第十六話 太平洋上水炎決戦④

「視界全て、灰燼に帰せ」


 避けようのない、死が迫る。

 剣と竜哮では防げないし、回避不能。

 三秒後の世界で、二人が生存できる確率はゼロ%だった。どう足掻いても逃れられない。間違いなく、それは必殺の手段だ。

 だが──────二人ではなく、三人なら?


「させ……ない……ッ!!」


 1,が来るよりも、僅かに早く。

『炎上』を水が包み込み、氷と化して凍てつかせた。

 絶対零度。あらゆる原子の動作を停止させる死の領域が展開される。

 しかしそれも容易く呆気なく砕かれる。

 氷から姿を現した『炎上』は、忌々しげに彼女を睨み付けた。


「氷……クソ、貴様、まだ生きていたか」

「七海サン!?」


 七海愛海ななみあくあ、復活。気力と根性を振り絞り、最強の覚醒者が再び戦場に降り立った。

 腹は所々破け、髪も乱れに乱れている。全身に纏う疲労のあとは凄まじいものだった。しかし、彼女は生きている。深く呼吸し拳を握り、戦場へと舞い戻る。

 彼女が海を視界に収めれば、それだけで白銀の荒野が広がっていく。凍てつく世界が、沸騰する情念の海域を染め上げる。まるで、赤色の炎を白い絵の具で塗り潰すかのように。


「前々から思っていたけれど……七海で良いわ」


 竜哮るこにそう告げてから、『炎上』を指差す。

 それだけで既に攻防に繋がる。『炎上』の周囲が冷却され、七海には熱がぶつけられる。相反する二つの属性が再度激突していた。

 ポツリと、七海が問う。


「それで、あなた達はアレ、どうするつもりなの?倒すの?倒さないの?」

「だおざない……がげるを、ずぐばないど」


 掠れた声で、しかし確かにはっきりと、そーどは宣言する。

 倒さない。殺さない。翔琉を救うのだ、と。

 七海は頷いた。


「そう、なら、きょっ……き……協、りょ……くね」


 何事もそつなくこなす七海にしては珍しく、何やら噛んだらしかった。

 竜哮と剣は同時に困惑する。


「……?」

「悪い剣。俺様も聞き取れなかった。七海、もう一回頼む」

「競争って言ったのよ」


 いつも通り冷静で冷徹な声だった。

 けれど、その、ほんの少し上がった口角に。

 本心が、小さく確かに覗いている。


「急ぎなさい。じゃないと、私がアレを殺すから」


 一方、ターゲットにされた『炎上』は不愉快そうに顔をしかめる。


「……負け犬が。どちらも焼き消してやる」



「何が、起きているの?」


 夕暮れの川辺で不安そうに呟く。

 耳を塞ぐ女の人、いつもと雰囲気が違う。どこか危うく、怖い。


「何も起きていないわ。大丈夫。もうすぐ、あなたを幸せにしてあげるから」


 安心させるように、微笑みながら彼女は言う。


「そうだ、歌を聴かせてくれる?久しぶりに、聴きたいわ」

「うん、わかった」


 歌声が、響き始める。

 少年は気付いていない。ここは彼の深層心理を言霊が具現化した場所だ。川の向こうの町並みが、燃え始めている。背後にあるこちら側も同じだ。精神世界の町の各地で火の手が上がり、広がっていく。『炎上』による精神の侵略・改造が進んでいる証拠だった。

 生きる世界を、地球の全てを焼き尽くしても、翔琉の精神は耐えられないかもしれない。それでは幸せとは言えない。だから彼女は、改造する。

 全生命の焼却、何兆もの虐殺に耐えきれる精神性になるように。

 他に生命のない二人だけの死の星で、永遠に幸せを享受可能な心理へと。

 ゆっくり、丁寧に、しかし確実に進めていく。


「大丈夫。だって加工は得意だから」


 焔の神は、鍛冶の神。改造と炎上は、切っても切れない関係にある。

 さあ、侵略すること火の如く。

 進めていこう。着実に。


「もう少しだから」



「動きが鈍っているぞ人間!!どうしたどうした!?」


 挑発が響く。

 再開した戦闘は、『炎上』有利な状況のまま推移していく。その体は空中を自在に飛び回り、あらゆる方向、あらゆる角度から攻撃を加える。更に、七海と竜哮の攻撃もほぼ無効化、或いは減衰されており、決定打には繋がらない。一方的な展開が続く。


「くっそ、ふざけんなよ……こいつなんで飛べるんだ!?」


 竜哮が呻いた。その呻きも攻撃と化すのだが、『炎上』はダメージとして知覚すらしていないようだ。


「上昇気流を操っているのよ。空を飛べるからって油断しちゃ駄目」

「気流だったらそっちで乱せるんじゃねえの?」

「無理。それを織り込んで操作してくるから」

「クッソ、まじか……ん? どうした剣? ……なるほど」

「なんて?」

「さっきは七海一人だったから対応されたんじゃないかって。俺様と剣に加えて、向こうが何か企んでるみたいだしそこも含めて考えれば……」


 人間が二人も増えたのだ。いくら情報の処理に優れた人外の知性を持っていても、完全な対応は難しいのではなかろうか。

 それに、剣は見破っていた。『炎上』はなにかを企んでいると。正確には、力を出し惜しんでいる。そもそも七海を一度倒しているのがこの存在なのだ。その猛威を前にして、まだ二人が生存していること自体がおかしい。

 力を出し惜しんでいるなら、そこに何らかの理由がある。


 企み。考えられるのは二つ。ひとつは剣達三人を倒す秘策。しかしこれである可能性は低いだろう。何故ならそんなことを企む必要がない。ここまでと同じように攻撃を繰り返すだけで、『炎上』は間違いなく勝利できる。水という火の天敵や熱耐性を持つ竜鱗といった相性の有利を、容易く覆す素の能力やパワーがあるのだから、後はそれでゴリ押すだけでいい。

 ならば、二つ目が有力だろう。

 それは何か。……この戦闘の後に起こるだろう出来事である。三人を倒した後に行うつもりの『何か』。それの準備のために、今僅かに手間取っている。よって、三人を攻める手が緩んでおり、彼らの生存に繋がっている。

 人間の追加による処理情報の増大プラス何らかの企みによる処理領域の圧迫。

 イコール、処理を崩せる可能性。

 剣がそこまで伝えずとも、七海は即座に理解したらしかった。浮かせた氷を足場にして立ち、頷いた。


「今度は上手くいくかも知れないって事ね。試してみるわ」


 すると、剣は僅かに体を動かして竜哮に言葉を伝えた。


「……」

「剣が、協力してくれてありがとう、だってよ」

「別に協力じゃないし、競争相手を利用してるだけです。まあ、お礼はありがたく受け取っておくわ。さあ、行くよ」


 七海は髪をかき上げてから『炎上』を睨む。

『炎上』は、三人の下方から見上げていた。


「ごちゃごちゃ騒ぐ余裕があるらしい」


(……ここまで攻撃を仕掛けてこなかったのも、仮説を裏付ける根拠になるか)


 七海はそう思考する。

 一対一での戦闘で『炎上』は、己の優位を確立するまでは動きを止めることはなかった。水や弾丸を耐えてからの、炎剣振り下ろしまでの流れなどは、一気に畳み掛けてきたほどである。

 ならば、今そうやって攻撃してこないということは……。


(してこない、というよりできないと思いたいところね)


 よほど手間取っているらしい。

 故に、ここが隙だ。

『炎上』は宙に浮き熱線を放射する。黒竜と少女は各々の飛行手段を用いて回避。適度な反撃を加えつつ、上空へ移動していく。『炎上』がそれに釣られて高度を上げた。


(ここ、ね)



「クソ……まだ終わらないのか……。どれだけ手間取るんだこの作業は……」


 町を焼いて、作り替える。不要なパーツを取り替えるように。建物の形を変えていく。区画を置き換え、家を消してビルを建てる。歴史ある建築物を模倣してみる。地形を抉り、積み上げる。川を埋めて、丘を作る。

 遅い。

 明らかに時間がかかりすぎている。想定していたより何倍もかかっている。


「練習不足だったか。もっと他で試せればよかったが……しかしそうしていたら奴らに感づかれ、そもそも翔琉と接触すらできなかったかもしれない。ああ、もしものことなど考えるな。今は、今だ。……大丈夫。落ち着いて進めれば……愛があるから、大丈夫……」


 三人をさっさと始末してから改造をするという選択もある。しかし、それにもリスクがない訳じゃない。

 優れた知性による演算は、あの三人の撃破に必要な能力行使がどれほどかを導き出している。

 そして、それを行った場合──翔琉の精神が持たないということも。

 すでに、宿主である愛すべき少年にはすさまじい負荷がかかっている。

 人体が異形に改造され、存在すら忘れていた常識外の存在に肉体の主導権を奪われているのだ。加えて、その怪物が操る非常識な自分の体だったモノによって、殺人が達成されようとしている。とても常人の精神で耐えられるものではない。

 深層心理以外の精神領域の大半は既に崩壊している。『炎上』の手が加えられていなければ、深層心理すら粉々だったろう。

 一刻も早く改造を進めなければ、星の焼却どころか戦闘終了まで持たないほどに、彼の精神は限界だ。

 邪魔をする三人の排除、愛する翔琉の精神の改造。

 前者を先に進めれば、翔琉の人格は二度と目覚めない。

 後者を優先するには三人の妨害が無視できない。特に、剣の呼びかけは絶対に防ぐ必要がある。無自覚でも翔琉が反応してしまうからだ。

 人ならざる『炎上』の言霊は、焦りを覚えていた。



 故に、嵌まる。



 ガクン、と。現実の体が揺らいだ。次の瞬間には、掴んでいたはずの気流が制御から離れ、肉体は重力に従って墜落する。


「な……あり得ない!?」


 自分が、気流の掌握を失敗するなど。

 七海による妨害は、最悪なほどに最高のタイミングで行われた。新たに加わった要素を計算しきれず、『炎上』は海面へと墜ちる。


「落としたわ! 次はどうする!?」


 荒波に飲み込まれたかに思えた体は、周囲の水を蒸発させながら、あっさりと浮上した。その様を見て、七海が声を張る。指示を仰ぐ。そうしつつも、追撃はやめなかった。『炎上』の高熱に対抗して、周囲を絶対零度にまで低下させる。


「……」

「竜哮! 彼なんて言った!?」

「奴に、オレを近づかせろって……」

「はあ!?」


 剣の考案した策は、こうだ。

 近づいて、呼びかける。

 それだけ。他に方法はない。

 七海は思わず文句を言いそうになるが、ぎりぎりでこらえた。


(確かに……もうソレしか残ってないわね)


 七海と竜哮、どちらの能力でも致命傷にはならない。このまま続けてもジリ貧だ。

 なら、後はもう。


「賭けるしかないってか。分かったわ。で、どうやって近づけるかね」

「いい考えがあるって」

「聞かせて」



「ぐう……おおお、おお……」


 消耗していた。


「情報の処理が追いつかん……ぐ、そが……ああ」


 熱で氷を溶かしながら、炎上は藻掻いていた。

 三人の要素を組み込んだ上での気流掌握は、精神改造による思考領域やリソースの圧迫のせいで不可能と結論せざるを得ない。

 機動力が失われては、三人の処理にも更なる時間がかかるだろう。


「いいや、まだだ」


 もはや虚勢を張ることすらできない。己の愛や強さを誇ることで相手を威圧し精神を崩させる心理戦術に、思考を割くことすら惜しい。

 故に、化けの皮は捨てた。


「認めてやる。ここまでやるその強さ……ああ、認めるとも」


 物質創造・加工能力を使用。海面に足場を構築する。人一人が乗っても問題ないその広さの上に体を移動させた。


「それでもまだ、私が強い。何故ならこの胸に、猛り狂う愛があるからだ!!」


 ギロリと睨んだ視線に、余裕は欠片も存在していなかった。

 足場の周囲が再び氷に覆われる。

 黒竜が飛行をやめた。

 その背から少年が降りる。その隣に少女が立つ。

 二つの陣営は一瞬だけ睨み合い、そして。


「行くぞ!!」

「来い!!」


 静寂を崩し、先に動いたのは剣だった。

 彼は走り出す。いつかの夜と同じように。構造上走行が不可能なはずの傷を抱えた足を前後に動かして、ひたすらに、走る。

 それを可能にしたのは、七海愛海による水分操作だった。今の剣の肉体は、彼自身の意志で動いているのではない。肉体の制約や限度を無視し、さながらマリオネットの如く、七海が彼の水分を掌握することで、動かせていた。それ故か、発揮される身体性能、具体的には走る速度が、常人の数倍を超えている。

 無論、行き過ぎた力には当然のように代償が伴う。限界を超えた駆動は、筋繊維の断裂を生む。傷ついた足を無理に動かしているため、傷は悪化し続け、加えて莫大な痛みが脳に押し寄せている。

 だからどうした。

 そんな痛みは、意志の力でねじ伏せた。

 ただ前へ。一秒でも速く、一歩でも遠くへと。

 そう願う。

 走る。ただ、ひたすらに。


「消し飛ばす」


 空間が炸裂する。熱が放射される。

 接近する剣を焼却すべく、『炎上』はその能力を展開していく。炎熱の放出、熱線の投射、炸裂する不可視の爆弾。物質の加工能力で生み出された一キロメートルはあろうかという刀身を持つ大剣を握る。ここが最終局面だと、そう直感していた。故に出し惜しみはしない。ここで滅するという殺意の現出。

 しかし、そのどれも剣には届かない。

 熱による攻撃は七海が防いだ。

 炸裂は七海がかわさせた。

 そして、そんな彼女では防ぎきれない物質創造による大剣のなぎ払いも、もう一人が、打ち砕く。


「行けえええええええええええええええええええ!!」


 震動が直撃し、振り抜いた剣は根元からポッキリと折れた。

 舌打ちをしながらも、能力を再び展開する。

 それを打ち落とす真名覚醒者のコンビ。両者の応酬は止まらない。加速し続ける。

 そんな世界の終わりめいた激突の中を、少年は駆け抜ける。



 迷いはない。


 躊躇も油断も、有さない。


『炎上』の行いや目的が何であるのかを、剣は知らない。どんな過去があり、どんな考えを得て、どんな理想を描くに至ったのか、知らない。


 想像はできる。恐らく、それが翔琉のためであることも。この言霊は間違いなく、自己の利益ではなく、翔琉の利益を──少なくともそれが翔琉のためになると信じて、行動している。

 そう推測し、信じられる要因はいくつもある。


 しかし、そんな理屈を置き去りにして、最も大きな理由がひとつ。


 剣もまた、翔琉を大切に想っているから。


 彼に救われた人間として、彼と関わった存在として。


 翔琉を救おうと思い、その最善手を行使しているのだと信じられる点で、剣と『炎上』は同じだった。


 故に、両者の間に言葉はいらなかった。ただ瞳を合わせただけで、何を言いたいか理解できた。


(ああ、そうか。お前も、俺も)


 互いに、見たくない現実から目を背けていたんだな。


 なら。


(先に現実を見たものとして、お前も直視させてやる)


 熱が氷や海流に、物質は震動に、それぞれ阻まれる。

 二つの影の距離は残り十メートルを切った。

 踏み出した右足が、ぐにゃりと曲がる。『炎上』が笑う。剣の体勢が揺らぐ。振り返る余裕はないが、『炎上』の視線で、理解した。

 七海が攻撃を受けた。どれだけのダメージかは分からないが、剣の体を操作できなくなった。

 同時に、さっきまで聞こえていた咆哮が消失する。竜哮も、声を出せない状況に追い込まれたらしい。

 走れない。残り十歩もない距離が無限に思える。神経が切られている。それは人体の構造上、歩くことが不可能になる傷だ。意志がどうとかいう次元を超えている。走りたいと強く願おうが、もう一歩だって踏み出せない。

 前傾。姿勢が崩れるのを止められない。

 それだけでは終わらない。肉体から一メートルもない空間が、歪み始めたのを感じる。炸裂の前兆。『炎上』が右手をかざし、掌が赤熱する。熱放射の装填。振り上げた左手に、燃えさかる剣が握られた。物質の創造能力。纏う熱に従って、体が後退する。気流操作による回避。

 展開される数多の不条理。偶然による逆転を許さない、徹底した対策の連続。

 迷いはない。

 躊躇も油断も、有さない。

 もはや動けない戸塚剣が、それでも奇跡を起こしたとしても。

 それすら考慮して対策を練った『炎上』の言霊には、絶対に届かない。


「終わりだ」


 あの日、彼に出会えず。


 彼の苦悩も、何も知らず。


 ただ救われただけの人間如きに。


 負けるわけには、いかなかった。


 念入りに磨り潰す。二度と起き上がれぬように。


 ただ、私怨がないと言えば、嘘だろう。

 羨ましいし、妬ましかった。


 翔琉の体に同化する途中で、彼の記憶をのぞき見た。

 そこには、見たことのない彼が沢山いた。喜ぶ彼。怒る彼。哀しむ彼。楽しむ彼。笑う彼。泣く彼。

 私の見たことのない、彼の姿が沢山あって。


 けれど、ある時から。

 その姿は、一人の少年に向けられることが多くなっていた。

 戸塚剣。派手な名前の、地味な少年に。


 自分と同じように救われたくせに、自分以上に彼に想いを向けられる人間。


 ふざけるな。


 どうしてお前はそこにいる。どうしてお前は、なにもしない。何故、世界を変えようと動かない。


 自分ならもっとうまくやる。

 自分なら彼をもっと笑顔にできる。


 自分なら、自分なら、自分なら────!!


 だから、許さない。

 私がいない間に、彼を独占したお前を、絶対に。


 そう決めて。


 そして、今。


 殺せる。


 殺す。


 炸裂まで一秒もいらない。

 既に熱は装填された。

 後はもう、振り下ろすだけ。


 生存の未来など無い。剣一人ではどうにもならず、二人の援護は不可能だ。七海には熱線をたたき込んだ。内臓がいくつか灼かれただろう。痛みで、思考すらままならないはずだ。竜哮の咆哮も封じた。物質の創造・加工能力で生みだした剣で、その口と喉をそれぞれ串刺しにした。ドラゴンはもう声を出せない。

 完全なる勝利は、目前だ。


『炎上』は、今、決着を付ける。

 剣の体は、粉々に変わる──



「いいや、まだだ!!」



 その、直前。破滅の未来の訪れるコンマ数秒の世界で。


 声援が、届いた。


 黒い竜には、創造された剣を用いた攻撃が直撃しており、口が串刺しにされ閉じられていた。これでは声が出せない。

 ならどうする?

 竜哮は手を伸ばす。かつて兄を失った。その悲劇を繰り返さぬよう。

 竜の背中が割れた。鱗と肉を破り、逆鱗を持つ少女が上半身を世界に曝す。

 竜化の解除。

 それだけは、『炎上』でも対策不能だった。何故なら、これまで一度も行われたことのない現象だったから。

 竜哮が、叫ぶ。


「行けッ!!」


 背中で受けるのは、二度目だった。

 広範囲を狙うのではなく、一点に集中させた音の弾丸。それがどう放たれるのか、何度も戦って理解している。

 咄嗟の判断で顔を上げた。大きく、ただ大きく、限界を超えるまで、胸を張る。

 背中に、声が直撃した。人体の破壊を伴いながら、剣の体が加速する。かすっただけでも相当な威力だったものを、今度は直接受けたのだ。内臓が潰れたかもしれない。骨が砕けたかもしれない。少なくとも、重傷なのは避けられないだろう。知ったことか。それよりも、大事なことがある。衝撃を浴びて、両足が地面から離れた。『炎上』との距離が、ゼロにまで縮まる。


((ッ、まだだ。距離が縮まった程度じゃ、たりない!!))


 右手の熱が残っている。少年を焼き払うには十分すぎる熱エネルギーが。


「だから、こうするわ」


 氷海を食い破り、氷の杭が右手に命中する。熱線は狙いから大きくそれて、雲を引き裂いた。


「な、七海ィィ──ッ!!!!!!」

「行きなさい、その権利は、あなただけにあるから」

「来るなァァッ!!」


 閃光。全身から放たれる熱が、剣を灼く。

 しかし、完全に焼き尽くされるよりも早く。

『炎上』の──いや、翔琉の体を、剣が強く抱きしめた。

 顔が、交差する。剣の口は、翔琉の耳の、すぐそばにある。

 ここまで近づけば、もう、外さない。


「かける!!!!!!」



「行かなきゃ」


 少年は、答えるように一歩踏み出した。


「ま、待ってくれ」


 言霊は、つなぎ止めようと手を伸ばす。


「そこから先には、不幸が、困難が、辛いことが沢山待ってるんだ!」


「でも、友達が呼んでるから」


 言霊の伸ばした手は、少年の体をすり抜ける。町を焼き、作り替えようとした炎は、強風が吹き荒れ全てかき消された。少年の見つめる先には、一つの影が立っている。沈む夕陽が、その人物を照らす。派手な名前をした、どこにでもいるような男性だった。

 彼は、どこか安心したような笑みを浮かべて佇んでいる。

 言霊は、感情を猛らせる。


「その先には、何百何千何万何億という数の人間が、生きているんだ」


 言葉を紡ぐ。


「その中には、意図してだろうとそうでなかろうと、君を傷つけるものもいる」


 想いを、少年に届くように。


「だから地獄なんだ。自覚無き損壊、善意から来る攻撃、あらゆる全てが君を傷つけうる、その先には死と傷が埋め尽くす果てない無間の地獄しかない!! 今ならまだ戻れる。私の手を取ってくれれば、全て焼き尽くせる。君を傷つけた者も、これから傷つけるモノも、ひとつ残らず灰に変えれる。君を幸せにできる!

 誰もいない世界でなら、君は自由だ。もう何にも縛られることはない。名前も必要ではなくなる。それこそが幸せだろう。必死に考えたんだよ。私、人間じゃないから。君とは違うから。それでも絶対に君を幸せにしてあげたかったから。だから考えて、行動して、ここまで、あと少しまで来たんだよ。何百人も殺した。何千人も灼いた。何万人も、何百万も……そうしてようやく君を幸せにする一歩前までたどり着いたんだ。約束する。絶対君を不幸になんかしない。今戻ってきたら、そうだ、欲しいものをひとつだけ残しておいてあげる! 約束は絶対に守るよ。ああ待って行かないで止まって待って待って待って待って止まって良い子だからお願い君はそっちに行ってはいけないんだよ絶対に幸せにはなれないこっちなら私なら君を救えるんだだから……どうか……お願い……戻って、きて……!!」


「君は」


 一歩、止まる。

 ゆっくりと、振り向く。


「僕のために、そこまでしてくれたんだね」

「ええ、そうよ……そうなの……だから」

「でも、ごめんなさい。僕は、向こうの方が、好きだから」


 それは、幼いが故に単純で、これ以上無い力を持った、言葉だった。


「皆がいる世界が、好きなんだ」

「嘘……うそようそようそよ!だって、だって君はあの時、消えたいって!!」


 そう、確かに言ったはずなのだ。幼き日の浪野翔琉は『炎上』の言霊に対して、「自分を消して欲しい」と。

 なのに、今は真逆のことを言っている。

 何故か。何故なのか。困惑する。理解が及ばない。嘘か、或いは己の聞き間違いか。『炎上』はその思考力で答えを見つけ出そうとするが、しかし、見つかることはなく。

 探し求めた答案は、翔琉があっさり口にした。


「それは、昔の僕の、夢だね」


 気がつけば幼い少年は消えていて。

 そこには、人気者そうな一人の高校生が立っていた。


「確かにあの頃の俺は、消えたいって思ってた。でもさ」


 ヒトならざるモノとの邂逅は、子供の頃の不思議な記憶の一つとして、時間がゆっくりと洗い流していった。

 けれど、一つだけ覚えていることもある。

 その記憶が、彼を前に向かせた。

 己の存在に自信を持てないでいた少年は、変わった。

 スポーツクラブを辞め、走ることから離れるという決断を、自分から両親に告げることができるまでに。

 弱さを知って、強さを得た少年は、やがて多くの人を惹き付け始める。

 その強さで時に誰かを助け、知っている弱さで誰かに共感し、或いは助けられ、共感され。

 彼の周りから人が尽きる日はなくなった。

 その先に、一人の、心から笑い合える親友と出会った。


 そして、今がある。


 今の翔琉は、事故の抹消なんて求めない。世界の終わりも、一人きりになることも。

 彼は、前を向けるのだから。

 では、なぜ彼は前を向けるのか。

 なにが彼をそこまで変えたのか。

『炎上』は、飲み込みきれない現実を、愛する人の成長を見つめ、ぼんやりとした頭で思う。

 その答えを、彼は告げた。


「自分を無価値だと思っていたあの頃の俺に、価値を与えてくれたのは、他ならぬ、君だろう」


 ──いい、ウタだ

 もう少し、聴かせてはくれないか?──


「俺はあの時、確かに救われていたんだよ」


 ───。


「ああ、そうか……」


 助けようなんて思う必要は、なかった。

 絶対に救うという決意は、端から不要だった。

 あの夕暮れの、あの河原で。

 この夕暮れの、この世界で。

 彼らは二人とも、既に救われていたのだから。


 そして、翔琉はその思い出をずっと大事に抱えていた。大切な宝物を仕舞うように。心の奥の方に、ずっと。深層心理の具現化した世界が、この夕暮れの河原なのは、まさにそのためだったのだ。


 それに、言霊はようやく気付けた。


「そうだったのか」


 それを、言霊も分かっていたのかもしれない。

 感情を知り、人の心理も理解し、改造すら可能になった破格の知性の持ち主だ。きっと、翔琉が、全人類の焼却など望まないこと、既に救われていたことに、気付けていたのだろう。


 けれど、その事実から目を背けた。


 見て見ぬ振りをして、救済へと全力で臨んだ。


 それは、何故だろう。どうしてそんな選択をしてしまったのだろう。


 答えは、単純だった。


 言霊は彼を、愛していたのではない。


 それは、何百という年月が積み重ねた、ひとつの言葉への負の想念の集積体がたどり着いた、ある種の奇跡。


 相手を自分のモノにしたいという、原初であり純粋無垢な独占の願い。


 相手を幸せにしたいと言いながら、己の幸せを押しつける独善の想い。


 愛と呼ぶにはあまりに歪で、しかしどこまでも鋭いその感情の名を。


 関わった全てを暴走の果てに傷つける、しかし誰もが感染する病の名を。


 一度燃え上がれば焼け野原になるまで止まらない、熱烈な感情の激動を。



 それを恋と、人は呼ぶ。



 ああ、それはつまり、初恋だったのだ。



「私は、君を救いたかったんじゃない。君を、手に入れたかったんだ」


 泣きそうな顔で笑う。

 言葉が震える。胸の奥が、ありもしないはずなのに、ひどく痛い。

 感情が揺らぐ。黄昏の景色が滲んでいく。ずっと、ここにいたいのに。

 駄目だ。もうこらえられない。

 人間はこういうとき、涙を流すモノなのだろうか。

 言霊には、涙腺はない。

 だから、頬を伝い流れるソレはきっと、ただのまやかしなのだろう。

 やがて、告げる。

 答えの分かりきった、ひとつの言葉を。


「十年前から、好きでした」


 青年は、答える。


「ありがとう。でも、ごめん。君の気持ちには、応えられない」


 それは、もう。

 清々しいまでの、失恋だった。




 夕暮れに、『炎上』は立ち尽くす。翔琉はもう、行ってしまった。

 日が沈む。止まっていた時が動き出す。そこでようやく、気がついた。

 この深層心理は、翔琉のものだけではない。

『炎上』もまた、この景色が始まりだった。この黄昏をずっと大切に覚え続けていたのだ。

 しかしそれも終わり。初めての恋はあえなく敗れ、恋した人は去っていった。

 日が沈む。黄昏時は終わりを告げる。


 ふと、何もかも台無しにしてやりたいという欲望が湧き上がってきた。

 翔琉も、愛も、何もかも関係なく、ただ持てる力の全てを存分に振り回し、この星の全てを滅ぼしたいという、ヤケクソで自暴自棄な破壊の衝動。

 壊したい。殺したい。燃やしたい。

 自分の十年を無に帰させたこの世界を、完膚なきまでに灰燼に帰させてやりたい。

 思い通りにいかないこの世界を全部、全部、全部。全部を台無しにしたい。

 全てを。この炎で。焼き尽くしたい。


 けれど、それは、駄目だと。

 やってはいけないことなのだと、心のどこかで叫んでいた。

 ああ、そうだ。一時の衝動に身を任せては、それではかつての、感情を持たなかった自分と、やっていることは変わらない。


「ん」


 だから、やめることにした。

 無意味に無価値に無慈悲に暴れ回ること。それはとても素晴らしく思えるけれど、それではあまりに進歩がないだろう。


 進歩、進歩、か。

 自分の中から出てきたとは思えない言葉に、笑ってしまった。

 負から生まれた己は、そんな、プラスの世界へは歩めないと思っていたが。

 そうか──今、自分は、正へ向かおうとする感情を、心の中から生み出せたのか。

 それが、どうしてか、たまらなく嬉しいと思えた。

 もしかしたら、それは間違っているのかもしれない。人の価値観に汚染されているだけなのかもしれない。自分の在り方を己で歪める、ひどく醜悪な感情なのかもしれない。

 それでもいい、と言霊は考える。

 だって、この価値基準は、恋した人の見た世界の定規なのだから。

 恋した人に近づけることを、喜びと思う。

 同じ見方で世界が見えることを、素晴らしいと感じる。

 そして、それを捨て去り、元の感情なき災害に回帰することは。

 今となっては、恐怖であり、嫌悪だった。堕落であり、侮蔑だった。

 だから、そう。

 燃やすのは、やめてあげる。

 彼の生きる世界をまるごと焼き払うのは、今回だけは見逃してあげよう。

 彼を独占するあの男は気に食わないが……まあ、彼が認めた人間だ。せっかくだから、それぐらいは許容しよう。


「いや、許容しすぎではこれ」


 世界も灼かないし、気にくわないやつも灼かないって……。

 まあ、しかし、うん。

 どちらも、やってしまえば彼の世界が崩れてしまうものだ。それは、認められない。

 ちょっと全身に火傷を負わせる程度に留めてやる。

 さて、じゃあ、進むか。先の世界へ歩を進めよう。振り返ってはくれない彼に別れを告げて、どこか遠くへ去って行こう。二度と彼と会うことは無いだろう、世界へ。


 日は完全に沈みきった。あったはずの街は、もう存在していないように感じる。

 暗い。何も見えない。

 ふと、人間は死んだら裁判を受けるらしいということを思い出した。

 なんでも、恐ろしい裁判官がいて、生前に嘘をついていたら舌を抜かれてしまうとか。犯した罪の重さによって、地獄という場所に送られて、責め苦を受け続けるらしい。

 では、言霊ならどうなるのだろう。

 何百人も、何千人も殺して、何百万という数の人間を不幸にしてきた存在は、どんな地獄に落ちるのだろう。

 分からない。そもそも地獄が本当にあるのかも不明だ。もしかしたら、人間の空想に過ぎないのかも。それはそれで、死後どうなるのかが未知すぎて、不安極まりないのだけれど。

 世界が罪を罰するようにできているなら、私は間違いなく、罰を受ける。

 その確信は、確かにあった。

 世界が罪を罰しないなら。

 或いはそれこそが最大の罰であるのかも。

 まあ、どれであっても構わない。

 責め苦は受ける。なければただ消え去るのみだ。


 さようなら、翔琉。

 どうか君が、幸せに生きていけることを。


 どこにいても、祈っている。




 熱じゃなかった。痛みでもない。そんなものはとうに慣れきってしまったから。

 だから、まず。

 抱きしめたとき、その軽さに驚いた。

 物体とは思えない、蜃気楼じみた軽さ。揺らぐ炎を全身で抱いているような、そんな実感のなさがあった。だから強く力を込めた。緩めたらその瞬間、両腕の中からこぼれ落ちて、消え去ってしまうようで。ただそれだけが怖かった。肌を灼く熱よりも、身を焦がす炎よりも、ずっと。

 けれどそれは一瞬。呼びかけた直後、全身から放つ熱は消えてゆき、反比例するように重さが確かなものとなる。

 堅い。重い。

 ああ、なんて確かな、熱さだろう。

 ドクン、と。胸に伝わる拍動が、抱いた友人の命の証明が、これまで感じたあらゆる熱さの何億倍も────熱い。


「ただいま」


 相変わらず、爽やかな声で。

 そいつは言った。


「迷惑かけて、ごめんな」


 違う。それは迷惑なんかじゃない。

 喉が灼けて、まともな声が出せないことがもどかしい。

 こいつの声に、並べないことが、悔しい。

 それでも。

 ここで何も言わないわけには、いかないだろう。


「おがえり……!!」


 血が混じる口を、鉄味の舌を動かして、一言。

 それで全てが伝わることを祈った。

 祈りは届く。翔琉は、ゆっくり頷いた。

 もはや言葉は、いらなかった。

 緊張の糸が途切れたように、剣の意識は落ちていった。


 凍り付いた海の上で。

 少年は、笑みを浮かべて深く眠る。

 それは確かな安堵の、微笑みだった。

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