第十四話 太平洋上水炎決戦②

「まさか、ドラゴンに乗って空を飛べる日が来るとはな」


 雲の上で、そーどが言う。

 雲の上だ。彼ら二人は今、空を飛んでいる。剣は漆黒の鱗に掴まっていた。では、竜哮るこは? 彼女こそ、剣を乗せて空を飛ぶドラゴンだった。

 喉の竜化に止まらず、彼女は全身を竜化させたのだ。

 漆黒の竜鱗で全身を覆った西洋竜。巨大な翼を振るい、風を掴んで空を飛行している。


「絶対に離すなよ」


 竜哮の声が届く。超高度にあっても、彼女の声はきちんと届いた。


「竜哮の能力は音の操作ではなく、音を操作する事ができる竜の声帯の具現化だったとは」


 音の操作は副次的なものに過ぎず、本質は竜化にあった。それに気づいたことで竜哮は能力をブーストさせ、全身をドラゴンとすることに成功したのだ。

 思い込みでも何でも無く正真正銘、彼女は今、竜だった。

 歩行能力を封じられた剣は、彼女の背に乗ることで、七海と『炎上』を追跡できていた。


「! 掴まっていろ!」

「うおゥッ!?」


 真横の雲を抜けて迫ってきた飛行機と衝突しそうになり、ぎりぎりで回避に成功する。

 危なかった。時刻は夜だ。雲の上とはいえど視界は決してよくない。気を付けねば。

 ふと、剣は呟く。


「……パイロットにトラウマ植え付けたかな……」

「いや、以外とこういう不思議なのはありふれてるぜ。空飛ぶ能力者とか、未確認生物とか。向こうもまたか、って気分だろ」

「そういうものか……」


 なんて話ながら、戦場へと向かう。


「で、作戦通りやるんだな」

「ああ」


 到着次第、剣の言った内容を竜哮が咆哮し、『炎上』に語りかけ、中にいるだろう翔琉かけるの自我を呼び覚ます。

 肉体の主導権を翔琉が握れるようだったら、彼に握らせる。その上で、交渉によって『炎上』や七海との和解を目指す。

 難易度が限りなく高いのは分かっている。しかしこれしか方法はない。

 七海も『炎上』も勝たせないやり方は、これだけなのだ。

 必ず成功させなければならない。

 ゴクリ、と。剣は唾を飲み込む。


「やるぞ。絶対成功させる!」

「あァ、必ずだ!……おィ、ありゃ、なんだ……ッ!?」


 意気込んだ二人はその時、宇宙にすら届きそうな、有り得ざるソレを見た。

 星空を背景に、それは赤く輝いていた。


「…………けん…………!?」



(……命中……幻とか、熱操作による蜃気楼ではない。確かに命中させたわ。なのに──)


 七海は、初めて。

 生まれて初めて、冷や汗のなんたるかを知った。

『炎上』の言霊は、姿勢を元に戻す。

 その額には、弾丸があった。

 貫通していない。致命傷には、届いていない。


(皮膚の強度が想定以上だったとでも言うの!?)


 彼女の渾身の弾丸は、鋼鉄程度容易く撃ち抜く。にもかかわらず、ダメージはゼロ。

 ニイ、と。

『炎上』は笑う。


「ここで、攻守逆転だな」

(させない!!)


 再びの弾幕は、しかし全て強靱すぎる皮膚に弾かれた。


(嘘……ッ!? こんな防御ができるなら、最初から躱す必要なんてなかったじゃない!?)


 言霊は右手を空にかざす。その掌から、熱が放射された。赤を越えて青も超えて、白色の炎が剣のように出力される。否、単なる炎ではなかった。それは、正真正銘、炎を纏う剣である。材質は、鋼か、或いはより恐るべき何かか。

『炎上』の言霊が有しており、炎熱、爆発に次ぐ、この戦いで見せた第三の能力だった。すなわち、武器の創造である。


「古来より、火は生産や加工の象徴だ。鍛冶の神は、即ち焔の神である」


 その剣は雲を穿つほどの巨大さであった。穿たれた雲の穴から、星空が見える。

 にたりと。『炎上』は勝利の笑みを浮かべる。

 視線は海中へと向けられた。海の中の一点。視力が届くはずもない一座標へ。


「ただ躱しているだけだとでも思ったか?」

(まさか)


 そこで、七海は呻く。全身の毛という毛がゾワリと逆立つ。


(追い込んだようでいて、追い込まれていたのは私の方──)

「勝ったと思った瞬間が、最も油断するらしい」


 回避していたのは、油断を誘うためだった。

 七海の油断を誘い、命中したと思わせて、一瞬緩んだ気配の遮断を見逃さなかった。

 故に、逃さない。

 右手の炎剣が、振り下ろされる。



 ──モーセが手を海の上にさし伸べたので、


 主は


 夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、


 海を陸地とされ、水は分かれた


 ──出エジプト記第14章21節


 炎が、海を割った。温度変化の無効化も、大質量の衝突には無力だった。

 炎剣は爆発を伴いながら速度を何倍にも加速させて、海を侵略する。狙いは只一人。

 海底に潜んでいた、七海愛海ななみあくあを。

 海中に展開した氷壁も、海流操作による障害も、触れた全てを藻屑と化す海も。

 全てを切り裂く。

 破壊する。

 剣は海底にも届き、母なる星の柔肌に傷を刻んだ。

 しかし、七海は捉えられなかった。防御策を駆使して僅かに速度を緩めさせた隙に、海流を操り超速で回避に成功していた。


(危ない──躱せた)

「と、思うなよ?」


 逃さない。

 炎剣が、炸裂する。

 隙を逃さぬ二段構え。

 爆破の衝撃のみではなく、炸裂した剣の欠片が、魚雷の如く全方位に放たれた。今度こそ、逃げ場はない。


(く……そ────!?)



 衝撃が収まった頃、『炎上』はゆっくりと背後を向く。


「ようやく穴熊をやめたな」

「あなたが全部吹き飛ばしてくれたのよ」


 凍らせた海面に、七海愛海が立っている。爆破の衝撃と、飛び散った破片の数発の直撃によって、その姿はぼろぼろだった。

 しかし、出血はない。水の操作によって形成した水膜で、出血を抑えている。


「油断したわ」


 彼女は認めた。


「でも仕方が無いじゃない?だって、ようやく復讐を果たせたと思ったのだもの。そりゃあ、気も緩むわ」


 ふう、と。溜息をつく。


「それにしても、あなた本当におかしいのね。まるで本当に感情があるみたい」

「……あるさ。そもそも──」


『炎上』は、余裕の表情を消しながら言う。


「言霊に感情がないなどと、誰が言ったんだ?」

「こっちでは常識だけど」

「その常識は誰が言ったのかと聞いているだろう」

「……ああ、もしかして私たち、騙されていたの?」


 言霊は、言葉から生まれたものだ。非常に流暢に喋るモノも多い。

 感情があるように見えるモノも。

 それを、はたして殺せるのか。

 犬や猫を殺すことにも抵抗を感じるのが人間だ。人に害を為すとはいえ、犬猫や獣以上の知性を有する存在を、何の躊躇もなく殺せるだろうか。

 そうした迷いを無くさせるために、上層部は『言霊に感情はない』という言説を戦闘要員へと教え込んでいた……のだろうか。


「まあ、それはある意味では正しい。私も十年前までは、感情というモノを持たず、ただ人間を殺すだけの、そう……機械のような存在だったよ」

「……今は違うの」

「愛を知った」


 世界が止まったような衝撃だった。

 七海の表情が凍る。周囲の氷が、ピシリ、と音を立てて砕けた。

『炎上』は続ける。


「あの日、死にかけた私は、死への……存在の抹消への強い恐怖を覚えた。そして、その恐怖に追われるまま、ひたすら走り続け────その果ての地で、恐怖を和らげる、救いに出会った。その時の、心の高鳴り、高揚……それが、愛であったのだ」


 見間違いだろうか。器である翔琉の顔が喜悦に歪む。頬は紅潮し、興奮しているように見える。


「それから更に数年間かけて、私は愛を証明する術を得た」


 さながらその表情は、瞳は、口元は、言葉は。

 恋する少女にも似て。


「私は今日、我が愛を証明する」

「吐き気が……するわ」


 それを、七海は絶対に受け入れられなかった。


「愛……? 愛、アイ。あい……ふざけないでくれるかしら。そんな戯言を聞くためだけに、私は十年間生きてきたわけじゃない」

「十年間……ああ、そういえばさっき、復讐と言っていたな。お前、あの中に縁者がいたのか」

「ええ、居たわ。お父さんとお母さんが」

「ならば、感謝しなければならぬかもな」

「……は?」


「彼らの奮戦があったおかげで私は死を間近に感じ────この素晴らしき感情に、愛に出会えたのだから」


「……その戯れ言を、やめろォオオオオオオオッッッ!!!!」


 激昂。常に余裕を崩さなかった、日本最強の、それは絶大な感情の発露だった。

 憎しみ、怒り、殺意。あらゆる感情がごちゃ混ぜになりながら、端正な顔面に混沌を描く。

 視界の海面全てが白く凍る。世界に第二の北極を生むのかという勢いで、氷の世界が前方に広がる。それだけではなかった。彼女の後方には雲にも届く大波が発生した。ノアの方舟の神話で、神によって引き起こされた大天罰を思わせる大波だ。

 波が、全てを押し流そうと迫る。

 七海もまた、氷の地平を走り出した。右手には、氷の刃が握られている。

 異常な速度だった。一瞬で、『炎上』との距離がゼロとなる。

 彼女は人体の水分も操れる。それによって、人体を動かす上での限界を超えた挙動を可能としたのだ。思った通りに肉体を操作する、水分操作の応用だった。

 最速の竜哮すら超えて、音速を突破した彼女は、刃を以て復讐を果たそうとする。

 振り上げた氷の刃で、首を落とそうと迫った七海は。

 その刹那の時の中で、聞いた。

 恍惚とした、一言を。


「誰かを愛するというのは、素晴らしいぞ」


 首を狙った一撃は、届かない。

『炎上』の言霊は、ノーモーションで爆発を起こすことができる。

 熱と、圧力。莫大なエネルギーが全身を襲い、少女の体は為す術もなく吹き飛ばされて宙を舞った。

 しかし、氷に叩き付けはされなかった。水分操作によって肉体に最適な動きをさせ、完璧な着地を果たす。

 そんな彼女を追い越して、大津波が言霊を襲った。

 襲うはずだった。


「第四の能力だ。触れた物質及びその周辺の温度を上昇させる」


 津波が一瞬で蒸発させられた。

 温度を保たせる能力と、温度を上昇させる能力の激突だったが。

 精神的にも体力的にも疲弊した七海では、押し負けた。

 いや、仮に七海が全力を出せていたとしても負けていただろう。

 なぜならば。


「人間も言霊も同じだ。誰かを想うとき、無限の力を引き出せる」


『炎上』の言霊は、愛を知っているのだから。


 だから、なんだ?


「ふざけるなよ……?」


 愛を得た。無限の力を引き出せる。

 だからなんだというのだ。


「殺す」


 氷の刃を逆手に構え、殺意を極限まで研ぎ澄ませる。


「これは両親の鎮魂のためとかじゃない。私は他者を言い訳にしたり、力を引き出すための蛇口としては扱わない。……ただ、そうしなければ、私はどこにも進めないから。だから殺すわ」

「なるほど。わからん」


 七海の怒りも殺意もどこ吹く風。愛に酔う『炎上』には届かない。むしろその存在が炎であるのなら、向かい風もどこ吹く風も、己を猛り上がらせる燃料供給でしかない。


「はぁぁッ!」


 氷の斬撃は、薄皮一枚すら切り裂けない。皮膚の強靱さに阻まれ、停止する。


「効かないな。先程の水の弾丸を忘れたか?

 ついでにもうひとつ問うが、失敗したとわかったなら即座に下がることを勧めるぞ」


 僅かな空気の乱れ。研ぎ澄まされた七海の肌感覚が危機を捉える。咄嗟の跳躍。次の瞬間には、先程まで彼女の頭があった場所で爆発が起きている。


「……ッ。なら!」


 斬撃のみではない。氷塊による押し潰しや海流による天変地異、超高圧水流による切断や貫通を試みる。しかし、もはや油断を誘う必要もなくなり、手加減をやめた『炎上』には、届かない。

『炎上』が明かした第四の能力『触れた物質及びその周辺の温度上昇』は、氷塊も水流も悉く全て蒸発させる。七海の攻撃は、通らない。


「相性が最悪だな。だが、当然と言うべきか。冷や水を指す程度の水では、燃え盛る我がねつは鎮められんよ」


 勝てない。

 七海の操る水だけでは、どうしても『炎上』は倒せない。

 それがわかった以上、躊躇はなかった。



 刹那。

 雲が、砕けた。

 空を覆い、星空を隠していた雲が裂ける。空が裸になり──それが、見える。


 何故、七海は今日この日に『炎上』との決着を望んだのか。その理由が、明かされる。


 彼らが目にしたのは、輝きを纏いながら落下する、巨大な氷の塊だった。



「とうとう、切るのか」


 都民の多くが、空を見上げていた。彼らの視線の先には、空を横切る彗星がある。星空を背にして、駆け抜けていく、一つの奇跡のような景色が。

 見上げる群衆に混ざっていたスーツ姿の年齢不詳な男は、それが別の意味合いを持っていると知っていた。あれは、単なる自然現象ではない。無論、地球の近くを通り、肉眼で観測出来るのは、偶然起きた出来事だ。しかし──本来のルートから、僅かにそれている。墜落こそしないが、明らかに何らかの干渉を受けている。

 鍛え上げられた風間の瞳が、地球上の誰よりも先に、彗星に起きた異変を捉えた。

 最初は、小さな亀裂だった。

 彗星は、氷でできている。氷もまた、水分だろう。ならば、七海の能力で操作できる。

 亀裂は広がり、本体からすればひどく小さな、それでいて人体と比較すれば巨大な破片として、分離する。

 さながら、航空機から放たれるミサイルのように。

 平然と宇宙へ駆けていく彗星からそれ、何かに引きずられるように、地上へと、墜ちる。


 ある人はそれを見て、美しさに震えた。


 ある人はそれを見て、歴史的な瞬間に立ち会っているのだと声を上げた。


 ある人はそれを見て、為した人間の異常さに震え上がった。


 ある人はそれを見て、冗談だろうと呟いた。

 さながらそれは、天から墜落するルシファーを描いた絵画にも似て。



「有り得ん……!!ふざけるな!!」


 ニュースを見ていた司令は、怒号を上げた。

 端正な銀の髭は怒りのあまり歪んでいる。


「七海愛海……!! 力の申請を偽っていたな! 今すぐ奴の戦いをやめさせろ!! あれは、あれは……」


 脳裏を過ぎる最悪の未来。

 振り上げた拳を、高級そうな机に叩き付けて、叫ぶ。


「この国も何もかも破壊できる、悪魔そのものだ!!」


 隕石落下を人為的に引き起こせる。その危険性を、理解できない人間はいない。

 七海は、その気になれば地球すら破壊できる。そう、証明してしまったのだ。

 今はまだ、その存在を知る者は少ないだろう。この一件だけでも、ギリギリ隠蔽できなくはない。しかし今後、何らかの事件によって、彼女の存在が世界に明かされたらどうなる?

 戦争が起きるだろう。彼女を巡って、世界が割れるのは想像に難くない。七海愛海という人間が死ぬまで、誰にも安心できない時代が到来するのだ。いや、死のうとも戦争は終わらない。人は、個人で核以上の戦力を持てる。その事実は、世界大戦による人類の終焉を招くには十分すぎる情報だ。


「世界が知る前に、殺すしかない……あれは、生きていてはいけないのだ……!!」

「ええ。だからこそ、ですよ」


 ガチャリ、と。扉が開き、スーツの男が入ってきた。

 風間風人。七海愛海の師である。相当急いでやってきただろうに、息切れ一つとして起こしていない。尋常ならざる実力が、そこからも垣間見えた。


「風間……今すぐ、殺せ……!七海を、殺せェ!!」


 狂乱する司令。かつての落ち着きも聡明さも、その表情からは読み取れなかった。


「その必要はありませんよ」


 カツカツと足音を立て近づく。司令を落ち着かせるよう、その背中をさする。


「十年前と同じです。管理できない能力者は、まとめて合法的に死んで貰えばよいでしょう」

「そうか……!その手があったか!!」

「ええ、そうですとも」


 風間は、司令にゆっくりと伝える。


「彼女も、同じようにすれば良い。憐れな両親と同じように、『炎上』を用いて同士討ちにでも持ち込ませればよいのです。……そうできるよう、私が育てたのですから」

「……そう、だな。ああ、そうだ。あのときのように……」

「ええ。殺させましょう」

「だが、だがだぞ。仮に『炎上』でも殺せなかったら、どうする……?」

「まさか」


 あり得ない、と。

 風間は言う。そんなことは幻想だ。『炎上』が七海を、殺しきれないはずがない、と。


「あれは我が同胞を虐殺した災害です。七海では、殺せないでしょう」

「……そうか」


 ようやく落ち着いたようだ。司令は深呼吸しながら、テレビを見つめる。画面の奥ではニュースキャスターが、分裂した彗星について専門家と白熱した討論を行っている。

 言葉の違う、異世界の風景のように見えた。


「ええ。そして、仮に七海が『炎上』に惨敗したとしても、他にやりようはあります。既に風魔の手の者が、某国に潜んでいますから。核実験の体で、あの海域の全生命を死滅させる手はずは整っています」


 用意は万全だ。どちらが勝とうが、世界の流れは変わらない。


「全て私の絵図の通りです。あなたは安心して、ほら、コーヒーでも飲んで知らせを待っていてください」

「頼む、頼むぞ風人……!」

「ええ」


 東京のビルの一室で、黒幕は笑う。


「全ては、この都を護るために」



「彗星」


 黒幕の会話を知らずに、七海は蕩々と語る。

 その能力の真骨頂を。彼女が何故今日、決着を付けることを選んだのかを。


「宇宙空間は極寒の世界。氷に包まれた岩石なんてたくさんあるわ。あれは丁度今日、地球に近づいていた彗星。私の能力の射程は、地球の直径とほぼ同じだから、当然彗星にも届いた。後は、それの纏う水分を操って砕き、分裂させるだけ。彗星本体は空を通ってどこかに行くけど……その破片は此処に墜ちる。サイズは直径40メートル。質量の正確な計測はできていないけど……まあ、どうなるかはあなたでもわかるでしょう?」


 それは、まさに人智を越えた神の御技に他ならなかった。

 ツングースカ大爆発……いや、2013年にロシア連邦ウラル連邦管区のチェリャビンスク州付近で発生した隕石落下の方が記憶に新しいだろうか。2013年2月15日、直径17mの小惑星が地球の大気圏に突入し、9時20分26秒に上空15kmから50kmで爆発。莫大な閃光と衝撃波を放ちながら複数の破片に分裂して落下したという事件である。

 この隕石の分裂により発生したエネルギーは、NASAによるTNT換算では約500キロトンと見積もられている。広島型原爆の30倍以上の数値である。


 そして、隕石のサイズは数メートルから15メートルだ。


 もう一度言おう。数メートルから、15メートルだ。


 では、今二人の頭上から墜ちてくるこの巨岩のサイズはいくらか。


 大元の彗星から水分操作で切り取った張本人である七海が言った数値は、40メートル。


「最初から、これを狙っていたのよ」


 神域の偉業。

 七海愛海がこの戦闘中に講じていた、正真正銘、最後の切り札。

 単体で核兵器に匹敵する戦力であることを、彼女は世界に示していた。

 暗黒の空を背景に赤熱する星が迫る。それは如何に美しく見えても、破壊しか為さない岩石落下。怒れる神の振るいし鉄槌。既存文明のリセットボタン。かつて地上を支配した竜の生態系すら一掃した、破滅の災害に他ならない。

 意志持たぬ岩石は、超高度からの落下により、災厄そのものとして地上を穿つ。

 七海は告げる。神の言葉を通訳した預言者のように。


「逃げることを勧めるわ。それとも、あなたの下らない愛とやらで、これが砕ける?」


 挑戦、或いは破滅の宣告。

 対する『炎上』は、それを眺めていた。やがて右手を掲げる。僅かに震えていたそれを、左手で押さえた。


「無論。安心しろ、翔琉。大丈夫だ。愛にできることはまだあるとも」


 その囁きは、あまりに優しく、穏やかで。

 掲げた右手に、光が宿る。


「なに、どれほど規模が大きくなろうと、所詮は単なる火力勝負。これで、終わりだ」


 それは後に海底火山の噴火であると扱われた。

 天の神の鉄槌を迎撃したのは、単純なる火炎の放射。しかし熱量は桁外れていた。地球上では有り得ない熱量──摂氏400万度を超えている。

 計測器が悉く振り切れていく。輝ける洪水が空を犯す。星が掻き消え、赤熱する鉄槌に、光の奔流が突き刺さる。

 膨大なエネルギーの衝突。耀きの柱が、砕かれる。彗星の落下は、止まらない。が、明らかに減速した。超高熱が星を灼く。表面が誘拐される。ヒビが生まれた。熱が、鉄槌を陵辱する。加速度的に融解が進む。


 ある者は、目を見開いた。

 ある者は、笑った。

 ある者は、膝をついた。


 砕ける。最後の一手が。溶け落ちる。宇宙からの鉄槌が。

 焼き尽くされて、消滅する。


「火力で私に挑むなど、愚かであると思わなかったか?」


 火力の究極は、右腕を下ろす。

 万策尽きた。もはや七海愛海に、『炎上』に挑めるだけの手札は存在しない。

 水の操作という基本を極限にまで極めてもなお、『炎上』には届かなかった。

 それでもなお、彼女は顔を逸らさなかった。


「何故、ここまで強い」

「誰かのために戦っているからだ」


『炎上』が乱雑に腕を振るう。発生した爆発が七海の体を打ち据えて、海の中へと落とした。少女の体は仰向けに浮かぶが、動かない。

 動けない。限界にまで疲弊していた。


(ああ……駄目だなあ、本当)


 自分が間違っていたとは思わない。

 自分より相手が優れていただけだ。


(誰かのために……か)


 ずっと、一人で戦い続けていた。仲間は切り捨て、友は作らず。ただ、復讐だけを追い求めていた。足手まといはいらないという言葉で、手を差し伸べてくれたあらゆる人々を撥ね付けてきた。

 恋も、青春も、娯楽も、友情も、絆も、趣味も、何もかも。

 あらゆる全てを、捨ててきた。

 私は一人でいい。

 誰の理解も助けも求めない。

 私の復讐は、私の人生に納得を得るためのものでしかないから。誰かのためではなく、自分のための復讐だから。

 その完遂のためには、誰かの大きな協力を得るわけにはいかなかったのだ。

 しかし、こうも思ってしまう。


(もしも……あのとき)


 彼女の喉を潰さなかったら。

 彼の足を壊さなかったら。

 ……必要ないと拘らずに、協力を求めていたりしたら。

 この場で立っていたのは、はたして誰だっただろう。

 或いは、己が怠惰だったのかもしれない。人事を尽くして天命を待つとはいうが、ならば七海は仲間作りという人事を怠けたとも言えるだろう。勝敗を分けたのは、そこの差であろうか。

 いずれにせよ、孤独に戦い抜いた七海愛海は敗北した。最強の覚醒者の初めての敗北だった。

 そしてそれは、人類の終わりも意味する。なぜなら、最強でも歯が立たない最凶は、強さという分野においては、他の誰にも止められないからだ。


(愚かだなあ……)


 全てを切り捨て、駆け抜けた先で、人類の破滅を決定づけてしまった。

 ああ、本当に。


「こんなことばかりの、人生だったなあ」


 声が、震えた。

 視界が霞む。

 悔しさに頭が沸騰しそうだ。情けなさに心臓が割れそうだ。

 頬を伝うのは、汗でも海水でもなかった。

 腕で、拭う。晴れた視界に、星が見える。

 そして、同時に。


「え?」


 全天を埋め尽くす、一体の黒い竜。



「翔琉────!!」



 呼ぶ声が、聞こえた。

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