第十五話 太平洋上水炎決戦③

翔琉かける────!!」



 呼ぶ声が、聞こえた。


「誰?」


 振り向いた先には、誰も居ない。

 浪野翔琉は、9歳の姿で、夕暮れの川辺に立っていた。


「気にする必要は無い」


 隣には、ぼんやりとした何かがある。それは近づくとどこか暖かい、不思議な熱の塊のようなヒトガタだった。


「君はただ、私に委ねるだけで良いの。それだけで、苦しみも、悲しみも、怒りも、全て私が焼き払えるようになる」

「そう、なの」

「そうだよ。さあ、君にとって辛いことを言ってごらん。そうすれば、それを滅ぼしてあげるから」


 幼い翔琉少年は、自分にとって辛いことは何だろうと考える。

 結論は、すぐに出た。


「僕……かなあ」


 そう言って、彼は笑った。

 どこか思い詰めたように。


「僕は、失敗作なんだ」


 浪野翔琉。浪野家の一人息子として生を受ける。父浪野日向なみのひなたと、母浪野良子なみのよしこは、どちらもアスリートであった。

 勘違いするべきではないのは、決してそれだけのために産んだわけではないということ。まっとうな愛の果てに産まれたのが翔琉であり、そこに栄光だの何だのといった打算は存在していない。

 ただ、彼らは走り続ける人生を送っていた。

 そんな人生が生んだ価値観の一つとして、早く遠くまで走れる人間こそ強い、というものがあったというだけ。

 そして、強く逞しく健やかに育って欲しいというのは、親として当然の願いだろう。

 故に、彼らはその名を息子に付けた。

 浪野翔琉なみのかける。飛ぶように、どこまでも、駆けて欲しいという願いの込められた名前。

 そこに、息子にも走る人生を送って欲しいという期待がなかったわけではない。

 けれど大部分は、子の成長を願ったものであったと断言できる。


 誤算があったとするなら。

 不幸があったとするなら。


「翔琉、おっそ」

「ごめん、先行くわ」


 浪野翔琉には、走ることに関する才能が欠片も無かったこと。


「ま……」


 齢8歳にして、彼は自分に走る才能が無いことを理解していた。


「って……」


 記憶の中の彼は、スポーツで一番を取ったことがない。

 いつだって、誰かの背中を追いかけている。


「……やっぱり、やめようか」


 ある日、母がそう提案してきた。

 2年間続けていた、地域の陸上クラブを、やめようかという提案だった。

 翔琉は、恐怖した。

 自分は期待に応えられていない。自分は、失望されている。

 それでは、おいて行かれてしまう。


 タイミングが悪すぎたと言わざるを得ないだろう。

 母は別に、失望したわけではなかったのだ。ただ、誰よりも真面目に頑張っているように見えた息子が、いつも最下位であることに、耐えられなかった。息子にこれ以上、辛い思いをさせたくなかった。


 だが、少年はまだ幼く、母の心境を正確に捉えることは不可能だった。


 ある日、クラブの練習を無断でサボったことがあった。夕方だった。彼はクラブ活動に行くふりをして、河原で水の流れを見ていた。

 土手を越えた向こう側、一番近い家の窓が開いていたらしい。そこから微かに、当時の特撮ヒーロー番組の曲が流れてきていた。


「────」


 知らず知らずのうちに、口ずさんでいた。

 歌うことは、好きだ。曲やリズムに合わせて言葉を発するのは、楽しかった。体育の成績は悪くても、音楽だけは誰にも負けたことはなかった。それはひそかな自信で。


 時刻は夕暮れ。逢魔が時。人ならざるモノと出逢う時間。


「いい、ウタだ」


 声をかけてきた存在が、一年前に起きた火災の原因であり、数多の人間を殺戮し、しかし反撃に遭い自らも著しくその力を衰えさせた、かつての最強最悪だと、幼い彼は知らなかった。


「もう少し、聴かせてはくれないか?」



 死を、強く感じた。

 その時まで、ソレには感情というモノが存在していなかった。ただ、人の悪意から生まれ、無慈悲に無感情に無感動に無秩序に無意味に無価値に人を焼き殺すだけの、機械めいた存在だった。

 けれど、その時、何かが狂った。

 思考を構成する歯車がひとつ、反撃を受けた衝撃で壊れたのかもしれない。

 或いはまだ感じたことのなかった、死、及び存在の消滅という事象を前にして、恐怖が芽生えたのか。

 詳しい理由は、『炎上』自身にも分からない。

 ただ一つ言えるとすれば、『炎上』は恐怖に呑まれ逃走した。


(死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない)


 思考を埋め尽くすノイズ。不必要な言葉の羅列。

 心の底から湧き上がる恐怖。どこまで行っても逃れられない、見えてこない。


(死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない)


 聞こえる、死の足音が。

 死はいつもすぐ耳元で囁いている。


(死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない)


 人間の中に紛れることにした。言葉の溢れる人間社会なら、死の近づく音を聴かずに済むのではないかと考えた。無駄だった。どれだけ人間に紛れても、死の恐怖からは逃げられなかった。


 世界は死に満ちている。


 ごまかせない。真実だった。


「────」

(死に──)


 けれど、その声を聴いたとき。その歌声が聞こえたとき。

 微かに、死の足音が遠のいた。

 夕暮れの河原、一人の少年が歌っていた。

 その歌声を聴いていると、死の囁きが遠くへ行くのに気付いた。

 だから、つい、声をかけてしまった。


「いい、ウタだ」

「もう少し、聴かせてはくれないか?」


 少年が頷く。

 救われた気分だった。いや、確かに救われていた。彼の歌を聴いている間だけは、死を忘れていられた。


「少年、名前は?」

「浪野翔琉。お姉さんは?」

「……さあ。なんて言うんだったかな」

「え、名前がないの? 変わってるね」


 人間ではないから、人間らしい名前はなかった。

『炎上』の言霊というのは人間が付けた識別名称に過ぎない。


「やっぱり、名前がないって不便なのかな?」

「いや、そうでもないよ」


 少なくとも今この瞬間まで困ったことはなかった。


「ふーん」


 少年は頷いて、一言、漏らした。


「羨ましいな」

「羨ましい?名前がないことが?」

「だって……それは、自由ってことじゃないの?」


 そうか、と。

 自分は今、自由なのだ、と。

 ソレは知った。

『炎上』の言霊の絞り滓程度に過ぎないソレは、自由なのだ。

 人間でないから彼らの倫理規範には縛られない。

 力を失い感情を得て、『炎上』の言霊とはまるっきり別物のような存在になってしまった以上、『炎上』の罪で糾弾されることも難しくなった。

 なんてことだ。己は『炎上』の言霊という名前を失った代わりに、今、この世界で最も自由になっている。

 名前は、願いが込められたモノ。その人の本質めいて見えるモノ。

 ならば名前がないのなら。

 何の願いもなく、誰にもその本質を見破れない。

 この世界の誰にも気付かれない存在だ。

 しかし、それは──


「本当に、羨ましいモノなのか、これが?」

「羨ましいよ」


 誰にも期待されないことが。誰にも何も願われないことが。

 誰からも心を知られないことが。誰ともわかり合えないことが。

 羨ましいのか。この少年にとっては。


「……」


 初めて、だった。

 こんなにも、誰かを、どうにかしてあげたいと思ったのは。


「また、明日」


 言葉を紡ぐのに、ここまで苦労したことも初めてだった。


「ここで、会えるかい」


 断られたら、否定されたら、と。そう考えて声が震える経験も。

 返答を待つ間の胸の高鳴りも。

 全てが初めての感覚だった。


「うん」


 少年は、頷いた。


「ああ、良い歌だ」

「音楽で習ったんだ」


「新しいの覚えてきたよ」

「おお、それは楽しみだ」


「今日のはいつもと違う……?」

「ぼかろ?だって。クラスの女子が教えてくれたんだ」


「ごめんね、昨日は来れなくて」

「気にしないでくれ。君がすきに歌っているのを聴くことこそ、私の望みなのだから」


 一ヶ月が経った。


 季節が巡った。


 歌はずっと、その川辺に響いていた。


 恩返しの目処が立ったのは、丁度一年が経った頃だったと、『炎上』は覚えている。

 一年。かつてには遠く及ばずとも、ある程度力を振るえるまで回復するのに要した時間だった。しかしこれでも最速ではあった。家屋や物の物理的な炎上や、有名人や若者のネット炎上を影から煽り続け、『炎上』という言葉への悪意や憎悪、恐怖や忌避といったマイナス感情を燃やさせ続けた。人々が負の想念を込めて『炎上』という言葉を使うたびに、ソレはより強く、より賢く、より強固な存在として回復していった。

 恐怖を知り、胸の高鳴りを知り、感情を得た『炎上』の言霊にとって、放火や炎上煽りは至極簡単なものでしかなかった。

 キャンプファイヤーを絶やさぬよう薪をくべる。

 燃やし続ける。焼き尽くす。もう燃えないほど焼き尽くされたら、新たな薪を探しに行く。

 油を注ぐ。延焼させる。逃げようとも、逃がさない。多く燃えた方が、長く燃えるから。

 風を送る。激しく苛烈に燃えるよう。遠く遠く、広く広く、関係の無い場所まで引火させる。

 何人の人間が死んだのかを、ソレは知らない。

 何人の人間が義憤によってギロチンにかけられ社会的生命を失ったのかも。

 何人の若者の将来が閉じられたのかも知らない。

 ただ、恩を返すためには力が必要であり、言霊が力を得るためには言葉へ向けられる負の想念が必要だっただけのことだ。


 ソレに善悪はない。

 ソレに慚愧はない。

 ソレに恥じはない。

 ソレに後悔はない。


 もとより人ではないのだから。


「さあ、教えてくれ」


 準備は整った。今なら道具なしに人の数十人燃やすことなど造作も無い。

 彼の願いが何であれ、叶える自信は確かにあった。


「恩返しがしたいんだ」


 問いかける声はひどく優しかった。


「君の願いはなんだ?」


『炎上』の言霊は、夕暮れの川辺にいた。


「何も気にする必要は無い」


 隣には、小さな少年が一人いる。


「君はただ、私に委ねるだけで良いの。それだけで、苦しみも、悲しみも、怒りも、全て私が焼き払えるようになる」

「そう、なの」

「そうだよ。さあ、君にとって辛いことを言ってごらん。そうすれば、それを滅ぼしてあげるから」


 幼い翔琉少年は、自分にとって辛いことは何だろうと考える。

 結論は、すぐに出た。


「僕……かなあ」


 そう言って、彼は笑った。

 どこか思い詰めたように。


「僕は、失敗作なんだ」


「だから、僕を消してくれたら、うれしいな」


「違う違う違う違う違う違う違う。消えるべきは君じゃない君じゃない君じゃない君じゃない君じゃない」


 間違ってるのは世界の方だ。燃えるべきは世界の方だ。消え去るべきは世界の方だ。


「そうか。この世界では君は生きてゆけないのか。わかった。なら、私が変えてあげる」


 その日、ソレは決意した。


 翌日から、少年の前に、ソレが現れることはなくなった。


「どこにいったのかなあ」


 少年は、やがてその記憶を忘却する。

 一方の『炎上』は、孤高に生き続けた。

 全ては己の夢のために。


 この星を焼き尽くす。

 あらゆる命を灰に帰す。

 彼を傷つけうる全てを、滅ぼしてみせる。

 彼が笑って過ごせる世界は、そこだけなのだから。


『炎上』は、言霊だ。感情を得ようがそれは変わらない。

 人とは絶対に相容れない存在なのだ。

 共感など不可能。理解など無価値。

 弱さを知り、強さを取り戻し、それでも変わることはない。

 あらゆる結果が破滅に帰結する。傷つけ合う形でしか、何も為せない。何故ならば、傷つける言葉から、或いは傷つけられた言葉から生まれたのが、彼らなのだから。


「翔琉。私はあなたを救ってみせる」

「翔琉!! 目を覚ませ!!」

「うるさい言葉などに耳を傾ける必要は無いわ」


 夕暮れの川辺。少年と、何かが立つ。雷鳴めいて轟く声は、少年の耳には届かない。そっと優しく、耳を閉じる。

 背後に立った何かが、翔琉の耳を包んでいた。



「くそッ!聞こえてないのか!?」


 外から見て、翔琉の体に変化はない。呼びかけても何も変わらない。その事実に、剣は焦りを強く覚える。


「そもそも自我は本当に残ってんのかよ!?」

「残ってるに決まってる!! あいつがそんな簡単に自我を失うわけないだろ! 竜哮るこ、頼む!! もう一回だ!!」

「ッ!?待て、来るぞ!!」


 竜哮がその前兆を捉えた。『炎上』が、動き出す。


「うるさいぞ、人間。まだ邪魔をするか」


 ああ、まただ。せっかく彼に取憑いて、完全な同化を果たそうとしているのに、邪魔が入る。先程の人間もかなり騒いでいたが、こちらはまたひどくうるさい。消えてくれ。集中しなければいけないんだ。

 ここからはより精密な改造が必要になる。ここまでの肉体の組み替えとは訳が違う。ここで失敗すれば全てが水の泡なんだ。ああ駄目だ。それだけは駄目だ。彼を救わねばならない。


「その邪魔をするなら、焼き尽くす」


 爆発と炎の放出が連続した。七海が展開していた氷の世界は瞬く間に溶かされ、むしろ海が沸騰し始める。その上空を飛行しながら、竜哮は叫ぶ。増幅された震動を操り、翔琉へと呼びかける。時に彼女に炎熱の放射が命中するが、全て無効化していた。


「は、炎如きに焼かれてたまるかよ、俺様はドラゴンだぜ!?」


 竜の鱗は熱に強い。空想の中では常識だろう。


「翔琉!聞こえないのか、翔琉!?」

「絶対離すなよ、そーど! おい、翔琉! 目を覚ましやがれ!! ここにいんのが誰か分かってんのか!?」


 剣の声では声量が足りないのかもしれない。そう判断した竜哮が更なる大声で叫ぶ。単なる呼びかけではない。その言葉は震動を放ち、『炎上』の爆発すら粉砕する。

 けれど、変化は見られなかった。

『炎上』は静かに腕を掲げる。掌が赤く輝いた刹那、炸裂する熱閃光。ビームの如き一撃は稲妻の速さで竜哮に届き、鱗へ熱を浴びせ続ける。


「竜だからなんだ。超高熱で焼き尽くしてやる」


 竜哮自身にダメージはなくとも、その熱は背中に騎乗する剣にとって致命的すぎた。


「が……ァッ! の……ど、が……!?」


 声が掠れる。口を開けた隙に熱せられた空気を吸い込んでしまったらしい。ガラガラの声しか出せなくなる。


「剣!? くそ……俺様は無事でも剣が持たないかよ!? 咆哮も聴いてねえみたいだし……どうなってやがる!?」


『炎上』の肉体は既に人のソレではないらしい。竜哮の放つ震動の攻撃が、何のダメージにも繋がっていなかった。


「か……けるゥッ!!」


 それでもなんとかしようと、呼びかけるために身を乗り出した剣。竜哮はギョッとしながら、尻尾を使い押しとどめようとする。


「馬鹿、身を乗り出すな!」

「遅い、そこか!!」


『炎上』が再度の熱線を投射した。狙いを付けて放ったはずだが、投射直前にブレが生じたのか、目標二人から大きく外れた空を灼く。


「外した!?」


 死を覚悟した二人が驚きの表情を露わにする。一方の『炎上』は憎々しげに二人を睨んだ後、僅かに痛む右手を掴む。


「ぐう……ブレたか……先程のが響いているらしい……安心しろ、翔琉。次は外さない」


 狙いを定めようとするから外すのだろう。そう結論した『炎上』は、次の手を選択した。

 すなわち、絶対に外さない一撃。

 全方位への熱放出である。

 点で駄目なら面での攻撃で制圧する。効率的にして無慈悲な選択だった。

 纏う焔が耀きに変わる。地上に太陽があるのではと、そう錯覚させる程の熱エネルギーが装填される。もう翔琉の体も『炎上』の表情も光に包まれて認識できない。

 蓄えられていく熱に、竜哮が悲鳴を上げた。


「何だ、あの熱量……!?俺様の鱗が、熱さを感じてるんだが……ッ」


 距離を取ろうと羽ばたくが、遅い。

 竜の翼でいくら飛ぼうが、必ず追いついて焼き尽くす。そんな殺意の籠もった必殺の閃光。

 投射まで、3,2,


「視界全て、灰燼に帰せ」


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