流氷

桃 七海

第1話 霞╱声と歯車

ああ、今夜もまた、私は見てしまうのだ。夫の携帯を、財布を。

私の夫は、帰宅するといつも風呂に直行する。それは今晩も然り。

不満ではない、むしろそうあってほしい。風呂場の戸が閉まった音が聞こえるとすぐに、私は娘の寝息を確認する。四歳の娘のふっくらした頬が、その小さな鼾のリズムに合わせてかすかに上下する。艶やかな睫毛、滑らかな輪郭、それは大人の全てを許してくれるかのような穏やかさを纏った、「完璧」という言葉がしっくりくる可愛らしさだ。だが今の私にとってのそれは、安心して醜い自分の顔をしていられる免罪符にも見えてしまう。


夫の鞄はいつも無造作に玄関に置かれている。私は抜き足差し足、鞄を目がけて近づいていく。すぐ後ろの風呂場からは、昔流行った夫の十八番が漏れ聞こえてくる。だが今私の耳に一番大きく聞こえてくるのは自分の鼓動だ。


どっどっどっ。


極度の緊張状態では、かすかな音ですらはっきり聞こえてくるらしい。夫が出すいかがわしい歌声とシャワーの音が激しいうちに、携帯、財布、定期入れ、名刺入れ、手帳、鞄のポケット…今日夫が残した足跡全てを探り出す。煩く響く自分の鼓動に手先の動きを惑わされてしまわぬよう、細心の注意を払いながら慎重に、淡々と、丁寧に目を通す。そして触れた物は逐一元の場所と、元あった方向、傾きに戻す。途中、おや、と感じたブツは自分の携帯で撮影する。もちろん携帯のスピーカー部分を掌で抑え、不審な音を出さないことも忘れない。風呂場からのけたたましい音はまだ途絶えそうもない、もう少し、大丈夫。早く、全部…早く、終わらせなければ…早く。


[もう、そこらで、やめておきなさい。あなたが、辛くなるだけだと私は思うが。]


男の声が聞こえる。


―あ、まただ。


姿さえ見えないが、その気配は確かにある。二十代後半だろうか、そのくらいの男の声が私のすぐ隣に立っているくらいの辺りから聞こえてくる。空恐ろしくもあり、心地よくもある、低く通った声だ。居もしない誰かの声が聞こえてくるなんて、人間の精神とは奇妙な造りをしているものだ。


[あなたが、悲しくなるのは、もう辞めてほしいのです。]


―うん。私だって、こんなこと止めたい。こんなの、私じゃないもの。でも止められないのよ。私を責めないで、放っといて。


[責めてはいない。責めたくもない。だが…。]


―うるさいうるさいうるさい、放っておいてよ。お願い。


私はその声を振り払うかのように、深く静かに深呼吸をした。声が聞こえなくなる。気配も、消えた。


シャワーの音が途切れた。どきりとする。しかしまだ三、四分は大丈夫だろう。バカみたいに、可笑しくなってしまうようなところで夫は几帳面だ、必要以上の水は使わない。不要なブツまで、きちんと携帯に、財布に、きちんとしまってある。きっと今頃頭の先からつま先までを隈なく、安いメンソール臭の立つボディソープの泡で覆っているのだろう。毛髪と陰毛で生成された大量の泡で、またしても几帳面に全身隙間なく穢れを落としているわけか。いや、穢れを全身に塗れさせているのだ。少なくとも私からすれば。

再びシャワーの音が聞こえてくる。それを合図に私は作業を終え、何事もなかったかのように真っ新な姿勢に切り替えて、そそくさと台所に移動するのだった。そしてあたかも冷蔵庫の中身を確認しているような格好になった。



夫、宗和の風俗通いを知ったのは、三ヵ月前。初心にも最近になってのことであった。気付くことなくいられたのは、私の過去の男たちの全てが風俗や浮気とは無縁の男たちであったという経験が一因かもしれない。


そもそも、極端に言えば男には風俗に行く男と行かない男の二種類しかいないわけで、そのほとんどが前者である…らしい。そしてその両者には分かり易い違いがある。見極めはとてもシンプルだ。自慰を行う際に使用するオカズが、アダルトビデオや風俗のイメージか、現在の(或いは過去の)パートナーを利用した記憶やイメージか。つまり、人間関係を結んだ相手をオカズとするか否か、という違いだ。私の過去の男たち、といってもせいぜい四、五人程度だが、彼らは風俗を利用する、というアイデアの無い人間たちだった。自慰の際、「霞がイク姿とか、霞を主人公にした卑猥な妄想をしながら、自分で抜く。」のだそうだ。摩訶不思議なことに、彼らは皆同じようなことを私に言った。また、その卑猥な妄想とやらは感心するぐらいに具体的だったのが可笑しかった。とはいえ、何故かそんな過去の男たちとのセックスは軒並み良かったし、飽きることもなく、最終的にはそんなセックスから遠のくのが億劫で名残惜しく、人間としては相容れないと気付いた後も怠惰な関係が伸びてしまった場合も少なくない。

一方、宗和のオカズは専らアダルトビデオであり、その内容に関しては、彼の大切な携帯電話の「お気に入り」のリストが詳細に示してくれた。私から言わせてみれば、そんな作り物のチープな幻想の数々は失笑するにも値しない代物だった。

 自慰のオカズの違いは実際のセックスにも反映されていた。イメトレは実践に響くのだろうか。過去の男たちが私に提供したサディスティックとマゾヒズムを併せ持つセックスに引き換え、夫のそれは間違いだらけの教科書をなぞるような、ヘンテコで滑稽なものだった。最初の一度を除いては。

  

 宗和とは、私が前夫である畑中との離婚話を本格化させていた頃、宗和の方から新宿の喫煙所で声をかけてきたのが始まりだった。当時私は歌舞伎町の喫茶店でアルバイトをしていたので、その喫煙所には出勤前と退勤後のひとときを過ごす休憩場所としてよく立ち寄っていた。一服している時の私は大抵、ただ宙を眺めているか、家電量販店の大きなモニターを眺めて頭を空っぽにしているため、周りの人間を観察することはほとんど無かった。だが、気分が落ち込んだ時やむしゃくしゃしている時には逆に周囲の人間を見渡して、いかにも「どうしようもなさそう」な人間に焦点を当てて観察した。そして、「私はまだあそこまで落ちぶれていないだろう。」と思うことで無味乾燥な安心感を得ていたのであった。


 あの時の私も、そんな風に一人の人間を遠目でぼんやりと観察していたのだった。頭頂部が異様に黒々とし、曖昧な境目から毛先にかけてはまるで金メッキがさらに剥げて何色ともつかない色に変色したような毛髪。上着の肩と胸元には何語だか分からぬ悪態染みた文言、それと対照的に無駄に短く黒いプリーツスカート、良くて近場の激安店あたりで購入したであろう国民的子猫キャラが汚れ変色したサンダル。そこから除く素足の状態からは、恐らく一週間はまともに入浴していないか、或いは肌に合わない石鹸を使い続けなければならない状態であることが伺える。また、彼女が重そうにぶら下げているビニール製の大ぶりのショルダーバッグはパンパンで、いかにも定まった寝床が無いことを暗に主張しているように見えてならない。そんな彼女の出で立ちからは、仮にその躰を売るにしても、地方のコンビニでアルバイトをした方が良い稼ぎになるのではないか、などと、大変失礼身勝手な査定をさせられてしまうのだった。


―ねぇ、あなた、大丈夫なの? ねぇ…。


私は人を見下すことで安心感を得ているにも関わらず、その反面、そんな「どうしようもない」出で立ちの人間、特に女を見ると心配で心配でいたたまれなくなる。そしてその都度、私は心の中で独り言ちる。


―この煙草を吸い終えたら、声をかけよう。そして、私に何かできないか、とりあえずお茶でもしないか、聞いてみよう。それとなく、それとなく…。


「どうしようもない」正義感が次第に私の胸を満たし、出所の分からない緊張が私の鼓動を速めていく。そして、吸っている煙草の火元がフィルターからあと一センチメートル付近にさしかかった頃、彼女は誰かと乾いた笑顔を交わしながら煌々とした闇の中へと消えて行ってしまった。彼女たちは、いつもそうだ。私の「どうしようもない」正義感が我慢の限界を迎えるその時を見計らったように、消えていく。その背中を眺めながら、私はもう一本煙草を吸う。身勝手にも溢れそうな正義感を振りかざす必要が無くなったことに、安堵しながら。矢継ぎ早に二本目を吸うがために焼けてイガイガする喉の痛みを、肺の底から吐き出す酸欠気味な残気で吹き飛ばす。煙が真っすぐ飛んでいく。風の無い、心地よい夜だった。


「あの…。すみません。」

かなりの至近距離から男の声がした。

「あの、すみません。」

トントン、と私の右肩を男の指が軽く跳ねる。


私? もしかして、何か落としてしまったのだろうか。私はぎょっとしながらも、無に帰していた心を現実に引き戻す。普段よりも一オクターブ高い声が私の喉をこじ開けた。


「はい、何でしょう?」

「えーと…。」

はっきりしない応答をする男の顔面は中途半端な笑顔を作っている。


―は? 何なの、こいつ。


男の不可解な笑顔に、どうせキャッチだか売春目的の声掛けだろう。そう判断した私は、男に対する警戒心と侮蔑心を急上昇させて言った。

「すいません、違うんで。」

こんな時に自分の喉奥から出る声の明瞭さと低さには、我ながらなかなか胸がスカッとするものがある。大抵の場合、そんな私の応対に、如何わしい男たちは底意地悪い顔を覗かせ一瞥し去ってゆく。時には舌打ちまでされることもあるのが心底腹立たしい。だが、この男は未だにこちらを見ている。というか、半笑いの顔面を硬直させて私の目を真直ぐに見続けている。


「いや、すみません。違うんです。」

男は食い下がってきた。

「は?」

「あの、違います。そういうんじゃ、なくて。はい。」

男の声はやけに明るい。若干痩せすぎだが、しかしパリッと小奇麗な営業マン。そんな印象だ。

「え、何なんですか?」

私は低い声のまま追い打ちをかけた。依然として男は顔面を硬直させたまま黙って私を見続けている。なんだか訳のわからないやり取りと、どうにも不可解なこの男の様子が怖いような可笑しいような、ともあれ私はこの状況が面倒な気がしてならなかった。

―まぁいいや、ここは無言で鎮火アンドゴー、だ。さっさとこの場を去ってしまおう。

私がそう思った瞬間、男が矢を放った。

「お茶、しませんか?」

「え?」

私は自分でも驚くほど、先程とは打って変わって軽やかで女らしい声で反応していた。

―お茶、お茶、お茶…。お茶!? ナンパ…? といっても…お茶? 誘い方、古くない? いや、いやいや、期待するな、私。お茶ってことはあれか、アダルトビデオの勧誘か。他愛もない話をしながら軽妙にこちらの承認欲求を満たしながらさらにその欲求を高ぶらせ、その手の誘いに引き込もうってか。でも、もし、ただのお誘いだったら…。ばかばか、期待は違う、期待はしてはならない。おい…私、落ち着け。

頭の中でプラスとマイナスの思考を右往左往させながらも、着々と顔面を赤く染めている私に男は言った。

「すみません、違うんです、あー、その。いいや。思ったんです!」

「…んん??」

「綺麗だな、と、思ったんです。それで、お茶だけでも、したいと、そう、思ったらどう、お声がけしようか考える前に、こう、その、お声をかけてしまっておりました。…えー、と。す、すみません。」

男は堰を切ったように誘いを申し込んできた。

「ええっと。いいですよ、三〇分、ぐらいなら。」

男の勢いにならい、私も考えるよりも前に誘いに乗った。

西武新宿駅と歌舞伎町に挟まれたチェーン店の馬鹿に高い喫茶店までの数十秒は、今まで生きてきた中で最も長く感じた一瞬だった。私の気分は誘いに乗ってしまったことへの後悔と期待感の間でふわふわと上下し、その浮遊感に若干の気持ち悪さを感じていた。

「いやぁ、突然ほんとすみません、っていうか、有難うございます。」男は照れ臭そうにも嬉々とした声で呟く。その横には、満更でもない笑顔で受け答えしている私がいた。


 喫茶店に入ると、喫煙所で出会ったこともあり何の違和感なく喫煙席に座った。二人掛けのテーブル席では鞄の置き場所に困ったが、男は店員よりも前に荷物置き用のボックスをそれとなく持ってきた。その、なんてことない気遣いに私は好感を抱いた。

お茶の最中、相手はこれっきり会うことも無いだろうと思っていた男であったこともあり、私は彼に自分が離婚調停中の身であることまで打ち明けてしまうなどベラベラと身の上話をした次第なのだが、それはある意味都合良く最初から自分のこれまでの人生のあらすじをご紹介できた形となった。不思議と私は気を遣うこともなく、溜め込んでいた鬱憤を吐き出すが如くしゃべりまくっていたと思う。そんなまな板に水状態で話し続ける女の話を、宗和はありとあらゆる表情筋をフル活用しながら反応し、いずれも良いタイミングで相槌をし、益々流れゆく私の話の流れを促してくれた。正直、私は気持ちが良かった。私のつまらない話を軽快かつリズミカルに受け流してくれる気楽さ。また彼の外見がこちらの気が引ける程高度なものではなかった、つまり中の下レベルだったことも、私を安心させてくれた。気付けば私をホッとさせてくれる彼の営業力、その術の中にいる間であれば、時はあっと言う間に過ぎていた。


 あれから二年間、私はその男、宗和と交際した。交際当初から特別華やかな盛り上がりこそない恋人関係ではあったが、如何せんその頃の私には前の夫との離婚調停という重荷があった。私の離婚が成立するまでは私側の不利を生まぬようにと、驚くべきことに私たちは離婚成立のその日まで、性交渉をしなかった。それだけではなく、彼の提案で、会うのは月に一度だけ、「しつこい生命保険会社の営業マンと断り切れない主婦」とした。そんな設定で会うために、私はいつも所帯じみた普段のままの恰好で、方や彼はパリッとしたいつもの仕事着で「お茶」をし、お喋りをするだけに留めていた。こんな風に純朴で計画的な逢瀬の積み重ねに、宗和が本気と忍耐を証明してくれているかのように、その頃の私は感じていた。

 

 畑中と離婚が成立したその日、宗和は私を抱いた。それは、物理的には大満足であった。ここ一年以上も男性にこじ開けられる機会の無かった私のオンナが、拍子抜けするほどに優しく、丁寧に鍵を開けられ、放たれた。ひょっとしたら、一生女を辞めることになるやもしれない。そう思っていた、そう思うぐらいの覚悟を強いられていた当時の私にとって、男性のそれが物理的にも私のオンナに挿入されたこと自体が、ひとつの安堵であったし、感激であったのだ。何より、ロミオとジュリエットかの如くギリギリまで触れたい思いを堪え、また、それを恐れもし続けていた二人の躰が突如として全ての、そして一番奥までもに触れ、触れられる体験。これは、なかなかの素晴らしい慟哭を二人に感じさせた。あの瞬間の、宗和の幸せそうで刹那的な、私という人間と女を同時に懇願し乞う表情、体温、汗、息遣いは、私を最高に高揚させた。あのセックスは、もしかすると二度と再び足を踏み入れることが叶わぬ天上の地であったのかもしれない。いや、確実にもう、あそこには辿り着けるとは思えない。

 初めてのセックスから程なくして、私達は半ば強引に両家に挨拶を済ませ、法で定められた女性が離婚後再婚できる最低期間を経、まさにその日に婚姻届けを提出した。それからすぐに智花という子宝に恵まれたこともあり、私は念願の穏やかな生活を手にすることができた。あの頃はそうと確信していた。


 結婚し、四年を過ぎた。私は三五歳、宗和は三八歳になった。今となっては、彼の営業力は馴れ合った妻の私に発揮されることは久しく無い。その変化は私にとって、彼が自分の身内になった証のようにも感じられるが、それが快か不快かと問われれば、後者だ。時折、私は彼にとって恋人でもなく、妻でもなく、「母親」。そんな立場に収まってしまったのだと感じることがある。そうであるからこそ、彼は風俗に通うことを「許されること」の一つにしてしまっているのだ。お母さんなら、何があっても味方だもの、何をしても結局は、許してくれるんだもの。


 それにしても不思議なものである。あれだけ確固たる、「愛情」を確信して一緒になった男女二人が、どうしてこうもどこか人為的な居心地の悪い空気の中で、音無きため息を漏らし続けながら同じ屋根の下に帰り、生きる活動を共有していなければならないのか。身も心も窮屈、とはこのことではないか。

いっそのこと宗和を、「あんたなんか汚らわしい。金だけ置いて出ていけ。そして子どものために死ぬまで生活費を送金し続けろ。汚い、汚い、気色が悪い!」とでも罵り倒し跪かせ、徹底的に罪悪感を叩きこんで生涯の食い物にしてやれたのなら、どれだけ経済的で、シンプルだろうか…。こんな、打算的で汚らわしい思考が心中繰り返されることで、私は私自身に、細かい棘を食い込ませ続けている。だが、これには不本意にも抗えない。


 ここのところは、胃や胸部が深夜になると急激に痛む。そして眠れない。眠りにつけない割に、一度寝てしまうと起きることが、「死んだ方がマシ」とすら思えるぐらいにしんどい朝も増えた。それでも智花の保育園への送りに間に合うように、無理矢理体を起こし、自動的に朝食と宗和の弁当を作り、食べさせ、頑張って笑顔を作り、頑張って自転車をこぐ。朝の、この二、三時間余りのルーティンワークで既に私の体力は枯渇の様相を見せてしまう。無理もない、はっきりと身体的に異常をきたした証拠として、先月たまたま健診で訪れた婦人科で若年性更年期障害と卵巣腫瘍の診断を受けている。そのため、未練はあったが都心でのフル勤務の仕事も辞め、今は「病気療養及び休職中」と保育園に提出しなければならない現況届を提出し、約五年ぶりとなる専業主婦の生活をこなしているのだ。



 雨が恋しいとすら感じる亜熱帯を思わせる日本の夏の朝。紫外線によるシミの増加よりも、あわや熱中症にでもなりはしないかと不安になる。子育てにシミは影響ないが、母親がぶっ倒れることほど子どもや家庭に影響を及ぼすことはないのだ。日に日に増量していく洗濯物をベランダで干しながら、宗和の下着を手に取った。一度離し、手ではなく、指先でつまみなおした。一瞬にして、あの日に記憶と感情が生々しく、そりゃあもう、フレッシュに思い出される。これがトラウマというやつか。もう、その類の心理現象は手放したと思っていたのに。


 六月六日、それは霞と宗和の結婚記念日の朝だった。丁度良く日曜日にあたったため、その日は幸恵さんの計らいで智花を預かってもらい、久々に夫婦水入らず外でランチでもしようという話になっていた。そこで、娘のお気に入りのアニメDVDをいくつか借りて持たせようと考えていた。そうすれば近頃急激に、「ママがいい!」と、私との接触を切望するようになってきた智花の機嫌も多少は緩和されるのではないかと思ったからだ。私は自分の財布のいつもの場所からDVDショップの会員証を出しておこうとした。が、そう言えば、先週末に宗和に貸したまま返してもらっていないのだということを思い出した。私は何の気なしにいつもの場所に置いてある彼の財布を手に取った。そして、カードをしまう部分を重点的に探った。全く、紐は緩いが中身だけは几帳面にカテゴリー分けされているものだ。銀行、医療関係、ポイントカード…。だが、目的のカードはどこにも無い。それなら、と、裏側に大きくポケットになっている部分を、よっ、と開く。あった。


―これこれ、こんな奥にしまい込んで、借りた物は早く返してくれないとねぇ。

と、会員証を引っ張り出したその時、異様に黒光りした異質な名刺風の紙が顔を見せた。

―なんだこれ?

 私は恐る恐るそれをつまみ出した。


〝カズくん、また癒されにきてね♪百合奈♡〟


表面がピンク地のけばけばしい模様や異様にポップなロゴに縁どられた紙には、なかなかの綺麗な字体で手書きで一筆添えられていた。


「なによ、これ。」


私はそれを眼球から十五センチメートルの距離に縮めて、もう一度よく眺めた。いや、舐めるように、見た。

【JKヘルス 放課後五反田女子学園】

 ばっちり、明らかに、そこには「ヘルス」と、記されているではないか。つまりこれは、風俗店で発行されたもの、ということだろう。その薄さ若干一ミリの長方形の物体を危うく床に落としそうになるぐらいに、私の全身の力は抜け落ちそうだった。だがその心とは反対に、私の体は動きを止めようとはしなかった。私の眼球と指先は、ものすごい勢いで貪る様に、財布のポケットを弄った。


―お願い、これ以上出てこないで。お願い。お願い。


そう心の中で念じながらも、「もっと出てこい、全部出てこい、いっそ全て出してしまえ。全部暴いて、喰ってやる、喰ってやる…。」まるで鬼のような声が、私の中に渦巻いた。

 結局、JKヘルス五反田女子学園以外にも他三店舗、所謂「本番」を除くバラエティ豊かな風俗店の会員券やクーポン券が、悪びれもなく私の手中にひょっこり現れたのであった。紙の中で、アニメキャラのような女のイラストがニコニコ笑いながら、「カズちゃん♪」と言いながら誘っているように見える。何人も、何人も、同じロゴマークが連なった、クーポン券。

【お得意様限定! 3000円OFFクーポン 60分 8000円のところ、5000円に‼】

お得意様だなんて…、思わず苦笑いである。そして、百合奈という女がどういう様相を呈しているのか知りたくなったと同時に、すぐさま携帯でその店名と源氏名をネットで検索していた。ものの数秒でヒットしたホームページのスタッフ紹介の画面には、不自然に豊満な胸と濃い化粧と修正加工で美化された女が、こちらを上目遣いで微笑んでいた。その女の外見全てが私とは正反対だった、同じオトコを慰めた事実以外、は。それにしても、ピンサロという類の店では、このような安価でサービスを売り、買えるというのか。女としてはそれ自体にもショックを覚えた。レジ打ちやファミレスのパートの時給と比較すれば確かに効率良く稼げるのであろうが、女の大事なオンナを売って、実質、店の女たちにはいくらの歩合があるというのだろう。私は一抹の虚しさを感じながらも、無表情のまま俊敏な速さでそれらの写真を自分の携帯で撮影した。


 財布の中にそっと帰してやった、小ぶりながらも破壊力のある証拠たちとの運命の出会い。思えばあの一瞬の出来事はその後、憎悪や不信感、ありとあらゆる負の感情の鬼と化し、何時間、何日経っても私の胎の底で渦巻き続けている。気を抜くと、その渦が私の胎を蹴り、伸ばし、縮め、吐き気とムカつきを与えてくる。夫は、どこの馬の骨か分からぬ女の陰部にその手を濡らし、弄び、明らかなる昇天の演技を真に受け、喜び、面白がり、そして己のオトコを差し出し女の口腔を汚してまた喜んだ。きっとそれだけではないのだろう…。私はこの目で見たこともない、ましてや自分自身に躰を売る経験も無いにも関わらず、余計に自分を追い詰めることと知りながら、ただ衝動的に無我夢中でネット検索をかけ、人に聞き、それらから得た情報の数々に夫の姿を重ねた。そんな私の想像と妄想は膨らんで膨らみきって咲き乱れる想像地獄絵図となり、私の脳内を侵食していくのだった。怒りなのか、悲しみか。虚無感か、諦めか。気が付けば私自身、自分の感情の軸がよく分からなくなっていた。ただ、何かが壊れていく音だけは聞こえた。私の中の一番大切な何かが。


「信頼してた私が、馬鹿だった。」


信頼とは、胎で感じるトランキライザーである。それが突如として途切れたらどうなるだろうか。言うまでもなく、強制的に休眠させられていた活火山が不意打ちビンタを喰らい、怒りとともに目を覚まし、精神身体両面においてコントロール知らずの副作用のマグマを噴火させ、山自身を、そして周囲の地表をジリジリと焼き尽くしていく。地表の形そのままに黙々と炭化させ続け、思わぬ所までをも灰色に染めていく。霞は、テレビの画面でしか見たことのなかった、毛頭他人事としか思えなかったその活火山の怒りの業を今まさに、実に体験しているのだった。


 夫の秘密の愉しみを知ってから、彼の財布や携帯を盗み見ることは霞の日課となった。それはほとんど強迫観念から生じる病的な発作と化していた。別に、新しい事実など、知りたくもない。それでも仕方がないのだ。一度汚らわしいと知った彼の欠片を、もっともっと集めて、愕然とする。その恐怖はある意味一種のエンターテイメントであるかのようだった。恐怖とその後味の悪さを知っていながらにして、多くの人がホラー映画を観る現象と似ているようにも思う。


  結局、ここ二か月のうち霞が知る限り新たに二度、宗和は風俗店に行った。丁寧に、スタンプカードに新たなスタンプが押されている。全く、隙だらけな男だ。

 霞は、霞の中の宗和の欠片を失った。ほんの少しの欠片の欠如は、それ以外に残されている部分も同時に欠片にしてしまう。最早、完全ではないのだ。完全も不完全も丸ごと受け止めたと思い込んでいた、霞の中にいた完全なる宗和は、もういない。



 今夜から明日未明にかけて、まずまずの規模の台風が関東に上陸するらしい。それにしては恐ろしく快晴だ。そしてどこか涼しくもある。清々しい秋口の日曜日。霞の胎底は恐ろしく澱み、どよめいていた。昨晩遅くに帰宅した宗和がいつも通り帰宅早々に入浴している隙に確認した携帯画面に、今までにはあり得ない現象を見たからだった。


「マキちゃんまた行くねっ! だいちゅき☆」


店の女からの営業メールに対して、宗和が気色の悪い返事を送っていたのだ。マキちゃん、どこの店の女かは知らないが、恐らくつい先程まで世話になっていた女なのだろう。終わった…。私はそう感じた。私はもう、後戻りのできない所まで手を伸ばしてしまった。

午前中は智花もいるのであっと言う間に過ぎた。とはいえ、喉元までせり上がってくる怒りや苦みをこらえながら笑顔で子どもと接することの苦痛は、過去最高レベルまで達していた。それを感じてか、智花もなかなかお昼寝を始めなかった。やっと寝つき、静寂を取り戻した昼下がり。宗和は呑気にトイレに籠城している。私は、現状で彼の財布に入っているだけの分の証拠たちを、蓋が無く利用頻度の高いゴミ箱に捨てた。というよりも、置いた。「知ってるよ、私。」というメッセージをたっぷりと含ませて。


 宗和の密かな愉しみについて、私はこのまま一生黙し無かったことにして過ごしていこうかとも思った。そして、彼が風俗など行く気が起らぬ程に、改めて霞自身が女らしく、艶っぽく、且つ貞淑な妻となっていく決心をしようとも思った。きっとそれができる女は、「デキる女」なのだろう。しかし、霞の胎がそれを許さなかった。如何にして彼を悔い改めさせ、霞の前にひれ伏させ、家庭を、霞を失わぬよう懇願させるかを最優先に、冷静を欠いて思惑を巡らせた。そして結果的に、ゴミ箱に置いて見せるという方法をとった。どんなに胸中狂いそうになっていても、やはり、霞自身の口から問い詰めることは選択できなかった。それは霞にとって、「私の躰では足りなかったのよね」と直に問うことと等しく、霞自身を守るプライドの欠片たちが、「私たちをこれ以上粉々にしないでくれ」と叫び発狂する恐れのあることであったからだ。


 私は待った。ついに宗和が動かぬ証拠たちを発見するその時を。とても怖い。もう後戻りできない時になって、自分が全てを壊してしまうかもしれないリスクを犯したことを呪いもした。皿を洗いながら、無心に湯呑の茶渋をこすり続けた。シンクの前から、足が動かせない。何とも言えぬ独りよがりな緊張感から、何度も乾いたため息や深呼吸を繰り返す。娘はぐっすりと昼寝をしている。この平和な寝顔だけは傷つけたくないが、そのためにはどうすればよいというのか、今の私には分からない。

 

「霞、俺やろうか。なんか疲れてるっしょ。」

 トイレから出てくるなり、私の発する溜息の連続に反応した宗和が不快感を隠すように無駄に明るく優しい声をかけてくる。

「いや、いい。」

私は無感情な声で返事をする。

「ん~、これ終わったら少し寝なよ。休憩しな。」

宗和の声はいたって明るい。その作り物の明るさと優しさを、私は心底気色が悪いと感じた。


―嘘つき。

 返事をしない代わりに、心の中で小声でなじった。


どん、どん、どん…。


心臓が居心地悪そうに外壁を蹴り飛ばす振動に、私の上半身は微かに揺れていた。

 

[大丈夫ですか。]

―声だ。いつもの男の声が聞こえる。

[本当に良いのですか、これで。私は…]

―なによ。なんで、私を責めるの。

[責めてなんか、いませんよ。ただ、あなたが悲しくなるのが、嫌です。]

―もうとっくに、悲しい。

[どうすれば悲しくなりませんか、これ以上。]

―わからない、わからない、わからないわよ!

[あっ…]


 彼の声がひと際大きく聞こえ、まるで振り向けばそこに立っているように感じた。私は、悲しいような、泣いてしまいそうな、困惑した表情のまま声のする方へ振り返った。

 そこには、声の主ではなく、宗和が立っていた。彼の表情もまた、ひどく困惑していた。そしてその片手には、ゴミ箱に置いたはずの小さな証拠たちがつままれていた。ついにきた。声が聞こえたのは、きっと極度の緊張からだろう。この対峙の時に向けた、脳内の何かしらの防衛本能が幻聴を起こしているに違いない。

「霞、これ。どうしたの。」

宗和が愚問を問う。

「どうしたの…? それは、私が聞きたいけど。」

「いや、ああ、そうだね。」

好ましくない現実との対峙の時、私は大抵、吹き出しそうになるありとあらゆる感情を胎の奥底に押しやり、とんでもなく平然と、淡々としてしまう。今も、この恐ろしく無表情で無害な私の声調が、宗和を空恐ろしくも静かに襲っていることだろう。

「DVD借りに行く時、会員証返してもらうの忘れてたから、カズの財布を開けたの。そしたら、それと同じところに、あったわよ。」

「違うんだ。」

「ん? 何が?」

「浮気とかじゃないんだ、気持ちとかあるわけじゃなくて、その、付き合いで。だから、違うんだ。」

私は無言で彼の手に握られたものを見つめ、徐々に瞬きが多くなるのを止められない。段々と頭が混乱してくるのを必死に立て直そうと試みる。その代り、言葉が出てこない。

「ねぇ、ちがうって! ね? ちがうんだって!」

私が呆然としていると思ってか、彼の声調が強まった。私は反射的に躰を大きく震わせた。

「ご、ごめん…。ごめん、霞、大丈夫だから。」

そう言いながら、彼は私の両肩を支えるように引き寄せた。そのまま私の顔面は不快な形状となって彼の胸に押し付けられる。こんな見せかけの、その場しのぎの優しさで私の胎が収まるわけがない。その程度の問題じゃない。バカにしないで。バカにしないでよ。さっきとは違う意味で、私の躰は小刻みに震えだした。私はくぐもった声を振り絞る。

「やめて、離して。」

それでも彼はこれ見よがしに、さらに強く抱きしめてくる。そうさえすれば私の気持ちが落ち着くとでも思っているのか。

「気色悪い、触らないで。」

私の言葉に、彼の手がパッと私から離れていった。私はやっと肺一杯に酸素を吸った。右頬にまとわりついた彼の冷や汗の冷たさで、頭が冴える。

「ごめん…」

宗和の得意の謝罪、世界で一番軽薄な謝罪の言葉。

「付き合いじゃないよね。付き合いもある、だよね。通ってる、よね。百合奈、マキ、ココミ、ミイナ…それから、だれ、私も同じ?同じことしてるんだもんね、同じか。ははは…。」

 ごめんの一言でその場を収拾しようと試みる薄っぺらい男の汚れたオトコを想像したら、馬鹿々々しい笑いが込み上げてきた。

「ちがうって! 霞はちがうって! 全然ちがうから!」

「は?」

何が違うというのだ。私のオンナと口は、店の女のそれと、オトコを格納してやるための構造にどう違いがあるというのだ。

「霞が思っているような感じじゃ、ないから…。」

彼の闇雲で思いやりのない直感的な受け答えに、私は我慢の限界を感じた。そして、急激に自制が効かない程冷酷になっていく自分の胎を感じた。愛が、冷めていく…。心が冷めていく。


 宗和の風俗通いが表沙汰になってから、まだ半年も経っていない。それなのに、私も、恐らく彼も一気に老け込んだような気がする。これまでの結婚生活で培った、「日常」という安定感が自分たちの手で如何とも変形させられることを知ってしまったからか。私達はいつしか、いつ崩れてしまうかわからないトランプタワーをまるで鉄骨造りのマンションのように屈強なものだと思っていたのだろう。いや、そう思いたかった、という方が正しいかもしれない。


 午前一時。夫が帰宅する。

彼の帰宅までの間、私は智花を寝かしつけながら小一時間仮眠をとって、翌朝手間取らないよう洗濯と智花の保育園の準備をし、一日の家計を整理する。普段ならば、それから彼の夕食の準備にかかる。そうすれば、彼が帰宅後に風呂からあがったタイミングで温かいご飯が出せるのだ。

細身なのにたくさん食べる彼は、食べるスピードも速い。そのくせ、必ず一口目を飲み込んだ後に食レポのコメンテーターのような一言を言う。「あぁ~、この味噌の合わせ具合が、胃に沁みて、幸せを感じるなぁ。」とか、そういう感想を私に伝えてくる。二〇分もかからない彼の夕食の相手をした後、二人で歯を磨く。その後彼の部屋で智花の話や他愛ない話をしながら一服する。学生時代から不眠体質の私には、盛大な鼾を放つ彼の隣では一睡もできないことから、夫婦の布団は別室だ。しかしながら、週に一、二度はセックスをしていた。一般的にも夫婦としては少なくはない頻度であったと思う。

 だがこの半年間、私たちはかつてのルーティンを敢えて無視した生活を送っている。ある夜は、彼の夕食が用意できなかった。ある夜は、彼が夕食を摂っている側から、いかに風俗店で性サービスを受けることが不健康でハイリスクなことなのかを切々と語った。そしてある夜は、いかに自分の女としての自信を失ったのか泣きながら訴えた。そして酷い時には、娼婦のようなサービス精神旺盛なセックスを振舞ってみた直後に、彼に代金を請求した。

「お金、頂戴ね。」

「え?」

「いくらなら払える? 三十五歳のオンナじゃ、大して値がつかないか。」

「いや、そうじゃないでしょ。払わないよ。違うから。霞。」

「なんで? だって、やってること同じでしょ。お店と。ズルいじゃない、私だけタダ働きってことじゃない。」

「タダ、って。違うよ。お金とかじゃ、ないだろ。違うだろ。やめろよ。いい加減にしろよ。お前は娼婦じゃないだろ。」

「あれ? 娼婦だって人間よ?」

そう言って、私は泣き出すのだった。

そんな混沌とした夜が繰り返され、徐々に私は私を見失っていく自覚があった。苦痛への忍耐と麻痺の境目、封印し続けていた箱の蓋がぽっかりと開いてしまいそうな感覚の中で生活は続いていった。しかしながら、「母は強し」とはこのことか。娘の前では何もなかったかのように普通のママでいるよう努力することはできたし、夫にも表面上は笑顔でいることができた。兎にも角にも、私は娘の前で大人の薄汚い事情を一ミリも醸し出したくはなかったのだ。



 ある土曜の夜、久しぶりに夫に娘を任せて友人と出かけることにした。明美と会うのは一年ぶりだ。彼女は大学時代からの旧友で、未だに独身だがついに婚約し、その報告をしたいのだという。婚約の報告、という誘い文句ではあるが、女が女を呼び出す時には何かしらの吐き出したい鬱憤があることに間違いはない。女は、どんなに幸福でも、その中から一パーセントでも不幸をひねり出し共有する。そうでもしていないと、女同士の関係は成り立たない。純粋な幸福など、喰えない肴。小一時間でもそれを肴に会話を共にしようものなら、笑顔で話を受け流しながらも、歯間に挟まった肴の破片に苛立ち続けるしかないのだ。明美は、そんな女同士の暗黙のルールを熟知している仲間の一人だ。きっと明美のことだから、また結婚するのが怖くなっているのだろう。幸福の中からひねり出した不幸は、幸福の中からしか生まれない。そのことには、こちらも目をつむる。  


 明美は大学卒業と同時に就職をせず、フリーのライターをやりながら世界中を旅してきた。収入はボーナス無しの一般事務職レベル、とのことだがそれで十分らしい。彼女は学生時代から、よくチャップリンの名言をよく口にしたものだった。自由をこよなく愛するタイプの女、と公言しているだけあり、生き方や働き方に限らず、恋愛に関しても羨ましくなるぐらい自由を貫いてきたように思う。典型的な美人でスタイルも良い、そして何より、自分らしさを持っている。そんな彼女が、まずモテないわけがない。だからこそ、これまで三人もの男性からプロポーズを受けたことのある猛者だ。だが彼女は、いずれの男も結婚とは住まいを含め自分という人間に妻が定住するという形を当然のようにイメージしているのが嫌だった、という理由でそれら全ての結婚話を断ってきたという。そして、そんな彼らと別れる度に、彼女は逃げるように信じられないぐらい遠い場所を選んで旅に出た。私が覚えているだけで、インドやカンボジア、エルサルバドル、それにルーマニアだったか…。いずれにしても貧困蔓延る土地に向かって旅をしてきたようだ。

 そんな彼女が、ついに婚約をした。彼女の年齢を考えても、もし子どもを持ちたいという希望があるならばこれがラストチャンスだろう。きっと彼女もそこがポイントと考え、今度こそ結婚する、そう決めのだろうと私は予想していた。


 彼女と落ち合ったのは西新宿にある焼肉店だった。ギラついた装飾もゴテゴテとした装花もなく今風なカフェ風の店内は、木目調の壁面とフローリングが清潔感と若々しさを引き立て、換気も完璧だ。まさかこの空間でギトついた肉が焼かれているとは到底思えない。そして女性に合わせた柔らかくも綺麗な姿勢を保てる具合になったソファ席と肌色をふんわりぼかしてくれる間接照明からは、全面的に女性客と合コン目的のグループ客に狙いを定めていることが伝わってくる。確かに物理的な居心地は良いのだが、長くは居座りたくはないと感じさせる雰囲気は否めなかった。

 

 約十分ほど遅れて明美がやってきた。クリスマス間近という時期を意識してかせずにか、明美のファッションを一言で言うならば、「赤」いや、「ルージュ」と言った方が適切だ。上質かつ暖かそうな薄手のセーターと低めのパンプスは、「女ですが、何か。」と横目でものを言えそうな、ずばり、ルージュだ。スラックスはもちろん黒。どこのブランドのものか分からないのは、世界中のどこで購入したものか分からないものだからだ。そんな明美の筋の通った自由で洗練されたセンスに、私は会うたびに惚れ惚れする。

「霞! コケた!?」

遅れて登場したことへの詫びより先に、いかにも明美らしい言葉が飛び出した。

「こんな若いお店で一人寂しく座っていたもので、そのストレスと悲壮感でこのありさまです。」

「やだぁ、まだまだでしょうが! 若い、若い! あ、遅れました。ごめんっっ!」

明美は片手をひょいと額に翳し、笑顔でぺこりと頭を下げた。

「いいの、いいの、こんなの遅れたうちに入らないから。」

「はぁーっ、今日も疲れたぁ。何もしてないけど。だって、実はさっきまで寝ていたの。慌てて起きて、それで遅刻よ。」

「あはは、いいじゃない、寝られるときは寝なきゃ、もたないわよ。」

「霞のそういうところ、好きよ。」

「そういう、どこよ?」

「だってほら、さっきまで寝てたー、なんて言ったらさ、今日は仕事休み? とかって質問、普通くるじゃない。霞からはそれが、ない。そういうとこ。」

「ふぅん。でもさ、明美のフリーダムな人生知ってる人間なら、そんな平凡な疑問、湧いてこないわよ。」

「あ、そっか。それもそうね。でも多いのよ。霞みたいに、っていうのも失礼だけど、ほら、結婚して、子どもがいて。周りはみんなそうでしょ? 私の自由さを羨んでかなんでか、明美はそのままでいいのよ~、なんて言ってくれてた人たち。いつの間にかね、あなたのことを心配してるのよ、みたいなニュアンス醸し出したりしちゃってさ、仕事もいいけど、家族持ちなよ。なんて。余計なお世話なのよ、もう。」

「そんな明美も、今までは自由さに不自由感じてなかったのに、そんな微妙なニュアンス感じるようなお年頃になった。ってことじゃないの?」

「うわぁ、霞、やっぱ頭いい。そうなの、ちょっと耳が痛いけど、ほんと、そうなの。歳かなぁ、あー、歳とか言いたくないよぉ。」

「で、そんなお年頃の明美さん。ご婚約おめでとう。今日はワインいきますか!?」

「へへ、ありがとう。うん、ワイン。でも霞は赤が苦手がだから、白でいいよ。」

テーブルの上にはいつの間にかメニューやおしぼりが運ばれていた。それに気付かぬ程、本題からスタートした女の会話は立ち止まることを知らない。

「改めまして、ご婚約おめでとう!」

「サンキュー!」

軽く乾杯し一息つきながら、明美も結婚というスタートラインに立ったことに、私は少しの安堵と過去の彼女への懐かしさを感じていた。不思議と、白ワインが少し甘すぎる気がした。

「明美も大人になったねぇ。飲んでりゃ慣れるから、って、よく無理やり赤飲まされて、結局潰れて明美のアパートで寝ちゃう、ってオチ。二〇代前半は恒例でしたのに。」

「そりゃね、もう三十五ですから。ていうかそれ、何年前のことよぉ、えっ、もう十年前よ!? 信じられない。」

「信じなさい、あなたも私も、三十五。世間一般では、大人、と呼ばれる年齢でございます。ね、ところで何よ。この期に及んでマリッジブルー、ですか?」

 

 気付けば、イタリアンかと疑うように洒落た盛り付けのされたチョレギサラダが気の利いた店員によってサーブされていた。女性の一口のサイズと量を計算されたように食べやすい生野菜たちの気遣いを度外視するような大きな口で、明美はむしゃむしゃと野菜を咀嚼しながら話し続ける。

「今度は、これ、本物の…マリッジブルーです。」

明美がどこか伏し目がちにつぶやく。

「そうなの? それはつまり、今度こそ本気ってこと?」

「そうね、生物学的にね。」

やっぱりそうか、と思った。やはり女に生まれたからには一度は子どもを産みたい、そう思っているのだろう。それは暗黙の了解、ということにして、私は明美の話を聞くに徹しようと姿勢を正しつつ、長い話に耐え抜くべく煙草に火をつけた。

「生物学的に、なるほどね。私たちも草木と同じ、いずれは朽ちる生き物ですから。」

私は核心をオブラートに包みつつ、明美の十八番テーマである卵子の新鮮さについての話を引き出してあげよう。そうと思ったのだが、そのオブラートは明美の一言に一瞬で溶けて無くなった。

「妊娠、したの。」

「え…。今? ここで? いやいやいや、今・・・そこに?」

私は明美のお腹と顔を交互に凝視した。

「そう。ここに、いるらしい。二か月、だ、そうな…。」

明美の綺麗に塗られたルージュの爪先が、彼女の下腹を自信なさげに指した。私は火をつけたばかりの煙草を反射的に揉み消し、灰皿は遠くに退け急いで店員に片付けさせた。そしてひとつ、静かに深く息を吸い、吐いた。

「で、明美さん。お酒、飲んでるけど、大丈夫なの?」

「うん…、わからない。」

「わからない、なるほど。まぁいいわ。明美、おめでとう。と、言っていいのよね?」

「…うん…、多分…。ありがとう。」

妊娠を打ち明ける前までの明美の元気は、どうやら空元気だったようだ。先程とは打って変わって明美の表情も声も、迷える子羊とはこのことか、という状態を成していた。結婚するかどうかではない、明美は、産むかどうかを悩んでいるのかもしれない。だがそれは、本人も私も決して口にはできないこと。決めるのは本人でしかないし、私は既に子どもがいて、その苦労も、それには及ばない幸福も知った身なのだ。何の判決も助長してはいけない。

 肉が運ばれてきた。部位や焼き方について滑らかに説明する店員の声が聞こえてはくるが、一向にその内容は頭に入ってこない。私は努めてざっくばらんな態度を通す。

「とりあえず、食べようか! あ、まだ、普通に食べられる?」

「うん。ていうか、すごく、食べられる。食べてないと…、ってやつかも。」

「食べ悪阻、ね。じゃっ、食べよう! 美味しい物、食べなきゃ。」

「うん、食べる。めちゃくちゃ食べる!」

二人の空元気が生み出す空気圧が、私の胃袋のキャパを拡張していくのを感じた。トングは私が独占し、手間のかかることは自然と私が全て請け負っていた。私は明美のペースを気にしながら、次々と肉を焼いていく。いつもより、しっかり目に焼いた。

 相変わらずの大口で、口をもぐもぐさせながら明美が切り出した。

「彼ね、長男なの。」

「あら、珍しい。いつも次男かそれ以降の人しか選ばなかったのに。」

「ふふ、よく覚えてるわね。そう、万が一結婚、となったら、長男って色々面倒そうだから、あえて選んでこなかったのになぁ、まったく。」

「で、長男は長男でも、どんな長男なのよ。」

「そこなのよ。うーん、ずばり、長男?」

「と、いうと?」

「実家は茨城で、彼曰く、いずれは実家に戻る、とのこと。」

「ありゃぁ…。」

 実家を継ぐ、ではなく、「戻る」という言葉に私は少しひっかかったが、まあいい。今はいちいち寄り道している場合じゃない。一気に彼女の話を出し切ってもらおう。

「彼、雑誌の編集者よ? 今は。 なのに、いずれ実家に戻るなんて言うと思う!?」

「雑誌って、どんな?」

「それがめちゃくちゃ忙しいやつ。創芸文秋のデスク。」

「えぇ!? 忙しい、っていうか、すごいじゃない。なんでまたそんな優良物件。」

「と、思うじゃない? あっちも忙しいし、こっちも自由に飛び回ってたからさ、合ってたのよ。ペースも、仕事もね。」

「仕事ってことは、彼とは仕事で知り合ったの?」

「そう、なのかな。うん。最初は、私がやってた旅先の子どもたちを撮りためてアップしてたブログを見たとかで、彼から会社のアドレスでメールが来てね。それで写真と一緒にその地域の子どもの貧困をルポしよう、って企画を立ててくれて、それが今着々と、進んで…いるわけで。彼のペースよ、トントンとね。」

そう言いながら、明美は一瞬自分の下腹に目をやった。私は肝心なところを確認する必要があると感じて問うた。

「そうなの。それはそれですごいわね。本になったら買うわね。で、ところで、率直に聞くけど、彼とは正式に付き合って、る?」

「うん。それは確か。なんか変わった人で、打ち合わせの時に初めて顔を合わせてから、頻繁に仕事以外の普通の世間話みたいなメールが来るようになって。そのうち、「僕たちパートナーにならないか。男女としても。」なんて言うのよ。メールでね! それがちょっとムカついた。直接言えばいいのにね。」

「まあ、彼がこと恋愛関係には不器用なのか、もちろんお互い忙しいから、っていうのもあるからだろうけどね。」

「そうね。でも私、彼の本意を確認したくて、「じゃあとりあえずちゃんと会って仕事以外のことも話してみましょうよ。」って返事して。その翌週かな、彼と割烹で美味しいお料理食べて、そのままお店からすぐそばの彼の部屋に、ゴー。ですよ。ほんと、彼のペースなのよね、まったく。」

「ははぁ。そりゃまたスピーディーな。でもちょっと羨ましいわ、そんな風に彼のペースに乗せられちゃうのって。で、付き合ってどのくらい経つの?」

「うーん、まだ、半年。」

「半年、かぁ。期間は関係ないか。え、でも半年の付き合いの中で、いずれは実家に…、えぇと、戻る、みたいな話までしてたんだ?」

「そう。彼も、私が結婚に落ち着くような女じゃないって部分は分かっていたみたいで、結婚しても、彼は東京で私はこのまま満足ゆくまで自由に仕事する、週末婚みたいな形でもいいよね。って話もしてね。」

―なるほど週末婚か。明美らしい発想だ。

「でもさ、実家に戻る気なら、まずは子どもを欲しがっても可笑しくないんじゃないか、とも思えるんだけど。当面は自由でいいって、彼から言ってくれたのね?」

「うん。それがね、両親はもう亡くなってるのよ。ほら…あの、震災でね。お父様が岩手に単身赴任しているところに、お母様が月に一度行って掃除とかをしに行ってあげてたみたいで、それがたまたまあの日、だったんだって。で、今実家にいるのはおばあちゃんだけみたい。」

「それは。驚くというか…、大変な事態だったでしょうね。あぁ、ちょっと話が難しくなってきたわ。そ、それで?」

「私も混乱しちゃったのよ。私はあの日、ウクライナにいたから。あんまり情報も入ってこなかったのもあるし、彼からの依頼のメールが来て、ビザの都合もあって帰国してから色々知った、って感じでね。帰国してから彼からの話を聞いて、震えたわ。そもそも彼はメディアのど真ん中にいるような人だし伝え方もプロだから、私、日本が大変なことになっていた時にあっちで悠長に写真なんか撮ってたんだ…。とかって、自分を責めたりもしたわ。」

「そうだったのね。たしかに震災の後、生きているだけで幸せとか、生きているだけで罪悪感とか、誰もが生きている実感とか恐ろしさに混乱していたかもしれない。ご家族が被災したり、亡くなったり、そんなことが起きてしまったら。想像、できないわ。想像するのも、申し訳ないくらい、及ばない想いよね。」

「そう、ね。私ね、正直、撮りためた写真、世界中の素晴らしい景色、街並み、人々、全ての写真を焼いて捨ててしまおうかとも思った。でも、そんな想いも、彼は受け止めてくれたのよ。僕たちにできることは、贖罪じゃないんだ。って。生きることを続けることなんだ、って。ただ粛々と、自分の与えられた幸福を最後まで生きるんだって。」

「素晴らしい、彼じゃない。」

「そうよ。素晴らしいわ。それで、彼は考え方も大きく変わったらしくてね。あの日までは、都会でバリバリ稼いで、世の中に世の中のことを伝え広めて、その中心にいることが自分の自信とか生きる意味だ、って思っていたらしいんだけど。そうじゃなかった、って。大事なのは、世の中の誰もが一人じゃないことを広めることが、自分の、それからメディアの使命だ。って考えるようになったんだって。彼の中でそんな変化が起きていた時に、ネットで私の写真を見つけたらしくて。」

「見てるよ、私も明美のブログ。写真、どんな国の、どんな環境でも生きてる子どもたちの写真よね。無邪気に笑っている子とか、感情を無くしてしまったかのような目の、子どもも…。」

「ありがとう、見てくれていて、嬉しい。でもね、複雑。私みたいに好きな事を好きなように、気が向いた場所に行って、有難いことにそれなりの対価も受けながら生きていて、苦労するのはせいぜい女であることの危険とか、窃盗被害とか、そんなもん。それで、なんだかんだ日本に実家もあって、心配してくれる親がいて、こうしてなんでも話せる友達がいて。それなのに、こんなに恵まれた私が撮っているのは、私が持っているものを全て持ってない、それこそ何も持ってない、服も着てなかったりする子どもたちなのよ。なのに、子どもたちって撮られている時、とっても嬉しそうなの。このカメラ一台買うお金で自分の人生どれだけ救われるだろうなんて、そんなこと考えていたとしても微塵も感じさせず、ただ嬉しそうに、笑ってるのよ。まあ、何度か窃盗には遭ったけどね、そんなのいちいち気にする方が烏滸がましい場所ばかりだった。」

「そうなの。」

「でもね、焦点が合ってなかったり、霞が言うように、感情を無くしてしまったかのような瞳をした子どももいた。家族全員を目の前で虐殺されたり、強姦されたり、物だけじゃなくてね、心まで盗まれてしまって、やっと保護された子、とかね。その場に漂うのは、言葉足らずだけど、絶望よ。だけど、死ぬわけでもなく、ただ、生きているのよ。希望があるか、夢は何か、だなんて決して聞いてはいけないような環境で、彼らはただ生きているの。何歳かもわからないけど、小さな子どもたちがね。」

「うん、そんなの目の当たりにしても、素人の私からしたら、言葉が見つからないと思うわ。」

「同じく、よ。そうやって、色んな場所で色々な子どもたちと接するとね、人間って、弱いわよ? たまにものすごく家に帰りたくなるの。家っていうか、日本かな。所謂ホームシックってやつかな。情けないわよ。だけど不思議なことに、彼が言うの。私のブログを見て、「俺はひとりじゃないって思えた」って。」

「なんでそう思ったんだろうね、彼は。」

「多分、あの日、自分も突然に親を失ったからなのかな。もう子どもっていう年齢じゃないけど、私の写真に写る子どもたちを見ながら、子どもみたいに寂しくなったんだって。父さんと母さんに会いたい、って。すごく思ったんだって。そしたら何故か、自分は一人じゃなかったんだ。帰るところがあったから、頑張れていたんだ。そう思えるようになってた、って。そんなこともあって、茨城で一人暮らししているおばあちゃんのところ。つまりご両親と一緒に自分が育った家に、いつか戻ろう。そう決めたんじゃないかな。」

「なるほどね。半年とはいえ、明美、彼のことすごく分かろうとしてる。すごいと思う。彼のこと、もう愛しているのね。」

―そうか、だから実家を継ぐのではなく「戻る」なのか。

「あはは、なんか、そう言われると照れちゃうな。確かに最初はね、今まで通り私なりの自由を尊重された上で、彼とパートナーになれるのなら、結婚もいいかな。そう、思ってた…。」

明美はそう言って、忙しくしていた口の動きを止めた。少しの沈黙が流れ、私は我慢ができず彼女の心中を代弁することにした。

「が、しかしだ。子どもが生まれるとなれば話が違う。これまでの自由は今後、期限を定めず諦めなければならないだろう、って考えが浮かんだんじゃない? でも、子どもを諦めるということは、彼との関係も終わらせる必要があると、明美は考えてる。つまり、これまでの自由をとるか、新しい人生を始めるか、その二択で揺れているし、子どもを産んで育てていくっていう今まで現実的には考えたことのなかった事態にいざ向き合い、恐れをなしてる。のかもしれない。もしかして、いずれ彼と一緒に実家に戻るかどうか、それは今の明美の中では二の次なんじゃない? 今、お腹にいる子に自分が誠実でいるにはどうすればいいのか、分からなくなっている…んじゃ、ないのかな?」

「お見事、図星。さすが霞、鳥肌立っちゃった。」

 明美がどこか照れ臭そうに愛嬌のある笑顔を作って言った。

「怖い、んじゃないかな。得体のしれない変化が。」

 私はそう、念を押した。

「うん…、怖い。正直、私今までで一番ビビってる。お腹に子どもがいるっていうのに、怖がってるなんて…、本当、私ってダメよね。散々これまで世界中の子どもたちの写真を撮ってきて、その度に感情を突き動かされてきたというのに。自分の子どもが…って考えると、ダメ。怖い。無責任よね、私。」

 明美は本音らしい本音を、まるで少女のような瞳を曇らせながらそう言った。そんな明美を前にして、私はかつての私を救ってくれた幸恵を思い浮かべながら答えた。

「うーん。違うな、その逆よ。」

「え?」

「無責任なんかじゃない。明美、あなた、子どもを産むか産まないかを悩むこと自体に罪悪感があるんでしょ? しかも、悩んでいる理由が自分の人生と天秤にかけているように思っているから。」

「そう、そうよ。だって、物理的な条件で言えば、彼もちゃんと働いてるし、産んで育てられる条件は整ってるのよ? それなのに、私は悩んでる。最低よ。」

「ある一般論、ではね。でも、私は明美を立派だと思う。」

「なんでよ?」

明美は意外そうに大きな瞳をさらに大きく見開いて聞いた。

「産むかどうか悩む、ってことは、産むってことも真剣に考えているからでしょう? 産んだらどうなるか、その想像の中には、子どもをちゃんと育てられるのか、ものすごくシビアに捉えているはずよ。そうでなければ、答えはもっとシンプルに出ているはず。生まれる前からそれだけ真剣に考えてもらえて、お腹の子、とっくに…愛されてると思うわ。」

 まだ決断を表明していない明美に対して、私は少々核心を突きすぎたかもしれないと僅かに後悔したが、それは杞憂だった。

「…ありがとう。」

明美は泣きそうになると、どこか遠く宙を見つめる癖がある。私は思った。彼女は恐らく既に心の中で答えを出しているのだ。産む、という答えを。

「子どもを産んだら、私の今までって、どうなっちゃうのかな。」

宙を見ながら明美がぼやいた。私は答える。

「こんな言い方無責任かもしれないけど、今までの明美を、その子はもっと自由にしてくれると思うよ。」

未来のことなど分かるわけがない、だけどこれだけは自信をもって言えると思った。

「どういうこと?」

「そりゃあね、乳飲み子連れて世界中を旅したり、劣悪な環境を取材したりは、とてもできないと思う。子育てしてきた経験から言えばはっきり言って、子どもを産んだら最後、自分の好きなタイミングでトイレすら行けないし眠れないような日々が続いていくの。でも、自由って、何? 明美の自由って、何? 自分の判断とタイミングで動き回って、活動すること、だけ? もしかしたら、その子は、明美がまだ知らない新しい自由を教えてくれるために、明美にとってのまさかのタイミングで宿ってくれたのかもしれないわ。それこそすごく自由なことじゃない? それに、率直に言って子どもを産むにはリミットがあるわ。人によって違うけど、やっぱりリミットはある。これは散々明美自身も話していたわよね。それに付け加えると、子どもが与えてくれる自由を得られるにも、リミットがある、ってことよ。今回はそのチャンスをもらった、と思ってみたら、少しは楽になるかも。」

「分かってるのね、霞は。私が産もうと思ってる、ってこと。」

「多分、そうじゃなかったら、明美だってこの話、しなかったんじゃないかな。それに、女は産まないと決めたら、絶対に誰にもその渦中の想いなんか、話さないものよ。明美、悩んでいいのよ。怖がってもいい、子どもが生まれた後の綺麗な結果なんか今は求めなくていい。綺麗事じゃないもの、産むってさ。私は許すよ、産まないことを一瞬でも考えたことを許す。同じ女として許す。ふふ、なんか、偉そうね、私。ごめん。」

「ありがとう…。ありがとう、霞。私、彼に話す。子どもができたこと。…話さなくちゃ。」

「そうね。ていうか、やっぱりまだ話してなかったのね!」

「うん、だって、自分の気持ちがふらふらしていたら…言えないわ。」

「じゃあ、彼がなんて言うか、もう一山あるわね。」

「えぇ、怖いこと言わないでぇ~~。」

「いやぁ、でもその彼、大丈夫よ。きっと大丈夫。」

「そうかな。いざとなると、喜んでくれなかったらどうしようとかって考えると、気が重いなぁ。いやだいやだ、あーぁ。」

「あはは、まぁ、ドラマのように、「やった~!」とまでの反応は期待しない方が良いかもしれないけどね。多分まずはびっくりするかもね。ま、とにかく、お腹の子は、決してひとりじゃないわ。明美もね。明美が見つめてきた子どもたちみたいに、ひとりぼっちじゃない。」

「うん…。孤独を撮り続けていると、自分まで孤独にならなきゃいけないような気持ちになってしまうこと、あるんだよね。でも、そうじゃ、ないんだよね。」

「孤独も、不幸も、幸福も、人と比べちゃだめよ。意味が無いもの。明美がどんなに不幸になっても、写真の子どもたちは幸福にならないでしょ。かといって、明美が幸福になって、子どもたちが救われるかは、分からない。でもその子どもたちの笑顔とか、悲しい瞳の写真が、明美と彼をつなぎ合わせて、子どもができた。それは、享受すべき幸福だと思うわ。なんとなく、そう思う。」

 明美はやはりどこか遠くの宙を見ながら、穏やかに微笑んでいた。

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