第109話 営業部長のプロフイール
鈴音とマスターは大谷製薬に到着すると、来客用駐車場にミニバンを止めてエントランスに向かった。
受付の女性はマスターが用件を告げると内線で確認し、程なくちえりがエレベーターから姿を現す。
「おはようございます。お二人の手腕に期待しています」
ちえりは年齢の割に落ち着いた雰囲気で話し、マスターと鈴音をエレベーターに案内する。
「先週お父さんの葬儀が終わったばかりなのに出勤されているのですか?」
マスターの問いに、ちえりはエレベーターのボタンを押しながら答える。
「まだ休暇中ですけど、家にいてもすることがないので父の私物の整理をするという名目で来ました。あなた方の案内をしていたら気分を紛らわすことが出来そうだと思って」
マスターはその話題には深入りせずに、質問を続ける。
「ちえりさんは美津子さんと同級生でしたら昨年入社したばかりなのですよね」
「そうです。父の方針でオンザジョブで会社の業務を憶えなさいということなのです。兄も同じように働いています」
ちえりはさりげなく答えるが、鈴音は彼女の言葉に重さを感じる。
大谷製薬が親族経営の会社ならば、やがて彼女に会社の経営が委ねられるかもしれないのだ。
エレベーターを降りるとそこは大谷製薬のオフィスビルの最上階で、窓が大きく明るいフロアは清潔で塵一つ見当たらない。
鈴音は窓の向こうに大文字山が見えるのを見て、ここから見たら大文字焼の時は綺麗やろなとぼんやりと思う。
「こちらが父の執務室でした。表向き父の個人アカウントの整理という名目で来ていただきましたから、父のデスクトップでもいじっていてください。そのうち関係者が来るように誘導します」
亡くなった社長の社長のデスクは、重厚な木目の天板の上に大きな液晶パネルとキーボードが設置されている。
パソコン本体のタワーはデスクわきに置かれていた。
「それでは、お言葉通りに触らせていただきます」
マスターがデスクに座ると、ちえりさんはさりげなくメモを渡す。
「父のログオンIDとパスワードです。机の引き出し等は開けていただいても構いません。私は営業部長に挨拶して、彼がこちらに来るように仕向けます。その次は開発部長を来させますから」
ちえりは人形遣いよろしく人を操りそうな口ぶりで話す。
ちえりが社長の執務室から出ると、マスターはパソコンを起動するとブラウザを立ちあげてウエブサイトを閲覧し始めた。
「流石にスペックが高くてストレスなく動いてくれますね」
「マスター、ネット見て遊んでいていいんですか?」
鈴音はマスターの前の液晶画面を覗き込みながら心配するが、マスターは気にも留めていない様子だ。
「名目とはいえ、アカウント整理に来ているのだからウエブサイトを閲覧している方が自然です。早速、故人のFatebookのブックマークを見つけましたよ」
鈴音もFatebookのアカウントを持っているが、自宅のパソコンでは専用のアプリを使っている。
「Fatebookはブラウザからもログオン出来るのですか?」
鈴音が尋ねると、マスターは執務机の引き出しを開けながら答える。
「できますよ。古くからアカウントを持っている人はブラウザ派が多いようですね。」
マスターが引き出しの中を探り始めたので、鈴音は見咎める。
「マスター、引き出しの中身を勝手に触るのは問題がありますよ」
「そうですね。でも、SNS系のパスワードが引き出しの底に張り付けてあるのを見つけましたよ」
鈴音がマスターの手元をのぞき込むと、引き出しの底に数字とアルファベットの組み合わせをいくつか書き連ねた付箋がテープでしっかりと固定されている。
「メモを机に置くのはセキュリティー上よくないと言いますけど」
鈴音がつぶやくと、マスターは微笑を浮かべる。
「ブラウザの機能を使ってパスワードを記憶させていないだけましですよ。一応誰かがアクセスしようとしても即開くことは出来ないわけですから」
マスターがパスワードを入れるとFatebookのホーム画面が表示され、故人が「お友達承認」していた人たち数人の情報を確認する。
「どうやら、大学や高校の同窓生が中心のようですね。追悼アカウントを作った方が良いか、ちえりさんに確認しましょう」
マスターがつぶやいた時、二人の背後から声が響いた。
「ほう、早速やっていますな。正憲さんの通信履歴を調べておられるなら、ちょっと確認していただきたいことが有るのですが」
パソコンの画面に集中していた鈴音は不意を突かれてビクッとして振り返った。
社長の執務室に入り込んだのはがっしりした体格の初老に差し掛かった男性だった。
頭髪が薄くなっているのを短く刈り込んでいるが、血色はよくて柔道の先生をしていそうな雰囲気だ。
男性は二の腕あたりの筋肉が多く、袖が張り詰めた雰囲気のスーツから名刺を取り出した。
「申し遅れましたね。私は大谷製薬の営業部長をしております小林です。社長には若いころからお世話になっておりまして、この度の訃報には驚くのと同時にまだ活躍していただきたかったと残念に思う事しきりなのです」
マスターは立ち上がると小林部長に丁寧に礼をしながら挨拶する。
「ご遺族の方から故人のアカウント等の整理を仰せつかった司法書士事務所の中田と申します。本日は名刺を切らしておりまして失礼いたします」
「かまいませんよ。ちえりさんに聞けば連絡先はわかるでしょう。私からは社長の海外の製薬会社との通信履歴をこっそり調べてほしいのです。お聞きしているかもしれませんが、この会社は画期的な抗ウイルス剤を開発したのですが、海外メーカーへの特許使用許可をめぐって社内で内紛一歩手前の状態でしてね。社長は点滴チューブから空気が入って心不全を起こしたと聞いていますが、私は、もしかしたら誰かが故意に空気を入れたのではないかと疑っているのです」
マスターが偽の肩書の名刺を持っていないのは、虚偽情報の名刺を手渡してしまうと、それをもとに架空の司法書士事務所の所在を確認され足ら具合が悪いからだ。
小林部長は淡々と話すが、入院中の社長を故意に死に至らしめるなど、鈴音にとっては現実感のない話だったらしかれ。
「わかりました。海外メーカーとの通信記録が残っていたら、ちえりさん経由でお渡しすればよろしいですか」
マスターはクールな雰囲気で小林部長に答えた。
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