4-8:それは期待か実体か
【お詫び】
先日、誤って先の話数『4-10』を投稿してしまいました(すでに非公開対応済み)。
昨日の更新分は、前話『4-7:証券取引所』でありますので、
そちらをまだお読みになっていない方は先に『4-7』から見ていただければ幸いです。
分かりにくくしてしまい、重ね重ね申し訳ありません。
―――――――――――――――
「この騒ぎはなんだ!」
ブルーノは絶叫して、私と王子殿下の前に紙を突き出した。エンリケさんに印刷をしてもらった、『海図』だ。
リューネのような都市では製紙や印刷が始まっており、私も以前、ハルさんのレシピを印刷して樽につけようとしたことがある。都市部の技術が、こんな形で役立つとは思わなかったけれどね。
私は肩をすくめてみせる。
「海図ですわ。北方商圏でありうる航路や、その時に運ぶ産物、輸出先、そうしたものを書いています」
「……独占すれば、数億ギルダーを何年も稼げる情報だ」
信じられない――ブルーノの目はそう言っていた。
私は口の端を上げてやる。
「確かに。有望な航路を伏せて、私達が先に手を付ければ、利益はかなりのものになるでしょう。ただし、今は……全市にばらまいていますけれど」
「ば、ばらまいた……? 本当に、やったのか?」
「ええ。これで北方商圏を作る動きは、さらに早くなる」
ブルーノは顎を落としていた。
商人連合会は、ノウハウをばらまいたことが信じられないのかもしれない。
「別に、不思議ではありません。海域全体が豊かにならなければ、北方商圏は成立しない。その可能性をあげるためならば」
第二王子殿下が椅子を蹴って立ち上がった。
「商人連合会、地下に来るなと言ったはずだ。そして――クリスティナ。君は、一体、何をやったんだ? 何がリューネで起こっている?」
空気取りの窓から聞こえる喧騒は、なおも治まっていない。
商人達の街だから、熱狂はしばらく続くだろう。なんといっても、儲け話である。
私は座ったまま、2人を見上げた。指を2つ立てる。
「私がやったことは、大きく分けて2つ。1つは、北方商圏の海図をリューネの商人達にばらまいたこと」
第二王子殿下が、ブルーノの手から海図を取り上げた。やがて、唸る。
「……有望な航路に、手に入る産物、関税や原材料ルートの情報まであるな。これ一枚で、向こう2年の航海計画が立つ。当然、利益も」
さすが、アーベル第二王子は商人達の仕事に明るい。すぐに海図の価値を理解したようだ。
「北方商圏には、確かによい産物がある。そしてこの海図は、儲け方の手引きか」
「ええ。どの街の商人と交渉すれば、何が手に入るか。そして手に入ったものの売り方。すべて、ここには記載されています」
この海図が密かに出回ってから、商談の数も深さも、段違いだったように思う。雲を掴むようだった商圏の実体が、ギルダー硬貨の枚数や船便の日数で、具体的に語れるようになる。
正直なところ、産物という魅力がすでにあるのだから、海図の時点で『北方商圏はできた』と言ってもいいくらい。もう大口の契約をまとめた人もいるのではないだろうか。
「……もう一つは?」
怒りをそのまま吐き出したような声音で、ブルーノは問うた。
「『取引所』ですわ」
笑みを浮かべたまま、私は言葉を重ねる。
「今、取引所では『株式会社』の株券が売られています。社名は『海洋の翼株式会社』。フィレス王国の商人らも出資する、北方商圏での交易・販売を事業とする会社です。殿下、株式会社についてご存じですか?」
「……もとは西方の仕組みだそうだな」
「ええ。株式会社は出資を受けると、見合った株式を発行します。出資の記録のようなものですね。そして株式は、西方では取引所で売買されている。値がつくのです」
目がきらりとしたと思う。
王子は繰り返した。
「……値がつく?」
「はい。1万ギルダーの出資に発行された株式に、その倍、2万ギルダーの値がつくこともあるでしょう。なので売買する時は、公証人や銀行家をきちんと間に挟むそうですが」
もちろん、売買後は株式の持ち主は変わる。
株式に紐づいていた『配当』や、『情報提供を受ける権利』は、買った人のものになる。
要は、これらの権利を見込んで、出資額よりも高く株式を買う人がいるわけだ。
「取引所で商われていた株式が、値上がりをしたのだと思います。それも、暴騰といえるほどに。これは大勢の商人が『海洋の翼株式会社』の価値に期待している――つまり、北方商圏への期待そのものです」
また新しい伝令役がやってきたのか、空気取りの穴から、からん、からんと鐘の音がする。
階段を商会員も駆け下りてきた。
「ブルーノ様! 取引所で、北方商圏関係の会社が、株式の販売を……! 値段が、開始値から2.2倍をつけたようで」
「黙りなさいっ!」
ブルーノが鞭のような声を飛ばす。
王子は腕を組み、椅子に座り直した。
「……クリスティナの言うことは、事実のようだな」
ぎり、とブルーノが歯を食いしばる。
私は息を整えた。
「海図による商圏への後押し。そして、株式の暴騰によって見えた、商人達の期待。私は、あなた達に問いたい」
ぱちん、と算盤の音が弾ける。
「これほどの期待を見せつけられて、本当に北方商圏を潰しますか? 潰せると、思いますか?」
殿下ははっと息をのむ。
「今の熱狂は、みんなが幻をみた結果に過ぎません。北方商圏という大商いが立ち上がるかも――そんな期待があるだけ。まだギルダー硬貨が動いたわけではない」
ブルーノが大笑した。地下室に、不気味なほど声が響く。
「そうだ! まだ、北方商圏はできたわけではない! 我々、商人連合会が」
「逆に言えば。街をこれほどまでに盛り上げる期待を実現させ、『実体』に変えること。それが商人や王族の、本来の役目なのではないでしょうか?」
ブルーノが刃を突きつけられたように黙る。王子は深く顎を沈めたまま、じっと私を見ていた。
「――それが、君が私に問いたかったことか」
「ええ。殿下、よくお考え下さい。私はあなたに、北方商圏ができる可能性を見せました。後は王国の、為政者の判断が必要ですわ」
私と王子殿下は見つめ合う。
おそらく生まれてから、これほど静寂を長く感じたことはなかった。
王子は銀の目を細め、問いかけるように微かに首を傾げる。
――これで終わりなのか、と。
実のところ、まだ交渉の手札はある。むしろ、それが本命だ。
けれどもブルーノがいる場では、できれば明かしたくはない。
私が少し頬を緩めると、殿下はそれだけで全てを察したようだった。緩く手を挙げる。
「ブルーノ、さがってくれ」
王子の護衛が部屋に入ってくる。
ブルーノは意外に抵抗をしなかった。あるいはこれだけの材料を示されながら、王子が快諾しなかったことで、自信を深めたのかもしれない。
「……いいでしょう。せいぜい実りある交渉となりますように」
護衛に連れられて、ブルーノが地下室を去る。
私は息を一つついてから、殿下へ告げた。
「北方商圏が成立すれば、これほどの大規模な商いができあがる。それも、王国のすぐ北に。商人連合会は力を弱めるでしょうが、神聖ロマニア王国には、商圏と共栄して栄える道もあるでしょう」
もともとあった商人連合会の交易ルートと、新商圏はかなりの部分が重なる。王国の北沿岸は――楽園島を含めて――まさに商圏の一部だ。
リューネの陸路が低調になっても、北方商圏を通る船が沿岸にお金を落とせば、利にはなる。北に領地を持つ貴族は喜ぶだろう。
また、商人連合会がかつて通ったルートを使って、中小商人が輸出をする目もあった。この場合、中継地としてシェリウッドが有望になる。
「殿下。もし殿下から北方商圏の成立に協力をいただければ、リューネ近郊だけで数千といる中小商人、それに産物を口にする民は感謝をするのでは?」
殿下の瞳が揺れた。
……私がいなくなってから、いえ、大商会が商いを牛耳っていたずっと以前から、王国の景気は悪くなっている。私の故郷だった北の領地も、そんな貴族や領民ばかりだった。
「……つまり、民からの支持か」
この人はいずれ王になる。
商人連合会に消極的な支持をするより、新しい商圏に協力して今苦しい層を助ける方が、民からの人気は得られるだろう。現状維持とは、大商会以外にとっては今の延長――あるいはもっと悪いことなのだから。
アーベル殿下は苦笑した。
「君もそういうことを考えるのだな」
「……島の事業で、ちょっと思うところがありまして」
「今の私の評判を知っているか? 『かつての賢さを忘れてしまった』、だ。確かに商いでの評判は……欲しいな」
逆に言えば、周りの状況をしっかり考えていなかったから、私は追放されてしまったのだ。
王を目指す殿下に欲しいのは、まずは人望だろう。
「だが、大商会が弱まって、本当に王国の商いが立ちゆくだろうか?」
そして、それが率直な不安なのだろう。
私は笑みを浮かべた唇の前に、指を一つ立てた。
「一つ、いいことがありますわ」
「なに?」
「そのために、私はリューネで『株式会社』を見せたのです。今、王国の商人は、西方の制度『株式会社』を知りました。それは大勢の出資を、一つの会社にまとめるための仕組みです」
私は言葉を継ぐ。伏せた札をめくるように。
「大商会に対して、中小商人は規模が不足。特に船を用立てて交易する時には。ですが――今日、取引所を騒がせたことで、多くの商人が同じ手を使うようになるかもしれない。まして、王族が『株式会社』という仕組みを王国内で認めたとすれば」
殿下ははっと目を開ける。
口に手を当てて、必死に考えているようだった。
「……私に、『株式会社』という仕組みを正式に認めろと?」
「もっといろいろありますけどね。北方商圏を海軍で妨害するようなことも、やめていただきたいです。もう一つ、大商会のこれ以上の横暴から、中小商人を保護すること」
これらの要素は、全て一つの目的のためだ。
私は、殿下を信じて待つ。婚約者であった頃、この人が見せた聡明さに賭ける。
やがて王子は、獲物に辿り着いた。
「……中小の商人を保護し、規模が大きな商いができるようにし、ゆくゆくは北方商圏で商いをさせる、か」
リューネは多くの商品に、輸入関税をかける。結果、王国から輸出される産物に、売り先から関税がかけられるかもしれない。
それでも売れるほどよい品もあるかもしれないけれど、各関税が低くなるよう、働きかけてくれる人が必要なのだ。
もちろん中小商人が力をつけるまで、彼らの立場を守るという意味もある。
正解だ。
私はほっと息をつく。
「殿下、こちらは時間がかかります。しかし数年、遅くとも5年もすれば、しっかりとした『実績』となるでしょう」
殿下はじっと考え込んでいた。
『北方商圏』の成立に助力。
『株式会社』の制度を導入。
多くの人は、そんな王が誕生したらどう思うだろうか。賢王とさえ期待するかもしれない。
「――クリスティナ、君を追放したことは……本当に、すまなく――いや、惜しく思う」
殿下は俯いて、こらえるように口を結ぶ。
やがて顔を上げた。
「つまり、君は王子である私に『手柄』を売っているわけだ。それで? 私は、どういった対価でそれを買えばいい」
「先ほど申したことです。北方商圏を、王族として妨害しないこと。とりわけ重要なのは、海軍で海域を封鎖して商圏を潰してしまうという噂があるのですが――これを明確に否定してほしいのです」
アーベル殿下は腕を組んだ後、少し間をおいて首肯した。
「わかった。商人連合会に明確に反旗を翻すには、少し王家の中で意見集約が必要だ。しかし『海軍を動かさない』のであれば、予算不足、時間不足、色々な手で先延ばしにすればいい。そうした噂――いや、はっきりと告知をだそう」
「殿下の一存で動かせること、ということでしょうか」
「うん。もともと、王家は連合会のために海軍を動かすことを、是とも非とも言っていない。曖昧な返答を、大商会は都合がいいように吹聴していたのさ。それを訂正するだけだ」
肩から重たい荷が下りた気がした。
海軍によって商圏がなくなってしまうという最悪の展開は、とりあえず免れそう。要請を先へ先へ引き伸ばして立ち消えにしてしまうのも、いかにも宮廷のやり方らしい。
王子は眉をひそめた。
「しかし、『株式会社』を認めるというのは、どうやればいい? 王家の意見集約も必要だが、まず私が学ぶ必要もあろう。時間もかけない方がいい」
「楽園島にいい先生がいますよ。元、流刑地ですけれど」
「冗談がきつい」
「……冗談じゃないのですけどね」
首をすくめて、私は手を振った。
「『株式会社』を認めていただく方法については、私から提案があります」
「ほう?」
「出資を。アーベル第二王子殿下」
差し出した手のひらに、王子はぽかんとした。
「すまない。今、なんと?」
「私は『海の株式会社』の社長をしています。そこに出資をなされば――」
「……王子が、株式会社を追認したことになるのか」
アーベル殿下は身をのけぞらせて、口に手を当てる。
「すると、どうなる? 具体的には?」
「出資は30万ギルダーほどで。当社の第3位の株主です」
「……や、安いな?」
「お手頃でしょう」
私の言葉に、くつくつと苦笑する殿下。
「……確かに。もはや、この商談そのものが数百万ギルダーで雇う顧問らの話より、価値がある。続けてくれ」
「では。出資の旨を、夜会など商人に伝わりやすい場でお話くださいませ。今日の高騰もあります。そうすれば、目ざとい商人は、もう仕組みを取り入れるかと思います。仕組み自体は、西方にすでにあったものですから。その分、出資を集めて、事業を広めるのが早くなります」
海図をばらまいたので、北方商圏では来年にも交易が始まっているだろう。王国内の商いがこの後どうなるかは、わからない部分も多い。
でも、参入できるなら早い方がいい。
そして交易には、大勢の出資を一つにまとめ上げる、株式会社の仕組みが便利だった。そうでなければ、資金力のある大商会でもなければ短期間に船を用意できない。
殿下が、指で机をとんとんと叩く。
「……どうだろうな。この国では、各領地や都市の権限が強い。王家の力を強めてはいるが、道半ばだ。株式会社の設立と承認は、当面は各都市がそれぞれで行うことになるだろうが」
「商人は、儲ける道を探すものです。殿下の出資を知れば、各地で株式会社を立ち上げる動きも出るでしょう」
「王族が仕組みに『乗った』というのは、制度の後押しになるか」
ついでに『海の株式会社』が王国で事業するのを、保証してもらう狙いもあった。
たとえ少額でも、王族が関わる事業であれば、商人連合会も手を出しづらい。
「そして、君の事業も安全になる?」
「はい。これくらいの得は欲しいです」
我ながら、けろりとした返事だ。
ついでに、領主様から授業を受けた懸念を、一つ付け加えよう。
「ただし、取引所での売買を許すと、今日のように値段が急激に上がりすぎたり、下がりすぎたりします。そのため、取引所で売買できる株式会社は、ある程度、制限する必要があるかと」
殿下は呆れたように目元を揉んだ。
「高騰を起こした、君がいうのか」
「ま、まぁ今回は……特別ということで」
私がこほんと咳払いすると、殿下は表情を引き締める。身を乗り出して、問いかけた。
「……よいのか? 私は、一度、君を裏切った」
「そうした人でも出資を通して仲間になれるのが、株式会社ですわ」
少し、視線の攻防があったように思う。
「私の追放にも、商人連合会が?」
「察しの通りだ。もちろん、それを受け入れ、君に判決を下したのは、王家――つまり私なのだよ」
それでも、私は目を逸らさない。
銀の瞳で見つめながら、殿下は告げる。
「――教えてくれ。君がなそうとしていることは、君だけの会社を救うだけではない。この国の商い全体を、小さな商人を救うことで、底上げすることだろう。なぜ、君はそこまで?」
殿下は苦しげに瞼を伏せた。
「追放された今――いや、私が追放した今、君に国を思う義務はないよ」
「そうですね。私が好きなのは、『いいもの』のこと」
俯く殿下を覗き込むように、私も身を乗り出す。そして、にこりと微笑んだ。
「ご存じですか? 王宮の北には、流刑地になるほどの果てであっても、美味しいお魚や、よい香りのワイン、それに木目のよい材木があるのです。そうした産品が王国に入っていけないなんて……面白くないでしょう?」
殿下は目を見開いた。
何かを言いかけるように口を開け、結局、浮かんだのは苦笑だけだった。
互いに、話すことを全て述べ合ったのだろう。
沈黙がやってくる。外の喧騒が、まだ静かな音楽のように流れていた。
不思議な気持ちだった。
ずっと片付けずに残しておいたものを、やっと整理できたような。
婚約破棄と冤罪による裏切りは、心から消えたわけじゃない。それでもお金を挟んだ付き合いとして、祈ることはできると思う。
この人に幸がありますように。
「よい王に、おなりください」
殿下は眩しそうに目を細め、首を振った。
「……君には王宮は狭すぎた」
垂れた銀髪が、束の間、表情を隠す。
顔をあげると、苦くて、少しだけ晴れやかな、一回り年を取ったような微笑だった。
「約束しよう。よい王に、なるよ」
殿下は席を立つ。
「これからどうするのだ? この場からは、どう出る?」
「開拓騎士団や、フィレス王国の人々が、私の場所を知って助けてくれることになっています」
「ふ、はは! もう、そのような仲間がいるのかっ。すごいよ、君は本当に――」
王子は銀髪をかき上げると、緩く笑って、首を振る。
「それまで待つのも酷だ。どうだ、もし私をまだ信用できるなら――君を外へ連れ出す手伝いをさせてもらえまいか」
王子が合図をすると、ローブ姿の護衛が地下室を出て、また戻ってくる。隠し持っていたらしい荷を取り出すと、それもまた、小さく畳まれたローブだった。
殿下から差し出された右手を、私は――取ることにする。
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