3-21:父の真実
「プロイツ戦争――」
ログは呟く。
プロイツ地方とは、王国の東方にある地域のことだった。
言葉が途切れる。舞踏会の曲に、ログは自分がひどく場違いなような気がした。
「我々騎士団が王国から課せられたのは、東方の守り。プロイツには、戦乱の前から我々が守るべき民が住んでいた」
「母は……異国が、そこに攻めてきたと」
「攻めてきた、な。だが実際は、先に攻めたのは我ら神聖ロマニアの方だった。プロイツが戦場になったのは、攻めたはずが、旗色悪くなり、逆に攻め込まれたというだけのこと」
フーゲンベルクは肩をすくめた。
「プロイツを守る騎士団、つまり我々は、当初は戦争から距離を置いていた。疫病禍の後、まだ国内の傷も癒えない。外征などやっている場合か、と。だが自領が戦場になれば、王国の兵らと共同して守らざるをえない。そのようにして、我々は戦争に巻き込まれた」
ログは驚いていた。
自分の認識と、実際があまりにも違う。母が言っていたことを鵜呑みにしていたのだと、今更に気づいた。
もちろん、副団長の言葉を信じれば、だが。
「君の父、ハーシェル殿は、騎士50名ほどを束ねる隊長だった。ハーシェル殿は、ある高台で敵に睨み利かせる役割だった。もとより高地が少ない地形ゆえ、この牽制は重要で――いや、仔細はよそう。しかし」
区切って、重い息を落とす。
「ハーシェル殿は持ち場を離れ、あろうことか、自領の近くまで逃げ去った。おかげで、騎士団をあてにしていた王国は、周到に用意した決戦の好機をふいにした。高台の睨みがなくなったゆえ、敵が撤退をしたのだな。撤兵は陣が乱れるゆえ、見張りがいれば躊躇するし、そうでなくとも気づくのが遅れる」
ログはぎゅっと拳を握る。父はやはり、逃げていた。
「騎士団と王国は半年、そして兵の命をかけて、攻め込んできた敵を罠となる盆地に誘い出した。だが決戦の機会は、露と消えた。王国の怒りは、まぁわかる」
「それは……」
「もし騎士が逃げさえしなければ決戦が成り、大勝利を得ただろう――と、これがハーシェル殿を流刑にした王国側の裁判だ。だが」
フーゲンベルクは言葉を切る。
「ハーシェル殿は、高台を引き払った後、単に逃げたわけではない。高台から敵の増援を見つけ、自ら陣地を動いたのだ」
ログは眉をひそめる。
「それでは」
「断じて、単なる逃亡ではない。ハーシェル殿は、その増援と戦っておられる」
胸に驚きと、困惑が広がる。
幼いころ、父に流刑の事情を何度も迫った。そのたびに父は首を振って、逃げたとだけ伝えたのだ。
「それでは、『逃亡』ではないのでは」
「勝手に陣地を離れ、結果として多大な労力と人命をかけて用意した機会を、無にした。独断は戦では、立派な罪なのだ。たとえ増援を見つけたとしても、自ら駆けつける必要などない。伝令を出して、予備隊を動かすべきだ」
「……なら、どうして……」
フーゲンベルクは口ごもる。ログは告げた。
「おっしゃってください」
「……我々は東方を守る騎士団だった。そして戦地もまた東方。つまり領地は戦場に近く、増援に不意を打たれれば、すぐに領地が危うくなる」
ログは遠い記憶を思い出した。
騎士の教育は幼い頃から始まる。それは、城や砦で作法や戦いを習うことも含んでいた。
そうだ、自分は、あの時――どこにいただろう。
「ハーシェル殿は、任務を放棄して駆けつけ、国境の手前で増援を止めた。そして増援が通るはずだった道には――ログ、君が預けられていた城館があった」
フーゲンベルクは息をつく。
「……俺のため?」
「城館は、単に城館に過ぎない。備蓄もたかが知れているし、素通りされる目もあった。それでも父上は、君のいた城館を守るために万全を期すことを選んだ。すなわち各地に伝令を飛ばしつつも、最も早く動ける自らが、城館と増援の間に立ちはだかった」
ログは呆然としていた。
知ってみれば、あっけない。
「……お父上が、君に真実を話さなかったのは」
「俺の――いえ、私のため、だからですか」
「可能性はある」
流刑の原因がログを守るための移動にあったとすれば、当時のログでも自分を責めただろう。
それに、母だ。
母は流刑地で金切り声をあげて父を糾弾した。
流刑地で病になり、死期を悟った父は、母がログを恨む可能性を考え、不名誉を弁解しないまま死ぬことを選んだのではないか。
父が移動したのは、もともと自領の近く。『怖くなって戻った』と述べれば、それで話は済んでしまうのだから――。
「母は」
「細かな経緯は、王国も、騎士団も、結局は伏せた。敗戦の責任を負わせるのに、父上の動きを体よく利用したようなもの。ハーシェル殿の戦いは人知れぬ戦いとなり、結果として不名誉だけが残ることとなってしまった……すまない、ログリス」
今更に、騎士達が幼いログに優しかった理由を察する。
父は確かに独断専行した。けれども、敵が国境を超える前、誰よりも早く駆けつけた。
遅れたら、騎士領地の誰かが犠牲になったかもしれない。父は泥を被って、仲間の家族をも守ったことになる。
だが自分の名誉だけは守れなかった。
「『決戦の機会を逃した』というが、本音をいえば、ほとんどの騎士がもはや決戦など求めていなかっただろう。敵の援軍を直前まで察知できなかったということは、同じような部隊がまだまだいても、不思議でない。決戦が成っても、勝てたかどうか……」
「……あるいは」
ログは呟いた。
「決戦よりも、領民を守ることをとった」
父ならば、そういうことも考えそうだった。
島に来た後も、ログに作法や素振りを教えてくれた。
「……プロイツ戦争は、我が方も敵も痛み分けに終わった。騎士団はその責任を逃れるため、君の父を差し出したようなものだ。おまけに己らもまた、数年後には領地を失い『開拓騎士団』となるのだから……まったく、因果応報だ」
フーゲンベルクは、ログに向かって居住まいを正す。
「騎士としては、任務を放り出したことは、やはり罪だ。だが民を守ったことは、疑いない。お父上は後者を選んだ」
夜会の中、フーゲンベルクは頭を下げる。
「庇えずに、すまない」
当時の出来事に、心にさざ波が立つ。
驚き、怒り、悲しみ、そして寂しさ。けれども、もう遥か昔のこと。
海中の魚を見下ろしているように、さまざまな心の動きを、ログは静かに観察した。
このフーゲンベルクもまた、当時はまだ一隊長に過ぎなかった。できることは限られていただろうし、やはり、今更国や開拓騎士団に怒りを覚えるには、時間が経ちすぎている。
「いえ……」
微笑して、首を振る。
「本当のことがわかって、よかった」
父も哀れだったが、母も同じだった。
流刑以前からうまくいっていたわけではない。領民を下に見る、貴族らしい貴族でもあった。
そのため――父から本当の事情を明かされても、理解しないと思われたのだろう。『領民を守るなど』と一蹴し、金切り声をあげそうだった。
息子を守るためだったと伝えても……母は、今度は、ログを恨む可能性が確かにある。そういう人だった。
クリスティナのような貴族は、むしろ非常に少ない。
息をつく。
ある意味で、流刑島に相応しい幕引きだ。
誇りは家族を救わなかった。
目を閉じると、子供の頃、騎士の稽古をつけてくれた父が浮かぶ。
「父には……それでも、感謝したいと思います」
ログを守る決断をしてくれた。だから今がある。
自分が全能神の元へ召される時、父母にすべてを伝えて、分かり合えることを願うしかないだろう。
「……ログリス?」
「平気です」
南風を浴びたような、すっきりとした気持ちがやってきた。
過去を知りたかったわけではないのかもしれない。過去から逃げることが嫌だったのだ。
これであなたと並べるだろうか、とログは思う。
「フーゲンベルク殿」
ログは言った。
さぁ、元に戻ろう。自分はもう――商人だ。
「本日は、過去を教えてくださって、ありがとうございます。しかしもう一つ、重要な話題があるのです」
新しい背骨が一本増えたような気持ちだった。
胸を張るログに、フーゲンベルクは目を細める。
「急に商人の顔になったな」
ログは『海の株式会社』の一員として、商談を切り出した。
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