第十二話 最強

 二人は──剣と竜哮は、並んで歩いていた。

 剣の脇を車が通っていく。

 今晩が最後。その意味が重くのしかかっているようだった。

 ぽつり、と。

 剣が言う。


「そういえば、文章、教えてやれなかったな」

「ん……ああ、そんなことも言ったけなァ……。明日か明後日から、教わることにしよう」

「……だな」


 弱気になって諦めていた自分を反省する。

 この一晩で、必ず、戦う力を手に入れなければならない。

 竜哮に、教えてくれたお礼として、文章の書き方をレクチャーしなければいけないし。

 何よりも、翔琉から日常を奪った相手に、落とし前を付けさせねばならないから。

 相手は、日本最強の言霊だ。無能力者のままでは落とし前など付けられない。

 今日で、覚醒しなければ。

 歩いていると、ポツポツと雨が降ってきた。予報では晴れのはずだったのに。傘を持っていなかったから、急いで雨宿りの場所を探す。幸い、市民公園に休憩用の東屋があった。急いで逃げ込む。雨は、更に勢いを増した。


「ゲリラ豪雨ってやつか。びしょびしょだな」


 うへえと呻きつつ、バッグからハンカチを出した。竜哮に渡す。


「あんまり役に立たないだろうが、ないよりはマシだ。拭いときな」

「おう、ありがと」


 椅子に腰掛け、雨を眺める。

 雨粒は勢いを増し続けている。数メートル先も見えないほどに。


「……特に確かな根拠はないんだが」


 顔を拭いながら、竜哮が言う。


「今日なら、お前も覚醒できそうな気がするぜ。」

「マジか」

「マジだ。12人の覚醒者のうち、7人が雨の日に覚醒してるからな。12分の7だぞ。結構確率高くないか?」


 母数が少なすぎてなんとも、なんてマジレスは無粋だろう。


「高いな。うん、頑張るか」


 彼女なりにプレッシャーを減らそうとしてくれたのかもしれなかったのだから。


「竜哮も雨の日だったのか?」

「そうだな。俺様が、自分が竜の末裔だと自覚したのも、雨が降ってる日だったよ」


 過去を見つめる瞳だった。懐かしいとかそういうものではなく。どこか、無表情に彼女は懐古していた。


「兄がいたんだ」


 ポツリと言った。


「血は繋がってなかったけどな。俺様は、養子だったんだ。本当の親は、どこかに行っちまったんだってさ。多分、人間界では生きていけないから、竜の世界に戻ったんだろうな」


 困ったもんだぜ、と彼女は笑った。

 剣は、その時ようやく気づいた。竜哮が本気で、心の底から、自分がドラゴンの末裔なのだと信じていると。14歳頃の精神に特有な病とかではなく。

 狂っていた。彼女は、既に狂じていたのだ。

 過去を語る竜哮が、これまでの比ではないほど歪に見えた。

 だからどうした。竜哮は竜哮だ。見えなかった一面が見えるようになった程度で、好感度が簡単に変わったりするものか。

 剣は、頷き、相槌を打ちながら、続きを聞く。


「あの日も、雨だったよ。虫取りに行った俺様と兄さんは、帰り道でそいつに遭った」


 言霊に。

 人智を越えた怪物に。


「兄さんは俺様を庇って……死んだ。俺様はその時知ったんだ。助けを待つだけじゃ駄目だ。自分の力で解決できるようにならないといけないってな。特にお前達人間はそうだ。俺様達に助けられるのを待つだけでは、死ぬ。自分で助かれるようになるべきだ」

「だから、俺にここまで教えてくれたのか」


 覚醒の手引きをしてくれたのも。

 言霊を始めとする世界の裏側を教えてくれたのも。

 全て、彼女の優しさからくるものだった。

 自分と同じ経験をする人間を増やしたくないという思いからくるものだった。


「だが……これまで覚醒した奴は一人だけだ。他は皆、護身の力は得られなかった」

「その一人って?」

「お前みたいな奴だったよ。人助けのためなら己の全てを投げ出せる女だった」

「それは……俺みたいな奴ではなくないか」


 別に全てを投げ出したりはしていない。そもそもそこまで人助けをしてもいない。


「向こうの人に失礼だよ」

「くく……くはは」

「む……なんで笑うんだ。笑う要素あったか?」

「いや……彼女も同じ事を言いそうだなと思っただけだ。そうかそうか……」


 ひとしきり笑ってから、彼女は立ち上がる。


「あいつとここまで似てるんなら、覚醒できるかもな。……時間が惜しい。雨も止みそうにないし、始めるか」


 見れば、確かに止む気配はなかった。


「にしても最終日だってのにここまで降るとはなァ……。ゲリラ豪雨とはツいてねえ」


 呟いて、何かに気付いたように目を見開く。


「豪雨……まさか」


 頬を伝うのは、雨ではない。それは冷や汗。恐怖や焦燥から生まれたもの。

 バッと剣の方を見て、叫ぶ。


「早く、行け……ッ!」

「行くってどこに」

「どこかだ!ここにいるな!さっさと──」



「あら、困るわ」



 言葉が、 響く。

 雨が、 開けた。

 そう、開いたのだ。モーセが海を割ったように、等しく周囲を濡らす雨が、二つに分かれて道が開く。

 その道から、向こう側から、歩いてくるのは覇者の姿。日本最強が、降臨する。14分35秒前、日本からほぼ全ての言霊を消し去った怪物が。化物を食い尽くす、真の怪物が。少女の姿の中に、神の如き力を宿した存在が。

 生物としての位階の差を突きつけるように。

 指先一つすら使わずに天候を操る。すなわちそれは現人神。

 遍く水を司る者。


 七海愛海ななみあくあが。

 歩いてくる。


「私に隠れて内緒話?」


 動けない。

 黒髪がさらりと流れる。スラリとした足が一歩一歩、地を踏みしめて近づいてくる。

 心臓が高鳴り、口が渇く。

 恐ろしい。

 竜哮は今、真の恐怖を感じていた。

 七海愛海は、以前までの彼女とは全く違うと直感できる。


「……言霊を狩りに」


 口を開いたのは、剣だった。


「北海道まで行っていたと聞いたが」

「ああ、あの後は東京と九州も行ったよ。もう、その必要は無くなったけどね」

「無くなった?」


「全滅させたからね。日本の言霊」


 さらっと。

 まるで、近所のスーパーで買い物ついでにコーラも買ってきたよと言うような気軽さで。

 衝撃的な事実を口にする。

 言霊の全滅。そんなこと、不可能だろうと竜哮は心から叫びたい。しかし、七海には、彼女なら或いは……と、そう思わせてしまう迫力がある。

 ポケットの中で、携帯が振動した。


「見ないの?」


 七海に促され、竜哮は画面を開く。

 メッセージだった。送信元は、彼女たち真名覚醒者を管理する委員会から。

『言霊全滅に伴う諸連絡』


「……マジで、全滅させたのか」


 画面を覗いた剣が、呻く。


「正確には、あと一体だけ残っているよ」

「『炎上』か」

「ええ。どこにいるのかは、分かっていなかったけどね。けど、ようやく見つけた。やはり『炎上』は、この町にいる」


 二人の会話を、あり得ないモノを見るように呆然と見つめる竜哮。彼女からしたら、何故剣が七海と話せるのか疑問で仕方がない。


(まさか、この二人……同類なのか……?)


「へえ、そいつはうれしい情報だな。どこにいるんだよ」


 軽口を叩くように、聞く。

 平然と話せているように見えても、剣も剣でプレッシャーに押し潰されそうだった。しかし、その理由は七海が放つ恐怖からではない。

 別の理由から、剣は震えていた。それがあまりに大きすぎるから、七海の圧に気付かずにいられる。そんな単純な理由だった。

 では、何をそこまで恐れているのか。


 それは、真実。

 目を背けていた、真の事実。それを突きつけられることを、彼は何より恐れていて。


 七海は指を指す。彼らの背後を。

 雨の中、雲が切れ、そこを夕暮れの光が差し込んで照らし出していた。それは荘厳なる光景。薄明光線と呼ぶらしい、或いは天使の梯子、ゴッドレイ、レンブラント光線とも。


 旧約聖書創世記28章第12節に曰く。


 ──そのうちに、彼は夢を見た。


 見よ。


 一つの梯子が地に向けて立てられている。


 その頂は天に届き、見よ、神の使い達が、その梯子を上り下りしている──


 それは、聖性の降臨を示す福音の如き光。

 或いは、剣からすれば。真実を突きつける破滅の宣告。

 黄昏の光は、病院を包んでいる。


 まだ目を覚まさない翔琉の眠る病院を。


「マジかよ」


 剣は、震えを押し殺しながら言う。


「困るな、それは。あそこには友達がいるから。逃がさないと」

「浪野翔琉君かな」


 動きが止まる。

 言葉が続く。


「あの日、カラオケにいた君の友達。彼を逃がさせるわけにはいかないな」

「……それは、どうしてだよ。逃がさなきゃ。だってあそこにいたら、いつ『炎上』が暴れ出すか……!」

「彼が、『炎上』の言霊だ」


 世界が停止したように感じた。

 何を言い出したんだこいつ、と。そう思う。


「正確には、彼の中にいる、かな。いやあ驚いたよ。まさか、人間の中に入り込み、同化しようとする言霊がいるなんてね。前例がないから、たどり着くのが遅れてしまった。まあ」


 どっちにしろ大した違いは無いけどね、と。

 彼女は言う。


「中から言霊を取り出す手段がない以上、器ごと破壊する必要があるからね」


 つまり。


「殺すのか」

「ああ」

「なら、俺はそれを止める」


 東屋から、一歩踏み出す。

 道の中に、挑戦者が踏み出す。


「翔琉は、殺させない」

「いいや、殺すわ」


 思い返せば、兆候はいくつもあった。

 カラオケで発生した火災。無傷の翔琉。彼の中に飲み込まれていった炎。下がらない熱。

 科学や常識では解明できない現象の表出。それを剣は、言霊の仕業だと判断していた。けれど、事実はより深く、恐ろしいものだった。


「言霊と人間の同化は初めて観測される現象だ。だから気付くのが遅れてしまった。けど、分かった以上は止まる理由もない。殺せるわ」


 彼女は、佇む。

 構えていない。隙だらけだ。いつでも攻め込める。そのはずだ。


「……だから、退いて?」


 なのに、攻められない。殺気か、威圧か。七海愛海の全身が放つ圧力が、体を硬直させる。蛇に睨まれたカエルの気分だ。いや、あのカエルは動けないんじゃなく、蛇の動きを見切って紙一重で躱すために、あえて停止し跳躍の力をためてるんだっけ? その説は何で見たんだったか……なんて、全く関係のないことを考えてしまう。現実から目を背けようとしてしまう。いけない。それでは、何も解決しない。

 深く、息を吐いた。


「親友殺すって宣言されて、退く奴がいるかよ」


 絶対に退かないぞと、宣言する。ありったけの気合いと根性を込めて。

 それだけ言うのに、既に数ヶ月分のエネルギーを使った気がする。


「これは提案や要求じゃないわ。命令。従わないなら、実力行使に移る」

「公務員が一般人に手を出して良いのかよ」

「罰則は後でいくらでも受ける」


 止まらない。彼女は、誰にも止められない。

 一歩、踏み込んだ。二人は動けない。


「あら、来ないの?なら、こちらから行こうかしら」

(来るか)


 蛇に睨まれたカエルの新説の如く、七海の攻撃を見切り、対応するために剣は身構える。

 一方の、少女は。


(ひ……ッ!!)


 竜哮が抵抗のために開けた口から、息が漏れた。

 少女の全身がすくみ上がる。

 七海の放つ気配の重さに、大きさに、歴戦の能力者程度にすぎない竜哮では、抗えなかった。

 腕が震える。足が竦む。喉は干上がり、空気は漏れて、声にならない。必殺の切り札は、使えない。ただ一言、「あ」でも「い」でも「わ」でも「を」でも何でもいいから声に出せば、それだけで目の前の人間は木っ端微塵に砕け散るのに。

 シミュレートが開始される。五十音、どの音をぶつけても、七海の体はあっさりと砕け散った。竜哮が取れる全ての選択肢のうち、彼女を殺せぬものはない。七海の肉体は、常人と変わらないはずだからだ。


(やれる)


 日本に12人しかいない真名覚醒者の一人は、全く動いていない。

 久しく感じていなかった恐怖が、彼女の肢体を縛り上げている。

 12人の中で、声という最速の攻撃手段を持つ竜哮。空気を吸い、声帯を震わせる。ただそれだけで大砲にすら匹敵する破壊をなせる隔絶。七海愛海を除けば、残り11人中最強の座だって争える逸材。狩ってきた言霊の数は百を優に超す。

 彼女は動かない。


(こんな、こんな……ッ)


 かつて、『黙れ』の言霊という敵がいた。4年前だ。十歳の竜哮にとって……いや、14歳までも含めて最強最悪の存在だった。あらゆる手段で沈黙を体現し、強制させるその言霊は、竜哮の能力を完全に封殺する天敵だった。

 けれど彼女は勝っている。当時十歳だった彼女は、その沈黙を攻略し、ぎりぎりで勝利を収めた。それ以来、更なる激闘の日々に身を投じ、より強大な力を追い求めた結果、今の彼女は最高峰の戦闘能力と大いなる自信を育むことに成功している。


(一言。それだけでいい……)


 七海は既に目の前にいる。狙わずとも外さない距離だ。目を瞑っていても当てられる距離だ。


(喉……のど……の……ど……ッ……!動け、動け、動け……!こいつは……こいつにいられたら、俺様は、おれ……わたしは、わたし……壊れ……ちゃ……こわい……こわいこわいこわい)


 久しく忘れていた恐怖が蘇る。

 景色が、切り替わっては消えていく。既に彼女の視界に、剣の姿はない。彼女の喉に、逆鱗はない。彼女の口に、牙はない。フードも、アクセサリーも、何一つ。


 井坂竜哮は、5歳の少女だった。

 隣には、目を閉じて動かない兄の姿があった。年の大きく離れた兄だった。血は繋がっていなかった。頭と背中から、竜哮の体に流れているのとは違う血液が溢れていた。


『オまえハ、いラナイ』


 目の前には怪物がいた。父も母も教えてくれなかった未知の存在がいた。

 恐怖そのものだった。


 あの恐怖が。

 封じていた無力感が、逃避していた絶望が、蘇る。

 視界は戻っていた。七海はすぐそこにいる。一歩も動いていない。いや、動いている途中だ。竜哮の思考速度があまりに速すぎるため、現実が追いつけていないのだ。体感的には既に数分が経過しているが、実際には一秒にすら満たない。こういった現象は今日この時限定で巻き起こるものではなく、日常にもありふれている。


『走馬灯のように』、と呼ばれる。


 死の間際に、人生を回顧するという現象だ。

 それが発生しているということは、すなわち。


(死)


 どんな言霊が相手でも、意識したことはなかった。

 日本最強、世界でも五指に入る能力者は、彼女にその味を思い出させた。

 流れる血、下がる体温、固くなり動かない体、止まる鼓動。

 生命ならばおよそ全てが忌避するその現象を前にして。


(──ね、る、かッ、畜生が!)


 再起する。無力な五歳児はいない。そこにはただ、竜の力を得た異能者がいた。


「──!!」


 なぜ再起できたのか、それは簡単だ。

 ここで剣を守らねば、彼は間違いなく七海に殺される。

 それだけは許せなかった。かつて目の前で兄を失った。その悲劇を繰り返すことだけは、絶対に許容できなかった。だから、勇気を振り絞り、立ち上がる。


「こいつは、やらせねえ」

「へえ」


 全力で、強く強く地を踏みしめる。一歩踏み出し、剣の横に並んだ。


「あんたにも!」

「真名覚醒者の本分を忘れたのかしら。言霊を守るなんて、私たちへの裏切りよ」

「本分を忘れたのはあんただろう。後で罰則を受けることは、一般人を殺していい理由にはならねえ」


 必死になって思考する。


「(剣)」


 彼女は喉から生まれる音の振動を操る事ができる。それを応用すれば、特定の人物のみに届く声を出すことも可能だ。


「(いますぐ翔琉を連れてどこかに隠れろ。逃げ切ることは不可能だが、隠れてやり過ごすことはできるはずだ)」


 まず時間が足りない。考える時間。対策を練る時間。親友を死なせずに済む策を講じる時間が欲しい。だから、彼女はそれを得るための作戦を提示した。

 竜哮が時間を稼ぐ。その間に、剣が翔琉を連れ出し隠れつつ策を考える。

 これが現状の最善手だ。


 剣は、首を横に振った。拒否だ。


(ば……ッ!正気かお前!!)


 その瞳から、竜哮を壁にはできないという意志が感じられた。

 彼は半歩前に進む。まるで自分が盾になろうとでもするように。

 既視感。過ぎる記憶。雨の日の絶望を思い出す。

 被る。重なる。

 怪物の前に出た、兄の姿が。


「……こいつとあんたは同僚だろう。仲間同士争うな。死ぬ危険を受け入れるのは俺だけで良い」


『竜哮、お前は逃げろ!!』

「竜哮、お前は下がれ」


 五歳の記憶。過去をなぞるように、再演される絶望の光景。

 竜哮はそれを、受け入れられなかった。

 前に出た剣の脇に拳をぶつけ、横へ飛ばす。


「ぐ……ッ!?おま」


 ここで彼に庇われては十年前と何も変わらない。

 自分は成長したのだ。言霊を屠り、殺す。それだけの力を得たのだ。

 ならば、その力、ここで使わずいつ使うというのか。

 ふう、と。息を大きく吸い込んで、装填した破壊を解き放ちながら告げる。


 いーからさっさと逃げやがれ馬鹿


 何も、起きなかった。

 剣は動かず、七海は何の痛みもなく。一秒前と何も変わらない世界が広がっている。


 どうなってやがる


 竜哮は口を動かす。疑問に、脳が埋め尽くされる。

 世界は変わらない。既に十を超える音の弾丸を放っているはずなのに、七海愛海には全くダメージが通っていない。

 いや、そもそも、弾丸は出ているのか。

 声は、出ているのか。

 まさかと思い、口に指を触れる。


 知らず知らずのうちに、口の端から血が漏れていた。


「さっきから口パクで、どうしたの」


 次の瞬間、喉を滴る異物感に、全力で咳き込む。声は出ない。ただ、空気と血だけが口から溢れる。


(有り得ねえ……有り得ねえ有り得ねえ有り得ねえ!!)


 音の砲撃を有する竜哮は、12人中最速での攻撃が可能だ。その強みは音速での攻撃が可能だというだけではない。むしろ真に恐ろしいのは、攻撃の準備時間の少なさにある。

 彼女は破壊を為すために、息を吸うだけでいい。

 弾丸を即座に込めるような手間も隙も晒さない。いつもと変わらず、普通に空気を肺に送るだけで、破壊の準備は完了する。後は発射するだけである。故に彼女は最速なのだ。

 よーいドンでスタートする勝負において、井坂竜哮は他の追随を許さない。

 だが、そもそもよーいドンで開始される勝負があるだろうか。能力者同士、怪物同士の戦いにおいて、どこからが勝負の開始かを、誰が決めるというのだろう。

 開始のピストルなど存在しない。

 合図は誰もよこしてはくれない。

 戦闘は既に始まっており、何の抵抗もできずに竜哮は無力化されてしまっただけのこと。


 七海愛海。彼女の能力は水の操作。


 水は、人体にも存在する。


 それだって、彼女は操れるのだ。よって七海は、竜哮の体内の水を操り、水のカッターとして利用することで、その声帯を破壊した。

 結果、声を出せなくなった竜哮は敗北する。もはや彼女に、抵抗の手段はない。

 さながら、奇策に倒れる神話の竜の如く。

 井坂竜哮は、喉を押さえて血を吐くことしかできなくなる。


 その光景を見て。


「竜哮に何をした!!」


 激高する剣。彼は立ち上がり、七海へと向かう。

 無策ではなかった。竜哮を追い詰めた戦闘論理構築能力は健在だ。真っ正面から行っても敗北は必定。故に策を講じる。それが、小細工と笑われるものであっても。

 七海の能力は強大だが、狙いを定める必要があると剣は推測した。よって、彼は目くらましを試みた。右手に携帯を、左手に泥を握る。泥をぶつけ、躱されても携帯のフラッシュで視覚を封じる。そうして狙いを不安定にしてから、頭部に一撃いれるなりしての気絶を計画していた。


 全ては、無駄だった。


 次の一歩を踏み出すより早く、激痛が全身を駆け抜けた。足が動かず、地面に倒れ込む。


「が、あああああああああああああッ!?」

「しばらくは、歩けなくしたわ」


 右足の神経が、切断されていた。竜哮と同じだ。体内の水分操作による器官破壊。

 痛みに覆い尽くされる頭の中で、彼は絶望の味を知る。

 なんとかなると思っていた。竜哮とあれだけ接戦を繰り広げることだってできたのだ。今回もなんとかできるだろうと。明確な根拠は持たなくても、なんとかしてみせると。

 甘かった。

 なんとかするとか、しないといった、勝負の域にすら、立てなかった。

 人間である限り、彼女には勝てない。

 人間の体に水分がある限り、彼女は誰よりも早く、誰よりも的確に、効率よく、人体を破壊できるのだから。

 その気になれば心臓や脳を破壊することだってできる。

 それが、言葉ではなく体に、そして心に伝わってくる。刻み込まれる。

 日本国民が存在できているのは、七海愛海が殺そうと思っていないからだと。

 やろうと思えばこんな国、彼女一人で殺すことができるのだと。


 別格。


 その言葉がよく似合う。

 少なくとも人間の領域にいていい存在ではない。


「別にね」


 痛みにもだえる剣と、血を吐き続ける竜哮に向かって。

 冷酷に、冷静に、遙か高みから彼女は告げる。


「殺してあげてもいい。でも、それはできないわ。水の操作って結構頭使うのよ。これから大ボスを倒すんだから、少しでも温存しておきたいじゃない?だから、最小限の破壊で留めてあげる。これに懲りたら、分不相応なことはよしなさいね、竜哮」


 ぽん、と。

 四肢を地に着け、血を吐き続ける少女の頭に、手が乗せられる。

 頭が、上げられない。血を吐く動作すら止められる。

 動けない。まるで、頭の上に世界が乗っているのではないかと錯覚しそうになる重圧。

 七海はそのまま顔を下げ、目線の高さを竜哮に合わせる。そして耳元で囁いた。


「分かった?」

「…………」

「分かったっていいたいときは、どうするんだっけ?」


 ゆっくりと。

 竜哮は、頷いた。

 心が折られた。完膚なきまでに。


「えらいえらい。よくできたね」


 満足そうに、七海は頷く。犬や猫にするように頭を撫でる。慈母の笑みで。

 今度は、剣へと歩を向けた。


「さて、あなたは記憶を消しておくわ。記憶消去に伴って意識も落ちるから、ついでに病院まで連れて行ってあげる」

「ッ……やめろ……」


 足は動かない。思考は痛みに支配されている。

 それでも、剣は逆らおうとする。

 足が動かないのなら、手を使う。両手で地面を掴み、腕を伸ばす。体を起こし、近づいてきた七海を睨み付ける。


「俺は……ここで全部忘れるわけにはいかないんだ!!」

「起きたら全部終わってるから、安心して忘れなさい」

「な、なら……なんでも協力する!俺にできることならなんだってやる!!だから、翔琉の命だけは」

「あなた程度ができる協力なんて必要ないわ」


 ボールペンのような記憶処理装置が、懐から抜かれる。あれを使われたら全てが終わる。剣は、逆らおうと意志を見せる。けれど、その意志程度で七海は揺るがない。


「さようなら────」


 ボールペン型記憶処理装置が作動する。


 その直前だった。


 七海の動きが止まる。

 同時に、剣と竜哮も、それの目覚めを察知した。


 空気が変わる。


 カラスが、鳥達が、鳴きながら飛び立つ。町中の犬が恐怖を覚え縮こまった。町中の猫が日陰へと向かう。何かから逃げるように。


 世界が切り替わる。


(まさか……?)


 竜哮は声を出せず、心の中で呟いた。恐怖に満ちた声色で。


「来る」


 剣は呻いた。警戒と絶望、そしてなお諦めないという意志を滲ませ。


「ようこそ」


 愛海は、笑いながら告げた。立ち上がり、装置を仕舞い、両手を広げ。

 久方ぶりに遭う友人を迎えるような気楽さで。親しみで。その背後に、殺意の刃を潜ませて。


 視線の先で、病室から炎が上がった。


 窓が砕け散り、赤い炎が蠢く。不思議なことに、それは燃え広がらなかった。意志を持っているように動き、揺らめき、そして。


 睨んだ。


 そう、睨んだのだ。遠く離れた場所にいて、近くなどできないはずなのに。

 その場の全員が、蠢く炎に睨まれたということを察した。

 それは、人の姿をしていた。平均的な高校生の背格好をしていた。全身を炎に包まれた、高校生だった。燃えさかる少年だった。

 それは、窓枠を手で掴み、病院の壁を蹴った。

 跳躍──爆発。足の裏で、炎が炸裂した。加速する。彼我の数百メートルという距離を、一瞬で無に帰す接近。炎の人間は、三人の元へと一気にたどり着く。

 否。それを、七海は防いだ。炎の付近が白く輝く。降り注ぐ雨が一瞬で個体に変わる。瞬間急速冷却。炎の周囲に生み出された氷の数々が、世界の温度を低下させる。空間が凍結し、炎は白銀の世界に閉じ込められる。

 しかしそれも一瞬だ。ピシ……ッッ!! と、氷の牢にヒビが入る。炎が漏れる。砕け散る。

 とはいえ軌道と勢いは殺された。炎は公園に着地するが、三人から少し離れた場所だった。

 両足を曲げて着地して、炎に包まれた人間は立ち上がる。

 剣は息を飲んだ。

 見知った顔だった。いつも顔を合わせていた。親友だった。

 炎の中で、その肉体や服装に傷はない。炎まで体の一部であるようだった。


「翔琉……」


 名前を、呟く。


「翔琉!!」


 呼べば、彼が正気に戻ってくれると信じているように。

 悪い夢から醒めて欲しいと願うように。

 覚醒して欲しいと祈るように。


「────人間」


 紡がれるのは、翔琉の声色。

 放たれたのは、全く違う別人の言葉。


「邪魔をするなら殺す」


 それだけで、もう。

 手遅れめいて感じられた。


「……ああ、そう。あなた、完全に同化しているの。血液が流れていない。代わりに炎が巡っている。……言霊特有の、物理法則をねじ曲げて、有り得ざる生命を成立させる生態ね」


 それは、対象の体内の水分すら操れる破格の超常だからこそ判断できた事柄だった。


「こうなったらもう手遅れだわ」

「まッ、待ってくれ……頼む!」

「いいや駄目」


 刹那。

 爆発と氷結が連続する。放たれた炎と爆発、冷気に水流が、互いの間で激突する。景色が、空間が、世界が歪む。二人の間で繰り広げられた攻防は五秒間続き、交わされた攻撃の数は万を超えた。秒間二千発の攻防。結果は、どちらも無傷。こんなものでは、どちらも傷つけられない。


「場所を変えましょう。ここじゃやりづらいわ」


 同意の言葉など、求めない。

 一瞬で、翔琉の体が凍結する。氷が砕かれ脱出されるより早く、その氷像が宙に浮かんだ。音速を軽く超えて、一瞬で雲に叩き付けられる。

 雲の中は、彼女の世界だ。『炎上』であっても抜け出すのは至難の業に見えた。


「さて、行かないと。あなたはここで待っていなさい。動くことは許可しないわ」


 追いかける。どうやって?

 疑問の答えはすぐに現れた。地面を濡らす雨水が集まり、足下に氷の塊が形成される。

 愛海がその上に乗ると、氷が浮上を開始した。


「苦しませないから安心していて」


 そう言い残し、氷の足場が雲へと消えた。

 後には、雨だけが残っていた。


「ぐ……」


 拳で、地面を叩く。

 怒りが、絶望が、悲しみが、ふがいなさが。


「ぐ……う……あ、ああああああああああああああああああああああああああああ!!!」


 公園に、慟哭が響き渡った。


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