第111話 点滴チューブとシリンジ

 奥野部長が社長室から姿を消してからしばらくして、ちえりが鈴音たちの前に顔を出した。

「お疲れ様です、二人の部長とお話をした感触はどうでした?」

 ちえりが尋ねると、マスターはスッキリしない表情で彼女に答える。

「お二人とも本音を言って下さるワケではないので、正直なところ判断しかねていたところです」

 鈴音は、小林部長も奥野部長も普通に応対しているようにしか見えなかったので、マスターが判断しかねるという理由が理解できない。

「お疲れ様です。それでは次に、父が亡くなった病院に行っていただきましょうか」

 ちえりはマスターの調査能力を信用しているのか、疑問を差しはさまずにマスターを次の場所に案内する。

「生命保険関係の書類を取りに行くという名目でしたね」

「ええ、私がドクターに質問すると当たり障りないはずです」

 ちえりは微笑しながらマスターに話す。

「わかりました。小林部長からは海外の薬品メーカーとのメールの送受信日時を一覧にしてくれという要望がありましたので、こちらのファイルにまとめてあります」

 マスターが、小林営業部長から依頼を受けて制作したファイルを開いて見せると、ちえりは意外そうな顔をする。

「あら、このアメリカ企業は小林部長が懇意にしているのにわざわざ父の通信ログをまとめる意味があったのかしら」

「そうですか?とりあえずご要望に沿うようにしましたので小林部長にお渡しください。ところで、パソコンをいじる振りをしているようにというお言葉だったのですが、お父さんのパソコンを探した結果、いくつかのSNSサイトに登録されていて、フォローされている方も相当数いるみたいですので、追悼サイトの設置をお勧めします」

 マスターの言葉に、ちえりさんは目を丸くした。

「まあ、私は架空の用務としてお願いしたのに本当に父のSNSのアカウントを確認してくださったのね」

 マスターは社長のデスク上にある液晶パネルにフォロワーの一覧表を示した。

「ええ、これがお父さんのサイトです」

 ちえりはマスターが表示した表を憂いを秘めた目で眺める。

「追悼サイトは私の手で作ります。ありがとうございました」

 マスターは父のパソコンを操作するちえりさんに礼をすると、社長室を後にした。

 再びマスターのミニバンに乗り大谷製薬から市内の総合病院に向かう途中で鈴音はマスターに尋ねた。

「二人の部長さんのうち、どちらかが犯人なのですか」

 マスターはステリングを握りながら首を傾けて見せる。

「まだ断定できるだけの情報は集まっていませんよ。病院で何か手掛かりが得られないか期待しましょう」

 マスターはいつになく物憂い表情で鈴音に答えた。

 病院に到着すると、マスターは外来用駐車場に自分のミニバンを止め、ちえりに指定されたナースステーションに向かった。

 その病院ではフロア毎にナースステーションが作られており、循環器科のナースステーションは六階フロアの南棟にあった。

「大谷さんの件で書類を受け取りに伺ったのですが」

 マスターが詰所にいた看護師に告げると、看護師は少し待つように告げて別室に姿を消した。

 しばらくして、若い医師が鈴音たちの前に現れた。

「私が担当医の相沢です。ご依頼があった書類はこちらですのでお持ちください」

医師は封筒に入った書類をマスターに渡す。

「失礼に当たるかもしれませんが、教えていただきたいことがあるのですが」

 マスターが尋ねると、相沢医師は鷹揚な態度で答える。

「どんなご質問ですか」

 マスターは、生真面目な表情で質問を始めた。

「実は大谷さんの死因に疑問を抱いている親族や大谷製薬の社員がいるのです。大谷さんは急を要する状態ではなかったのに急死したのは何者かが点滴中に空気を混入したからではないかという者もいるので、ドクターのご意見を教えていただきたいのです」

 マスターの言葉を聞いて相沢医師は首をひねる。

「確かに大谷さんは急に容体が悪化したのですが、点滴チューブから空気が混入したことが原因とは考えられません。通常血管内に空気が混入した場合に健康に影響を及ぼすのは二十ミリリットル以上の空気が混入した場合だと言われています。点滴チューブの内径は細いので、チューブの数センチ分の空気が血管に入ったところで、肺で吸収されて影響はないレベルなのです」

 相沢医師は看護師の詰め所に置かれていディスポーザブルの注射器を手に取った。

「このシリンジが二十五ミリリットルなので、殺害目的で血管に空気を入れるとしたらこのシリンジで何回も空気を注入しなければならないでしょうね」

 鈴音の目にはその注射器は、自分が注射されたらいやだと思うくらい大きく見えた。

 それを何回も注入するとしたら大変な作業のように感じられる。

「それでは、そんな大きな注射器で何回も空気を入れることはありえないので、死亡原因としては心不全ということなのですね」

「そうです。大谷さんの場合は不整脈が問題となっており、その関連で脳梗塞なども出ていたと考えられます。ペースメーカーを埋め込む前に亡くなられたのは残念としか言いようがありません」

 相沢医師は沈痛な表情で頭を下げ、マスターも黙礼する。

 マスターは書類を抱えると相沢医師に礼を言って病院を後にした。

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