを理解してもらわねば、これでは俺は変質者か悪霊のように捉われてしまう。それは互いに困るだろう。俺はひとつ咳払いし、仕切り直して切り出した。
「では、これが肝心なことだと思うのだが、今現在、君の目の前にいる俺の存在についての説明をしてもいいだろうか。多少理解に苦しむ話ではあるかもしれないのだが…聞いてくれると有難い。」
「も、もちろんそうよね。なんだかもう、自然と当たり前のように人間? と話している気になっちゃっていて。ははは。何が普通で何が不思議なのか、分からなくなってきちゃった。」
「ははは、確かにそうだな。いや、霞さんが驚くほど俺に対して自然でいてくれるから、俺は既に余計なことまでしゃべってしまっているな。」
「あ、私、変かな。失礼なこと言ってるよね、ごめん。」
「違う違う。いや、絹子さんの時なんか、俺とコンタクトが取れた瞬間、木刀であわやぶちのめされそうになっちまったから…。人によって反応は本当に様々だなあと感じてね。」
「きぬこ、さん?」
「ああ、それも含めて、説明した方がいいかもしれない。」
俺がいよいよ本題に入ろうとした時だった。
「…あーっ!」
彼女が突然大きな声を上げたものだから、俺は何事かと殺気立った。何年経っても突然の大きな音には体も精神も俊敏に反応してしまうのが困ったものだ。もう誰にも殺されることなどありはしないのに。
「もう、こんな時間! 時計、変えちゃったから見えにくくて。もぉ~~。」
そう言われてみると、彼女が友人と別れてからあの変態男の一件を挟んでしばらく経つ。彼女はか細い左腕に巻かれた腕時計を凝視している、盤に対してかなりの近さだ。彼女の目線に沿って視線を落とす。桃色に近い金色のそれは、ベルトではなく白濁色と桃色の天然石と金具が交互に繋がった洒落た腕輪のような体をなし、俺はそれを今の今までそれを時計の機能がついているものとは思わなかった。とても綺麗な品物だ。このような品をヨネに贈ったとしたのなら、彼女は酷く遠慮するだろうがきっと喜んで木箱にでもしまっておくことだろう。いつか、ヨネに贈ったあの花瓶は、やはりあの戦争で割れてしまったのだろうか。
「二十二時半! ほんっと、見にくいなぁ、これ! はぁ…、帰らなきゃ。さすがに帰らなきゃ…。でも、話…。」
「これは大変失礼した。俺がついているからと思って、夜更けに関わらずお子さんのことをすっかり。申し訳ない。駅まで送ろう。」
俺が生きていた時代であったら、女性と隣り合わせで道を歩いているだけで大変な騒ぎになっていただろう。しかもこんなに夜更けともなれば、世間からは犯罪者まがいの責めを受けたに違いない。男よりも、女の方が大変だ。ふしだらだ、と後ろ指をさされ嫁に行けなくなるかもしれん。時間の感覚に敏感でいなければならない立場故、今後は特段しっかりと時刻の確認をとっておかねばならぬ。加えて、絹子さんの生活スタイルとは随分と違うということに俺自身が慣れていかなくては。
「いいの、いいの! 駅まで来てもらっちゃったら、もっと話がー…ってなって、改札前で、ほら、まるで離れがたい恋人みたいになっちゃうわ。あはは、この歳で。とにかく、この時間なら夫に預けてあるから子どもは大丈夫なんだけど、やっぱり午前様は実家の親になんとなく気まずいからね、一応これでも親、だからさ。」
こ、恋人同士とは…また霞さん、なんと大胆な発言を。彼女の物言いに俺は驚いてばかりだ。最早、自分が堅物すぎて滑稽に感じてしまいそうになる程である。
「なるほど。では、話の続きはまた、ということにして一旦帰りましょう。」
「うん、そうする。あ~、続き聞きたかったなぁ。そうだ、今度いつ会える、の?」
「きっと、恐らく確実にまた会える。今度、という約束ができないのは申し訳ないが、霞さんが…、いや、また、近いうちだろうと思う。」
「うーーん、詳しく分からないけど…。携帯番号…とかいう話じゃ~、ないもんねぇ…。」
プツリ。
霞さんとのコンタクトが切れた。仕方無い、話はまた繋がった時で良い。時間は恐らく、恐ろしいほど余っているのだから。彼女とは、これからどのくらいの付き合いになるのだろうか。絹子さんの時のように長い付き合いになるのだろうか。分からない。そして俺にはそれをコントロールする術など無いのだ。
◇
会話半分に、私は鞄の中をガサゴソと定期入れを探していた。果たして残高は足りているだろうか…。彼のいた方へ顔を向けた。しかし既にその姿は無く、声も聞こえてはこなかった。
◇
静かな夜だ。秋の夜は、静けさと穏やかさが孤独の足音を際立たせる。今晩は、宗和に対してフラットな対応ができない予感がした。霞はどさり、とリビングのソファに腰かけた。余りの勢いに、ソファがギッと鈍い音を鳴らす。
智花の運動会、という大変な一日をなんとかやり終えた。興奮冷めやらぬ智花の寝かしつけに大幅な時間と体力を奪われた末、午後二十三時、私はやっと一人の時間を迎えた。胸の奥の奥深くから、こんなにも溜め込まれていたか、と驚くほどの残気が溜息とともに静かに流れ出る。ローテーブルには、約一時間半ほど前に煎れておいた紅茶がすっかり冷め、きっともう飲まれることなく捨てられるのだ、と諦めんばかりの濃い琥珀色に染まっている。その横に置いておいたカップの中には、智花が集めている綺麗な石ころが入れられていた。私はそれらを一つ一つ摘まんで、智花お気に入りのタッパーに入れ替えていった。智花がこんな風に無邪気で微笑ましいことをしてくれる時間は、あとどれくらい残されているのだろうか。天使のようで時に小悪魔のような、摩訶不思議で限りなく愛しい娘も、いつか何かに躓き、傷つき、時には自らを傷をつけるような池に飛び込んでは溺れ、己のオンナという性を愛しみ、恨みもするような時がやって来るというのだろうか。いや、そんなことはまだ想像もしたくない。そうなる前に助言をしたい、手を貸したい、身代わりにだってなれるものならなってやりたい。だけれども、彼女も一人の女性なのだ。私の胎から生れ出たとはいえ、この胎内で細胞を分裂させながら私とは全く違う命として尊厳を勝ち得てこの世に誕生した存在なのだ。今はまだ人間と神を行き来しているような煌々とした存在。でもいつか、智花もただの人間になる日がやってくる。その時、私は何者になっているのだろうか。
宗和は、運動会には来なかった。来れなかった、と言ってあげた方が良いのかもしれない。百貨店相手の営業となれば、社内規定の休日など意味は成さない。土曜日は大抵、「お客様」のワンコールで家を飛び出すのがデフォルト、そう構えていなければ、家族としても身が持たない。しかしながら、運動会の日ぐらい、携帯電話の電源を落としておくのは許されないことなのだろうか。仮にその間着信があったとしても、故障していて交換までに時間がかかったとかなんとか、後からならば嘘も方便ではないのか。口が達者なわりに、今この瞬間、何が一番貴重な物事か。それを判断する力が彼には欠けている気がする。お陰で私は多くの父親たちに交じって、高めの位置から吊るされたアンパンに必死に食いつき、ヘルニアで痛む腰も無視して智花を担ぎゴールを目指した。「宗和君は、今日も仕事なのか。」という、己を棚に上げた父の呆れ声と表情に、まるで私が責められているように感じなければいけなかった。親を庇うかのように、「パパは病気になっちゃって、来れないんだよねぇ?」と言う智花の拙く幼い声が私の胸をチクリと刺した。女が一人で子どもを育てていくということは、こんな胸の痛みの連続なのだろうか。私はふと、夫のいない家族の形を思い浮かべてしまった。もし、そうなったとしたら、自分の親にも子供にも素直に怒りや寂しさを表すことを許されない中、自分の選択した道を歩むことになるのだろう。今の私には、そんな茨の道は歩けそうもない、勇気もきっかけも足りてはいない。
冷めたアールグレイが、静かに舌を痺れさせた。冷めた茶の渋味が、父親の冷たさを思い出させる。
私は父親が苦手だった。だが、最近は恐ろしいと感じることはほとんど無くなった。物理的に離れているという面は大きいが。私は物心ついた頃から知っていた、大人にも色々あるということを。だからあの頃の父は、あれで仕方なかったのだと思う。しかしそうだとしても、優しさと恐怖が交互する大波で私をいつも溺れさせてきた彼を、私は未だに許せてはいない。自ずと、好きだとも思えない。ただ、自分が望み掴んだ道の上で数十年歩み続け、私と母に対して経済的な不自由をさせずに生きてきた。という事実に対して努めて尊敬を抱くことで、私の中では彼が父親であるという意識を保ってる。
しかし、父を純粋に愛せないフラストレーション以上に私の中で燻り続けているのは、母親への渇望だ。何を渇望しているか。一言でいえば、「母親」だ。数日間のペースで往来する父の感情の波に、「放っておく」という彼女なりの長年の防御の姿勢は、そのすぐ側で溺れかける私の歪んだ顔を水面の上からゆらゆらと眺めているだけの、天使の顔をした悪魔であった。また時として、彼女は突発的に泣いて喚いた。それは洗い物をしている時や、料理をしている時、或いは私が彼女にとって取るに足らないと思える程度であっても気に障る物言いをした時、その爆発は突然起こった。その度に、私は謝った。心の中で必死に綺麗な文章を組み立て、その言葉でいかに彼女の苦悩を救えるか熟慮した。そしてベストだと思われる頃合いを伺いながら、素晴らしい謝罪文と反省文を口にしたものだった。それでも、そのほとんどは焼け石に水であったり、火に油であったりした。なぜなら、親である彼女自身よりも、娘である私の方が優れていたからだった。その差異を幼い私から見せつけられ、彼女は私に対する理不尽さや自身の不甲斐なさを自覚し、自責していたのだろう。「どうして私はこうもダメなの? どうして皆私を責めるの? どうして私は幸せになれないの?」と。
私は幼いながらに、一度も両親と同じ目線に立つことができなかった。常に彼らを天井から見下げていた。本音を言えば、私の方が彼らに救われたかった。無条件に、彼らの腕の中で眠りたかった。何も考えたくはなかった。嫌なものは嫌で、好きなものは好き、と純粋に発信し受け止められていたかった。だが、彼らは私にその隙を与えてはくれなかった。私は父の母であり、母の母であったと思う。彼らが一人では抱え込めないどうしようもなさを、掬い、拾い、私の仕業として変容して見せ、彼らが彼ら自身を責める前に私を叱責することに置き換えさせ、救ってやっていたのだ。しかし、彼らはその実態に気付くことも無ければ自覚も無く、記憶も無いようだ。
天上から苦しみももがく彼らを見守る大いなる母の姿となって、私は自分の子どもの時期を捧げていたのだと思う。感謝も、幸福も、あの頃感じていた全てのポジティブな感情が、今振り返ると精巧な陶器の置物のように思えて仕方なく、出来ることならそれらを全部割って壊してしまいたい思いに駆られてしまう時もある。
だからこそ、私は自分の娘に、自分と同じ想いだけはさせたくなかった。子どもながらに自分が家族の一員だということだけでもしっかりと実感して過ごしてほしいと切に願うと同時に、夫を含め三人で一つの家族であるという状態に強くこだわってきたような気がする。故に、運動会にパパが来られなかったということは、私の中で「仕方ない」では済まされない禍根となってしまった。「その程度で心が狭い」と言われれば、それも一つの正解だと思う。だが、大人の事情が子どもの無垢に蓋をしてしまうこと、これほど罪深いものはない。私はそう思わずにはいられないのだ。それも極端で行き過ぎた感覚だろうという自覚もあったが、父と母から与えられた呪縛は、そう簡単に私を手放してはくれないでいる。
一日頑張った智花もさることながら、私もさすがに疲れていた。ここのところ、処方されているホルモン剤の効果が意味を成していないように感じるほど、疲れやすさや抑うつ症状に拍車がかかっている。育ちざかりの娘には、「早く寝てくれ」と心の中で叫びながら寝かしつけを乗り越える夜も少なくない。だが今は、彼女の声や笑顔、拗ねた態度全てに、まだまだ側にいて欲しいような気分だ。こんな夜は、今日だけではなかった。こうやって、私まで娘に依存してしまうのだろうか。このままではいけない自覚が、さらに自分を追い詰める。
智花の飲みかけたコップの底に残ったジュースをシンクに流す。まだらに染み付いたシンクの汚れを見つめ、指でこすり、手を洗う。初めて家族三人で行ったテーマパークで買った、妙に派手な柄のグラスにウイスキーを半分ほど注ぐ。氷はいらない、水道水でいい。その不味くて濃いめの水割りで、頓服用の安定剤をいつもより多く、飲み干した。
◇
ただ傍目から見ていることしかできず、彼女が無意識に自分を傷つける姿をこの手でどうにもしてやれないもどかしさに、俺の胸には痛痒さが収縮する。しかし、物理的に事態をどうにかしてやる権利も術も、俺にはない。彼女にもう少し説明をしておくべきだった。初めて対面したあの夜、自己紹介に時間を割いている場合じゃなかったと今更後悔する。自分を見失いそうな予感がした時は、必ず俺を呼んでくれ。「助けて」と、心の中で叫ぶんだ。そうすれば、俺は彼女に語り掛け、孤独を中和してやることぐらいはできるはずなのだ。
あんな想いは、こんな光景は、もう二度と見たくない。
彼女は何もできない俺の目の前で、過呼吸から脱しようともがき、より一層息苦しさを増している。どうしろというのだ。夫だ、夫が早く帰ってこい。お前にしかできないことが今ここで起こっているのだ。
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