逃走、そして帰宅。
僕の視界に映ったのはゴブリンに襲われて人としての尊厳を奪われようとしている女の子だった。目があってしまったこともあり、僕は思わず硬直する。
彼女の服は破られ、はだけているが、なんとか制服だということは分かる。そして、そんな彼女にゴブリンの薄汚いソレが突き立てられようとしているのも分かる。
「……最悪な種族だね、本当に」
言いながら、僕は道路を挟んだところにある向かい側のマンションに全力で走った。
「に、逃げッ、逃げてッ!」
交通法が機能しなくなった道路を走り抜け、数秒でそこに辿り着いた。そして、僕は必死に叫ぶ女を無視し、その女に跨ろうとするゴブリンの顔面に包丁を突き立てた。
「グギャッ!?」
「はい、ワンヒット。そして……」
僕は混乱するゴブリンの首筋を包丁で掻っ切りながら後ろに回る。
「グギャァアアッ!?」
「ツーヒット。からの……」
首元を抑えるゴブリンの背中に、グサリと包丁を突き刺す。人と同じなら心臓がある位置だ。
「グッ、グギャ……」
「バックスタブってね」
バタリと倒れたゴブリンだったが、僕は念には念を入れて何度か包丁を突き刺しておいた。感触は心地良いものとはとても言えないが、最初ほどの気持ち悪さはない。
「ふぅ……一回殺ったらやっぱり慣れるね」
僕は少しだけ上機嫌になったが、血塗れになった包丁を見てため息を吐いた。
「……ぁ、その……ありっ、ありがとうございますっ!」
「ん? あぁ、うん。良いよ。ていうか、ここもうやばいから僕は家に戻るけど、君も来る?」
僕が問いかけると、彼女は悩んだように俯いた。よく見ると、破れた服の間からは無数の痣や傷があった。
「で、も……まだ襲われてる、人が」
縋るように僕を見上げる可愛らしい少女の言葉を、僕は敢えて無視した。
「早く決めて欲しいんだけど」
周りには沢山のゴブリン。もう、いつ襲いかかられてもおかしくない。
「……分かり、ました」
言いながらも動く気が無さそうな彼女を見て、僕はその手を引っ掴んで向かい側にある僕の住むマンションまで強制的に引っ張った。
♢
外と比べれば何倍も安全な部屋の中、僕と女子高生は対面して座っていた。ただし、今の彼女はダボダボのパーカーと毛布に覆われている。彼女の制服が扇情的な服装になってしまっているからだ。
「はい、水」
「あ、あの……さっきは、ありがとうございましたっ!」
そう言うと、女子高生はカップの水をゴクゴクと飲んだ。緊張で喉が乾いたのだろう。それに、先に傷の応急処置を済ませていたというのもある。
「ぷはっ……水もありがとうございます」
「いや、気にしなくて良いよ。それに、同じ高校のよしみだからね」
僕が言うと、女子高生はビクッと固まった。
「……お、同じ高校ですか?」
「え、うん。その制服、鳴崎高校でしょ? 僕もそこなんだよね」
鳴崎高校、偏差値は中の上程度だが、とにかく距離が近いので僕はここを選んだ。
「うわぁ、そうなんですか……すみません、大人だと思ってました」
「……うそ、僕の顔ってそんなに老けてる?」
「いやいや、老けてはないですけど、すごく大人びてたので」
「大人びてた……自分ではあんまり分からないけど、褒め言葉として受け取っておくよ」
僕はミルクティーをゴクリと飲みつつ、なにか話題でも出そうかと思案を巡らせた。
「……言い訳、しとこうか」
「言い訳、ですか?」
言葉の意味が分からなかったのか、少女は訝しむように僕を見た。
「うん、言い訳だ。僕が、誰も助けずにあそこから逃げ出した言い訳」
「ッ!」
まるで急所を突かれたように少女は震えた。
「多分、君は勘違いをしてるんだと思う」
「……勘違い?」
二度目のおうむ返しに僕は苦笑した。
「そう、勘違い。さっき君は僕のことを大人びてるって言ってたよね。あれも、そうだ。多分、君は僕が強くて立派で頼れる人間だと、無意識に思い込んでるんじゃないかな」
多分、この子の言う大人びてるは、あの怪物に意気揚々と襲いかかり、何でもないように独り言を呟いていた僕を見て、余裕を感じたというだけだろう。
「訂正しておく。先ず、僕は強くない。身体能力は並だし、身長も並……どころか、ちょっと低い。怪物を狩ったのもあれで二回目だ。当然、特殊な能力を持ってる訳でも無い」
「で、でもっ、あんなに簡単にゴブリンを殺してたじゃないですかっ!」
再び正義心に火がついたのか、彼女は机をバンッと叩いた。台パンだ。
「そうだね。僕は
「……どういう意味ですか」
もはや睨みつけるようなその目に、僕は思わず苦笑を漏らした。
「単純な話だよ。あの時のゴブリンは、君に夢中になっていて周りが見えていなかった。だから、僕でも不意を突けた。最初も殆ど同じだよ。僕なんてただの餌だと油断してたから不意を突かれた」
少女が、息を呑む。僕の言葉の続きを黙って待っている。
「……まぁ、結局何が言いたいかって言うと、あのプロテインの化身みたいな怪物に正面から挑んだって勝ち目は無いってことだよ。特に、あそこはゴブリンが沢山居たからね。一対一ならまだしも、二対一ならもう敗北必至だよ」
怪物に人間は勝てない。結局、それに尽きる。そもそも、規格が違うんだ。
「……納得は、出来ました。助けてもらったのに、あの場では、我儘を言ってすみませんでした」
「いや、別に気にしては無いよ。ただ、僕なら彼らを助けられたんじゃないか……その疑問を、後顧の憂いを断っておきたかっただけだよ」
少女は黙って頷いた。しかし、それ以上の会話は発生しない。すると当然、場を支配したのは静寂だった。気不味くなった空気を仕切り直す為に、僕は新たな話題を出そうと脳を回転させる。
そして、会話の初歩の初歩、チュートリアルとも言えるようなものを思い出した。
「……そうだ、まだお互いに名前も知らないんだよね」
水の入ったカップを口に当てながら少女は頷く。
「ふぅ……
「へぇ、八磨さん。そういえば友達が君の噂をしてたのを聞いたことがあるよ。それに、剣術に琴……どっちもなかなか聞かない特技だね」
僕はちょっとした驚きを堪えつつ、自己紹介を返すことにした。
「僕は
剣術と琴には劣るなぁ、と思いつつも僕はそう告げた、
「白羽さん、新峻さん、どっちが良いですか?」
「白羽で」
苗字と名前の二択に、僕は即答した。
「そういえば、ちょっと自慢しても良い?」
0秒で帰ってきた返答に面食らっていた少女……八磨が、僕の質問で再起動する。
「え、あぁ、別に良いですけど」
意図を図りかねた八磨が首を傾げた。それを見て、僕は立ち上がり、念の為に全て閉めていたカーテンを開けた。
「うんうん……ここに来た時点で薄々察してたと思うんだけど、うちって高校から近いから、徒歩五分で通学できちゃうんだよね。ほら、この窓から見えるでしょ?」
僕の言葉に、八磨は仕方なくといった様子で立ち上がった。
「……見えませんけど」
「え? いやいや、絶対見えるよ。ほら、あそこ、に……」
無い。
「……うそ」
有るはずのそれは、完全に失われている。
「……もしかして、ダンジョン?」
僕らの学び舎は、大穴の底、奈落の彼方へと消え去っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます