第四話 深淵


「ああ、そこか」


 遙か天空彼方で、怨敵を探していた女が。

 氷の足場から地上を見下ろして呟いた。



 炎が消える。それも、単に消火されただけではない。翔琉かけるの中に吸い込まれるようにして、炎が消えた。

 それも、そーどの錯覚だ。

 だってほら。右腕がちゃんと動くのだから。少々火傷で赤くなってはいるけれど、それだってこんな炎の中にいたらそうなるだろうさ。なにもおかしくはない。

 なにもおかしくはない。

 おかしく感じるのは、こんな異常な空間にいるからだ。

 気を失った翔琉を連れて、剣は外を目指そうとする。

 その瞬間。


 炎が上へ、噴き上がった。


 その時の剣には認識できなかったが、外では完全なる異常現象が引き起こされていた。しかし、その全容を把握できたのは、ショッピングモールの屋上駐車場に待機していた能力者、竜哮るこただ一人だけだった。


「……おっかねえ」


 降り始めたのは豪雨。カラオケ火災の直後から、街の上空に集結していた分厚い積乱雲。それを銃身として、集中砲火を思わせる雨粒の乱射が巻き起こる。

 地面を撃った水音は、太鼓の響きにも似た轟音。

「いて、いってえ!!」「はやく車に」「くっそ、眼が開けらんねえ……」

 そう、痛いのだ。肌に当たる雨粒が、痛く感じるほどの豪雨。

 竜哮の周囲の人々は我先にと車や出入り口に殺到した。その姿も、数メートル離れれば見えなくなる。雨音で、他の音もかき消される。


 よくやるものだと、竜哮は思う。


 これなら、視覚と聴覚の情報を阻害し、人払いも同時に行える。

 この雨の中でなら、例え巨人同士が争おうとも、一般人の大半の眼を欺けるだろう。

 知覚できるのは、能力者か、或いは。


 そんな雨の中で、竜哮は見た。


 言霊、それも日本最強の放つ異常の極みを。


 カラオケを焼いていた炎が全て、まるで意思でもあるかのように蠢いたかと思えば。

 鉄砲水のごとく、空へ解き放たれた。

 さながらそれは、空へ登ろうとする竜を思わせる赤い閃光。火山の噴火をも凌駕する熱量を内在させた現象だった。

 雨の弾丸が炎の竜を貫く。穿つ。蜂の巣にする。

 それでも炎は止まらない。内部で爆発を起こしながら、勢いを増して空へ伸びる。弾丸は、より高熱となった炎に触れられない。一瞬で蒸発させられる。炎の勢いは、水程度では止められない。


 そんな竜の頭に、氷山を思わせる塊が叩き付けられた。その全長数十メートルを超える大質量の氷塊を、真っ正面から食い破る火炎。溶かし、砕き、粉々に蒸発させて、その飛翔は加速して──迎え撃つ二十三発の雷光すら越えて、空へ。


 雲の中に突っ込んで、更に上昇。


 雲の上、蒼天を仰ぐ白雲の世界へたどり着く。


「……違う」


 浮かんだ氷を足場にして、七海愛海ななみあくあは悠然と微笑んだ。


分身お前じゃない。私が殺したいのは、本体だから」


 積乱雲の上層ならば、見るものは一人もいないだろうと。

 七海は右手と左手で祈るように合掌して。

 その動作にあわせて、炎が、殺戮される。

 積乱雲から姿を見せたのは、それぞれ百メートルを超える規模の氷塊。数は五つ。空母を思わせる巨大質量が、猛る火炎を押し潰す。

 四方八方からの圧殺。その温度は七海の能力によって絶対零度まで下げられていた。故に言霊の炎は三つまでしか蒸発させることは敵わず、七海の力によって消火されてしまう。


「分身でもこれだけの強さ……認識を少し修正するわ」


 氷塊を操り、元の水へと戻し雨に混ぜて降らせながら、愛海は呟く。


「……気配が消えたわね。町中に降らせた雨水にも、引っかかるものはなにもない。なるほど上手く隠れたのかしら。でも駄目。必ず見つけ出す」


 古来、微笑みとは威嚇を表すものであったという。ならば今の彼女は威嚇しているのか。否。七海愛海は心の底から微笑んでいる。喜んでいる。

 ようやく、両親の仇の尾を掴んだ事実に。

 感じるほどに、悦んでいた。



 ゲリラ豪雨が消火をした。その場の全員がそう判断したという。

 実際にどうだったのかを、剣は知らない。

 病院ロビーの長椅子に腰掛けて、包帯を巻かれた腕に指を這わせて思う。

 錯覚……だ。


「……言霊は実在する。それと戦う者達も。……でもこれだけは、錯覚のはずなんだ……」


 目をつむれば浮かんでくるのは、集中治療室の扉。その奥の奥では今も、翔琉が治療を受けているのだろう。窓を叩く雨が、無音の廊下に大きく響く。

 あれから二人は病院に搬送された。比較的怪我の浅かった剣は右腕に薬を塗り、包帯を巻くだけで済んだ。その後の事情聴取もあっさり終わった。しかし、翔琉は違う。煙を吸いすぎたようで、意識が戻らない。そのほか、剣には理解できない専門用語が飛び交う異常事態のようで、集中治療室へと担ぎ込まれた。すぐ保護者に連絡が行き、翔琉の両親が駆けつけた。二人とも元アスリートらしく、がっしりとした体格の持ち主だった。自分が彼を早く助けていればと謝罪する剣を、それは違う、君は悪くないのだと諭せるほど、大人な二人。蒼白ではあるが、冷静さを保った表情で、医師から話を聞いた後、剣では手の届かない奥へと進んでいった。

 それから、三時間が経つ。

 治療室で何が起きているのか、剣に知る術はなかった。

 暗い世界に自己を埋没させようと、剣は顔を腕の間に埋めて呟く。


「錯覚だ」


 つぶやき続ける。


「錯覚だ錯覚だ錯覚だ錯覚だ錯覚だ錯覚だ錯覚だ錯覚だ錯覚だ錯覚だ錯覚だ錯覚だ」


 廊下は、その呟きすら包み込んで、静寂のまま変わらない。

 何も変わらない。変えられない。

 剣は己の無力を悔やみ、錯覚という都合のいい幻想にすがる。

 日常は両手からこぼれ落ちていく。

 そんな彼へ、声をかける人間が一人いた。


「戸塚君」

「……百合姉……先生」


 目の前にいたのは、二人のクラスの担任教師である戸塚百合。スーツを着込んだ彼女は、看護師に連れられて翔琉の元へ向かうところのようだった。

 いつものはつらつとした雰囲気は影を潜め、厳格と緊張を纏っている。


「お婆ちゃんの家まで私が送るから、あなたはここで待っていて」


 看護師に案内されて、彼女は病院の奥へと向かう。

 教師って大変だな、なんて的外れなことをぼんやり思う。

 スーツが曲がり角を折れ、見えなくなった。

 それとすれ違い、入れ替わるようにして、剣の世界に一つの異物が姿を顕す。


「よォ、しけた面してんなァ」


 フードと黒いマスク、更にマフラーまで巻いて顔を隠し、ヘッドフォンで外界と己を隔絶させた、小柄な怪物が歩んでくる。足音と一緒に響くのは服の各所に付けた金色のアクセサリー達のぶつかる音。作り物めいた黄金の眼光が、剣を射貫く。

 その名前を、剣は知っている。


「井坂竜哮……!!」

「おォ、覚えていてくれたか。うれしいぜ」


 気がつけば、剣は竜哮の胸ぐらを掴み、小柄な体を持ち上げていた。


「お前が、お前達が……!」

「おいおい、落ち着けよお兄ちゃん」

「お前達が来なかったら、翔琉も俺も、あんな奴らに巻き込まれなかった!!」

「……それ、的外れすぎだろ。自分でも分かってんだろ」

「うるさい!」

「はァ……お前サ、少し黙れ」


 ピシ……と。

 剣の背後の窓ガラスに、ヒビが入る。

 剣は思い出す。マスクの下に隠れた、牙の生えた小さな口を。マフラーで巻かれた首にある、逆さに突き出た竜の鱗を。

 彼女の武器は声。正確には喉から出る震動の増幅と操作。


「俺様の声が単なる大規模破壊しかできねェなんて、思ってねェだろうな」


 その気になれば小声でも、音の震動を用いることで、狙った存在だけを正確に破壊できるのだと。

 彼女はそう示してみせた。


「こうして俺様の声が届く場所にいる時点で、お前の生殺与奪は俺様が握ってんだ。それを自覚して動け。わかったらさっさとこの手を離せ」

「断る」


 行き場のない怒りと、崩れ去る日常への恐怖、そして非現実の存在への混乱。

 そういった感情でぐしゃぐしゃになった剣は、最後に残った訳の分からない使命感に従って、竜哮の眼球を睨み付ける。


「お前らが厄介事を持ち込まなければ何も起きなかった!平和なままだった!なのに……なのに……返せよ、俺たちの日常を!!」

「……合格だ」


 バチィッ!と、電流でも流れたような痛みが両手に走る。自分の意思とは無関係に、剣の手が大きく弾かれ、その勢いのまま尻餅をつく。

 トン、と竜哮が床に足をつけた。

 背丈の低いはずの彼女が、やけに大きく見えてしまう。

 無力な少年を誘うように、彼女はマスクを外して言葉を紡ぐ。


「意識してか知らずかは知らねェが、お前は俺様の襟を離さなかった。あァ、それで正解だよ。仮に離したとして、そうしたらお前は二度と俺様を掴めないし、一方的にぶち殺されてお仕舞いだ。だが掴んでさえいれば、可能性は生まれる。結果としてこうやって簡単に弾かれちまうが──ゼロと一はちげェからな」


 稲妻が走り、窓から廊下を青く照らした。ニタリ、と。そんな効果音の似合う、悪魔めいた笑みを、竜哮は浮かべる。


「見所がある。お前は、使えるぜ」

「……何を言ってる」

「俺様についてこい。そうすりゃァ、正しい知識を──戦うべき敵を教えてやる」

「断ったら?」

「前みたいに記憶を消されるだけだな。しかも今度は前回と違う。新品の記憶処理装置だ。偶然記憶を取り戻せたりなんかしねェ。忘れたらそのまんま。怒りも、不甲斐なさも、無力感も、何もかもを忘れさせられて、何も知らずに生きていくことになるぜ」


 それは──


「困る」

「なら俺様の下僕となれ。そうすれば何とかしてやるよ」


 どうする?と選択を迫る黄金の眼。

 小さな右手が差し出される。それは、非日常への片道切符。天使の階段か、落とし穴へ続く悪魔の誘惑か、判別は不可能。


 剣の脳裏に、ひとつの問いが浮かぶ。


 ここでその手を取って良いのか?


 それをしたらお前は──剣という名前っぽいことをしていることになる。

 非日常を知り、それへ立ち向かうのはモブの生き方じゃない。特徴的な名前と、特異過ぎる信念──すなわち特殊な個性を持った、主人公の生き様だ。剣という名前から連想されてしまう道だ。

 それが嫌だから、お前は日陰に生きてきたんだろう。剣という名前に逆らうために、ペンを取ったのだろう。ペンは剣より強し、なんて言葉を信じて、剣道を止めて小説を書いてきたのだろう。全ては、自分自身の名前を否定するために。

 その年月を、無に帰させるつもりか?

 最も嫌悪した存在へ、己を堕すつもりなのか?


「──わかった」


 剣は、竜哮の右手を取った。


「俺のつまらねえ拘りなんかより、翔琉にあの痛みを味あわせた奴に落とし前を付けさせる方が大切だ」

「落とし前か。いいねェ、その言葉は嫌いじゃないぜ」


 強く腕を引っ張られ、立たせられる。

 隣に立つと、想像以上の身長差に剣は驚く。

 こんなに小さな子供に、あれだけの力が込められている。その事実に、驚異を覚える。

 その領域へと、自分もたどり着かないといけない。理屈もわからず、けれどそう直感した。


「ついてこい、俺様の眷属。知恵と力を授けてやるよ。ドラゴンってのはそォいうモンだからな」

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