第110話 スリムな開発部長

「出来たら直接私まで教えて欲しいのだが、あなた方がちえりさんに雇われている以上そうもいかないか。よろしい、ちえりさん経由で教えてください。」

 小林部長はマスターの表情を見ながら言葉を選んでいるように見える。

「わかりました。ちなみに小林部長さんは海外の会社に特許使用を認める方針だったのですか」

 マスターがあまりにあけすけに尋ねるので鈴音は慌てたが、小林部長は気を悪くした様子もなく答える。

「もちろん私は社長と同じく海外企業に特許使用を認める方向を考えていました。特許を盾に自社のみで販売していくのは確かに営業上の強みがありますが、当社のように海外まで営業展開していない場合は海外企業との提携もよいと思っていましたから」

 マスターは小林部長の言葉をよく考えるように少し黙っていたが、やがて彼に言った。

「それでは、通信履歴についてはちえりさんに報告させていただきます。事業継続のために社長と相手方の会社とのやり取りを引き継がれたいなら、内容についても該当するメールを抜き出して圧縮ファイルにしましょうか?」

「いや、そこまではしなくていいです。社長と先方がやり取りした日時だけ教えてください」

 小林部長は機嫌よくマスターに告げると鈴音にも会釈をして社長の執務室を後にする。

 マスターは小林部長の後姿を見ながら小さくため息をついた。

「どうかしはったんですか」

 鈴音の問いに、マスターは胡散臭そうな表情を浮かべて答える。

「さっきの小林部長の意図がわからない。通信履歴を調べてほしいというなら、当然一緒に仕事をしていた社長の仕事を引き継ぐためだと思ったのですが、通信内容はいらないから履歴だけでよいと言われると、何か別の意図を感じるのです」

 鈴音は何気なく聞き流していた二人のやり取りの裏で、マスターが探りを入れていたことに気が付いた。

 鈴音の目には、小林部長は温厚なおじさんとしか映っていなかったので、別の意図と言われると何か寒い感じがする。

「すいません。司法書士事務所から来ていただいている方ですか?」

 マスターとの会話に気を取られていた鈴音は背後から声を掛けられて再びビクッとして飛び上がった

「はい、ご遺族の方から故人のアカウント等の整理を仰せつかった司法書士事務所の中田と申します。本日は名刺を切らしておりまして失礼いたします」

 マスターは椅子から立ち上がると丁寧にあいさつするが、声を掛けた男性は座ったままでよいと手で示す。

「手を止めてしまって申し訳ない。私は大谷製薬の開発部長をしている奥野です」

 先ほどの小林部長と対照的に奥野部長は長身で痩せたタイプだ。

 白髪交じりの長めの髪とツイードのジャケットを無造作に着こなした様子は、見るからに研究者を思わせ、ジャケットの上に白衣を羽織ったら似合いそうだ。

 奥野部長は無造作に自分の名刺をマスターに渡すと、シニカルな口調で問いかけた。

「今この会社の中で、社長が亡くなったのは新薬の特許関連の利権が絡んで殺されたのではないかと噂が流れている。あなたも私を容疑者とにらんで探りに来たのではないかな」

 鈴音はむせそうになるのをかろうじて堪え、マスターが落ち着いた口調で答えた。

「いいえ、今日来たのは社長の個人的なアカウントの整理のためです。Fatebookのような同窓生が連絡を取るサイトで、故人の誕生日に挨拶を送ってバツの悪い思いをする方が出ないように追悼サイトを作るのが目的です」

 奥野部長は感心した様子でつぶやく。

「なるほど、社長のように付き合いが多いとそういった仕掛けも必要なのだね」

 奥野部長はマスターが表示したFatebookのお友達一覧を何気なく眺めているが、マスターは奥野部長の様子を窺いながら、鈴音の血の気が引きそうな質問を放った。

「社長の謀殺疑惑については、新薬の特許権の許諾をめぐって奥野部長が社長と対立していたから、容疑者の第一候補だと聞いていますよ」

 奥野部長は驚いた表情でマスターの顔を見たが、やがて穏やかな笑顔を浮かべる。

「これはまいったな。確かに社長が殺されたのだとすれば、動機の面では私が最も犯人に近いと目されるだろう。私と社長は年齢も近く、古くからの付き合いで忌憚なく意見が言えたので時にもめることもあった。若い社員から見たら、社長と抗争を繰り広げているみたいに見えたかもしれないね」

 マスターも笑顔を浮かべるが、その眼は鋭かった。

「それではあなたは、社長が海外の企業に特許の使用を許諾することに反対されていたのですね」

 奥野部長はゆっくりとうなずいた。

「私は古い人間だから、折角開発した新薬は特許の続く限り自社で販売して利益を得なければいけないと考えていたが、今となっては、社長はもっと大きな視野で社の運営方針を決めていたのだと思うね」

 奥野部長は両手を広げる身振りをしたので、鈴音の目に彼のポケットから何かが滑り落ちるのが映る。

 隣にいた鈴音は素早く落ちたものを受け止めた。

 鈴音の手の中に納まっていたのは光沢のある金属ケースで、動かすと中からカラカラと音がする。

「ありがとう。私は糖尿病持ちなのでそのケースで注射器を持ち歩いているのです」

 奥野部長がケースを開けるとその中には使い捨てらしいプラスティックの注射器がいくつか入っていた。

「インシュリンですか」

 マスターは注射器の表示を見ながら奥野部長に尋ねる。

「そう、でも常時打たなければいけないわけではないのです」

 奥野部長はケースのふたを閉めてポケットにしまうと、おもむろにマスターに尋ねた。

「私がここに来たのは、社で契約している弁理士さんから社長宛てに特許の詳細書類が送られているはずなので、そのデータを渡してほしいのです。今後他社と業務提携などをすることになった場合に手元にないと困るのでね」

 マスターは、小林部長の時と同じように奥野部長に答えた。

「私どもはちえりさんから依頼を受けて動いていますので、データをお渡しするとしたらちえりさん経由となりますがよろしいですか」

「もちろんそれで結構。よろしく頼むよ」

 奥野部長は片手をあげると、軽い足取りで社長室を後にする。

「小林部長に奥野部長、どちらかが社長殺害の犯人なのかもしれませんね」

 奥野部長の後姿を見ながらマスターがつぶやくのを聞いて、犯人の見当もつかない鈴音はマスターは手掛かりを得たのだろうかと訝しむのだった。

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