3-24:怪物
商人連合会が作った規制は、静かな北方の海に投げ込まれた大きな石だ。
波紋は大波となって、揺り返しを生み、色々な事象を引き起こす。
それまで、王国北側の海峡は商人連合会の勢力下にあった。いくつもの都市、何百もの商会、そして何千という商人が、連合会に守られながら商いをしていたのである。
さて、整理してみよう。
まず、商いに来ていた遠方の商人――たとえば、エンリケさんのような外国商人だ――が、高い関税をかけられる。遠方の商人とモノを売り買いしていた人は、大打撃だろう。
加えて、大商会のライバルとなる、新興、中小の商人にも同様の関税がかかる。一応は『品質審査料』という名目だし、『塩漬けニシン』や『麦』と品種も絞られているが、閉め出しという目的は変わらない。
要は、商人連合会に属している限り、大商会の下につき、外国商人の閉め出しに協力しない限り、まともに商いはできないのだ。
泣く泣く規制を受け入れる人もいるだろう。廃業する人も、きっといる。
けど、商人連合会を脱退して、商いを続ける人が出るかもしれない。
彼らの数が増えれば、かつての商人連合会が押さえていた北方の海に、新たな勢力が生まれる。
私が考えたのは、そうして離脱した人や街が、商圏と呼ばれるほどの数になることだ。
連合会を離脱した商人と取引するなら、高関税はかからない。私達にとっては、自由に商える相手。
ただ、それぞれの商人がばらばらに動いたのでは、商人連合会にとても対抗できない。火種がまばらに起きても、やがては冷えて消えゆくだけ。火種をまとめて、一箇所で長く強く燃やす――各商人が起こす小さな動きを、一つにまとめるような指針が必要だった。
うってつけの言葉がある。
それはかつて、同じ北方で成立しかけた幻の商圏、北方商圏だ。
『北方商圏』という期待を共有して大勢が動けば、成立する可能性は増す。
私が夜会で『北方商圏』という言葉を何度も使い、開催前に色々な商人に打診して回ったのは、大勢の頭に同じ期待を育てるため。
もちろん、確実な成算はない。
それでも生き残り、島の事業を続けていくためには、手を打たなければいけない。やっと黒字が出るようになった事業で、関税も、規制も、あまりに重い。
そしてフーゲンベルクさんにも、噂は届いていたようだった。
「噂には聞いております。しかしずいぶん、懐かしい言葉ですな」
フーゲンベルクさんは黒い髭をなでた。
明らかに警戒の度合いが強まったのを感じる。
「前に聞いたのは、20年ほど昔でしょうかな」
ダンヴァース様も同じことを言っていた。結局は、商人連合会の妨害や、産物そのものも未熟だったことで、消えてしまったと。
「正直に申し上げて、雲をつかむような話ですな。商人連合会が関税をかける、ならば彼らを外して、北方の海域だけで商いをすればいい――言うのは簡単ですが、実際には難しいでしょう」
どっしりとしたフーゲンベルクさんは、商いの現実を、改めて私へ突きつけた。
「穀物や塩を、商人連合会に頼っている都市も多い。彼らは関税があっても、諾々と商いを続けざるをえず、外国商人を閉めだせと言われれば、言いたいことがあったとしても従うでしょう。商人連合会の規制は無理やりな話だが、それだけの富と力があるのです」
私は目を閉じて、北方の海域を思い描いた。
楽園島で領主様と何度も見た地図だ。
「塩については、今お伝えしたようなやり方がありますわ。炭を使った精製です」
「あれは――」
「あのやり方は、独占するつもりはありません。いずれ他の方も思いつくでしょう。あなた方さえよければむしろ積極的に広めて、炭の商いにお使いください」
「なっ」
フーゲンベルクさんは半立ちになり、じっとりと浮かんだ汗を拭った。
「……製法販売、というわけではなく、ですか?」
「より詳しく伝授しますわ。そうすれば」
「…………開拓騎士団は、『炭』の産地というだけでなく、『塩』の産地ともなる」
炭の利用法が増えるのだから、利益も増える。
開拓騎士団が『炭』で『白塩』を精製する事業に乗り出した場合、当然ながら、それまでの塩の供給者である商人連合会と競合する。
炭で塩を精製可能という情報は、連合会を抜ける動機にもなるのだった。
私は言葉を重ねる。
「そして穀物ですが、それはリューネで生産しているわけではありません。半島より東側で生産された小麦が、リューネを通じて運ばれているだけ。リューネは、あくまで中継地点です」
「う、うむ……」
「北方商圏がどうして商人連合会に、阻まれたか。それは北方内で商いが盛んになり、航路が整備されれば、
今、海の東西はたった一つの道で結ばれている。
リューネから伸びる交易路、つまり陸路だ。
海を越える荷物は一度陸揚げされ、半島を東西に横切り、また海へ下ろされる。百年以上も同じルートだ。
「もともと、陸路より海路の方が大量輸送には有利です。もし北方商圏が、多くの船を引きつけ、海の東西さえ結ぶようになれば――」
「……本格的に、商人連合会を通さずに、北だけで商いをすることが可能ですな」
フーゲンベルクさんは顎をなでる。
声が少し震えていた。
「さすがに、長くかかるでしょう。すぐにというわけにはいかぬ」
「ええ。私も、夜会で色々な方とお話をしましたが、商人連合会に不満はありつつも、脱退までは考えられないという方もいました。割合は――やはり、脱退しない方が多かったですね」
私は、そこで言葉を切る。
思考を追うように口が勝手に動いた。
「ですが北方商圏という言葉を意識して、先んじて動こうとする商人もまた、少なくありませんでした」
エンリケさんに目をやった。知っている中では、この人の手が一番早い。
フィレス王国の王子がこの話を聞いて何も言わないことは、フーゲンベルクさんには裏付けのように見えるだろう。
「織物、塩漬けニシン、ワイン、炭、そして氷さえも、商圏にとっては『種』のようなものだと思います。水さえあれば、いつでも商圏が芽吹くようなもの」
フーゲンベルクさんは腕を組み、しばらく黙っていた。
「その水をやる役割に、我々を誘っているというわけですか」
「もちろん強制はできません。商人連合会の妨害もあるでしょう」
私が追放されたのも、北方商圏が生まれることを警戒されたため。
嫌がらせどころか、荒事が起きる可能性さえある。
私だけならともかく、周りのログさん達まで危ない目に――そう考えると、ふと前から目を逸らしてしまう。
副団長の圧力を逃れた先、ログさん、エンリケさんと目線が交わると、2人は静かに頷いてくれた。
今は、進もう。
「それでも――新しい商いを始めるには、今が好機とは思えませんか?」
意地で微笑みを維持するけれど、心臓がうるさいほどに鳴ってきた。
『北方商圏』の話をこの方にするのは、大きな賭けになる。ここで「知るものか! 商人連合会と戦うならそっちだけでやれ!」と突き返されたら、振出に戻るどころか状況はさらに悪くなる。
彼らが商人連合会に私達の動きを告げることさえ、ありえた。
未来がわからない以上、正解はわからない。
でも、規制によって関税がかけられるなら、商人連合会はもう安全な売り先ではなくなる。
島が事業を継続するには、後ろ盾が必要だ。それも『商人連合会を抜け』、『塩漬けニシンを必要とし』、『炭などの原材料を融通してくれる』、規模の大きな取引先が。
開拓騎士団との商いには、踏み込む価値がある。
安全に生産ができる環境は、自分で作るしかない。
「……ご令嬢。いや、社長クリスティナ」
フーゲンベルクさんは身を乗り出す。
「なぜ北方商圏にこだわるか、理由をお聞きしても?」
「理由――」
「より詳しいお考えを聞きたい」
ふっと表情を緩めた。
「……まず、消極的な理由から。確かに当面は、関税を我慢するという選択肢があるかもしれません。でも……危険ではあります」
「危険?」
「商人連合会が、次の関税や、閉め出しの方策を導入しないとも限らない。塩の独占に、生産統制。なら
促すように頷く副団長。
私はにっこりした。
「次は、積極的な理由、つまりチャンスについて」
算盤の音が頭で弾けると、フーゲンベルクさんが息をのむ。
「北の海、つまり楽園島の近くで、より大きな商圏ができる。外に追い出されたのなら、逆に強くなってやる――いっそそんな風に思っていますわ」
ぽかんとフーゲンベルクさんは口を開ける。やがて、湧き上がるような笑いが起きた。
部屋の雰囲気を明るくしてしまうような、そんな笑い。
「はっは! なるほど……これは王国は、とんだ女傑を追放したものだな」
目の端の涙をぬぐい、フーゲンベルクさんはぱちんと膝を打った。
「――白状しましょう。実のところ、開拓騎士団も商人連合会を抜けることを、すでに検討している」
私とログさん、それにエンリケさんも顔を見合わせてしまった。
「それは――」
「ログリスよ。だから、君に聞いたのだよ。『関税』はどう対処するのか、と」
ログさんがあっと顎に手を当てる。
「……同じ手を考えているかどうか」
「うむ。すまぬが、探りを入れてみたのだ。団員には迷っている向きもあるが、あなたの助言、特に『炭』の活用は決定打となるでしょう」
ぎょろりとした目が、月夜のフクロウのようにきらりと光る。この人もまた、商人だ。
フーゲンベルクさんは問いかける。
「まだ動きは鈍いが、商圏になりうる『種』ができたのには、同意しよう。フィレスのような外国商人が、北に来ているのも承知している。ご令嬢、商圏ができるのにさらに必要なものは?」
「大勢の商人が躊躇しているのは、新しい商圏に産物はあっても、それぞれを結ぶ航路がないから」
「なるほど、『海図』か……」
そうした航路などのノウハウがあれば、尻込みする商人はずっと減るだろう。
「ずっと商人連合会が作った仕組みで商いをしていた人もいるでしょう。連合会がなくなった時に、どう商いをしていいかわからない――そんな方を助ける、手引きのようなものが必要ですわ」
効率とは、細かい便利の積み重ね。
今なら、商人連合会が各都市に拠点を置いていたりするので、彼らに倉庫管理や航路計算を丸投げしていた商人もいるだろう。そうした便利がなくなっても、交易が続けられるなら――早ければ来年にでも、商業の重心はリューネから北の海峡に移るかもしれない。
なにしろリューネは外国商人、それに新興のライバル商人を閉めだすのだから、貨物量は減るはずだ。
エンリケさんがぽつりと言う。
「……歴史書には、商人連合会の誤りは、『商いでの自殺』とも書かれるかもしれませんね」
自殺、か。
ひどい言葉だけど、この規制がリューネの商いを細らせ、北方商圏ができることを促すとすれば、その通りだ。
ほくそ笑むフーゲンベルクさん。
「ふふ、我々には逆に商機かもしれませんがな」
私は、ふと背筋に冷たさを感じた。
『商い』には色々な人が関わっている。商人の裏には、生産する民もいるはずだ。
沈んでいく王国の商いを、このまま放っておいていいのだろうか……。
頭には、算盤の音が響き続けている。何度も、何度も。
清流のように巡る思考。
新しい商圏で自分達さえ稼げればいい――算盤の音が聞こえるたび、利益について考えるたび、そんな気持ちが浮かんでくるのだ。
お母様から帳簿を教わった時は、もっと温かい気持ちになったはずなのに。
「クリスティナ?」
ログさんに問いかけられて、私ははっとなった。頭の奥が、じんと熱い。
「平気、なんでもないです」
笑いかけても、ログさんはどうしてか心配そうにこちらを見つめている。
……北方商圏は、前進した。
でも本当にこれで、よかったのだろうか。
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