第4章:海と令嬢と株式会社
4-1:二人の師
初夏を迎えた楽園島に、海鳥とともに急ぎの交易船がたどり着いたのは、第6月上旬のことだった。
領主ダンヴァースをはじめ、島民にクリスティナからの言葉が伝えられていく。
南方のリューネでは今、大商会により商いの危機が起きていること。
外国商人は神聖ロマニア王国の商業から閉め出され、『海の株式会社』にも大商会に属さぬ新興商人として高い関税がかけられる。
制約を課された商人らは、自由な商いを求めかつて潰された商圏――北方商圏を目指していること。
遡ること9日、第6月の初日には、すでにリューネから現地の速報が送られていた。手紙は、その続報となる。
今回の内容には、ニシンを大急ぎで塩漬け処理し、交易船に載せるよう指示があった。第6月は漁期の始め。初夏に漁獲された『初ニシン』は、特に味がいい。
リューネから大急ぎでやってきた交易商人ギュンターは、常の航路を変更し、楽園島からリューネへとんぼ返りする予定のようだった。
島民たちは、女社長が遠いリューネでも何かを仕掛けようとしていると気づく。
そして、ここにいない漁師の青年や、食堂の娘のことを思いながら、塩漬けニシン作りに邁進した。
網を打つ音や、魚を捌く女性たちの歌声が、楽園島の風に乗る。
◆
領主ダンヴァースは、クリスティナから送られてきた書状に目を通す。
そこには生産と出荷に対する依頼の他、ダンヴァースがリューネに残してきた書斎に、ついにクリスティナが入ったことも記されていた。
ダンヴァースは書状を机に伏せ、目元を揉む。年のせいか、文字を追うこともずいぶんとおっくうになった。壁際の姿見には、白髪の老女が写っている。
「……ついに、あの子がね」
ぽつりとした呟き。
北方商圏が今度こそ成立するかどうかといったところだが、商人連合会はなんとしてでも妨害に出るだろう。
鍵は、クリスティナが仕掛けたという『品評会』――それまでの1月は、王国の商業史でも特筆すべき期間になるはずだ。
「領主様」
少女の声が、ダンヴァースの思索を止めた。
ハルが勝手に島を離れたため――彼女を心配する家族からの小言も、しっかり返信に入れなければ――別の少女を細々とした作業に雇っている。
ダンヴァースがかすかな笑みで続きを促すと、少女は続けた。
「お、お客様です。ウィリアム殿と、オリヴィア様です」
修道女オリヴィアの名前を聞いて、ダンヴァースは思い出す。
今日は儀式があった日だ。
漁の開始月には豊漁と安全への祈祷を行う。聖フラヤ修道院は、島までわざわざ訪れてくれたのだった。
「……そうでした。今日は、豊漁の儀式の日でしたね」
「はい。お通ししますか?」
「そうしてください」
応じながらも、ダンヴァースは首を傾げる。
修道女オリヴィアと、クリスティナの父ウィリアムは、不思議な組み合わせだ。
やがて二人が入室し、季節の挨拶を行う。
「領主様、お久しぶりでございますわ。全能神に、再会を祝して」
修道女オリヴィアはひっそりと微笑み、腰を折る。
同じような挨拶の後、一歩前に踏み出したのはクリスティナの父ウィリアムだった。
「私も、娘からの手紙を受け取りました」
「……なるほど。そちらの椅子にかけてください」
ウィリアムとオリヴィアが、応接用の机に座る。
二人の対面に、ダンヴァースも腰を下ろした。
手紙を受け取ったということは、父もまた娘と同じことに気づいたのだろう。亡くなった妻アリスと、ダンヴァースが、かつて師弟の関係だったということに。
ウィリアムは視線を惑わせてから、意を決したように口を開く。
「なんと申し上げてよいか――妻と、あなたは」
「クリスティナが見いだしたとおりですよ。前もって明かすことがなかったのは、申し訳なく思います」
ウィリアムは小さく頷き、ちらりとオリヴィアを見やる。
修道女が机に取り出したのは、一枚の羊皮紙だった。
「こちらを」
手のひらほどの紙面に、人名が上から下へ並んでいる。名前の隣には、日付。いずれも40年以上前だ。
「洗礼名簿ですわ、領主様」
聖導教は信徒となる者に、『洗礼』という儀式を行う。教会はその記録を残しており、王国では生まれて間もなく『洗礼』を行うのが普通だった。
ある種の住民台帳である。
ウィリアムが告げた。
「シェリウッドに古い教会があり、そこの名簿の一部をオリヴィア殿に写本していただいたのです」
指で、名簿の一部を示す。
「ここに、『アリス』の名前がありますでしょう? 妻の名です」
ウィリアムは深く息を吐き出した。
「……妻は、結婚する以前のことを、あまり私に話してはくれませんでした。貴族同士の婚姻、しかも相手が格上の爵位でありましたので、何か事情があろうとは思います」
漁師として日に焼けた頬に、穏やかな笑みが浮かんだ。
「惚れた弱み、とでもいうのでしょうかな。それでも、妻を愛していましたが。結婚当初からも詳しい来歴は問わぬ約束で、当時は領地を引き継いだばかりで――妻が必要でした」
ウィリアムが言うのは、『持参金』のことだろう。貴族が嫁入りする場合、領地や鉱山、あるいは金銭などを夫側に持ち込むのが通例だった。
「話がそれましたな」
苦笑するウィリアム。貴族時代のことは、父親にとってもはや区切りがついたことなのかもしれない。
「しかし、彼女が時折話していた子供時代のことが、どうもこの辺りを思い出させるのですよ」
父ウィリアムは窓を見やる。
「海が好きだったと。シェリウッドのような街と、教会の話も、時折していました」
「それは――」
言いかけるダンヴァースに、ウィリアムは肩をすくめる。
「もしかして、という気持ちでした。死別してなお、妻のことを知りたい気持ちもある。考えが外れていても、流刑されたこの身では、どのみち島からは出られない。諦めきれない推量に、オリヴィア殿の空いた時間を割いてもらった――それくらいの意味だったのですが」
ウィリアムは重ねた。
「違っていたら、お笑いください。しかし、妻はこの辺りの――楽園島の近郊の出だったのではありませんか? そして、クリスティナの手紙によれば、妻とあなたは師弟の関係だったという」
ウィリアム、そしてクリスティナにとっては、失われたはずの家族の過去について知る機会なのだろう。
とうに当人が亡くなっていても。
あるいは亡くなっているからこそ、知りたいと願うのかもしれない。
「……帳簿を書くあの子の姿は、どこか妻を思い出させました。妻とあなたが師弟だったというならば、妻にもまた、クリスティナのように学んだ時期があったのでしょう」
ウィリアムは問いかける。
「お話をいただけますか? 妻がどういう商人であったか。クリスティナに、何が引き継がれたか」
領主ダンヴァースは、ほっと息をつく。
老いた小さな肩に載っていた重りが、ふいに外れた気がした。
自ら追いかけるにも、伏せておくにも、『北方商圏』はやはり重い。
「……もちろんです、ウィリアム殿」
クリスティナにも伝えなければならない、とダンヴァースは思う。
リューネの神父宛ての書状には、クリスティナに向けた手紙も同封してあった。神父が見れば、それもまた彼女に手渡されるだろう。
領主は、前回の文にはすでに急ぎの返信を送っていた。そちらも、じきにクリスティナが読む頃だった。
「伏せていたことを、改めてお詫びします。アリス……あの才女について、知っていることを話しましょう」
―――――――――――――――
キーワード解説
〔初ニシン〕
漁期の始めに漁獲されたニシンのこと。
若く新鮮で、身が柔らかいニシンは特に重宝され、各船はいちはやく漁港に初ニシンを届けようと競っていた。
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