4-10:海洋の未来
神聖ロマニア王国、第二王子アーベルはやっとの思いでリューネの別邸に帰り着いた。
全身がどうっと疲れている。僧侶風のローブがいやに重い。
クリスティナ達が大騒ぎの大脱走をしたせいで、王子らがこっそり抜け出すのも不可能になった。ブルーノ達から裏切りを問い詰められ、再考を請われている間に時間が過ぎ、すでに陽は傾いている。
無理もない、と王子は思う。
商人連合会にとっては死活問題だ。
ブルーノらは王家への貸付回収や、王妃との取引打ちきりをほのめかしたが、王子もまた1年前と同じではない。
クリスティナを追放した時は、第二王子はまだ王太子候補だった。
第一王子が泉下となった今は、正式な『王太子』である。
すり寄ってくる貴族は増えたし、一方で、商人連合会は衰微を続けていた。もっとも、いくら大商会が斜陽とはいえ、今日のリューネを見なければ、袂を分かつことはなかっただろうが。
「……商人連合会は、終わりだな」
僧侶風のローブを脱いで侍従に渡し、つぶやく。
ブルーノは責めたものだ。
『王家は商人連合会に味方するはず。それがなぜ、令嬢の逃亡を手引きしたのか』――だが、もともと非合法なやり方で商人をさらっていたのは、彼らなのだ。助けたからといって、それが問題になるはずもない。
王家の方針は、もともと連合会が弱まることを見込んだ『様子見』との意味合いが強い。
協力ではなく、様子見による消極的な賛成なのだ。
大方針の範疇であるから、アーベル王子が態度を変えても、王家の全体方針とは矛盾しない。
唯一、頭が痛いのは、母である王妃だった。高価な毛皮や香水などを好む、商人連合会のお得意様である。彼らが取引を打ち切るとなると、この人物が荒れかねない。
王妃についている高位貴族も多く、無視できない影響があった。
父王と二人なら、なんとか、なだめられるかもしれないが……。
「殿下」
側近の老爺が、うやうやく一礼してくる。
「どうした」
「早馬で、王宮からお手紙が」
「母上から……?」
つらつらと続く、王族らしい学識と季節の挨拶。その続きはこうだった。
――『北方商圏』とやらの成立について、私はとかく言わないようにします。
――『株式会社』を認めるかどうかも、あなたの好きにするといいでしょう。
自分から、王宮に頼もうと思っていたことだ。それが、逆に向こうから同じ内容の手紙がくるとは、タイミングとして少し早すぎる。
側近の老爺は、顛末を告げた。
「わたくしめのところにも、大臣から事情を告げる手紙が届いておりまする。どうも、王妃様のところに、古い古い債権者からお手紙が届いたようでありまして。手紙の内容は、その債権者が取引をもちかけた結果かと」
「取引と申したか?」
「はい。王妃様が条件を飲めば、借金を棒引き――つまり『債権放棄』に応じるというお手紙だったそうです」
手紙を読み進めていく。
確かに王妃のところへ、商人から手紙が届いたらしい。
商人の願いを助けると思って聞いてやることにした――などと書かれているが、実際は返済免除が魅力的だったのだろう。
続く内容は、やはり老爺のいうとおりだ。王妃への貸付金を放棄する代わりに、ある条件をのんでもらいたいという。
その条件こそ、『北方商圏を妨害しない』、そして『株式会社という制度を認める』ということだった。
この取引を仕掛けた商人の名前に、王子は眉をひそめた。どこか、見覚えがある。
側近の老爺に手紙を返した。
「拝見します」
やがて、老爺は眉を上げる。
「ミリア・ダンヴァース……」
「爺、知っている商人かな」
「ずいぶん、古い名です。商人連合会を経由して、王妃様に手紙が届くよううまく取り計らったようですな」
側近は懐かしむように目元を揉んだ。
「西方で、株式会社がからむ大商いをしかけたと聞いています。多くの弟子がいて……ほう」
目が大きく見開かれる。
「貸付総額は、およそ9億ギルダー……?」
大型帆船で船団が組める金額である。
この大金であるがために、王宮は急いで文を送ってきたに違いない。
商人連合会につかないことで、王妃の借金が差し引かれるという利があると、伝えるために。アーベル自身、王妃の動向を気にしていたので、これは重要な情報だった。
王子は別の書面にも目を通す。
「大臣たちの申し送りもついている。……なるほど? ダンヴァース1人の貸し付けではなく、彼女の共同経営者や、弟子らがやっていた王族への貸し付けが、この商人に引き継がれる仕組みだったようだな」
王族への貸し付けは、王侯金融と呼ばれる。
事業のように投資をして利益を得るというよりは、王族との関係を深くして、さまざまな便宜や特権をはかってもらうための貸し付けだった。
商人連合会の大商人達が、王国で好きなようにできたのも、この王侯金融のおかげである。
そしてかつての大商人――このダンヴァースとやらも、全盛期には似たようなことをやっていたらしい。
単独でこれだけの額を貸し付けたというよりは、弟子らが商売を畳む時に、王侯金融の債権をダンヴァ―スに引き渡していったのだろう。
王侯金融は相手が王族だけあって、返済を求めるのは一苦労。踏み倒されやすい貸し付けでもあり、廃業する際に、師匠が積極的に引き受けていたというのが実体だろうか。何らかの目的のために。
王子は眉をひそめた。
「しかし、数億ギルダーの貸し付けをしている者なら、ざらにいる。大商会など、合わせればこの数百倍は貸していよう」
なのに、王妃の慌てぶり。
要求を全部飲んだのも、奇妙だ。
大臣がこの手紙を知っているなら、王宮にいる大商会の手先も当然に中身を知ったはず。
王妃は商人連合会側の人間から、『この申し出を受けなさるな』といわれたはずなのだが……。
側近は呟き、にんまりする。
「……なるほど」
感心したように、続ける。
「債権が放棄されることによって、帳簿上、負債が減ります。今ある現金は、別の返済に回せる。また、負債比率も下がりまして、これは新たにお金を借りる時に重要な指標で――要は大臣にとって資金繰りがやりやすくなる」
メリットを感じたのは王妃本人ではなく、その支出を管理する大臣らか。
そして、と老爺は重ねる。
「これほどの貸し付けであれば、担保もついていたでしょう。そして債権放棄がなされれば、その担保を自由に処分できる。見てください?」
側近が小机の上に、王都近郊の地図を持ってきた。
長年の浪費で、あちこちの土地が担保に入っている。しかも、この山はあの商人、川沿いは別の商人、粉ひき所はまた別の人――そういったように、まだら模様の有様だ。
こうなると、その土地はもう扱い辛い。
売るには大勢の同意が必要で、かといって小分けに売っても誰も金貨を払わない。
しかしダンヴァースが手放した債権は、合わせると、きれいに豊かな荘園が4つほど担保から自由になる形だった。
「……王家も浪費をやめ、財政をなんとか再建させようというところ。このような申し出があれば、大臣らは王妃様をなんとしても説得するでしょうな」
目に浮かぶようだった。
――これで、商人連合会への負債の返済が、始められます!
――王妃様、お願いです!
――この手紙の条件を飲みましょう!
――商人連合会との関係は細りましょうが、ぜいたくなどほんの少しばかり、我慢くださいませ!
苦笑する王子。
側近はぽんと手を打った。
「思い出しました。ミリア・ダンヴァースは――商いをやめた後、故郷の孤島に戻って領主となっていたはず。流刑島、つまり楽園島ですよ」
第二王子アーベルの中で、二つの線が繋がった。
見覚えがあるはずだ。
ダンヴァースとは、1年前に流刑の手紙を書いた相手その人ではないか。
クリスティナが島の事業を守るべく奮闘している間、領主もかつての大商人らしい手を売ったのだろう。
商人連合会もやっているような、『王侯金融』という形で。
「……これも、クリスティナが考えたのだろうか?」
「おそらく、違うかと。総会の間に立案したとすれば、王宮に手紙が届くのが早すぎます。領主ダンヴァースは前もってこのような手段を考えておいたのでしょう」
何手も先を読んで、ひっそりと手を打っておく。手腕に、王子はうすら寒いものを感じた。
とはいえ、ほっと息をついてしまう。
商人連合会に懐柔されそうな王妃に、早々に楔が打たれた。財政を立て直したい大臣らは、王妃に約束を守らせよう。
「これで王族は、憂いなく北方商圏に乗れる。まるで魔法だな」
「ダンヴァースは、かつて魔女とも言われたとか」
「魔女?」
第二王子は思い出す。
今日、市場では、大勢が北方商圏という夢を見た。ただそれは、今の段階では……
「幻か……」
令嬢は、現状をそう呼んだ。
――今の熱狂は、みんなが幻をみた結果に過ぎません。
期待を実体に変えられるかどうか。ただ、その幻がなければ、そもそも人はまとまらない。同じ方向を目指せない。
クリスティナは、『海図』や『株式会社』を使って、大勢に幻を見せたのだ。
大商人は魔法を使う。
王侯金融は、ダンヴァースの魔法。
そしてリューネで行われた高騰劇と逆転劇は、やはりクリスティナの魔法であったのだ。
「期待で、幻を見せる……だから、商人は魔女か」
かなわないな、と苦笑して。
やがて、第二王子は『海の株式会社』に出資をする旨、正式な書類にサインをする。
大洋の運命は決まった。
―――――――――――――――
キーワード解説
〔王侯金融〕
大商人の取引内容は宝石や香料などの奢侈品が多く、一人の商人が扱う金額も大きくなる。
そのため日常的な取引から高額の貸付に発展、関係がさらに深くなることがみられた。
成功している時は権力者から便宜や特権を引き出す手段となるが、
王族側から一方的に踏み倒されたり、王家の財政難と運命を共にすることも。
歴史上、メディチ家などの大商人も最後はこれに苦しみ、
日本でも『大名貸し』という似たような業態があった。
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