第5話
バスで一ノ瀬駅前まで来てから、ファーストフード店で安価な昼食を食べ、書店へ向かった。
近郊では大きめの書店で、二階に参考書や資格書関係のコーナーがある。
降り出した雨の為、店内の床が少し濡れていた。
俺は小説等の本が好きなので、そのコーナーも見たかったが、まずは当初の目的である参考書のコーナーへ向かう事とした。
階段はコの字型、折り返し階段と呼ばれる形状だ。
中間の踊り場で二階を見上げた時、最上段近くで女性が立ち竦んでいた。
様子がおかしい…、女性は膝の力が抜けたようになり、階下に落ちてきた!
俺は咄嗟に左手の傘を手放しながら、一段飛ばしで駆け上がり、左手は手摺、右手で女性の身体の背中側を抱き抱えるように支えた。
だが、雨で階段が濡れていた為、右足が滑って一段下にずり落ちた!「ぐぅっ!」右足首に鋭い痛みが走った。
女性が落ちるのは何とか食い止めたが、その身体にはあまり力が入っていない…。
体勢を整え、何とか階段に座らせるようにした。
「大丈夫ですか!?」と声をかけ表情を見ると。…!!この女性を、俺は知っている。
何と、おそらく琴乃だ…。
俺の2つ年上なので、今は高校一年生だろう。
髪型が違うので、気づくのが遅れた。
元の時代の琴乃はボブだが、今の時代の琴乃はそれより短いショートヘア。
髪の色も染めていない、今は黒髪だった。
琴乃は「大丈夫です…。ちょっと貧血気味で…」と声を発したが、顔が真っ青だ…。
通りかかった他の客が店員に声をかけてくれたようで、俺と店員とで肩を貸して一階へと降りた。
彼女の母親も書店に来ており、騒ぎに駆けつけた。
「お母さん、この方が…助けて…くれたみたいで…」琴乃が母親に話す。
いつの間にか側に居たパナマ帽を被った初老の男性客が
「その少年が、階段を駆け上がって娘さんが階段から落ちないよう支えてくれたんだよ。
彼の判断が遅れたら、娘さんは大怪我か、下手をすれば死んでいたかも知れない」
と言って立ち去って行った。
…見ていたのか?
階下に人の気配は無かったように思うが…?
琴乃の母親は
「それは、ありがとうございました。あら?貴方…、どこかで会ったことあるかしら?」と話した。
いや、無い…。
琴乃の母親とは、社会人になって、琴乃と付き合い始めてから初めて会った。
ただ、琴乃の母親は少し霊感のようなものがあるらしく、とても勘が鋭い。
琴乃も、それは少し引き継いでいるようだった。
「いえ、お会いしたことはありません。まずは、娘さんが無事で良かったです」
…。
名残惜しくはあるが、今の俺は、ただの通りすがりだ。
「それじゃあ…」と言って立ち去ろうとしたが、琴乃の母親に腕を掴まれた。
「貴方は、怪我はなかったの?
うちの娘より身体が小さいじゃないの?
支えて大丈夫だったの!?」
と聞かれた。
「階段で足が滑って、右足首が少し痛みますが、大丈夫ですよ」と伝えて去ろうとしたが
「待って!私は看護師です。足首を見せて」と強く言われた。
階段に座り、靴を脱ぐ際に右足首に鋭い痛みを感じた。
その表情を琴乃の母親は見逃さなかったようだ。
靴下を脱いで、痛みの箇所を確認するが、右足首の甲側が腫れている。
「捻挫か、挫傷の可能性があるわね。骨に異常があるかの確認も必要。整形外科に行きましょう」
「このくらい大丈夫ですよ。それに保険証も持って来ていないし、保険外診療となると所持金もおそらく足りません」と話す。
それに日曜日だ。
「休日当番の病院は調べればすぐにわかります。娘の恩人を無下にできません。私達の為だと思って、ここは従って下さい!」と少し強い口調で言われだ。…これは従うしかなさそうだ。
「わかりました。お願いします」俺は琴乃の母の言を受け入れた。
休日当番の整形外科は幸い駅から近い所にあった。
だが、まずは体調不良の琴乃を自宅に送ることとなり、琴乃の母親の車で移動することとなった。
車に乗る前にお互いに名前を伝えたが、やはり水守琴乃と、そして母親の春乃さんだった。
俺は春乃さんの携帯電話を借りて、父親の携帯に今の状況を伝えた。
病院には父親が車で迎えに来てくれることとなった。
水守家に向かう車中で、琴乃の顔色は大分良くなったようだ。
「ごめんなさい。たまに貧血があって、目の前が真っ暗になることがあるの。迷惑をかけてしまって…」と琴乃は謝る。
「怪我が無くて良かったです。貧血ですか…。
一度、病院にかかって検査を受けた方が良いかも知れませんね。
鉄欠乏性貧血の場合は薬、鉄剤を処方してもらったり、食べ物ならプルーン、今はドラッグストアでペースト状の物がありますから、そういう物も良いかも知れません。ヨーグルトに混ぜると食べやすいですよ」と俺は伝える。
春乃さんは「草森君、物知りだね?鉄欠乏性貧血とか、保険外診療とか…、普通の中学生は知らないんじゃない?」と苦笑しながら話す。
「本を良く読むので。雑学が好きなんですよ」と俺は答えた。
琴乃を自宅で降ろしてから整形外科へ向かった。
レントゲンで骨に異常はなし。軽い捻挫、との診断だった。湿布をして、包帯で圧迫固定し、しばらくは足首にあまり負荷をかけないようと、医師から言われた。
念のため、と医師から松葉杖を1本借り受けた。少し大げさな気がするが、足首への負荷は格段に減らせる。
保険証と医療受給者証は父親が持ってきてくれるので、それを待つこととなった。
春乃さんには
「娘さんの体調が心配でしょうから、お帰り下さい」と伝えたが
「顔色も良くなっていたから大丈夫。今は長女も家にいますから。貴方のお父様が来るまで待ちます」と言われた。
しかし、この時代で、こんなに早い段階で琴乃、それに母親である春乃さんに接触することになるとは思わなかった…。
そう考えていると
「今日は何の用事があって街に来たの?」と春乃さんに聞かれた。
俺は道場の見学と参考書を買いに来たことを伝える。
「…参考書ねぇ。娘のお古があるかも知れないから聞いてみるわね。それと、改めてお礼がしたいの。足が良くなってからでいいから、良かったら家に来て貰えないかしら?」と申し出があった。
春乃さんの性格上、たぶん断っても押しきられる。それに…正直な所、琴乃にも会いたい。
「わかりました。ただ、あまり気にしないで下さい。足を痛めたことについては自分の不注意です」と伝えた。
程なくして、父親が病院に着いた。
親同士の挨拶が終わり、春乃さんから
「後日、電話しますからよろしくね」と念を押された。
琴乃と、もっと話したかったが、春乃さんとのボリュームが多かったな。
自宅へ帰る車の中で父は「お前が人を助けるとはなあ…」と話していた。
タイミング的にも良いと思い、俺は道場に通いたいことと、アルバイトで新聞配達をしたい旨を相談した。
そして、吹奏楽部は明日付けで辞めることにした。
元々、吹奏楽部は本来の過去に辞めている。
本来の過去では、もう少し先で、今のタイミングではなかったが、少しでも早い方が良いと判断した。
父は吹奏楽部の件については「もったいないな。本当は辞めない方がいい」と話していたが、俺にとってはあまり意味の無いことだ。
吹奏楽が好きな人なら話は違うだろうが…。
父親は高校時代は野球部だったが、先輩からの度重なる挑発や暴力にキレて殴り返してしまい、部活を辞めた経緯がある。
だが、俺の事になるとずっと「辞めるな」の一点張りだった。
自分の事は棚に上げる父とは会話が成立しない、と子供の頃から俺は感じていた。
典型的な自分の意見を押し付けるタイプなのだ。
アルバイトと道場の件については許可が降りた。
問題は、吹奏楽部を辞めた後…リンチが待っているということだ。
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