4-4:印刷

 私は商人教会の書斎に入ると、今日も書類の山に取り組んだ。

 情報を集め、海図に反映し、航路や日数を計算して、また検算。算盤の音は、自分の指が鳴らしているのか、頭の中で勝手に鳴っているのか、もうわからなくなっていた。

 けれども、ある時、算盤の音がぴたりと止まる。

 私は机に座ったまま、ぽかんとしていた。

 メモにした木の板や、羊皮紙の切れ端が机には散乱している。唖然としたまま、私は腕を組み考えた。

 はて――次は、なんの計算だっけ?


「毛織物はここ、氷はここ、羊毛はここから運んで、中継地点がここで、通行料と日数がかかって……」


 パラパラと集めた書状を繰る。

 私はようやく、計算するべきものが何も残っていないことに気が付いた。


「できた……?」


 机に載っていたのは、一枚の大地図。

 商人が使う専門的な海図をもとに、さまざまな産物や航路の情報が書き足されている。お母さまとダンヴァース様が取材しつつも、今では知られていない航路や風がいくつもあった。楽園島の近くを通る暖流まで、しっかりと海図には記載されている。


 特筆すべきは、産物ごとに原材料から完成品、出荷先までの流れが追えることだろう。

 たとえば北方柄ノルディスクの毛織物の産地をみて、そこから航路を辿ると、羊毛産地、それに染料の産地に着けるように描かれている。原材料の流れが一目瞭然だ。

 売る側も同様で、中継拠点を経由して、東西へ産物が向かう航路が示されている。シェリウッドもまた、そうした物資の中継場所の一つだった。


 何をどこに運べば、どのような加工が施されるのか、誰でも手に取るようにわかる。

 すでに北方商圏に来ている外国商人らは、これを見てほしい産物に目星をつけ、交渉を始めればいい。受注が起きれば、原材料が必要となり、次の商談が動き出す。

 かつてダンヴァース様達が練り上げようとしていたノウハウが、ここで共有されていた。


「できた! できたわ!」


 大きな声を出して立ち上がると、揺れで隣の棚から本が雪崩れた。


「うわわ――」


 一人で仕事を増やしていると、別の書架で作業をしていたログさんがやってくる。

 私が海図の完成を告げると、大きく胸を撫でおろした。


「……完成、なのか?」

「ええ! 価値があるかわかるのは、実際に大勢の商人に見てもらってからでしょうけど」

「それでもいい。一生分の計算をしたぞ……」


 珍しく、弱々しく眉を下げるログさんが面白い。


「これで無駄だったら、泣けるな」

「かもね。でも、やるだけやったら、後はもう品質を信じて祈るだけ……島と同じでしょう」


 私は海図を見下ろして、顎に指を当てた。


「これを、。後は、品評会ですわね」


 私達は海図の用意と並行して、商人連合会へけしかけた『品評会』の準備に追われていた。

 どちらも北方商圏を成功させるには、なくてはならないもの。

 ログさんが呟いた。


「産物を持ち寄って、品質を競う、か」


 より優れていた品質のものが、開拓騎士団への納入を勝ち取る。あるいは少なくとも、納入される個数が多くなる。

 メインは私達と連合会の『塩漬けニシン』対決だ。

 一方で、その対決が行われる区画とは別に、産物を展示したり、試食したりする場を設ける。開拓騎士団にモノを売りたい人から、単に宣伝をしたい人、誰でも参加を受け付けた。

 広告と商談の好機が、困っていた商人らに話題を呼んだのは、言うまでもない。


「私達の目標は、『品評会』にかこつけて多くの商人に産物を出してもらい、北方商圏ができると宣伝すること。もちろん、『海の株式会社』の塩漬けニシンと、開拓騎士団の木炭、そして精製された塩が表に出るだけで、商圏としては十分宣伝になるけれど――」


 そこに他の商人からも産品を出してもらう。

 要は、見本市だ。

 商人連合会も、この狙いは感づいているはず。海軍による航路の封鎖さえちらつかせて、北方商圏を潰そうと今も必死になっている。

 ログさんが顔をしかめた。


「海軍の話は、商人達も不安がっているな」


 王族を味方につけたこの動きは、確かに効果的。商人連合会を脱退した都市や商会にも、迷いが出始めている。航路を封鎖されれば、海路で海の東西を結ぶ商圏は、大打撃となるものね。


「……まぁ、そちらはおいおい、話をつけるつもりです」


 計算と書きもののせいで、頭がじんじんする。背中も痛い。この書斎を見つけてから2週間で、ずいぶんお婆さんになったみたい。

 品評会までは、さらにあと19日――3週間弱。

 なんとか、色々な仕掛けが間に合いそうだ。

 ぶるり、と体が震える。

 結局、私は北方商圏を作る方を選んだ。後悔はないと思う。

 『いいもの』を商うなら、この商圏ができた方がずっとずっと多くの人がその『いいもの』に触れられるはずだもの。

 でも、領主様だって失敗した商圏だ。

 悩んでいると、口に甘いものを突っ込まれる。


「あまり考えこむな。それより、補給だ」


 口の中に入ったものを、しゃくしゃくと咀嚼する。とっても甘い。

 美味しい梨だ。


「フーゲンベルク殿いわく、考えこむのは、疲れの証だ。この調子だと、朝からほとんど食べてないだろう」

「う……」

「そんなに抱え込むなよ、クリスティナ」


 ログさんが微笑んだ。


「ダメだったら……そうだな。今度は、悪名を俺も背負うよ」

「ログさん」


 ……私は、教会のことを思い出して、またしても頬が熱くなった。

 あの時に私を励まして、想いを伝えてくれたログさんに、まだちゃんと返事ができていない。

 でも、今、島や会社の未来を背負ったままじゃ、私はきちんと応えられないと思えた。ログさんのことはもちろん、好きなのだと思う。

 でも、今はまだ……特に、婚約破棄をした当人や、そこから生まれたあれやこれやに、決着がついていない。


「だから、考えすぎるな」


 ログさんは大きな手で、私の頭をぽんとなでた。


「俺は待ってる。君が安心して商いができたら、それでいいんだ」


 また頬が真っ赤になりそうだった。

 琥珀色の目で、優し気に見つめて来るのもずるい。


「そ、そういうのが……ですねっ」

「え?」

「……なんでもないです」


 目を逸らしたところで、エンリケさんとハルさんが書斎に戻ってきた。

 私とログさんが迎えに出ると、ハルさんがピンと眉を跳ね上げて、目をキラキラさせる。


「……ハル達、もう少し、外にいましょうか?」

「へ、平気ですよっ!?」


 ハルさんに言われて、私は手で頬を扇いだ。そ、そんなに赤かったのだろうか。

 『海の株式会社』の一大事だというのに、いつまでも取り乱してはいられない。


「こほん。こちらの『海図』は準備ができました。エンリケさん、そちらの方はいかがでしょう?」

「万全ですよ。上場の準備も、印刷の件もね」


 話しながら、私達は海図を置いた机に向かった。

 エンリケさんは完成した航路や産物のノウハウに、口笛を吹く。


「――さすがです、商聖女。いいのですか? これほどのものを、明かして。話によれば、これはあなたの相続財産のようなものですが」

「いいのです」


 エンリケさんは、試すように私を見る。


「いいのです。独占するつもりは、ありません」


 殿下は微笑した。


「了解。銅板職人も、刷り師も、手配済みです。総会のゴタゴタで広告が刷られなくなったから、彼らも喜んでいましたよ」

「この地図を、すぐに印刷にかけられますか?」

「もちろん、今日にでも」


 エンリケさんは、羽ペン用の砂を海図にまいて、余分なインクを吸い取らせた。そうしてから紙をくるくると巻いて、書状用の筒に詰める。

 私はほっと息をついた。

 『海図』が片付いたら、もう一つの仕事がある。


「次は品評会の準備ですね」


 ハルさんが、両手で拳を作って意気込んだ。


「ハル、都のレシピをいっぱい調べてます! 騎士団の人にも試食してもらって、品評会で美味しいニシンをたくさん出しますよ!」


 島の『初ニシン』を積みに楽園島へ行ったギュンターさんは、今年のトマトや島の野菜も一緒に持ってくるらしかった。

 おかげでハルさんはやる気満々である。

 一方、エンリケさんは眉をひそめた。


「でも、クリスティナ。商人連合会は、まともな勝負をする気などないようだよ? 品評会を受けたのだって、目的は時間稼ぎだ」


 その辺りは、領主様のお屋敷でも聞いた。

 『一級品』の認定を受けるときも同じような品評会が行われるという。しかし結局のところ、品質の良し悪しではなく、政治力で決まってしまうのだ。


「海軍や各商会への圧力で、品評会の前に商圏の話を潰すつもりだ。妨害はこれからもっと厳しくなる」


 今回の品評会は、主催が開拓騎士団。けれども商人連合会は、いつもの手――つまり、事前の邪魔をしているわけだ。

 私は結った髪をなでる。


「どうしても、一言、言わなければいけない人がいますので。その人に直接、交渉をしようと思いますわ」


 そしてその役目ができるのは、私だけだった。

 夜会の時は近くに立つだけで震えたけれど。

 今なら、きっと大丈夫。


「会ってきます。商人連合会の後ろ盾――第二王子に」



     ◆



 リューネに支店、あるいは本店を持つ商人連合会の幹部達は、やがて異変に気付き始めた。

 良質な塩の独占と、中小の商人にかかる関税により、リューネに集められた商人達は大混乱に陥っていた。もともとこの街を経由する産物を商っていた商人ばかりであり、当初は商人連合会に膝を折るか、商いをやめてしまうか、といった対応がほとんどだった。


 けれども。

 第6月に入ってからは、『北方商圏』という言葉が市場で飛び交うようになる。

 そうした動きはまだ現物の動きは伴わないが、取引所に貼り付いていれば、明らかだった。物資の輸送に伴って発行される船荷証券の荷受け先から、明らかにリューネの名前が減り始めていた。


 連合会の脅しや妨害で、異変は一旦は止まる。

 しかし、商人達と物資のリューネからの流出は、第6月の半ばに入り再び加速した。


「どういうことだ」


 問い掛ける幹部に、応える声はない。

 弱いはずの中小商人達が、まるでを受けとったように、着実にリューネを外した商いを始めていた。

 いよいよ事務所を引き払う商人も現れる。じわじわと空室予定が増える商人街と、空っぽになる港の倉庫は、商人連合会を焦らせた。不動産の価格下落は、都市として落ち目の兆候である。


 騒ぎの仕掛け人と目される『海の株式会社』の女社長について続報が入ったのは、品評会が間近に迫った時だった。


「捕まった? クリスティナが?」


 問いかけるのは、商人連合会のブルーノだ。彼は今回の規制実務を取り仕切っている。


「――というより、衛兵に自ら出頭したとか、どうとか」


 報告に、ブルーノは眉をひそめた。

 衛兵に対するクリスティナ拘束の命令は、まだ取り消されていない。

 一応は吉報だが、やっかいな問題もある。

 後ろ盾の第二王子が、夜会以降、あの油断ならない令嬢に会いたがっているということだ――。


 身柄を押さえたものの、2人を会わせてはいけないと直感が告げていた。



―――――――――――――――


キーワード解説


〔漁民と海軍〕


 塩漬けニシンなどの漁業は、中世ヨーロッパで広く奨励された。

 フィッシュ・デイなどの『魚を食べる日』は宗教からの要請もあったが、需要を確保して、漁業者の数を確保するという意味もあった。

 漁師や漁船は、海軍の船や軍人として徴用されることがあり、漁業者の減少は海軍の動員力に影響した。

 商人連合会は、廃業させた漁師や漁船を王家に格安で提供することで、新たなパイプにする目論見だったのだろう。

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