第4話 ワトソン君のポジション

 鈴音の「スモーク」での初仕事は深夜一時に終わった。閉店後の片付けを手伝おうとする鈴音をマスターが手で制した。

「天川さんは先に上がってください。帰りはタクシーを使うこと。料金は領収書を持ってきてくれたら翌日精算します」

「でも毎日だと結構な金額になるから。自転車で来ましょうか」

 鈴音にしてみたら自分の一時間分の時給以上の金額を毎日の通勤に使うのは合理的と思えなかったのだ。

「いいんです、通勤手当は経費で落とせるはずですからタクシーを使ってください。多少とはいえお酒を口にする場合もありますから自転車で来て貰うわけにはいきません」

 マスターは譲らなかった。

 鈴音は彼のことを真面目な人なのだと感心すると同時に、自分を気遣ってくれるのが何だか嬉しい。

 マスターは食器を洗ってざっと掃除してから帰ると言ってシンクに向かって皿を洗っていた。食器洗いと言っても、鈴音がある程度片付けていたので最後の数組の分だ。

 食器洗いも掃除も翌日まとめてやってしまえば良さそうなものだが、マスターは一晩放置したらゴキブリ繁殖の温床になるからと頑張っている。

 「スモーク」はショットバーだが軽食を取りながら長く居座る人もいる。

 マスターの気まぐれパスタ的な軽食の裏メニューが存在しており、常連客は好き勝手に注文しているのだ。

 今日のパスタはぺぺロンチーノをベースに生ハムとルッコラ、そしてチーズをトッピングした一品だった。

 鈴音が最初に訪れた時に出された「突き出し」も早い時間にはバゲットのようなボリュームのあるものを準備し、時間が遅くなるともっと軽いオードブル系の内容に変えている。

 調理もこなしながら、お勘定や食器の回収まで行うのは大変だ。

 スタッフを増やすのは合理的な判断に違いないと鈴音は思った。

 お客さんの回転を見ているとそれに見合った売り上げはありそうだ。

「あの」

 鈴音が声をかけるとマスターは手を止めた。

「明日の昼間は探偵のお仕事もするんですか」

 鈴音の問いにマスターは照れくさそうな顔で答えた。

「探偵と言うほどのことではありませんが、広田さんのお家を起点に張り込みをして奥さんの行動を追跡するつもりです」

 鈴音はちょっと間をおいて言った。

「私も見学させて貰っていいですか。本物の探偵がどんなことをしているか見てみたいのです」

 マスターは困ったような顔をしていたが、やがて言った。

「給料は出せませんよ。その代わり手伝ってくれた分成功報酬をお裾分けします」

 にべもなく断られると思っていた鈴音は、マスターのポジティブな反応に嬉しくなった。

「明日の朝ここに来ればいいですか?」

「いいえ、お店には来ません。天川さんのお家は下鴨でしたね。出町柳駅のところの鴨川のデルタは知っていますか」

 鈴音はうなずいた。正しい意味のデルタは三角州を意味するが、マスターは加茂川と高野川の合流点のことを言っている。

 二つの川が合流して鴨川となるのだが、合流点の真ん中にある三角状になった土地を地元の人々は鴨川デルタと呼んでいるのだ。

「デルタから西側の橋を渡った所に花屋さんがあります。明日の九時に花屋さんの前で待っていて下さい」

 鈴音はその辺りを思い浮かべてみた。何となく花屋さんがあったような記憶はあり、家から歩いて行くにも負担にならない距離だ。

「わかりました、九時に待っています。お先に失礼します」

 マスターに挨拶して鈴音は「スモーク」を後にした。

 午前一時過ぎとはいえ、三条通りに出たら人通りはあり、鈴音はすぐにタクシーを拾うことが出来た。

 翌朝、鈴音は家を出ると歩いて待ち合わせの場所に向かった。

 鴨川デルタは公園になっており、こじんまりとした林に隣接して、川の合流点の河川敷には芝生の広場もある市民の憩いの場だ。

 ウイークデーで通勤時間帯も過ぎているので、その辺りは小さな子供連れの母親がそこここにいるくらいだった。

 公園を東西に横切る道路はショートカットになるらしく、業務用のトラックが頻繁に行き来している。

 待ち合わせ場所の花屋さんはすぐに見つかったので、鈴音は広い歩道上でマスターが現れるのを待った。

 昨夜はマスターが仕事をしていたため、どこから来るのか詳しく聞いていなかったので、京阪電車の駅がある出町柳の方向を見たり、循環系のバスが通る河原町方面を見たりで何となく落ち着かない。

 しばらくすると、鈴音の目の前に白いミニバンが止まった。

 自動のスライドドアが開いたので、荷物の配送かと思った鈴音は少し後に下がった。

 しかし、そのミニバンのドライバーは荷物の積み卸しを始める様子はなく、鈴音がぼんやりしているとミニバンの中から声が聞こえた。

「天川さん乗ってくださいよ」

 鈴音が慌てて開いたドアから中を覗くと、マスターがドライバーズシートからこちらを見ていた。

「すいません。自動車で来ると思っていませんでした」

 鈴音は慌てて二列目のシートに乗り込みながら言った。

「いいんですよ。僕も車で行くと言い忘れていました」

 マスターはドアを閉じると、スムーズにミニバンを発進させた。少し西にある河原町通の交差点を左に曲がり、河原町今出川の交差点も更に左折した。

「マスターはどこに住んでいるんですか」

「僕ですか?吉田町に家を借りています」

 マスターが近場に住んでいるのが少し意外に思えた。

 気がつくと鈴音が座った座席の横には三脚にセットされた望遠レンズ付きの一眼レフデジタルカメラが置いてある。

「すごいカメラですね」

「盗撮する場合は相手に気付かれないのがベストです。夜の闇に紛れたり、物陰から望遠レンズで撮影するのが主ですが、それが出来ない場合は隠しカメラで撮影します」

 鈴音は盗撮という言葉にどきっとしたが、マスターは涼しい顔で運転を続けていた。

 ミニバンは今出川通りを東に向かっており、東大路との交差点を直進したところだ。

「今日はこれから何処に行くのですか」

「広田さんのお宅は比叡平にあります。目立たないように車を止めて張り込みましょう」

 比叡平は京都から比叡山の方に上っていく道の途中に造成された新興住宅地だ。ミニバンはマスターの言葉通りに白川通りを北進した後、右折して坂道を上り始めた。

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