第5話 業務の主体は素行調査

 比叡平に行くつもりなら、鈴音を下鴨神社で拾ってから御影通りに進めばすんなりと比叡平がある山中越方面に行くことができる。

 わざわざデルタまで行って今出川通りに出ると遠回りになるのだ。

 鈴音はマスターに指摘しようかと思ったが機嫌よくステアリングを握る彼の横顔を見て口をつぐんだ。

 他所から来た人は往々にして道を知らないものだ。

 比叡平は京都の五山の送り火で有名な大文字山の裏側辺りに開発された住宅地だ。

 比叡平というと京都市の一部と思っている人も多いが実は滋賀県の大津市に属している。

 マスターがミニバンで走っている道は京都から大津市に抜ける山中越えと呼ばれる峠道の一部だった。

 急なカーブが連続する山道を峠近くまで登った辺りで、山の中に住宅地が開けている場所が比叡平だ。

 マスターは住宅街の比較的広い道路の路肩に車を止めるとエンジンを切った。

「ここから広田さんのお家とガレージが見えます。奥さんの動きがあるまでここで監視しましょう」

「監視するって何をするんですか」

 鈴音の問いにマスターは、助手席のダッシュボードをあけると何か取り出しながら答えた。

「ボーッとして待っているだけです。この車はウオークスルーですから助手席に移動してオセロゲームでもしませんか」

 彼が取り出していたのは携帯用のオセロゲームのセットだった。

 何でオセロやねんと鈴音は心の中で突っ込みを入れたが、言われるとおりに助手席に移動するとマスターを相手にオセロゲームを始めた。

 何せ探偵業の現場に連れてきてくれと言ったのは鈴音の方なのである。

 オセロゲームは白色の鈴音が早々と三ヶ所の隅っこ取ってしまったので、序盤戦から鈴音が優勢のように見えた。

 オセロゲームでコーナーを取れば有利なことは誰もが知っている。

 しかし、鈴音が取ったコーナーの白石の横には一コマ隙間があるところが多く、マスターはいつの間にかその隙間に黒石を置いていく。

 ゲームが終盤にかかった頃、鈴音は取りこぼしのように一つ残っていたマスターの黒石が利いてくるのを意識した。

 辺の部分に最後に残った一マスにマスターが黒石を置けば逆転されてしまうことに気がついたからだ。

「もかして、わざと隅を取らせたのですか」

「そのとおり、オセロゲームは皆がコーナーを取ることを最優先するので、その後の展開まで意識していない人が多くなります。他のコーナーに注意を引き寄せている間に、ポケットに潜り込んでいけば戦略的にはコーナーを取ったのと変わりません。」

 このゲームにそんな戦略があったのかと思い、鈴音は唖然としてオセロのボードを見詰めた。

「動いた」

 突然、マスターが叫んだので鈴音はどれが動いたのだろうかと、オセロゲームのボードを見詰めた。

「違う、広田さんの奥さんの方です。ゲームの続きは後でしましょう」

 マスターはオセロゲームのコマの配置をスマホで撮影するとボードごと二列目の座席に放り出したが、マグネットが付いているのでコマは散らばらない。

 鈴音が顔を上げると、監視していた広田さんの家のガレージから白いBMWのミニが出て来るところだった。

 鈴音はちらっとゲームのボードを見て、その状態から再開してくれなくてもいいのにと思った。

 マスターはミニバンを発進させたが、ミニが走っていく方向とは逆方向だった。

「マスター方向が逆ですよ。広田さんの奥さんは向こうに行っちゃってますよ」

「今Uターンして真後ろに付けたら目立ちすぎます。別の出口から幹線道路に出て、距離を置いて追尾するのです」

 マスターは言葉通りに裏通り住宅街の細い道に左折すると裏通りを疾走し始めた。

「マスター危ないです。住宅地の生活道を他所から来た車がスピードを出して走るのは駄目なんですよ」

 鈴音は言ってしまってから思わず口を押さえた。正論だがこの場面で言うべきではなかったかもしれない。

「すいません。ゆっくり走ります」

 マスターは意外と素直に鈴音の話を聞いてスピードを落とした。

 私が余計なことを言ったばかりにターゲットを見失ったらどうしようと、鈴音は気が気ではない。

 マスターは団地内で何度か右左折を繰り返すといつの間にか最初に登ってきた京都と滋賀を結ぶ峠道に戻っていた。

 京都方面に向けて進むと百メートルほど前方にある別の交差点から先ほど見かけた白いBMWミニが団地方面から出てくるのが見えた。

「すごい」

 BMWミニのドライバーから見たら、通りすがりの車が後から来ているようにしか思えないはずだ。感心する鈴音の横でマスターは平静な顔でステアリングを握っていた。

 マスターが距離を置いて追尾するミニは、京都の町に降りていくと白川通りを北上し、北大路に入ってから西に進んだ。そして高野川の手前で左に曲がった。

「どうやらカナット洛北に行くつもりのようですね」

「やだな。買い物に来たお母さんと鉢合わせしたらどうしよう」

 カナット洛北と隣のイズミヤは天川家にほど近いので母がよく買い物に行く場所だ。

 鈴音は今はハローワークで職探しをしていることになっているので母と顔を合わせると具合が悪い。

「大丈夫。そう簡単には鉢合わせしませんよ。」

 マスターは安請け合いするが鈴音は何だか心配だった。

 そんなことを話している間にターゲットの車はショッピングモールの駐車場に入って行く。マスターも次第に距離を詰めながら続いた。

 ターゲットである広田さんの奥さんは駐車場の隅の方にBMWミニを止めた。その近くには空きスペースは見あたらない。

「天川さん彼女から目を離さないようにしてください」

 マスターは自分の車を止めるために空きスペースを探している。

 鈴音は言われたとおりに広田さんの奥さんの行方を目で追う。

 鈴音にとっては初対面の人で、整った顔立ちに肩に届くストレートの髪。

 彼女の黒い髪は遠目にも手入れが行き届いているのがわかり、鈴音は自分の髪の毛が枝毛だらけで荒れているので何だか羨ましくなった。

 しかし、鈴音は彼女の行動に違和感があった。

 彼女がコートをバッグと一緒に手に持ったままだったからだ。そのうえ、ショッピングモールの中に入る出入り口とは反対の方向に歩いている。

 マスターがやっと空きスペースを見つけて車庫入れを始めた時、鈴音は叫んだ。

「マスター、彼女は別の車に乗りましたよ。男の人が運転しています。」

 マスターはとりあえずミニバンを止めると、後部座席から一眼レフのデジタルカメラを取った。

「天川さん。どの車ですか」

「向こう側の通路を出口に向かっています」

 鈴音が指さすと、マスターはサイドウインドウをあけてパシャパシャと連写した。

 マスターは三脚が付いたままのカメラを鈴音に押しつけると再び車を発進させた。

「今の写真で報酬をもらえるんですか」

 鈴音の問いにマスターは首を振った。

「離婚調停などで使うには弱いですね。情事に及んでいる現場の写真か、明らかに行為に及んでいたと判る建物から並んで出て来るところを写真に取らないと、決定的な証拠写真にはなりません」

 マスターの口から「情事に及んでいる現場」という言葉を聞いて鈴音はちょっとドキドキした。

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