ある山の伝説

 俺は休日に趣味の登山を楽しんでいた。夜の登山は基本的に危険だからいつもは避けていたのだが、今日は星空を見るために登っている。夏の蒸し暑さが夜の山にも漂っていた。

 登り始めてから1時間ほど経ったとき急に雨が降り始めてきた。今日は雨の予報は無かったはず。山の天気は変わりやすい。通り雨程度なら数分で止むだろう。丁度いいところに山小屋がある。少し雨宿りをしていこう。

 俺は小屋の扉をガラリと開けて中に入る。外観は少し寂れているように見えたが、中は小綺麗で人が住んでいるのではないかと思うくらいだった。靴を脱いで居間に上がる。

 昔懐かしい囲炉裏が部屋の中心にあった。しかし、それは使われている形跡はなく冷たい印象を俺に与える。本来なら温かいものを連想するはずなのに俺が抱いたのは冷たい印象。この違和感に気づいたとき、俺はここから逃げ出すべきだった。そうすれば俺はこの山から出られたかもしれない。

 電気は通っていないはずなのに、妙に明るいその場所で俺は雨が止むのを待った。しばらく待ってもやむ気配のない雨の音に眠気を覚え、俺は寝てしまったようだ。俺は体中に寒気を感じて起き上がる。雨で気温が下がっているとはいえ季節は真夏。寒気がするほどの気温になるはずがない。

 だが我慢できないほどの寒さが全身を襲い、俺はおもわず囲炉裏に火をつける。そのとき、玄関の扉がギィと音を立ててゆっくり開く。開いたドアの隙間から冷たい風が部屋の中に入り込み、体中に刺さる。

待て。

 俺の脳は五感を感じることに専念した。

ギィィィ

 扉が開く音は止むことが無い。入り込む冷たい風はどんどんと温度を下げていく。

やばい。

 俺の直感が危険信号を鳴らす。だが時すでに遅し。鳥肌が全身をめぐり、身動きが取れない。俺の知覚できる情報は音を鳴らす扉と冷たい風のみ。先程まで妙に明るかった部屋の中も囲炉裏の火が床を軽く照らすだけになっている。俺の思考はもうパニック寸前だ。囲炉裏の火を消してしまわないように、俺はゆっくりと呼吸する。

脳に酸素を送れ。体がそう命じている。少しだけ冷静になれた俺は一つずつこの部屋の異変を頭で考える。

 まず扉の音。俺は引き戸を開けたはず。しかし、今しているこの音は明らかに違う。引き戸には使われるはずのない蝶番が立てる音。

 そして先ほどまで妙に明るかった部屋の中。今では自分の足元すらおぼつかない。

極めつけはこの寒さ。今は真夏でいくら夜とはいえ長袖長ズボンを着ている人間が鳥肌を立てるような気温になるはずがない。俺はこの小屋から飛び出さなければ、何か嫌なことが起きるとこの時点で確信していた。

 いくぞ。いくぞ。と体を指先から少しずつ動かして全速力で走れる体勢を整える。扉の音はしたままで、誰かが外からずっと開けようとしている。出口はそこしかない。もう、外に誰かがいても関係ない。人なら謝ればいい。

 俺は全身に血を巡らせ、かじかむ体を温める。

 俺はカウントダウンを始めた。0になった瞬間走り出す。そう固く決意する。

5,4,3.2,1…0

 俺は勢いよく飛びあがり、蝶番が音を鳴らす扉に向かって走る。

ドンッ!

 何かにぶつかる音が聞こえた。けど俺はもう振り向かない。だって俺がぶつかったのは人じゃない。真っ青な顔で白い着物を着た女。明らかに人間じゃない。雨は上がっているが、代わりに雪が降り積もっている。

 凍傷になりそうな足の痛みをこらえながら、俺は麓まで駆け降りる。

「そう急くな…」

 柔らかくも冷たい口調で俺の全身は凍り付いた。

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