第三話 火日常

……瞼をあける。

そーどが目を覚ますと、そこは教室だった。


「んあ……?」


寝惚けた頭は現状を掴めていない。

今は何時で、何日で、自分は何をしているのか。

そんな混沌とした頭を正気に戻させるように、丸めた教科書でポンと頭を叩かれる。


「んあじゃねーよ、戸塚。お前ずっと寝てたな。百合先生ぶちギレてたぞ。あんだけ怒ってたのは初めて見たわ。いやあ、いいものが見れたね」


そう言って笑ったのは、剣の数少ない友人──翔琉。浪野翔琉なみのかけるだった。

その太陽めいた笑顔が眩しすぎたので、直視できずいつものように目を反らす。


「……ああ……ごめん……。なんかやべえ夢見てた」

「どんな」

「化物と超能力者が戦う夢」


本当にひどい夢だった。なんだ、藁の怪物って。音でコンクリート破壊とか意味がわからん。

しかも、いやに現実的な質感も伴ったものだった。忘れていた記憶を唐突に思い出したような、そんな感覚が剣の頭を過る。

忘れていた?記憶?そんなわけがない。あんな体験、した覚えがない。

昨日は塾の後まっすぐ帰って寝た。その前も、その前も、ずっとそうだった。

あんな夢のような事件に巻き込まれるわけがない。

嫌な記憶は頭を振って追い出そうとする──が、すんでのところで止めた。

忘れる前にやるべきことがある。


「お!設定ノート!書くってことは当たりの夢だったか」

「題材として悪くない。こういう夢のネタってのはすぐ忘れるものだから、急いでメモしないと」

「ふーん。まあ、忘れるネタってことは大したことないんじゃねえの?」

「まさか。そんなのは良いネタを忘れてるから言えるだけだよ」


机の中からメモ帳を取り出し、ペンを走らせる。


剣にはこうして、良さげなアイデアが思い付いたら片端からメモする癖があった。


何を隠そう、彼は小説家志望である。日々自分の空想を文字に出力し、ネットの海に公開する趣味があった。それが高じて、今の夢は小説家というわけだ。

これまで作ってきた設定ノートは既に5冊目に到達している。そのうち作品に落とし込めている数は少ないが。

覚えている限りを記入して、ノートを閉じる。


「で、次の授業なんだっけ」

「おいおいおい。どんだけ寝惚けてるんだよ。もう放課後だ」

「え。マジで?」

「マジだよ」


周りを見回すと、確かに生徒はほとんどいない。残って勉強したり趣味に没頭していたりするのが四、五人いる程度。

時計を見れば、四時四十五分。この学校では最後の授業が終わってから三十分経っている。

三十分?


「まさか翔琉、お前三十分待ってたのか?俺が起きるの」

「いや。課題があったからそっちをやってた」


嘘だな、とすぐにわかった。

翔琉は前髪を指にくるくる巻いていた。それは彼が嘘をつくときの癖だ。それがわかる程度には深い付き合いの二人である。


「ありがとうな」

「おーう。ほんじゃ、カラオケ行くかあ」

「駅前?」

「イエス。バイトまで時間あるし歌おうぜ」

「わかった。久々に歌唱王翔琉殿の歌を聴かせていただきますか」


荷物を背負い、学校を出る。放課後の学校には、気楽な雰囲気が漂っていた。期末テストが終わり、夏休みまで秒読みの今、楽しげに青春を謳歌する学生達の学び舎が広がっている。一方の職員室では正反対に、期末テストの採点や成績確定のために、修羅の形相で机に向かう先生が見えた。その中にはクラス担任の百合先生もいる。ご苦労様ですと思い両手を合わせてみたりする。

昇降口で靴を履き替え、外へ。

校庭では野球部が炎天下の下での練習に励んでいた。


「元気だな……流石だ」

「うちの運動部は強いからなあ」


これだけ練習もしていれば強くもなろう。

猛練習を横目に校門をくぐる。

駅前に向かって道を歩いていると、サイレンの音が響いた。


「救急車か?」


翔琉が振り向くが、違う。このサイレンは、救急車のものではない。


「消防だな。てことは火事か」

「あー、最近多いらしいぜ。七月入ってからもう五件起きてるし、これで六件目か」

「夏場で湿気が多いのに?」


湿気の多い時期に火事が多発するのは意外だった。春や秋なんかは空気も乾燥していて、火事に気を付けてくださいなんて放送が入るけど、夏場では火事が起きるイメージはない。

それを肯定するように翔琉は言う。


「放火の線が濃厚だとさ。百合先生が言ってただろ……って、戸塚は寝てたか」

「……物騒だな。その六件、犯人は同じだったりしてな?」

「らしいぜ。少なくともニュースではそう言ってるらしい」


放火。嫌な響きである。

ニュースでも度々報じられる類いの事件だ。

十年前、海岸沿いの地方都市で起きたという大規模火災が、剣の頭に浮かぶ。五百棟を越える建物が全焼し、死者行方不明者は合わせて数千にまで昇った、戦後最悪の火災だ。あれも確か、どこぞの家に放火したのがきっかけだったはず。乾燥した季節と強風の影響で、あれよあれよと燃え広がっていった。町の一角を炎で染め尽くすほどに。

テレビの中で燃え盛る炎に、どうしようもない恐れを感じたことを覚えている。

ふと、翔琉が言う。


「お前んち木造の日本家屋だろ。気を付けろよ」

「翔琉もマンションだからって油断できないだろ」

「木造よりかはマシだ」

「鉄筋だし閉じ込められたら蒸し殺しだな」

「いやな想像をさせるでないわ!」


ふざけてみたが笑い事でないのは確かだ。

ガスの元栓は祖父母がしっかり管理してくれているが、放火となると対策し難い面もある。


「燃えそうなものを軒先に置いたりするのはやめとけってさ。古本とか、ゴミとか」

「百合先生が言ってたか」

「イエス。でもなあ、それこそガソリンでも持ち込まれて撒かれでもしたらどうしようもないよな」

「撒く前に捕まるんじゃねえの。目立つだろ」

「最近はガソリンなんて簡単に手に入るぞ。ガソスタで買えるし」

「まじかよ。……さっさと捕まってくれって気分だな」


六つの建物を燃やすということは、それぞれに関わる何十人分もの人生をねじ曲げるということだ。家なら、家族が無事かどうかで話が変わるし、無事であっても新しい家を探して、新しい生活を始めなければならない。元の生活は戻ってこない。燃やされたのが職場なら──それがブラックなら喜ばれるかもしれないが、やはり大多数にとっては致命的だろう。

そんな事をしでかした犯人が、この街で生活しているかもしれないことを考えると、義憤で腸が煮え繰り返りそうになる。例え、被害者の家族も、どこで火事が起きたかすら知らなくても。

それが一般人の精神性というものだろう。

悪事に対して義憤を抱き、悲劇には共感で涙する。

都合よく怒り、悲しむのが一般市民だ。剣もまた、その域を逸脱してはいない。逸脱しないように、コントロールしている。枠組みを越えるということは、特異な名前に──剣らしさに繋がりかねないからだ。だからこそ、彼は一般人の倫理規範に則って、この連続放火の善悪を判別する。

彼の想像力なら。自分を殺そうと叫び追いかけてきた不良八人の危機に、彼らの死を哀しむ人の存在を思い浮かべられる剣の共感性と視野の広さがあれば、六件の放火にも理由や事情があるかもしれないと、簡単に思い至るが口にすることはない。決して。

一般人とは、それを見ないし口にしない。

口にするなら、それは見せられた時だけだ。

己をごく普通の枠に落とし込もうとし続ける男は、それ故に異常を封殺する。


「そう言えばさ」


雰囲気が暗くなりすぎたと思ったのか、翔琉が露骨に話題を反らした。


「彗星って今週末だっけ」

「あーどうだっけ。ちょっとググる……合ってるな。金曜日、終業式の夜だ」


しばらく前から話題になっていた。地球に彗星が近づいているらしい。今日が月曜で、五日後の金曜日に、地球に最も近づくんだとか。


「チューブ買って空気詰めないと」

「いつの時代の人間だよ」

「わしの若い頃は、彗星は空気を持っていくなんて言われたもんじゃ、怖い怖い」

「ハレー彗星の頃生まれてないだろ」

「ふへへ。そういや戸塚、確かアレ持ってたよな」

「チューブはないぞ」

「アレだよアレ。双眼鏡じゃなくて、ええと」

「望遠鏡?」

「それだ!それ使って観測しようぜ」

「良いけど……確か今回の彗星は肉眼で見えるんじゃなかったか?」

「そうだっけ?ならいらねえか。どこで見るよ」

「高いとこ……っても、良い場所は奪い合いになりそうだなあ」

「じゃあ山で見ようぜ。走りながらさ」

「そんな映画あったな。でも山って木多いし見えづらいわ絶対」

「ううむ……映画と現実はかくも異なるか……なら、海だ!海なら遮るものないし、絶対よく見れるだろ」


海か。それは悪くないように思えた。浜辺とかなら、遮るものは皆無だろう。自転車でギリギリ行けなくもない。

道を確認しとかないとなと思いながら頷く。


「名案だな」

「だろ!よっしゃ決まりだ。テンション上がってきた」

「いくら何でもそれは早すぎる。……お、カラオケ結構空いてるな」

「マジ!?ほんとだ!」


指差した先には駐車場がある。車の台数も、自転車も多くない。


「ラッキー」


二人で店の中へ向かう。

カラオケサンクス。駅前にある、二階建てのカラオケだ。大きさはかなりのもので、専用の駐車場もある。この辺は娯楽が少ないため、若者から老人まで多くの人が利用していた。

このカラオケと、ショッピングモール、そして市民公園に映画館を加えて、剣はこれらを四皇と呼び、その呼び方を流行らせようとしているが、誰一人として真似をしない。そんな話はどうでもいいか。映画館最近潰れたらしいし。

とにかく、そんな場所なので空いているのは珍しかった。

機種を選べるぐらいには部屋も空いており、その辺りにうるさい翔琉の提案で採点が正確だという機種の部屋に案内された。店の端の方にあり、トイレが近い。

向かう前にロビー脇のドリンクバーで、コーラとメロンソーダにカルピスを混ぜる。

それを見た翔琉が鼻で笑った。


「こだわりブレンドか……ふっ。甘い、甘いぞ戸塚!!」

「……そりゃ甘いものだけ混ぜてるからな」


これでしょっぱいともう何も信じられない。


「戸塚!貴様のそれは、単にうまいものを組み合わせているだけ……そんなものが美味いからなんだというのか!!もっと未知を求めて冒険しないか!!」

「いや、美味いものを飲みたいからこうして混ぜてるんだが」

「さあわかったら烏龍茶を加えろ!!」

「あからさまに地雷!!」

「俺は加えるぞ!うおおおおおッ!!」


なんて奴だと驚愕した。彼の目の前で翔琉がとんでもないブレンドを作り上げていく。烏龍茶、コーラ、ジンジャーエール、オレンジジュース……後半だけなら美味しそうなのだが、最初のひとつで全てを破綻させていく悪魔のスタイル……!

出来上がったのは一目でヤバイとわかる何か。

混ぜすぎて真っ黒になっている。コーラの黒とも違う何かだ。


「まさにダークマター……!!」

「俺のドリンクバーに、お前の常識は通用しねえ」


アウトな決め台詞を吐きつつ、二階の部屋へ向かい、入った。廊下で呑むのは翔琉的にマナー違反らしい。


「いただきます!!」


いきなり。躊躇なく。翔琉はダークマターを一気飲みして。


「───────────────────!!??」


結論、部屋がトイレの近くで良かった。



「見ろ、96点だってよ!」

「相変わらず化物みたいな声帯してんな……」


ダークマターとか作る男だが、その歌声は並外れていた。既に九十点以上の点数を八回連続でたたき出している。

翔琉の歌は凄まじい。去年の学園祭では生徒会主催のカラオケコンテストへ(剣が勝手に申し込んだため)出場したが、二位以下と圧倒的な差を付けて優勝した程だ。

あまりの歌声に会場は大盛り上がり。生徒会長と校長は号泣し、教頭のかつらがぶっ飛んで、後日ラブレターが男女合わせて三十通来た、という伝説を生み出した。後半は嘘かも知れない。あくまで噂だ。


「やっぱテレビ出れるって」

「いやいやムリムリ」


その圧巻の歌声を、こんな田舎で腐らせることもないだろうと、テレビのカラオケ番組に応募することを何度も勧めているのだが、翔琉は首を縦に振らない。


「俺なんかにゃ無理だよ」


笑いながらやんわり否定する。

何故そんなに卑下するのか、剣にはわからない。


「もっと武器をいかしていこうぜ」

「歌は武器にはならねーよ」


なるだろと思ったが、あんまり続けるのも良くないので、剣はそれ以上勧めるのを止めた。開いていたノートを閉じる。このノートは小説用だ。中には剣の自作小説がある。翔琉にだけ明かしていた、剣の秘密だ。

学校では書けないため、翔琉とのカラオケか家で執筆をしている。ただ、カラオケだと翔琉の歌声に魅了されてしまうため、なかなか筆が進まない。

今回も半ページすら書けそうにないし、あきらめてリュックに仕舞った。

そしてマイクを手に取ると同時に、イントロが流れ出す。


「お、これあれじゃん。この間勧めてくれたアニメの」

「見てくれたんか」

「面白かったぜ。特にあの、名前忘れたけど、あの明るい子が抱えてた重い過去とかが解決すんの」

「あー明ちゃんか、やっぱあそこ好きだろ翔琉」

「泣いたわ」


なんて会話をしていると歌詞が表示される。

剣は歌い出す。好きな歌だ。翔琉程は無理でも、それなりの点は出したかった。



「翔琉はコーラ……っと」


あれから一時間ほど歌い、ドリンクバーへおかわりに来ていた。丁度翔琉のコップも空になっていたので入れてやろうと持ってきた。注文はコーラである。先ほどのダークマターはやめたらしい。イタズラで烏龍茶を足してやろうかと思ったが、止めた。代わりにメロンソーダを混ぜてやる。緑と黒が入り交じる色合いのドリンクの完成だ。

自分の分も作って、さあ部屋に戻るかと思った。


その時だった。


盛り上がっていたテンションに水をかけられたような、以前感じた覚えのある、独特な気配が背筋を凍らせた。

はっとロビーを見ると、入り口に一人の女性が立っている。彼女と目が合い、そして。

かしゃん、と。

コップの落ちる音がした。それが自分の手から落ちた音だと、彼には気付けない。


「あ、あァあ……ッ!?」


頭の中に蘇る、失われたはずの記憶。封じられた昨夜の悪夢が、勢いを増して脳内になだれ込む。


何故忘れていた。何故そのまま平然と暮らしていた。


思い出した。思い出した。思い出した!


言霊、覚醒者、竜哮るこ、そして───七海ななみ


ロビーに立っていて、目があったのは、まさしく彼女。


七海愛海ななみあくあ───剣の記憶を封じた女性。


彼女は不思議そうに、こちらを見ている。


「もしかして、思い出した?」

「お前──なんで……ここに!?」


疑問には答えず、ボールペンのような形の装置を手に取りくるくる回す。

昨夜、剣の記憶を処理した装置だった。


「これ、大分消耗してますって、後で本部に伝えとかないとねー」

「何でここにいるか答えろっ!頼むから!?」

「決まってるじゃない。ここに、言霊の反応があったからよ」

「─────」


言霊、それは人の悪性がこもった言葉から生まれた新種の生命体。

昨晩は藁の体を持ち、並の人間程度容易く殺せる暴力も有した怪物と遭遇した。

そんなのが、このカラオケに?

ぞっとした剣に、七海が問いかける。


「もしかして、藁の言霊を想像してる?」

「……違うのか?あれよりもっと弱いんだよな!?危険性はないんだよな!?」


一縷の希望にすがってそう問いかけて。

そんなありもしない希望はあっさり砕かれる。


「まさか。あんなのとは比べ物にならないわ。何せ、現在の日本における最強の言霊だもの。太陽と懐中電灯を比較するようなものね」

「は……?」

「それとも太陽とストーブ?いずれにせよ、並の言霊じゃ比較対象にすらならない怪物よ」


夢であってくれと、これほどまでに強く願ったことはなかった。

しかし何度瞬きしても、七海の姿は消えない。血がしたたるほど強く握った右手から、痛みが伝わる。視界が、痛みが、どうしようもない現実を証明していた。


「……冗談だろ」

「悪いことは言わないから、もう出なさい。お金は後で私が払うわ。これも何かの縁だもの」

「そんな場合じゃない。翔琉を連れてこないと──」


言霊がいるなら、自分だけ逃げるわけにはいかない。だって翔琉が二階にいるのだ。親友を見捨てて逃げられるほど、剣は大人ではなかった。

いや、そもそも、誰かを見捨てて逃げれるような人格は持っていなかった。


その行動、その選択こそ、愚かの極みで。

そんなことをしている場合ではまるでなかったし。


何より、もう、遅すぎた。


「ばッ……しゃがみなさい」


人生でこれだけの殺意をぶつけられたことなど生まれて初めてだった。頭よりも先に体が反応し、彼女の言うとおり低い姿勢を取る。

口で聞かせるよりも殺意をぶつけ、強制的に体を反応させる、七海の技術だった。

それに従った剣は、次の瞬間、視界が赤色で染め上げられた。

そして、追いかけるように吹き荒れた衝撃と


──爆音。

爆発。


否。



大爆発。



姿勢を下げたにも関わらず、その衝撃は甚大で、体をカラオケの外にまで吹っ飛ばされた。

意識も同じく飛びかけるが、なんとか堪える。メンタルのコントロールには慣れているだろうと自分を鼓舞し、意地で耐えきる。

コンクリートの上を転がった。全身がひどく痛む。けど、骨折などは無いようだ。


数秒後、体を起こした。


目を疑う光景が広まっていた。


若者から老人まで多くの人が利用する、いつも賑わっていたカラオケが、赤炎と黒煙に包まれて、地獄のような姿へと変貌している。

炎が壁を焼く。窓からは舌のように火炎が飛び出ている。

地獄のような、では無い。中はまさしく、地獄そのものだろう。

あり得ないはずだ、こんなこと。

周囲に七海の姿はない。あの爆発に巻き込まれたのか。

脳裏を過ぎるのは、翔琉と愛海の、ばらばらでグチャグチャになった死体。

炎の赤と血肉の赤が混ざり合う、サイケデリックな緋色の絵画。

並んで焼かれる無惨な死体。黒く染まった二人の体。

克明すぎる想像は、小説家志望故の想像力から来るものか。

こみ上げてくる吐き気を無理矢理抑え付ける。


(いいや、やめろ戸塚剣。お前の前にあるのが現実だ。それをいい加減に受け入れろッ!!)


そして。


(逆説だ……)


「目の前にないんなら、そいつは幻想……!!」


翔琉と愛海の死体は、まだ見ていない。目の前には存在していない。だから、あくまで想像力の産物だ。

言い聞かせて、一歩二歩と踏み出していく。

カラオケの中へと。


(少ないとはいえ最低でも部屋の三分の一は埋まっていた。部屋は全部で何個ある?確か四十か五十じゃなかったか?……クソ、なんてことだ。とにかく、今はまず翔琉を助けないと!!)


二階の端にある部屋に、翔琉がいる。まずは速攻で彼を救出し、その後他を救助する。その目的と、達成のための手段を求めて、ナチュラルに思考が回転する。

ビリビリッ、と服を破いた。そしてその布を顔に巻いてマスクの代わりとする。

火災現場でもっとも恐れるべきは、ガスだ。それは炎や熱以上の危険を持つ死神である。煙に含まれる一酸化炭素やシアン化水素といったガスを吸えば、一瞬で意識を持っていかれることもある。そうして身動きが取れなくなって窒息、或いは焼かれて死ぬのが通常だ。故に口と鼻を覆う。無論これだけではほとんど意味がないが、ないよりはマシだろう。

誰かが呼んだらしい。遠くから消防車のサイレンも聞こえてきた。

その音に背を押されるように、剣は地獄へ踏み込んだ。


(────ッ!?あッつ……!!)


熱い。とにかく熱い。髪が、肌が焼けそうだ。

姿勢を低くして中を進むが、今まで感じたことのない熱さを浴びて、冷静な感覚が消え去りかける。軽いパニックが頭を襲う。

落ち着け。落ち着け。落ち着け。落ち着け。

自分に言い聞かせながら、剣は先へと進む。

炎を避け、階段へ。幸い、原型を留めていた。一歩一歩を踏み締めつつ二階にたどり着く。

毎週のように通ったカラオケだ。眼を瞑っても歩き回れる自負があった。なのに、ここまでがエベレストに登る程に遠い道のりに感じた。

いや、比喩ではない。


「冗談だろ……!」


前方三メートル先に、扉がある。翔琉がいるはずの部屋の扉だ。


問題は、そこまでの道のりである床が抜けているという点。


爆発の勢いで砕かれたのか、床が綺麗に消滅して穴が開き、そこから一階が見えている。

距離は、二メートルか。

剣の体育の成績を考えれば、飛び越えられる距離じゃない。だが、越えなければたどり着けない。

他に道はないし、あっても回り道をしている余裕は、剣にはない。

数歩、できるだけ距離を取る。

そして、覚悟を決めた。


「おおおおおおおおおおおおおお!!??」


助走をつけて勢いよく、穴を飛び越えるべく跳躍した。

届け────届け、届け届け届け!!

文字通りの火事場の馬鹿力。反対側への着地の勢いを維持して、部屋の扉を吹き飛ばしながら飛び込んだ。


「翔琉──かけ、るッッッ!?」

「剣、逃げろ……!!」


部屋は炎に満ちていた。異様なほどの赤、熱、光。ドラゴンの胃袋を連想させる、活火山の火口めいた絶望的焦熱世界。灼けるソファ、溶けるテレビ、焦げ付いたマイク。全身から噴き出す汗が、蒸発していくような錯覚。ここにいるだけで、魂まで焼き尽くされる。理屈ではなく本能が、全力で逃げろと叫んでいる。

そんな必殺の異界において、ただひとつ。

四つん這いで呻く翔琉だけが、通常だった。

服はそのまま、顔にも体にも傷はなく、表情こそ苦しそうだが、汗一つかいていない。

────。


「よかった。無事だ」


駆け寄って、腕を掴む。短く告げる。


「逃げるぞ」

「駄目だ、俺に触れるな、剣!!」

「ッッッ!!!」


ボッッッ!!と、腕を掴んだ右手から肩にかけてが炎に染まる。

皮膚が灼ける。肉が焦げる。骨が炭と化し、その魂まで消えない火傷が刻まれる。


そう錯覚した。


そうだ、こんなものは、錯覚だ。


目の前の見えるものが現実なら、これは錯覚であり、現実なんかじゃ決してない!!

理屈の通っていない思考を、強調することでごり押し、誤魔化す。自分の脳を自分で騙す。

翔琉は、掴まれた腕を離させようと藻掻いていた。


「離せ、離してくれ!!俺は──もう、お前の知ってる翔琉じゃない!!」

「はは、何言ってんだよ。今更中二病ぶっても痛いだけだぞ」


錯覚だ。燃えているのも、気が狂いそうな激痛も、全て。

光の影響だろう。熱のせいだ。火事ってほんと、こうなるから困る。


「ほら、早く行こう」

「……俺は、」

「お前は浪野翔琉。どこにでもいる高校生で、歌がクソ上手いくせにそれをひけらかしたりしないキザなヤツで、友達の数は百人以上で──俺をかばってくれた、浪野翔琉だ」


────は、なんだよ。多少名前が特徴的なだけでよくもまあ、そこまで騒げるな。小学生かよ、馬鹿馬鹿しい。

ほら行こうぜ、剣。モブなんか放っておいてさ。

なに?名前で呼ぶな?なら仕方ねえなあ。ま、無理に向き合う必要は無いけどさ、俺は好きだぜ。名前も、それにそうやって立ち向かうお前もさ。それに、主人公感すげえし。

考えてみろよ、戸塚。孫悟空なんて名前いないだろ現実に。……派手な名前は主人公の特権だぜ──


物心ついた時から、剣は自分が嫌いだった。

ソードなんて言う読み方は、どこにいってもついて回った。名前を呼ばれない日なんてないし、呼ばれるたびに笑われる。なんだよその名前。面白いな。なんて。

ふざけるな。お前達に何が分かる!!

病院で名前が呼ばれたら、周りが一斉にこっちを向く。

全校生徒の前で表彰されたら、尊敬よりも笑いが上回る。

初見で名前を正しく読めたヤツはいないから、訂正のために自分でこの名前を言う必要がある。

そんな、嘲笑と憐憫に満ちた世界。それが彼の生きる場所。

特徴的な名前は、わかりやすい出る杭に他ならない。

ひねくれた人格に育ったのは当然で、そんな性格も排斥対象になり得るのが子供達のコミュニティ。

故にいつでも、いじめ、嘲笑、からかいの的。

そんな人生に光をくれたのが、翔琉だった。


「派手な名前は主人公の特権ってお前は言ったよな」


正直、その理屈は嫌いだ。主人公なんてなりたくなかった。モブでいれるならそれでいい。誰の記憶にも残らないような、村人Aだの友人2だのでかまわない。


「主人公はお前だよ。俺はたくさんいる友人の一人で十分」


主人公であるべきは、自分ではなく翔琉のような人間であるべきなのだから。

だから。


「だからこそ、頼りない主人公は俺が支えてやらないとな……ッ!!」


全く、困った役者だよと、剣は笑う。

お前は俺の人生の主役なんだから、こんなちょっとした非日常で揺らいでないで、さっさと立ち上がれ。

燃えさかっているように見える右腕を強く引いて、翔琉に肩を貸す。

次の瞬間、全身が炎に包まれて



「ああ、そこか」



遙か天空彼方で、怨敵を探していた女が。

氷の足場から地上を見下ろして呟いた。

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